勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年07月

2005年にオープンしたイオンモール宮崎が、その予想を超える業績を上げていること。そして、こういった現象が日本各地で出没していること(その一方で既存の商店街が“シャッター街”としてゴーストタウン化していること)。さらに、その人気の秘密が、イオンモールが「東京イメージ」を振りまいていることにあることを前回は指摘しておいた。では、この「東京イメージ」とはどのようなもので、どうやってローカルエリアの人々に定着したのだろうか。

イオンモールにおける「東京イメージ」

まず、前回の復習になるが、イオンモールの「東京イメージ」について確認しておこう。イオンモールに出店しているのはマクドナルドやケンタッキーなのどのファースト・フード、GAP、ユニクロ、コムサデイズムなどの名前のしれた衣料店舗、旭屋書店のような大型書店、カルディ、ヴィレッジ・バンガードのような趣味系の店、ニトリのような量販家具店、タリーズ、スターバックスのようなシアトル系コーヒー店、そしてスポーツクラブにシネコンだ。とりあえず、こういった店舗群を「東京イメージを構成するもの」としておこう。でも、なんで、こんな店舗群にローカルの人間たちは「東京イメージ」を抱くのだろうか。

情報化が作り上げる「東京イメージ」と情報アクセス格差

インターネットを中心に出来上がった情報環境。そこでは、どこにいても、どんな情報も摂取可能になった。ということは中央にいても地方の、地方にいても中央の情報がほぼリアルタイムで入手可能なったということでもある。で、そうなると地方も中央も情報的にはフラットになるということが想定された。つまり「中央もそうだが地方も魅力的」という図式が出来上がるはずだった(テレビ「秘密のケンミンショー」はこの文脈でプログラムを展開しているが)。

ところが、実際にはそうはならなかった。むしろ中央の情報へのアクセスの集中ということが発生した。つまり、中央と地方の情報はアクセスする”機会”こそ平等になったが、実際にアクセスする点については、むしろフラットになったおかげで格差が生じた。というのも中央の情報の方が地方の人々にとっては魅力的だったからだ(とりわけ若者にとっては)。「機会の平等、結果の不平等」という図式だ。中央の情報は、言い換えれば「消費情報」。消費の欲望を喚起する「イケてる情報」で満ちている。一方、地方の情報は「ダサい、イケてない情報」。だからアクセス可能でもスルーしてしまう。これは、たとえば地方の民放が独自に制作している番組コンテンツを考えてみればわかる。地方局は中央キー局のコンテンツを放送しているが、一部自主制作するものもある。ところが、こちらの視聴率は極めて低いのだ。

つまり情報アクセスの易化は、結果として「消費情報」=「中央情報」への過剰なアクセスを導いたのだ。

こういった中央と地方の情報アクセス格差は、たとえば宮崎ではこんなかたちで現れた。三つほど例を挙げよう。

一つ目は1998年のこと。当時放映されていた日テレのバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の中で、レギュラーメンバーによって音楽ユニット”ブラック・ビスケッツが”結成された。そしてシングル「タイミング」をリリース。曲はスマッシュヒットとなったのだが、なんと宮崎だけがオリコンでヒットチャート一位に輝き、しかもこれが数週にわたって続いたのだ。というのも宮崎の民放はクロスネット。民放局が二局しかなくTBS、フジテレビを中心としたテレビコンテンツしか放映されておらず「ウリナリ」は宮崎県民が見ることの出来る数少ないバラエティの一つだったという事情が、こういった珍現象を巻き起こしたのだった。

二つ目は2001年、宮崎に牛丼の吉野家がオープンしたときのこと。なんと開店から数日の間、吉野家は行列が続いたのだ。それは、まさに宮崎市民が待望した店だったのだったから。

そして三つは目、2004年のこと。地元のタウン誌が「いま、みやざきに足りないモノ」というアンケートを行ったところ、その上位に、なんと「スターバックス」という回答が食い込んだのだ。実際、2006年スターバックスがオープンした際には、店舗はちょっと異様な雰囲気が漂っていた。というのも、客の多くが「ちょっとスタバでコーヒー買ってこよう」ではなく「スタバへ行こう!」という意気込みだったからだ。

消費情報=中央情報=「東京」

で、これらは要するに、消費情報=中央情報という接合から来る「東京イメージ」。だったら、こうやって情報環境に横溢する、ステレオタイプ的な、そしてヴァーチャルな「東京イメージ」を集約して、具現化、リアル化したら地方の人間はどう認識するか。当然、そこに人々は「東京」を見るはずだ。そう、それを巨大な施設でモール=商店街にしたら、彼らは当然、そこが「イケている情報が満載した空間」、つまり「東京」になるはずだ。そう、イオンモールこそこういったヴァーチャルな「東京イメージ」をリアル化したものに他ならなかったというわけだ。

しかし、この「東京」、かなりヘンじゃないか?(続く)

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想定以上の賑わいを見せるイオンモール宮崎



宮崎にイオンモールがやってきた!

2005年5月、宮崎市内の新別府(宮崎港近くの市郊外)にイオンモールがオープンした。20キロ圏内の商圏人口は50万(クルマで40分圏内という想定)。だがイオン側は強気の戦略に打って出た。敷地面積19万平米、商業施設面積7万7千㎡、駐車台数4000台を誇る巨大商業施設内に160余りの専門店。これは70万の商圏内人口を想定した規模だったのだ。だがフタを開けてみると年間の来場者数は1000万を超えた。この数値、実はなんと90万の商圏内人口に想定する数だったのだ。
つまり、それほどまでにイオンモールは宮崎の人々に支持されたというわけなのだが、なぜなんだろう?今回はこれをメディア論的に分析してみよう。

不活性な地元商店街に市民たちはウンザリしていた

一つは地元商店街の不活性化状況があった。JR宮崎駅から西へ延びる高千穂通りと、南北に走る国道十号線が交差するあたりが宮崎商店街の中心(テレビなどで必ず出てくる商店街。真ん中にフェニックス並木が並ぶ景色で知られる)なのだが、ここには山形屋(鹿児島が本拠地)、ボンベルタ橘(イオン系列)、寿屋(熊本が本拠地)の三つのデパートがあったが、2002年に壽屋が倒産とともに閉店、また郊外の国道沿いに大型電器店(DeoDeo、ヤマダデンキ、ベスト電器)や衣料店(コナカ、にしむら、ユニクロ)、レストランが林立することで、商店街が空洞化。商業エリアとして宮崎市民が行き場を失っていた状態だったのだ。事実、宮崎市民は大きな買い物をする際には鹿児島や福岡に来るまで出かけていくというパターンがかなり定着していた。いわば、市民にとっては待望の環境だったわけだ。

消費欲望を喚起した「東京イメージ」

ただし、これだけでは、この賑わいは説明がつかないだろう。つまり、これまで分散していた消費者を全部イオンモールが収用したとしても、ちょっと客が来すぎという感じなのだ。それは言い換えれば、イオンモールが宮崎市民に対して新たな消費欲望を喚起したと捉えなければならないということになる。

そう、実際、イオンモールには宮崎市民をワクワクさせるような店舗がギッシリ詰められていたのだ。ユニクロ、ニトリ、旭屋書店、ヴィレッジ・バンガード、GAP、コムサイズム、タリーズ・コーヒー、カルディ、アサヒ・スポーツクラブ、そしてシネコンのセントラル・シネマ……どれも市民が待望していた店舗だったのだ。さて、それでは、宮崎市民は、こういった店舗の背後に何を見ていたのだろう?つまりどんな魅力を感じていたのだろう?

そう、今回取り上げたいのはココなのだが、最初に答えだけを言ってしまえば、宮崎市民はイオンモールの「東京イメージ」に強烈な魅力を抱いたのだ。ただし、僕は、いま東京イメージを、あえて「東京イメージ」とカッコつきで表記した。そして、この括弧付きの東京イメージの魅力。もはや、何も宮崎市民に限ったことではなく全国的なもの。つまり日本中のイオンモールに、そして日本という消費社会に共通の欲望換気装置で、だからこそイオンモールが日本中に展開することになったのだと僕は考えている(ちなみに人口比率的にもっともイオンモールの数が少ないのは、東京だ)。そこで、この東京イメージとは何で、どうやって作られたのだろうかについて、じっくり考えてみよう。(続く)


日本という文化であるからこそ通用する二つのCM

さて、「消臭力」と「蚊に効くカトリス」。二つの商品のこういった「わけのわからない」「無意味な」レトリック。これが受け入れられるのは、実は日本独自の土壌に根ざしているという背景があると考えるべきだろう。

ナンセンスCMが受け入れられる背景の源流としての80年代

80年代。90年代に向かうバブルの真っ盛りの中でCMには様々な実験が行われた。当時マーケティングで叫ばれていたのが分衆・少集マーケティングと呼ばれるものだった。80年代に入り、それまでの計量マーケティング(市場調査を行い、一般大衆が最も要求するニーズに合わせて商品を開発する)というスタイルが通用しなくなるという事態が起きていた。そんなとき、電通マーケッターの藤岡和賀夫が、この現象が「少集の出現によるものである」と説いたのだ。

藤岡は計量マーケティング、言い換えれば大ヒット商品が生まれなくなった理由をだいたい次のように説明した。

「今は、一通り欲しい物が揃った時代。テレビもクルマもエアコンもある。そうなると人々は必要=ニーズに応じてものを購入すると言うことがなくなり、欲望=ウォンツに基づいて商品を購入するようになる。ニーズは「人と同じでありたい」「中流志向」がベースだったが、もうそれは達成されている。一方、ウォンツは「人と違っていたい」「ワンランク上志向」がそのモチベーションとなっている。だから人々は大衆を嫌い、趣味や嗜好に合わせて小さな集団を志向する。それが少集という人々の出現だった。だったら計量マーケティングのような「みんながほしがる大衆的なモノ」は、こういった志向を持った少集・分衆が最も嫌う商品。だから、「ちょっと違った、オシャレで感性豊かなモノ」を商品として展開するべきだ。」

そしてこの藤岡の主張は当時のマーケティング業界全体に受け入れられ、その結果、ちょっと変わったモノが出現しはじめる。だが、当時は、そんなにいろいろと細かいモノを作る技術はなかった。そこで、商品の中身ではなくメディア性、つまり売り方にその差異化が求められたのだけれど、その際、注目を浴びたのがCMの戦略だった。そして、その際、戦略の一つとして行われたのが「とにかくCMで目立てばイイ」というやり方だったのだ。かくして、こういったナンセンスで無意味なCMが次々と登場するという現象が出現する。

無意味=ナンセンスCMの認知と定着

だがバブル崩壊以降、こういったあからさまに差異化を狙ったCMは影を潜めるようになる。これは二つの理由があった。一つはこういった差異化ばかりに目を向けたバブリーな商品に、闇雲に手を出すための実弾、つまり可処分所得がバブル崩壊とともに尽きてしまったこと。もう一つは、テクノロジーの進化によって細分化されな商品が展開され、いちいち意識しなくても、その商品を手に取った瞬間「人とは違っている」というようなインフラが出来上がってしまったこと。こうなってしまうと、人と違っているモノを購入したところで、人それぞれでしかないのであからさまな差異化が働かない。だから、人々はこういった商品の購入によって他者との差異化を図るという戦略から降りてしまったのだ。

ただし、こういった記号性に根ざしたCM、つまり商品の機能=使用価値ではなく見た目やおもしろさ=記号的価値に根ざしたCMは、日本人にとってはCMのジャンルとしては定着した。ただし、かつてほどではなくごく一部の商品がこういった展開を選択するということになったのだけれど。


そんな時、80年代より遙か以前から無意味=ナンセンスのおもしろCMを続けてきたキンチョーがこれを続けることで、キンチョーは企業のブランドイメージ、コーポレイト・アイデンティティを消費者に向かって発することが可能となったのだ。そしてエステー化学の「消臭力」にしても、こういった生き残った数少ないおもしろCMの分野を担うモノとして、現在ここで展開されていると考えると納得がいくだろう。

ちなみに、こういったナンセンスCMが、いかにこういった日本社会における経済的背景、CM史の背景を背負っているのかは、日本以外のCMを見てみればわかる。その機能性を説明しないCMなんか世界にほとんど存在しないからだ。そして、もし消臭力やキンチョールのようなCMを日本以外で放映するようなことがあれば、ほぼ間違いなく完全に無視されてしまうだろう。

僕たちが、これらのCMにおもしろさを感じるのは、実は僕らが日本人であるからに他ならない。



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キンチョールを掲げる、女装の桜井センリ


無意味CMの有意味性とは

前回はキンチョーのCM「蚊に効くカトリス」が、インデックス=ナレーションと、イコン=映像が全くかみ合っていないにもかかわらず、インデックス性が勝っているので、ナレーションの指示に従って映像を読み込んでしまっていること。だが、映像とナレーションの齟齬に気づいた瞬間、このCMがナンセンスなだけで、何も語っていないことを明らかになることを指摘しておいた。「蚊に効く」はずのこの製品の効能が一切語られず、ただ製品についているファンの回転が作る渦をドライアイスで見せただけ。これでは蚊に効くのかどうか全然わからない。でも、なんでこんな無意味なCMを作ったのか?言い換えるとこの無意味の有意味性はどこにあるのか?

キンチョーはずーっと無意味なCMを作り続けてきた

これを紐解く鍵は二つある。一つは、この作品が、キンチョーが四十年間以上続けてきたCM戦略の延長線上にこれがあること。実は、キンチョーは、これまでそのほとんどに無意味なナンセンスCMを展開してきたという実績がある。そのはじまりは60年代のキンチョールのCMに遡ることが出来るだろう。このCMでは、和服姿の女装をしたクレイジー・キャッツの桜井センリが、右手にキンチョールを持って商標名を読み上げるのだけれど、この時、桜井はキンチョールを逆さまに持っていた。そして商品名も「ルーチョンキ」と逆さに読んだのだった。



「トンデレラ、シンデレラ」というダジャレを展開する研ナオコ


つぎに70年代。同様にキンチョールのCM。出演するのは研ナオコだった。二人の研の上にハエが飛んでいる(ハエと言ってもマンガチックな模型)。すると研は「あっ、トンデレラ」と一言。するともう一人の研がキンチョールを一吹き。するとハエが下に落ちる。そして落ちたハエを見て、今度は「シンデレラ」。あとはこれを繰り返すだけなのだけれど、これは「死んでいる」というのと「シンデレラ」の単なるしょーもないダジャレ。まあキンチョールが吹きかけられることでハエが死んだのだから効き目があることの説明にはなるが、もっぱらダジャレと爬虫類的な研ナオコのキレた演技が光るだけというものだった。



キンチョールの機能の説明が一切ない「ハエハエカカカ、キンチョール」


そして80年代になるとキンチョールのCMはますます意味がなくなってくる。ところは歯科の診療室。医師を演じるのは柄本明、治療台にのっかている患者は郷ひろみだ。

一通りの治療を終えた柄本は、その具合を確かめようと、郷にある言葉を発せさせる。それは「ハエハエカカカ、キンチョール」という台詞だった。はじめに郷が発すると、それに対して柄本が「ちょっとヘンですね。もう一本抜いておきましょ」といって歯を一本抜き、次に大きな声で「ハエハエカカカ、キンチョール」と手本を見せ、次いで郷ひろみに、これを、やはり復唱させる。すると柄本は「よろしいんじゃないんでしょうか」と締める。ここではイコン的にもインデックス的にもキンチョールに関する情報は一切ない。あるのはキンチョールを連呼することだけだ。

つまり、キンチョーは延々無意味な、指示性(商品の機能を説明する性質)を持たない、無意味な指標性=インデックス性に依拠したCMを作り続けてきたのだ。そして、それによって、ずっとキンチョーの商品を見させられ続けてきた視聴者は、無意識のうちに「キンチョーは無意味なCMを作る」という認識を抱くようになったのだ。

だが、この継続によって、無意味性は究極の有意味性に転じている。もちろん、CMの情報=内容に対して視聴者が有意味性を感じているわけではない。有意味性が生じているのは、むしろCMの形式=メディア性だ。つまり「キンチョーは常に無意味なナンセンスCMを作り続ける」という側面が、逆にキンチョーというブランド、そしてキンチョーの商品の記号性=アピール度を高めている。で、そちらの側面の方が重要であって、だからこその商品の機能は、これに従属させられているのだ。

機能をCMのアピールポイントとしないもう一つの理由

だが、こういったイメージを強調する理由はもう一つある。それはキンチョーの展開する商品群が、特段優れたものではないからだ。もちろん、これは同業他社の商品に比べて劣っていると言うことではない。そうではなくて「殺虫剤」が、商品としての差異化が極めて難しい問いジャンルに属しているという理由による。つまりアースだって、フマキラーだって別に同じだから、どれだっていいわけで。だったら、商品の機能=使用価値に訴えるより、商品が目立つこと=記号的価値にポイントを置いた方がいい。それが結果として、こういったナンセンスCMを量産することを結果したのだ。

そして、こういった戦略を採る背後には、日本のCM文化の独自性が存在する。それは何か?(続く)




一見マジメなCM”蚊に効くカトリス”。だが、実は……


蚊に効くカトリス:徹底した指標性の強調のトリック

CMの構造について考えている。今回は前回取り上げた「消臭力」と正反対の演出を行っているキンチョー「蚊に効くカトリス・実験編」について取り上げてみよう。これは映像=イコン性にたいしてナレーション+文字=インデックス性が圧倒的に勝っている作品だ。

見た目はイコンとインデックスが寄り添っているように見える

CMは次のように展開する


ところは、さながらキンチョー社内にある実験室・研究室のような空間(画面左上の壁に”KINCHO”のロゴが見える)。解説をする男性(研究者っぽいので”研究者”としておく)とアシスタントの手前にテーブルがあり、そこにカトリスとドライアイス、そしてホースが置かれ(つまり実験道具)、背後にはホワイトボードがあって、そこには本日の実験の内容(らしきもの)についての項目のパネルがマグネットで貼り付けられ、そこにそれらしい説明が展開されている(よくみると、ほとんど情報ゼロの内容なのだが、レイアウトでそれらしく見える)。

研究者:「今日はキンチョーの「蚊に効くカトリス」の実験をしてみましょう。」

アシスタント:「はい」

蚊に効くカトリスが大写しになり、そこにドライアイスがホースから流され煙の渦が発生する。

研究者:「ドライアイスをかけてみると、効き目がよく広がっているのがよくわかりますね(途中から急にナレーションの回転速度が上がり、早口になっているのに注目)」

アシスタント:「これには蚊もビックリですね」

(画面関わる)蚊が落ちる。その両脇に蚊に効くカトリスを腰からぶら下げた男性と女性。

(再び画面が変わる)ナレーション「蚊に効くカトリス」


と、まあこれだけのCMなのだが、これをボーッと見ているだけだと、実はなんの違和感も感じないようにこの作品は作られている。実に自然な、というかマジメっぽい掛け合いなので、二人の掛け合いの台詞=インデックス性に導かれながら、視聴者はこのCMの図像=イコンを眺めることになる。つまり“実験シーンの再現”という、イコン=図像とインデックス=ナレーションが寄り添ったアメリカ式のCMに、これが見える。

インデックス=ナレーションに幻惑されている。実は全く効果がない

ところが、このCMにはナレーション=インデックス性にちょっとおかしなところが1カ所だけある。それは研究者の台詞の回転が途中から急に上がってハイテンションになったかのように聞こえるようになっていて、この研究者がマッド・サイエンティストではないかと思わせるよう仕掛けが施されているところだ。ただし、一般にはこのテンションが変わるところはほとんどわからないので、やっぱり自然なトークに聞こえる(実際、僕の教え子の一人が、このCMの不自然さを全く感じておらず、僕が指摘して初めて知ったくらいだ)。

だが、次にこのCMを、今度はナレーション、つまりインデックス性を消失させて、映像=イコン性の側面だけで見てみてほしい。そうすると、インデックス=語りとイコン=映像が見事に矛盾していることがわかる。というのも、映像がやっていることは蚊に効くカトリスに、ただドライアイスをかけているだけだからだ。つまり、蚊に効くカトリスにはファンがついていて、これが回転し、その気流の流れがドライアイスのスモークでビジュアル化されているに過ぎない。

で、これがどうして「蚊に効く」のか?ファンの形状をした装置なら全てこうなるわけで、これ自体は蚊に効く、効かないといったこととは一切関係がないのだ。

さて、こうやって再び音声を入れてこのCMを見てみると、これがいかにナンセンスなことをやっているのかがハッキリする。つまり、まったく意味がない。にもかかわらず、この全くの意味の無さに「これでは蚊もビックリですね」というアシスタントのコメントがかぶせられる。そう、確かにビックリするかもしれないが、効くかどうかは全くわからない。要するにこれは製品の機能といったものを全くアピールしていないのである。イコンとインデックスは完全に反発しているのだ。そしてインデックスの強さでイコンに違和感を感じていない。しかしながら、見ている視聴者は、そのナレーション=インデックス性すっかり幻惑されているわけだ。

じわじわとイコン性=映像が活性化して、おかしさ=違和感を感じてくる

だが、このCMは何度も見ているうちに、次第にこのバカバカしさがわかってくるようになる。何気なく何度も見ていたこのCMに、ある日突然「あれっ?このCMっておかしくね?」という感じで、イコン性とインデックス性の矛盾が出現するのだ。それは、インデックス性の背後にあるイコン性の意味が登場し、突然、ナレーション=インデックス性の背後にある映像=イコン性が活性化されることによって生じる。で、それに気づいたとき「なんてバカなCMなんだ、これは。ふざけてる」ということになる。

さて、ならばキンチョーは、なぜ、こんなバカなCMを作っているのか。実は、これが80年代のCMブームの頃からやっているキンチョーの「おもしろCM」という伝統の延長線上にある戦略であることは、知る人ぞ知ることであるのだけれど……。

次回は、こんな無意味なCMの有意味性についてキンチョーCMの歴史をひもときながら考えて見よう。(続く)

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