勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年05月

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Paul Bley"Open to Love"



1曲目"Ida Lupino"


三十年以上聴き続けているアルバム

このアルバムはとっても不思議だ。まあ俗っぽく表現してみれば「つかみどころがない」。いわゆる「リリシズム」的で感情的なサウンドにも、全く冷静な冷たいサウンドにも聴こえる。いや、場合によっては狂気のようにすら感じないこともない。曲はゆっくりとしたテンポだが、あまりメロディアスではない。叙情的になるかと思えば突然その叙情をぶった切ってしまうようなパッセージが登場したり、プリペアド・ピアノ(ピアノを鍵盤以外の部分で演奏する技法。弦を直接弾いたり、弦の上に食器を置いて音を歪曲させたり、打楽器としてピアノの側面を手で叩いたりする。このアルバムで用いられているこの技法は、きわめて自然で違和感がない)をやってみたり。こうなると、70年前後に流行したフリージャズのように思えるのだが、フリージャズのような無調にすらならない。どのカテゴリーにも属さないピアノ演奏なのだ。そして透明度が非常に高い。にもかかわらず結構不協和音を多用する……ってなわけで、やっぱり、わからない。

実際、いま聴いてみても、やっぱりわけがわかんないんだけど、ところが何百回(千回超えているな、多分)も聞き込んでいるうちに、もう自分の環境の一部のようになってしまっていて、まるで歯磨きするとか、酒飲むとかという感じでこのアルバムをかけるようになっている。いわば”中毒”。で、どんなシチュエーションでも(うれしかろうが、悲しかろうが、退屈だろうが)だいたい聴けるようになってしまったという奇妙な作品でもある。

とはいうものの、こちらはメディア論・記号論の研究者でもあるので、わからないままに済ますなんて言うのは癪という、ヘンなプライドが邪魔をする。で、今回はこれをメディア論的な視点から分析してやろうと思う。

ECMの異端


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ドイツのジャズレーベルECM

ドイツのレーベルにECMがある。69年にマンフレード・アイヒャーが設立したコンテンポラリー・ジャズ・レーベルで、その独特の編集方針、どうみてもヨーロッパ的な音にしかならないというやり方で唯我独尊のサウンドを奏でてきた。最も活動が活発だったのは70年代でアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、エグベルト・ジスモンチ、ゲイリー・バートン、パット・メセニー、ポール・モチアン、ケニー・ホイラー、ラルフ・ターナーなんてミュージシャンを抱えていた。スタープレイヤーはキース・ジャレットで、例の代表作「ケルン・コンサート」なんかもここから発売されている(キースは現在もECM所属)。

ECMの音は独特。なぜかアイヒャーは録音の全てにエコーをかけるのだ。だからサウンドは、いうならば朝ぼらけ、朝の霧、朝の霞みたいなボヤーッとしたイメージが全般に漂うことになる(朝聴く音楽にはグッド)。前述の「ケルン・コンサート」などはその典型で、これ自体はライブなのだけれど、なんかエコーがかかっている(だから、演奏後の拍手がもの凄く不自然。夕立の雨音がブリキの屋根に当たった音のように聞こえる)。

当時、このサウンドには当時賛否両論が渦巻いた(キースのファーストソロ・アルバム「フェイシング・ユー」のピアノの音はヘタするとチェンバロのようにすら聞こえる(こりゃ、失敗のたぐいだろう))のだが、とにかく、これが結果として「ECMの音」というのを作り上げていた。

で、このエフェクトが「Open to Love」にもかけられているのだけど、そんなことはどうでもイイくらい、この音はある意味ECMのサウンドからはちょっと外れているという感じがする。言い換えればそれくらい、ここでのブレイのサウンドは個性が強いのだ。エコーがかけられたECMのサウンドは得てして叙情的。前述したキースなどは演奏も感情的だし、実際演奏中にエクスタシーを感じてしまい、ネズミがひき殺された瞬間のようなうなり声を立てながら演奏しているほど(このうなり声はきわめて評判が悪い)。

一方、「Open to Love」はその対極にある。ある意味「素っ気ない」。だからエコーが感情を引き立てるという風なECM効果には全くなっていない(ただし、激情的でもあるという矛盾したところも持っているのでややこしい、そしてわけがわからないのだけれど)。

しかしメディア論的に分析してみると、ブレイのこのアルバムは、きわめて「詩的」な魅力に満ちている。そして、ある意味、クラッシックと現代音楽が追究してきた、そしてモダンアートが追究してきた「美」の有り様とその伝統を共有するものでもある。では、それはなにか?(続く)

メタ・クレオール?……もう一つのクレオール

さて前回までの宮崎タイ料理店の繁盛の構造について、おさらいしておこう。流れはをまとめれば1.クレオール文化の普及→2.一部プル型人間によるオーセンティック文化の導入→3.多くのプッシュ=消費型人間によるオーセンティック文化のクレオール的導入、の三段階で文化が受容されるという、ややこしい事態が発生していた(ただし1と3の主体は、ほとんど差がないのだけれど)。僕はこの3つめを「メタ・クレオール」「ひっくり返しのクレオール」とでも呼ぼうかと思っている。


ハヴィトゥスとディスタンクシオンが未だに成立しているローカル

階層構造がまだ完全に相対化されていない地方では、こういった「80年代型消費」、つまり上から目線獲得のためのスノッブ消費がまだ息づいている。役人やメディア関係者がエラくて、この連中が上から目線でそれ以外の人間を軽蔑的な目で見下げるってなことがかなりヘーキやられているので(お役所に行ったときの地方公務員の高ビーな感じは、ちょっとスゴイ)、彼らがそれを維持するためにはスノッブ性を備えた情報は”都合のいい道具”になるのだ。実際、宮崎というローカル地方にいる十年間の間、僕はお役所が経営する大学の教員だったので「大学+役人」という二つのブランドを抱えた”な~んちゃってセレブ”(実は、とってもビンボー)として、実際の自分の中身なんか関係なく、結構ちやほやされた(ちなみに現在、住んでいる関東圏では、こういったことはほとんど、ない。僕は単なる”しがない大学のチンピラ教員の一人”でしかない)。

こういった階層構造を、仏社会学者P.ブルデューは著書『ディスタンクシオン』の中でハヴィトゥス(語源は”習慣”)と言うことばで説明している(まあフランスなので、正しくは「階級構造」なんだけど)。自分たちがその階級に所属していることを確認するために、その階級にふさわしい振る舞いを常に行い、子供たちにもその振る舞いの教育を施す。たとえば上流階級だったら聴く音楽はR.シュトラウスとかマーラーとかワーグナーってなコムズカシイ感じにし、これをハヴィトゥス化=習慣化することで、自らに対して、また子供たちに対してその階級に属していることを自覚させるのだ(これは「文化再生産」と呼ばれる)。一方、労働者層はマーラーなんて難しいものじゃなくてJ.シュトラウスのワルツみたいなポップなものを聴くことで、やはりその階級に所属することを確かめる。で、この上流階級がマーラーみたいな高尚なものを聴くことで、下流階級に対して「おめ~らなんかとは、身分が違うんだ」と上から目線をする(こっちの方は「卓越化(=ディスタンクシオン)」と呼んでいる)。まあこういったことをやっているとブルデューは指摘したわけだ。

さて、日本の場合は階級社会じゃなく、階層社会。ということは上流、中流といったレベルへの階層移動が容易なわけで、となると階級的担保がなくても、ハヴィトゥスを選択することで、自らのポジションを設定できる。で、前述したように地方は階層構造が中央のように相対化されていない。だから地方の場合、このハヴィトゥスの選択が上流階級であることの幻想を抱く、つまり「なーんちゃって上流」になるためには有効な装置として機能する。で、情報的に階層が上となるハヴィトスを備えた情報ってのが……中央の情報やマイナーな消費的情報なのだ。そう、そして当然タイ料理もこの範疇に入ることになる。だから、僕は、前回のような憶測を宮崎のタイ料理店の繁盛の理由としてやってみたのだ。

もちろん実際のところどうなのかは確認していないのでわからない。ただし、少なくとも宮崎暮らしているあいだ、僕がこういった現象を何度となく見ることがあった。それだけは確かだ。

クレオールも一筋縄ではいかない!

こうやって考えてみると、インターネットに象徴される情報インフラが中央、地方に関わりなく平等に浸透したとしても、同じように受容されるわけでは決してないということになるだろう。そして、この場合には、ローカルにおいては、クレオールを巡って階層構造を維持するためにオーセンティックな情報が機能するという逆立状態が出現してしまっていることになるのである。

残念ながら、現在、この店はない。2009年、繁盛したまま閉店している。

課題は残る

情報化社会の進展と共にクレオール化が進み、どこの国のものともわからないような文化(今回は料理)が登場するが、情報化がさらに進展すると最終的にはオーセンティックな、つまりホンモノの文化・料理が異文化に登場すること。そして、これが情報プル型のトンがった一部の人間によって担われていることを、宮崎という日本の端っこの街で本格タイ料理店が成功したことを例に見てきた。

しかし、やっぱりこういった人間たちはマイノリティ。基本はプッシュ型の情報を享受する人間たち(もっぱらマス情報を消費し続ける人間)が大多数を占めるはずだ。宮崎なんていう、合併前はギリギリ中核都市(30万)のスケールでは、このご主人の運営する本物タイ料理店が繁盛し、運営可能になるような数のプル型マイノリティが存在するとは、正直思えない(クラブでいろんなジャンルの音楽がゴッチャになって流されるというのが、宮崎の環境なのだ)。ということは、お客の大多数は実は「プッシュ型」のマスな人間、いいかえれば原則クレオールの方に親しみを感じる部類であったはずだ。にもかかわらず、この本格的な味の、宮崎人ではついて行けないような料理に結構な数の人間が手を出したのは……僕はここに情報化時代におけるもう一つのローカル、つまりヴァーチャルな情報という媒体だけでは乗り越えられない田舎の心性があると考えている。

そのメカニズムはこうだ。
まず、一部のプル型人間がこの店をかぎつける。この人間たちは、いわば「オピニオン・リーダー」。情報を自らプル(=引っ張り出すことが)できる。また、それを発信する能力もそれなりに備えているので、マスの人間たちをプッシュする。で、彼らがこのタイ料理の良さを流布すると、マスの人間たちは、味なんかわからなくても、オピニオン・リーダーたちの発言に信頼を寄せているので「こりゃ、いいものだろう」と考え、とりあえず店にやってくるのだ。

さて、こうやってやってきて「辛いもの、スパイシーなもの」という未開拓の味覚を学習すれば、彼らもタイ料理の味覚が涵養されることになる。そして、このタイ料理レストランの本格的な味に感化されリピーターになっていき、この店は繁盛するというわけだ。で、これだったら、前回まで展開してきたように、クレオールが最終的にオーセンティックな文化にたどり着いたことになる。

スノッブに情報の上澄みだけをプッシュ的に消費する

ただし、結局、味がわからないと言うこともあり得る。
今回取り上げたような宮崎の本格タイ料理屋は、ここまで指摘してきたように情報プル型人間が必然的にかぎつける場所。だが、こういった環境は、ある種の「スノッブさ」という副次的利益を得ることが出来る空間でもある。オピニオン・リーダー(一部の客、そしてもちろんご主人)たちが集うので、ここはちょっとした、そしてトンがった情報発信基地にもなっている。そして、この感じが楽しくてやってくる連中も出現する可能性があるからだ。この場合、こういった「取り巻き」的な人間たちは原則プッシュ型。テレビなどのマスメディアの代わりに、ここにやってくるプル型人間の情報にプッシュされるということを消費しにやって来ていることになる。で、そうであったとするならば、彼らの本物のタイ料理に対する認識がこの店によって根本的に変更されるということは望み薄だ。だって、味なんか実はどうでもいいんだから。当然、味覚は涵養されない(この場合、実はクレオールの方がいい、というのが正直なところということになる)。だから、いいかえれば、わからない味を、わかったフリして食べ続ける。必要としているのはこの「ムード」なのだ。料理はその「ムード獲得」のための添え物に過ぎない。そしてプッシュ型だから、その心性もそのまんま。本物の情報と本物の味を前に、その上澄みだけを頂戴してスノッブ感覚の中でこれらを消費する(自ら、その情報のディープな部分に食指を伸ばすと言うことをしない、というかプッシュ型なので出来ない)。では、その御利益は……地元ローカルの人間に対する優越感・上から目線の獲得だ。で、結局このタイ料理店は、こういった別の魅力によって別種のリピーターを獲得することになり、やっぱり繁盛する。こんなふうにも考えられるのだ。

もちろん、このタイ料理店で、実際にこういうことが起こったかどうかはわからない。だが、クレオールがローカルに波及し、そこでオーセンティック志向が起こるときには、得てしてこういったねじ曲がった構造が発生する。なぜか?(続く)


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アサヒフード&ヘルスケアが提供するグリーンカレー


「プッシュ型」のマス情報に飛びつく人間たちはクレオールを好む

宮崎という辺鄙な地域で、クレオール化されたものではなく、タイの料理そのものを提供したタイ料理店が、なぜ受け入れられたのだろう?

情報化社会はグローバル化社会。あらゆる情報が時空を飛び越えてスーパーフラットな状況で飛び交っている。だから、どこにいても、情報を入手しようと思えばたいていのものを手に入れることは出来る。こういったインフラは、宮崎という地方でも、もちろんすでに整備されている。

ただし、人間というのは得てしてものぐさだ。そんなに一生懸命情報にアクセスするなんて人間はマイノリティ。一般的な人間は、そのへんの適当な情報を消費しておしまいというのが常套手段だろう。「そのへんの適当な情報」とは、テレビなどが流してくる”プッシュ情報”。つまりマスのレベルで垂れ流し的に流され、一方的に押しつけてくる情報。これにとりあえずは飛びつき、押さえておくという行動に出る。で、こういった人間たちにおあつらえ向きの情報や商品が、結果としてクレオール的なものになる。なぜか?

マス情報は自分で調べることもなく、メディアが中心となって薄っぺらい情報を大量にまき散らしてくれるので、入手が簡単。そして、一般人はそれを入手したときに、自分の認識を変更することはイヤだから、原則受け入れやすい情報、言い換えれば保守的なそれだけを消費する。で、この法則をタイ料理に該当させれば、彼らの知っているタイ料理は資本が提供したトムヤムクンやグリーンカレーなんてメジャーな料理に限定されることになる。 しかも資本としては売らなきゃならないので、当然、これら料理の辛みだとか、臭みだとか(タイ料理ならパクチー=コリアンダーのにおいなんてのが典型)を抜いたフニャフニャな味にして、彼らの保守的な感覚に合わせてくる。

現在、インド料理のキーマカレーとか、イタリア料理のフォッカチャだとかメキシコ料理のタコスなんてのは、かなりの人間が知っているけれど、これはこういったマス的な効果によって新たに提案された「これまで知らなかった料理」だけど「フニャフニャな料理」。で、それが結果として一連のクレオール料理を誕生させるわけだ。


「プル型」のオタクはホンモノを志向する

ところが、情報アクセスの易化は翻って、こういったおおざっぱな消費をするメジャーな一般人たちの一方で、マイナーなオタクっぽい人間たちを生み出すことも確かだ。もちろん、その数はマス情報に飛びつく人間に比べればはるかに少ないが。

こういった人たちはプッシュされてくる情報ではなく、自ら情報を引き出しにかかる。つまり情報をプルするわけだ。そして、こういった状況を巧みに泳いだ人間たちが、結果として宮崎でオーセンティックなタイ料理を提供するこのご主人の店をかぎつけ、味をしめ、常連客になったというわけだ(まあ、結局僕もその一人ということになるだろうか)。そして、こういったお客たちが口コミでその評判を伝え、それを聞きつけた人間たちがここを訪れるようになったというわけだ。

クレオール化が最終的にもたらすオーセンティックな文化

さて、宮崎という辺鄙な街で、タイと寸分違わぬ、いやそれ以上にタイらしい料理を提供するレストランが繁盛したという事実は、クレオール化が起こすもう一つの現象を示唆するものでもある。つまり、まず異文化の情報や商品はクレオールというかたちでローカライズ、カスタマイズされて導入される。だが、これが日常的に普及した際には、今度は一部のあいだで「本物=オーセンティックなもの」への欲望が喚起されるようになる。そしてその結果、オリジナルと寸分違わぬものが登場する。宮崎のタイ料理店の繁盛は、こういった循環によって結果したのではなかろうか。

いや、ちょっと待て?

これだけで、この店が繁盛した理由を説明し尽くしたと考えるのはちょっと甘い気がするのだが……。(続く)

クレオールと料理の味

文化人類学の用語に”クレオール”というものがある。もともとは中南米で育ったヨーロッパ人を指す。彼らは中南米で生まれたり育ったりしたので母国語を知らなかったりする。そしてヨーロッパの文化と中南米の文化の双方を併せ持つ存在。で、文化人類学では、この用語が広い意味で用いられるようなり、”クレオール化”という表現がなされるようになった。これは、きわめて平易に説明すると「とある国の文化が輸出される過程において、輸入した当該国が、その文化を自らの文化の文脈に流し込んでしまった結果、オリジナルをカスタマイズした独自のヘンな文化が生まれること」だ。今回は食べ物のことで展開しているので、これの例をいくつか挙げてみよう。

タイの寿司にはカニかまが

例えば、現在タイは空前の日本料理ブームで、もはやブームをとっくに飛び越し、文化として定着してしまった感があるのだけれど、やっぱり、その受け入れられ方はビミョーにカスタマイズされている。つまりクレオール化している。

典型的なのは寿司と緑茶と、そしてすき焼きだ。寿司は一人前を頼むと、なぜかどんなに高級なものであっても、ネタに”カニかま”が入っている。緑茶は砂糖入り。そしてすき焼きに至っては、甘辛いたれをつけて食べる海鮮しゃぶしゃぶで本来のすき焼きとは全然関係がない(日本ではすき焼きと差別化するため、これを「タイスキ」と呼ぶようになっている)。しかし、こういったものとしてタイ人の間では普及したのだ。

日本のクレオール料理

これは日本でももちろん同様だ。たとえばカレー。ルーツはインドだが日本とインドのカレーはご存じのように全然違っている。決定的な違いは日本のカレーがふっくらしていること。これは小麦粉が入っているからなのだけれど、こうなったのは、日本のカレーがインドからではなくて、イギリス経由になったから。つまりイギリスで小麦粉混入というクレオールが怒り、それが日本に入ってきた。そこで米はジャポニカ米になり、辛さが抜かれ、ジャガイモがボコボコ入りというスタイルがインスタントルーの普及(ハウス・バーモントカレー!)で定着したというわけだ。

クレオールのクレオールというのもある

ちなみにタイとの関係ではトムヤムラーメンというのもある。これは、タイのスープ・トムヤムクンのスープに麺を加えたもの。東京のタイ料理店・ティーヌンが創作したものだ。でも、それが定着し、そして今ではタイでもトムヤムラーメンが売られている(カップ麺もある)という逆輸入状態。つまりクレオールのクレオールになっている。

で、宮崎においても、要するにインド料理屋の料理人は宮崎人の味覚に合わせてインドカレーをクレオール化したわけなのだけれど。

クレオール化を一切拒否したら、宮崎という田舎で定着してしまった!

さて、話は件の宮崎のタイ料理屋に戻る。僕がご主人に「こんな本格的な料理ではダメ」とコメントしたのは、まさにこのクレオール的立ち位置からなわけなんだけれど……ところがご主人は、その後も味を宮崎ふうにアレンジすることなどほとんどなく、さらに”タイ密度”を高めていくという”逆ベクトル”で店を展開していった。そして、なんと、意外なことに、それが功を奏し、何件かある宮崎のタイ料理店でも一番人気の店になってしまったのだ。つまり、僕の予想は全くのハズレ。では、この店に来る客をどういうふうに理解すればいいのだろうか?

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