
Paul Bley"Open to Love"
1曲目"Ida Lupino"
三十年以上聴き続けているアルバム
このアルバムはとっても不思議だ。まあ俗っぽく表現してみれば「つかみどころがない」。いわゆる「リリシズム」的で感情的なサウンドにも、全く冷静な冷たいサウンドにも聴こえる。いや、場合によっては狂気のようにすら感じないこともない。曲はゆっくりとしたテンポだが、あまりメロディアスではない。叙情的になるかと思えば突然その叙情をぶった切ってしまうようなパッセージが登場したり、プリペアド・ピアノ(ピアノを鍵盤以外の部分で演奏する技法。弦を直接弾いたり、弦の上に食器を置いて音を歪曲させたり、打楽器としてピアノの側面を手で叩いたりする。このアルバムで用いられているこの技法は、きわめて自然で違和感がない)をやってみたり。こうなると、70年前後に流行したフリージャズのように思えるのだが、フリージャズのような無調にすらならない。どのカテゴリーにも属さないピアノ演奏なのだ。そして透明度が非常に高い。にもかかわらず結構不協和音を多用する……ってなわけで、やっぱり、わからない。
実際、いま聴いてみても、やっぱりわけがわかんないんだけど、ところが何百回(千回超えているな、多分)も聞き込んでいるうちに、もう自分の環境の一部のようになってしまっていて、まるで歯磨きするとか、酒飲むとかという感じでこのアルバムをかけるようになっている。いわば”中毒”。で、どんなシチュエーションでも(うれしかろうが、悲しかろうが、退屈だろうが)だいたい聴けるようになってしまったという奇妙な作品でもある。
とはいうものの、こちらはメディア論・記号論の研究者でもあるので、わからないままに済ますなんて言うのは癪という、ヘンなプライドが邪魔をする。で、今回はこれをメディア論的な視点から分析してやろうと思う。
ECMの異端
ドイツのジャズレーベルECM
ドイツのレーベルにECMがある。69年にマンフレード・アイヒャーが設立したコンテンポラリー・ジャズ・レーベルで、その独特の編集方針、どうみてもヨーロッパ的な音にしかならないというやり方で唯我独尊のサウンドを奏でてきた。最も活動が活発だったのは70年代でアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、エグベルト・ジスモンチ、ゲイリー・バートン、パット・メセニー、ポール・モチアン、ケニー・ホイラー、ラルフ・ターナーなんてミュージシャンを抱えていた。スタープレイヤーはキース・ジャレットで、例の代表作「ケルン・コンサート」なんかもここから発売されている(キースは現在もECM所属)。
ECMの音は独特。なぜかアイヒャーは録音の全てにエコーをかけるのだ。だからサウンドは、いうならば朝ぼらけ、朝の霧、朝の霞みたいなボヤーッとしたイメージが全般に漂うことになる(朝聴く音楽にはグッド)。前述の「ケルン・コンサート」などはその典型で、これ自体はライブなのだけれど、なんかエコーがかかっている(だから、演奏後の拍手がもの凄く不自然。夕立の雨音がブリキの屋根に当たった音のように聞こえる)。
当時、このサウンドには当時賛否両論が渦巻いた(キースのファーストソロ・アルバム「フェイシング・ユー」のピアノの音はヘタするとチェンバロのようにすら聞こえる(こりゃ、失敗のたぐいだろう))のだが、とにかく、これが結果として「ECMの音」というのを作り上げていた。
で、このエフェクトが「Open to Love」にもかけられているのだけど、そんなことはどうでもイイくらい、この音はある意味ECMのサウンドからはちょっと外れているという感じがする。言い換えればそれくらい、ここでのブレイのサウンドは個性が強いのだ。エコーがかけられたECMのサウンドは得てして叙情的。前述したキースなどは演奏も感情的だし、実際演奏中にエクスタシーを感じてしまい、ネズミがひき殺された瞬間のようなうなり声を立てながら演奏しているほど(このうなり声はきわめて評判が悪い)。
一方、「Open to Love」はその対極にある。ある意味「素っ気ない」。だからエコーが感情を引き立てるという風なECM効果には全くなっていない(ただし、激情的でもあるという矛盾したところも持っているのでややこしい、そしてわけがわからないのだけれど)。
しかしメディア論的に分析してみると、ブレイのこのアルバムは、きわめて「詩的」な魅力に満ちている。そして、ある意味、クラッシックと現代音楽が追究してきた、そしてモダンアートが追究してきた「美」の有り様とその伝統を共有するものでもある。では、それはなにか?(続く)