勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年04月

台湾とロタ島に共通すること

台湾とロタ島。東日本大震災に際し、思いもしなかったこの二つの地域からの多大なるオファー。でも、何でこんな「人のいいこと」をやってくれるんだろうか?実は、これにはちゃんとした”いわれ”がある。

二つの地域には日本に対する共通の思いがある。それはロタ市長が「今こそ恩を返すとき」とコメントしたように、日本には借りがあると考えていることだ。しかも、それは六十年以上も前に遡る。

戦前、日本がまだ大日本帝国であった時代。日本は大東亜共栄圏を掲げて、東南アジア各地へと進出していった。歴史的にわかりやすいのは中国への進出で、これはやがて満州国という国家を建設するにまで至る。だがこれは戦後、1億総懺悔の一環として「悪しきこと」として取り扱われ、「進出ではなく侵略」といったような国家の歴史を巡る政治的論争が繰り広げられるようになる。そして満州国は「傀儡国」と定義づけられた。

この時、台湾は日本に併合され、日本は宗主国となった。またロタも同様で大日本帝国の支配下に置かれた。当然、戦後、こちらも1億総懺悔の脈絡で「日本が植民地支配という罪深き行為を犯した場所」として位置づけられたのだ。

ところが、この二つの国は、戦前における大日本帝国の支配に対して「恩」を感じているのだ。(加えて台湾の場合、発生した地震、水害の際に日本が経済的、そして人的な援助を積極的に行っていることへの恩も感じている)。

では、戦前、大日本帝国は何をしたのかといえば、それは未整備だったこれら地域の近代化だった。南洋庁を設置。その指導の下、これら地域の都市を計画的に建設し、法制度を整え、医療環境、教育環境を作り上げ、社会に必要とされるインフラを次々と構築した(そして南洋庁の理念には、これら地域の人々を日本人と全く同様に扱う、つまり植民地とはしないと謳っていた)。その結果、この地域は未曾有の繁栄を遂げた。このことをよく思っているわけで、実際、70歳過ぎの住民の多くが日本語を喋れたり、あるいは子供に日本語名を命名したりしている。そしてロタ、そして台湾はこういった日本の「善意」に対し「今こそ恩を返すべき」と、こういった法外な支援に乗り出したのだ。

中国東北地方=満州も恩恵を受けている

ちなみに、同様なことが、大日本帝国を「悪の国家」と評価する際、しばしばその行為の象徴とされた満州国の建設にも該当する。ここでも、満州国で働いた日本人の多くは「大東亜共栄圏」、つまり欧米に虐げられ続ける東南アジアが自立し、欧米に対抗することが可能なアジア文化圏、経済圏を作ろうという希望に燃えていた。だが、戦後、やはり1億総懺悔の文脈の中、満州国を統治する日本軍や派遣された政府の役人は、ひたすら満州を傀儡とみなし、漢民族を奴隷のように扱っていたという文脈で語られることになる(もちろん、ベタに、漢民族を蔑んで扱っていた日本人がいたことも確かだが、それらをもって当時の人間を一元的に捉えることは明らかに間違っている)。当然、中国東北地方に行って七十過ぎの人間たちに直接当時の話を聞けば、ロタや台湾の人たちと同じようなコメントが帰ってくることは予想に難くはないだろう。

しかし、こういった「事実」は、ここまで何回も書いてきた「1億総懺悔」というイデオロギーの下、全て隠蔽されてしまった。だから、僕たちは台湾やロタ島が法外な義援金のオファーを申し出てきたことが「不可思議な事態」に映るのだ。でも、実はそうではない。これは戦前、日本人、そして悪の権化とされた「大日本帝国」とそのイデオロギー「大東亜共栄圏」が行った、いわば“善行の貯金”。これが満期になって還付されただけなのだ。

だから、不可思議なのは法外な義援金をオファーしてきた彼らではなく、実は不可思議に思っている僕たちの方なのでは無かろうか。そして、ここにメディアの功罪が横たわっているのだが……。(続く)

台湾の震災義援金が150億、極小島ロタが200人の被災者受け入れ

今回の東日本大震災に際し、その惨状がメディアを通じて世界に報道され、様々な支援の手がさしのべられている。とりわけ、注目すべきは台湾とロタ島だ。

日本人以上に義援金を出している台湾人

台湾で官民あわせて集められた義援金は4月末で150億円を超えている。この額はアメリカを凌駕し、さらに韓国とでは桁一つ、中国とでは二つ違っている。で、この金額がどれだけスゴいのかは、日本人がこれと同額レベルの義援金を提供したらどうなるかということをシミュレーションしてみるとわかりやすい。

まず、台湾の義援金を150億円としよう。台湾の人口は2000万。ということは150億÷2000万で一人あたりの義援金は750円だ。だが日本と台湾では所得格差が2.5倍ほどある。ということは750円×2.5で、日本人が一人およそ1900円程度を提供したことになるのだ。阪神淡路大震災の際、集められた義援金の総額は1800億弱。これを一人アタマで計算すれば1800÷1.35で一人1300円強。これと同等のレベルの義援金を東日本大震災で日本人が提供したとしても、実質的には台湾人の方が義援金を出している計算になるのだ。スゴイ!

にもかかわらず、日本政府は義援金などの支援をしてくれた諸国へのお礼のメッセージの中に台湾を加えなかった。これは、まあ台湾という国家の世界での扱いの問題(つまり中国なのか、そうでないのか。中華人民共和国、中華民国どっちが中国なのかという古~い問題)への配慮が背後にあるのだろうけれど、そんなこといっている場合か?はっきり言って日本政府はバカである。

人口の6%に相当する被災者の受け入れオファーを出したロタ島

もう一つはロタ島。ここのロタ市の市長が被災者200名のオファーを申し出たのだ。200人程度で、だからどうなんだ?とツッコミを入れたくなるかもしれない。しかしそうではないのだ。ロタ島の人口は3300人。だから収容した瞬間、人口が6%増加するという、小さな島としては巨大な規模の受け入れになる。その費用は並大抵ではない。市長はこのオファーについて「今こそ恩を返すとき」というコメントをしている。これもチョー太っ腹というか、本当にスゴイ。ところが、ロタ島を訪れる日本人は年間5000人。まあ、ちょいと交通の便が悪いということもあるのだろうけど、こんなに日本のことを思ってくれる人たちのところ、そして海がキレイでダイビング・パラダイスのロタに日本人がこれっぽっちしか行かないなんて、はっきり言って日本人はバカである。

多大なる支援をしてくれる地域のこの思いと、それらの地域への日本人の無視のギャップ、これはいったい何なんだろう。当然ながら、そこにはメディアというフィルターが介在していると考えなければならない。今回は、これについて考えてみよう。(続く)

透明な人間関係

ザッカーバーグが最終的な目的としているのはこういった情報化によって作られてしまった、プライバシーという固い壁による人間疎外を解体する新しい人間関係の構築だ。そして、それを彼は「透明化」という言葉で表現している。つまり、互いを開示し、都合のよいことも悪いことも全部さらけ出してしまうことで、自らを武装することができなくなる。その結果、人々は正直に関わり合わざるを得なくなり、また相互の不都合を受け入れざるを得なくなる。だが、僕たちがこういった「透明化」へとパースペクティブを向けた瞬間、 これまでは「ウザい」ものだったものが、もっとリアルなコミュニケーションを誕生させる「よきもの」へと反転する。リアルとヴァーチャルが往還することでコミュニケーションが活性化し、やがてリアルとヴァーチャルという分節が誘拐していくような深みのある関わりが誕生するのだ。

苦いものを口にすることの重要性

ザッカーバーグの「透明化」という考え、そしてそのプロセスは、味覚の発達をメタファーにするとわかりやすい。子供は熱いもの、辛いもの、苦いものが食べられない。刺激が強すぎるからだ。だが、その子供も年齢を重ねるうちに、やがて徐々にこういったものに手を出し、味覚の幅を広げていく。そして、こういったものへの挑戦は保守的な感覚への挑戦という意味合いを含んでいる。

こういった受け入れ難い味覚への挑戦を行わなければ、嫌な思いをしないで済むが、反面、いつまでたっても味覚は限定された範囲にとどまる。つまり、甘いものだけを食べ続けているようでは、味覚世界は広がらない。

もうおわかりだろう。この味覚が人間関係のメタファーであることが。つまり熱さ、苦さ、辛さは人間関係における「うざったさ」「ほだし」を引き受けること、プライバシーを開示することを意味している。それは苦痛やガマンを伴うものだ。だが、そうすることで味覚ならぬ、人間関係の幅が広がるというわけだ。Facebookを用いて、こうやって透明化、人間関係のガラス張り化を進める中で、われわれはもっと関わり合うようになり、互いの中に様々なものを見つけ、さらに他者の中に自分を発見し、他者を自分の一部として受け入れる。自分にとって自分が好きな存在である同時に、嫌いな存在であるというのと同じ感覚で。つまり、他者が自分のように思えるようになり、他者を大切にしよう、掛け替えのない存在として捉えようとするモチベーションが働くようになる。

親密と信頼

これを、僕たちは一般的に「信頼」と呼ぶ。一方、人がただ集まってさりげない話をしているのは「親密」と呼ぶ。親密は、コミュニケーションを交わす相手との間に「よい感じ」を生むが、反面、内面を開示しない限り、そのコミュニケーションは儀礼的なものにとどまる。それは、コミュニケーションのための作法が展開するだけだ。ところが信頼はそうではない。「信頼」は、言葉を分解すれば「互いを”信”じて”頼”りあうということになる。親密は信頼を生むための入り口にはなるが、互いを頼ったり信じたりすることには必ずしも直結しない。そう、信頼できるためには互いの内面をさらけ出さなければならない、つまり相手を「信」用しなければならないからだ。Facebookはその内面をさらけ出させるツールに他ならない。

もちろん、生身でさらけ出すのと同じものというのは言い過ぎになるだろうが、Facebookは、少なくとも電子メディアのSNSが信頼を取り結ぶための契機を作り出すことについては、一歩前進させることに成功している。そのことだけは確かだろう。

今後、Facebookはさらにそのユーザーを増やしていくことは間違いない。そして、個の広がりが、実はプライバシー防衛からプライバシー開示へと人々の嗜好を広げていくという可能性は十分に考えられる。もし、そうなるとするならばFacebookは僕たちのコミュニケーションを根底から変更することになるのかもしれない。

ミーイズムの徹底がもたらしたもの


Facebookの普及は、情報化、電子メディア化が進んだ必然的結果と僕は考える。しかも、その必然は情報化がある程度徹底された後に発生する反転としての結果とであると。

情報化が推し進める私化、ミーイズム化(個人の欲望を公共の利益に優先させる心性)によって個別化、原子化が進んだ結果、その少人数の間の関係すら全人格的ではなくなり、どんどんと断片化していった。そして、そういった関わり合いを「ウザい」ものとして感じ始めるようになっていった。さらに、ミーイズムを最大化するためにとられた戦略が「プライバシー」を最優先する考え方だった。つまり「わがまま勝手を確保するために、他人からの干渉を排除する」。

だが、こういった個別化、原子化の先に必然的に生じたのが「孤立化」という事態に他ならない。人々はプライバシー保護で徹底武装した結果、他者との関わりを限定化させ、オタクになり、関わる場所、依拠すべき場所を失うようになる。そんなとき、こういった「わがまま勝手にしていても、寂しくない」ということを可能にするツールが生み出された。そして、それらは「ミュニケーションの間にメディアを挿入する」という点で共通していた。一連のオタク的な趣味、ケータイ、カラオケ、2ちゃんねる、Twitter、そしてmixi。これらはその先に他者を想定しているのだけれど、メディアというフィルターを通すことで、他者を「ウザったくない」ものにする、つまりコントロール可能にする機能を有していた。

しかし、それは言い換えれば、常に自分が主役であり、またフィルターによって関係を間接化しているという点に関しては代わるところがない。つまり「ウザったくはない」が「寂しさを完全に払拭することができない」。そして相互のインタラクションが断片化、限定化される。こういったコミュニケーション間接化のメディアの偏在化によって、人々はますます孤立化していくことになった。

ミーイズムの徹底とその反転

だが、それが極限まで進んだときに状況は反転、逆転現象が生じる。つまり「ウザいこと」のありがたさを感じるようになる。「ウザい」、つまり「うっとうしい」という関係は「ほだし」の関係。だが、その相互の自由の拘束が、翻って互いの信頼とコミュニケーションの活性化を生む。つまり相手のうっとうしさを受け入れると同時に、その返礼として自分のうっとうしさを受け入れさせる。それは要するにお互いのプライバシーを開示することが前提されることに他ならない。そして、これを受け入れ、うっとうしさをガマンすると、こんどは「絆」という、寂しさを完全払拭する親密性が生まれる。

そう、Facebookはこういった「ほだし」と「絆」を約束するツール。情報化によって断片化した関係をつなぎ合わせるメディアに他ならないのだ。言い換えれば2ちゃんねるが登場し、オタク文化が蔓延し、Twitterが普及したこととの合わせ鏡でFacebookが登場した。そして、それは情報化時代、ポストモダンの時代の新しい人間関係のあり方を提示しているということになるんではなかろうか?だからFacebookはmixiやTwitterよりも一つ先を行っているのだ。

Facebookはなぜ6億もの人間を引きつけるのか

Facebookが6億というユーザーを抱え、さらに増殖しつつあることの理由として、しばしば指摘されるのが、実名で互いを認知することで、知り合いが世界大に広がること。また、相互に情報開示することによって、膨大なデータベースがFacebook上に蓄積されるのだが、これを利用することで大きなビジネスチャンスが生まれることだ(ソーシャル・プラグインの影響が強い)。

もちろん、これは事実だろう。ただし、僕はこの二つのとらえ方に少々疑問を持っている。とりわけ前者については。

後者については、ライフログ的なデータを蓄積している守株のサービス(ユーザーがアクセスした内容がサーバーに蓄積され、それらを解析した後、ユーザーに対してそのデータを返してくるサービス。Amazonのオススメなどがその典型で、こちらが欲しそうな新作や関連する商品を提示してくる)の同一線上にあるのでFacebook独自の機能とは言い難い。潜在的にはもっともデータベースを蓄積する可能性があることも確かではあるけれど。そして、このようなビジネス的な使い方はザッカーバーグの本意ではない(ザッカーバーグは、ユーザーの意図はともかく、Facebookが商業ベースで利用されることを望んでいない)。

Facebookは地球大の「島宇宙」を形成する

しかし、もっと疑問なのはFacebookが6億の人間を結びつけるという考え方だ。というのも、Facebookのユーザーのほとんどは、実は僕が今回の実験でやったのと同じ使用方法だからだ。つまり、既存のネットワークの活性化といった利用方法。この便利さ、気軽さは今回報告した通りだ。気心の知れた連中同士でグループを作れば、もの凄い勢いでコミュニケーションが活性化する(そして、逆はそうでもない)。それは、言い換えれば6億の人間が繋がっているのではなく、既存のグループの紐帯を高めるという機能が受け入れられたことに他ならない。人というのは得てして保守的だ。そんなに簡単にコミュニケーションのネットワークを押し広げるようなことはできない(これは技術決定論、つまり”新しいメディアが出現するときにその技術が人間の行動・思考様式を変容させてしまう”という考え方がしばしば陥る罠だ)。関わっているのは案外、少数の人間に限定される。そして、こういったタコツボ的な島宇宙を創る集団が6億人存在するということなのだ。

日本ではFacebookというとビジネス・ユースというイメージが強い。またFacebookの解説本なども”どうやってビジネスに用いるか”といったようなコンテンツが含まれていることが多いが、これは日本でのFacebookの普及が現状では人口の3%程度でしかない過渡期の状態だからだろう。人口の半分がユーザーであるアメリカやカナダは、もうとっくに、こういった島宇宙的な利用が主流だ。つまり、一般人がフツーに使用している。このことはFacebookが商業用のツールというより、ケータイや郵便といったコミュニケーションツールの仲間と考えたときには納得がいく。僕たちは、こういったコミュニケーション・メディアをあたりまえのように利用している。もちろんその利用法についてはビジネス・ユース的な側面もあるが、一般的な利用はプライベートなそれだ(じゃなけりゃ、子供や若者がケータイを常に携帯するということはあり得ない。子供までがビジネスマンになってしまうわけで(^_^;))Facebookはそういったツールの一つなのだ。

で、こういったFacebookの機能が歓迎されたのは、実は情報化、電子メディア化が進んだ必然的結果とも言える。しかも、極限まで進んだ上での反転としての。それは何か?(続く)

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