勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年03月

国際レベルでのマナーを絶対的な側面から評価すると

前回まではマナーが相対的に決定されると言うこと。ただし、特定の文化内においてマナーは絶対性が存在することの2つを指摘しておいた。つまりマナーは文化によって様々で、その内容や項目では優劣をつけられないが、当該文化によって形成されているマナーを遵守しているかどうかについては、その優劣をつけることができる。だから、その絶対性においてポルトガル人は現在の日本人よりマナーのレベルが高いのだと。

ただし、これだと評判の悪い中国人もまたマナーの優れた人々になってしまう。これは、ちとおかしいのではないか……。

だが、絶対的なマナーは2つあると捉えると、この矛盾は解決する。対内的なそれと対外的なそれだ。中国人は前者はきちんとしているが、後者はダメなのではないか?

中国人の海外でのマナーの悪さには定評がある。僕は、世界で唯一香港のディズニーランドを訪れていないのだけれど、その理由の1つには「あそこに行くと中国本土の人間がわんさかやって、マナー無視でやりたい放題のことをやっているので、うんざりする」といううわさをあっちこっちで耳にしているからだ。そして、これは僕の体験だけれど、海外に出かけ、ホテルなどに宿泊すると、トラブルの元凶となっているのは必ずといっていいほど中国人(そして韓国人)。だから、この噂を、結構、真に受けている。さて、僕の見方が正しいとすると、今度は国際レベル、つまり対外的レベルでマナーというのは絶対性が存在することが解る。

その絶対性とは、要するに「自らの文化が相対的でしかないことをよく認識し、異文化を訪れたときには“郷に入れば郷に従え”という姿勢をもって、異文化のマナー=コードを尊重する度合い」ということになる。そして、こういったユニバーサルなレベルでマナーを絶対的視点から捉えた場合、やはり中国人、そして韓国人のマナーはよろしくないと言うことになるのだろう。

では、今回、取り上げたポルトガル人はどうだろう?多分、彼らは海外に出たら、自分のマナーを押し通すことはなく、現地のマナーに従うのでは無かろうか。というのも、以前の特集でも取り上げたのだけれど、ポルトガル人の性格は「個として個人を尊重する」。そして、それは言い換えれば他者の尊重を第一にすることでもある。これは 現在、日本に蔓延するミーイズム的な、自己中心的な個人主義に基づく個とは、もちろん異なる。この精神が通底しているので、海外に出れば、海外の文化・海外の他者を尊重するのではと僕は考えるのだ。

そう考えれば、ポルトガル人のマナーはきわめて優秀と言うことに結論されるのでは無かろうか。

マナーの絶対性と絶対主義

さて、こういったマナーが遵守される社会は、しばしば「絶対主義」とか「独裁主義」と批判されることがある。つまり、行動パターンが政治的に規定されていて、これに反する場合は罰則が待っているという社会だ。そしてこのような「拘束」によって、人々はその規定を遵守し、それが結果として一枚岩的な行動をもたらし、社会は統制のとれたものとなって、ゴミも落ちていなければ、犯罪も発生しないという状態になる。たとえば、その典型は北朝鮮だろう。実際、北朝鮮を訪れた人間の多くが、メディア的に媒介されている北朝鮮のイメージとは全く異なることに驚くという。北朝鮮の人たちは統制が取れていて、しかも訪問した外国人に対して、とても親切にしてくれるらしい。これはポルトガル人と同じではないか?

強制されたマナーと自発的なマナー

「絶対主義」的な国家とポルトガルは根本的に異なる点が一点ある。それは、こういったマナーに関するコードをトップダウンで政治的に強制され、受動的に行っているのか、それとも自発的にやっているのかというところに求められる。当然、かつての独裁国家や現在の北朝鮮は前者、後者が「個の尊重」を絶対とするポルトガルということになる。ポルトガルは「マナーを守ることが、国民的に自覚されている」のだ。GNH(国民総幸福量)の高い国家も、おそらく同様では無かろうか。(続く)


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ポルトガル。リスボン下町、ケルースにある大衆レストラン。おしゃべりでもの凄く騒がしい。婆さんたちも話に花が咲く。そして、この賑わいが食欲をいっそうかき立てる。


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プラットホームで二人で仲良くiPodを聴く。


マナーの相対性

前回、ポルトガル人は僕ら日本人から見るとマナーがないというものと、ものすごくマナーがあると思われるものという、相反するマナーが共存することを指摘しておいた。しかし、この「矛盾」はマナーが相対的に決定されていることを踏まえると見えてくる。つまり、マナー~あるいは礼儀とかエチケットとか言い換えても良いかもしれないが~これは文化のコードによって決定されているのだ。

いくつか例を挙げてみよう。たとえば、可愛い子供のアタマを撫でること。日本では、これはある意味、親密な状況を作り出す手段だが、タイでは御法度だ。アタマは神聖なものなので、触れてはいけないと「文化的コード」によって規定されているからだ。麺を食べるとき音を立てるというのも、マナーの違いを示す典型例だ。日本人はそば・ラーメン・うどんを食べるとき、ズルズルと音を立てる。そして、その音がかえって他人の食欲をそそる。一方、欧米圏でこれをやったら「下品」だ。その逆もある。ポルトガルの挨拶はハグだ。そして頬と頬をくっつける。しかも男女にかかわらず。だが、もしこれを日本人がやったら、相手が異性だったらセクハラ、同性だったら同性愛者ということになってしまう(ちなみに、タレント・映画評論家のおすぎは、性別にかかわらず、相手をハグしているが、見ている僕ら視聴者は、これを全く自然なものと捉え、違和感を感じない。それはおすぎが”性別”という、僕らが一般的に持っている文節=コードを中和させた存在、言い換えれば、おすぎが同性愛者というコードを備えている存在とみなされているからだ)。

ということは、前回に列挙した日本だったらマナーに反することが、ポルトガルではコードとして規定されていない、だからマナー違反ではないというふうに理解できるのだ。

マナーの絶対性

しかし、こうやってマナーを相対化してしまうと、どこの国のマナーがよくて、どこの国がそうでないのかが解らなくなってしまうことになる。つまり「いろいろ、さまざまだから」ということで、話が落ち着いてしまう。でも、果たしてそうだろうか。

僕は次のように考える。”マナーというのは相対的で国家・文化によって違うけれどマナーの良さ、悪さというのはちゃんと存在する”。言い換えると、マナーの善し悪しには絶対的な基準があるとみなすのだ。そして、ポルトガルという国は現在の日本に比べるとはるかにマナーが優れていると考える。

じゃあ、その基準はどこに求められるのか。それは”当該文化で規定されているマナーの遵守度””コードの拘束力の強さ”ということになるだろう。つまりポルトガルだったら、たとえば、道でクルマが横断歩道を渡る歩行者を見たら車を停止させて、渡るのを優先させるという行為がポルトガル人たちに徹底されている、その度合いが、マナーの良さを測定する客観的基準になる。

ポルトガルは、このマナーをドライバーのほとんどが遵守するのだ。信じられないくらい。一方の日本。こちらの場合はどうだろう。車内でのケータイ使用はやめましょう、お年寄りには席を譲りましょうというマナーが日本には存在する。ところが、これを守らない人間はわんさかいるわけで(しかも、この割合は年々増加しているようにすら思える)。ポルトガル人たちのほとんどは、 様々なマナーに対して、 これを守る、というか同じ行動をする。だからマナーの良さはポルトガル>日本という図式が、多くの場合においてあてはまると僕は考えたのだ。

中国人も、実はマナーがいい?

こうやって考えてみると、マナーの悪さで定評のある中国人もまた、必ずしも僕らが考えているほどマナーが悪くないのかもしれない。つまり道に痰を吐く、列を守らないというのが中国人のマナーの中に含まれていなければ、そんなことには中国人は一切気にしないわけで。そしてその一方では、中国人たちには中国人たちのマナーがあって、それは遵守されているということも考えられるのだ。そういえば、僕の教え子に中国人留学生がいるけれど、彼は日本人の学生に比べると、僕に対してものすごく礼儀正しい。これは、僕が「先生」であり、中国には「生徒にとって先生は絶対的な存在」という認識があるからだと、彼から説明を受けた。つまり上下関係を遵守するのマナー(この場合、慣習・因襲)=コードは徹底的に重視されている。

……いや、待て!そうはいっても、マナーの絶対性については、もうちょっと考えてみる必要があるだろう。やっぱり中国人たち(韓国人もそうだが)の海外でのマナーの悪さは世界的に知られていることなのだから(続く)


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ホームに寝そべってDSと格闘中!


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歩道は子供のサッカー場だ


全くダメなもの一覧

ポルトガル人は日本の僕から見たら、全くマナー的にダメに見える行動がいくつかある。ちょっと挙げてみよう。

1.あっちこっちにクルマを勝手に路駐する。

2.歩きタバコをして、道ばたに投げる。

3.車内でケータイ電話をする。

4.ペットの糞をあちこちにさせたまま放置する。

5.バスや電車の発車時刻に人が乗り込んできて、乗り終わるまで発車しない。

6.次の人が待っているのに、ホテルや駅のカウンターでゆっくりと手続きを進める。

7.フロントが、ホテル客のリクエストに従って、サイトの情報を次々とカラープリントして差し出す。

8.子供が道端でサッカーに興じていて、通行人が避けて通らなければならない。

9.バス停で待っていた老人が、このアメの袋をあけろと、こちらに差し出した。

10.電車の中で、大声で話している。

11.見知らぬ人に平気で話しかける

誰も気にしていない

こんな状況が日常的にあったら、あたなたどう思うだろうか。おそらく耐えられないんじゃなかろうか。ところが、これ。全てポルトガルで僕が経験したことだ。

でも、僕が驚いたのは「こういったマナーの悪さ」についてじゃない。これらの行動をポルトガルの人たちは誰も咎めないどころか、一切、気にしていないことなのだ。つまり、これらは全て、ある意味許容されている。音があっちこっちに飛び交っていてうるさかろうが、タバコの煙が相手にかかろうが、子供が道路を塞ごうが、そんなことは全くどうでもよいことのように日常が進んでいくのである。

かといって、ポルトガル人たちはマナーが崩壊しているというわけでは、全くない。どのレストランに行っても、店の従業員はものすごく愛想がいいし、なんにも知らない日本人客の僕が「ウマイものをくれ」と、わけのわからないことを言っても、本当にウマイものを出してくれるし、決してボラない。ボラないのはタクシーの運転手も同様だ。で、以前にも書いたように、駅で切符を買おうとすると、誰かがやってきて、代わりに操作してくれる(別に駅員というわけではなく、そのへんの市井の人たちだ)、道を渡ろうとすると、たとえ信号が赤でもクルマは停車し、歩行者を通してくれる。クルマの渋滞道路への進入は、必ず一台おき。というふうに、日本人よりもマナーに関してははるかに上なのだ。治安も最高。夜中ぶらぶら歩いても暴漢に襲われるなんて事は期待薄。”この人たちは、なんて人がいいんだろう?”と思わないではいられないほどの人の良さなのだ。

ポルトガル人のマナーの悪さと、マナーの良さ。2つのコントラストはどう理解すればいいのだろうか。今回はマナーを巡っての文化論、そして文化の意味について考えてみたい。(続く)

「1億3000万人の総自粛モード」はマズい!

前回は東北関東大震災における「1億3000万人の総自粛モード化」が、結果として「1億3000万人の総KY化」によること、そしてこれが情報源のメディアへの一元化、いいかえればリアルなフェイス・ツウ・フェイスのコミュニケーションの減少に基づくことを指摘しておいた。で、過激な自粛モードが経済の不活性化を生み、それが最終的に震災者の救済を遅らせることも指摘しておいた。

ということは、この自粛モードがいつまでも続くことは、かなりマズいという結論に到達する。

そこで、僕は次のような提案をしてみたいと思う。ただし、さしあたり、これを始めるのは被災者の動向がある程度確定し、電力の供給状態を含めてライフライン全体が安定したあたりからだが。

義援金祭りを開始せよ!

まず「義援金祭り」を政府主導で開始することだ(これは、自粛モードを生み出している「メディアによる情報の一元化」というメカニズムを、そのまま逆利用してしまうと言う「悪」の戦略でもあるが……)。とにかく、ここは大同団結して、政府とメディアが一体になって義援金を募るためのさまざまなフェアを始める。たとえば民放全全体で「愛は地球を救う」みたいなことをやったりするのだ。そして、巨額の義援金を集める。たとえば数十兆円くらい集められないものだろうか。これは国民一人数十万円くらいになる。ちなみに、現在の日本人は一人アタマに換算したらこれくらい出す経済力は、実は余裕で、ある。とりわけ六十代以上が大量に金を持っていて、タンス貯金して使っていない(実際に、タンスに貯金しているというわけではない。カネが流通しない状態でどこかにキープしていると言うことの”たとえ”)。そして、実を言うと、こういった「タンス貯金」が多数派のために、日本はカネが回らず経済的に不活性な状態が続いているのだ(カネがないのにバンバン金を使う中国、韓国、タイは、だから経済的に活気づいている。言い換えれば日本人はケチということになる)。だから、この災害を”ダシ”に、年寄りたちからどんどんカネを供出してもらうのだ(もちろん、基本的に富裕層からだけれど)。

復興による特需を起こせ!

そして、この義援金を当然のことながら復興に割り当てる。当然、ものすごい経済効果が見込めるだろう。建設需要が高まって、あっという間に経済は活性化する。つまり、この災害というピンチを、一気にチャンスに変えてしまうのだ。被災者は昔の環境に戻ることが出来るとともに、様々な公共事業、住宅建設事業が活性化して、これでもって潤う人たちも出てくる。そう、災害を逆バネに災害地どころか、日本の復興すら夢でない状況が訪れる可能性があるのだ。

もちろん、お金を出してくれた人たちに、ただ「出してもらってくれてありがとう」で済ますことはしない。そのことを、未来永劫に讃える記念碑や会館などを建設する。また被災者と義援金提供者のコミュニケーションを図るためのコミュニティなどを用意し、今度は人間関係の活性化も図っていく(これはたとえばFacebookなんかが役に立つだろう)。これは、日本人が新しいコミュニケーションスタイルを構築するきっかけにもなり得る。

そして、この時、金儲けしてもらうことは、決して不謹慎なことではないこともハッキリと人々に認識させるべきなのだ。以前にも本ブログで取り上げたことがあるが(「伊達直人=タイガーマスク現象は自己満足、だからもっとやれ!(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/62494776.html)」)、日本人はボランティアと言うと「無私の精神」「見返りを期待しないこと」と勘違いしているフシがある。しかし本来ボランティアはそういうものではなく、言葉通り「自主的」「勝手に」やっていること。それが、他者に対する利益になるということにすぎない。そこに、自分の利益を含めてはいけない、それをするのは偽善だということは全くのマチガイだ。だから、他者の利益の見返りに自らの利益分を確保することは、結果としてWIN-WINの関係を構築すること。そして、こういった相互互恵も、僕たちの新しいコミュニケーションを生むきっかけになる。

で、こうすれば、亡くなられた人たちの魂も、多少なりとも浮かばれようというものではなかろうか。

一般人の僕らがすべきこと、それは「消費」

そのために僕らが被災者のために、具体的にすべきことは、ただ、彼らに義援金を渡すことにとどまらない。義援金を豊かなものにするため、被災者たちの経済状況を支援するために、僕らがやること。実は、それは”消費”だ。つまり、自粛しているのではなく、お金をバンバン使って、経済の活性化に寄与し、彼らに経済的な支援が可能となるような経済的土壌を用意することなのだ。

ということは、一通り事が落ち着いたら、僕らがやるべき事は、みんなでパーティやったり、ものを買ったりすると言うことに、結果としてなる。ちょっと、いい加減だが、あっちこっちで“がんばろう、日本”というパーティや飲み会をやり、消費活動をするとともに、その時、義援金を集めればどうだろう。パーティに出た人たちも楽しいし、被災者たちも直接、間接の二重に恩恵に預かることが出来る。

かつて911でアメリカの航空需要が逼迫したとき、時の大統領、J.ブッシュはこうぶち上げた。

「飛行機に乗ろう。みんなでディズニーランドへ行こう!」

ここで「飛行機」「ディズニーランド」は”消費”のメタファーとして扱われている。僕は、あの無能のブッシュが大統領在籍中に放った演説で、唯一評価できるのが、これだと思っている。

そういった意味では、ピンチこそ最大のチャンス。いま、こそ僕たちはパーティを始めるべき時に来ているのでは無かろうか(ただし、繰り返すが、あくまでも、もう少し先になってからだけれど)。

災害による各種の自粛モードに一言

今回の大災害で、現在各方面で「自粛」が行われている。メディアでこの自粛について物議を醸したのがセリーグの開幕の是非だったけれど、大学も、各地で卒業式の中止、入学式の中止、さらには新学期開始を遅らせるという措置がとられている。あっちこっちが「自粛モード」で、ちょっと「自粛祭り」っぽく見えないこともない(公共広告機構のCMには、正直、うんざりだ)。

で、最近、僕は「まあ、災害に遭われた方の気持ちを配慮すればやむ終えないかもしれないが、やり過ぎというのはどうだろうか?」と考えるようにもなってきた。というのも、この自粛モード、派手にやると、災害に遭われた方の首をむしろ絞めることになるのではないかと思ったからだ。

非常時における”二枚舌”の構造

もし、このまま日本人が自粛モードを続けていったらどうなるだろう?自粛なので、様々なも催しや事業が中止される。でも、それっていうのは結果として、経済活動の不活性化を生むことになる。だが、それは、ただでさえ景気が悪くて、やっとそこを脱しつつある日本経済を、さらに底割れの状態に持って行くことになる。ということは、日本の景気がどんどん悪くなるわけで、それは最終的に被災者の方々の救済に対する経済的な支援が難しくなると言うことを意味している。つまり、被災者の方々のことを考えつつ、延々と自粛モードを続けると、結果として、被災者の方々の首を絞めてしまうと言うパラドックスに陥ることになるのだ(もちろん、人の不幸を横目に見ながら、自分たちはよろしくやっているというのは、いかがなものかというのは、確かにあるけれど)。

こういった「いま不幸になっているのだから、自粛すべき」という状況での考え方には、かつてだったらオモテとウラの2つのとらえ方があったはずだ。オモテは、ベタに派手なことは慎むという態度。ウラは、だったら、よろしくやろうという場合には、極力表立っては解らないような形で、ウラでこっそりやろうという配慮。で、こういった二枚舌な対応は、結果として、被災者の方々への配慮を行いながらも、日本の経済の状況を正常に維持するという効果をもたらすわけで、結果として被災者の方々を二重に保護し、なおかつ日本経済の安定を保つというスタイビライザー的な機能を果たすことになっていた。


ところが、今回の自粛モードである。これをやらないヤツは人間じゃあない、みたいな雰囲気が蔓延し、このアンダーグラウンドで働く調整機能(社会学では、こういった社会的な働きのことを「潜在的機能」(R.K.マートン)と呼ぶ)が作動しなくなっている。

1億3000万人の総KY化?

もちろん、この二枚舌な感性を現在の日本人が失っていることも確か。たとえば、僕の大学では卒業式と記念パーティが中止になってしまい、それへの学生たちの対応として有志たちによって勝手に卒業パーティを催すことが企画されたのだけれど、これをあからさまにやってしまうと言う愚挙を犯してしまった。つまり、アンダーグラウンドで密かにやれば問題ないものを、ハッキリと表立ってやってしまったわけで、これは、いわゆる「空気読めてない」という状態になる。だから、結果として、学生たちは周囲から大バッシングを受けてしまった。

そして、今回の自粛モードは、明らかに僕の大学の学生たちの心性と同じだ。つまり、世の中にはオモテとウラがあって、それが顕在的、潜在的に機能することで、社会が成り立っていることについての認識を完全に失った結果、今回の「とにかく自粛しろ」というモードが展開していると判断できる。そして、このモードは、前述したように、日本経済と被災者の苦境をさらに悪いところに持ち込むことになってしまう。

これは、こういった二重三重の構造を無意識と意識の間で共有可能だった共同体のあった時代では可能だった。だが現在、人々は原子化し、行動の基準=リファレンスがメディア情報になっている。だから、このメディアの情報を国民のほとんどが鵜呑みにしてしまい、その結果、こういった自粛モード一元化=自粛モード祭りが起こっているのではないかと、僕は考えている。言い換えればメディア主導、メディア中心の情報行動による、日本人のコミュニケーション不全、「1億3000万人の総KY化」という事態が、こういった「自粛モード」の徹底を(あるいは自粛の「沈黙のらせん」N.ノイマン)もたらしている。

でも、やっぱり、これじゃあ、マズいんじゃないか?で、僕はちょっと提案したいのだ(続く)

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