勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年02月

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(東京中日スポーツの一面。優勝した安藤より浅田の背中の方が大きい)


四大陸選手権での安藤未来のメディアでの扱い

フィギュアスケート四大陸選手権女子で安藤美姫が優勝した。で、ここでの報道が実におもしろい。フジテレビの中継ではもっぱら浅田真央が映され、女王=浅田真央とその周辺という感じの報道のされ方だったのだ。もちろん、浅田が昨年優勝しているという点からすれば「女王」という名称は間違っていない。しかし、今シーズン浅田は絶不調、一方、安藤は絶好調で、どうみても日本の女子フィギュア界での女王の立場は逆転している。でも、そんなことはおかまいなしである。

これは、他メディアでも同様で、翌日のスポーツ新聞では安藤が二百点越えという快挙を果たしたにもかかわらず、一面を飾ったのが必ずも安藤ではなく浅田だったのだ。もっともすごかったのがスポーツ報知で一面全部が二位の浅田だったのだ(安藤は映っていない)。一方、面白かったのは東京中日スポーツで、確かに優勝した安藤が一面にデカデカと映し出されているのだが、そのシーンが浅田と抱擁する写真。安藤は浅田の後ろ姿に隠れて顔しか見えていない、一方で浅田の後ろ姿がバッチリというものだったのだ。

浅田は「浅田真央」ではなく「まおちゃん」だ

で、こういった「偏向報道」は、いうまでもなく浅田の人気が絶大であることに由来する。浅田真央という存在は僕たちオーディエンスにとっては「浅田真央」という生身の人間ではなく「まおちゃん」という記号的存在。その記号内容はといえば、日本国民の娘、日本国民の妹といったところになるのだろうか。オーディエンスがまるで彼女の庇護者のように発言や演技に一喜一憂する。一方、安藤は「ただのフィギュアスケート選手」。いや、場合よっては「したたかな女」という記号でさえもある。

ならばメディアとしては安藤を取り上げるよりは浅田、いや「まおちゃん」を取り上げる方が視聴率、発行部数を稼ぎ易い。いいかえれば、浅田は「まおちゃん」という虚像=記号を勝手にメディアによって付与されているわけで……ひょっとしたら彼女が不審からなかなか立ち直れないのは、この商品としての記号の重圧に押しつぶされているからかもしれない。つまり「まおちゃん」が「浅田真央」を苦しめている?

ちなみに、安藤は商品としては使えないので、今後勝ち続けたとしてもスルーされるだろう。でも、もし浅田が復活するとことがなかったならばメディアはどうすればいいのだろう?

実は、メディアは蒙古のことを考えて手を打っている。次の存在としての村上佳菜子をすでに準備しているからだ。しかもこれを浅田の継承者として、二人の親密な関係をクローズアップする形で。すでに、村上に対する報道が安藤よりも圧倒的に多いのはご存じだろう。こちらは「元気いっぱい」で「ノリノリ」の記号性あふれる存在。近々にも浅田の「まおちゃん」に相当するニックネームが与えられるはずだ。

浅田も安藤も、そして村上もメディアにとっては記号でしかない

で、実際に浅田が復活できないとすれば、メディアとしては、いわば「賞味期限切れ」。とっととポイして、晴れて村上に乗り換えるというわけだ。しかも、村上には「まおちゃん」の財産を全部継承させるという手続きを取って。そして、安藤はやっぱり注目されないわけで(そういえば、最近、安藤にはニックネームの「ミキティ」という表現が使われなくなっているなあ)。

つまりメディアは注目すべき記号として浅田を執拗に持ち上げ、一方で注目すべきではない記号として安藤を執拗に取り扱わない。メディアにとって必要なのは浅田、安藤本人ではなく、彼女たちに付与された記号性なのだ。そして、これはもちろん、村上も例外ではないのである。

メディアが決して伝えない報道の部分、しかもよく見りゃ一目瞭然のそれについて考えている。今回は最終回。またぞろその例をいくつか挙げていくともに、こういった部分に目をつけることの御利益について考えてみる。

犯罪の被害者の葬式をテレビのニュースで報道すること

近年、殺人事件などで殺害されたり、自己・天災などに巻き込まれて死亡した被害者の葬式がニュースなどで頻繁に報道されるようになった。報道は、事件性とか、視聴者がこれに関連するとか(安全性や、事件に関わった中に知り合いがいるなど)が報道するための基本。ところがこれ、つまり葬式って、事件性などほとんどないものだし、たんなるヒマ人の視聴者の涙を誘う効果しかない。これは死亡したわけではないが、かつて新潟地震で救い出された幼児が病院で元気になった様子が十分にわたってニュースで報道されたことがある。しかも、これはNHKの七時のニュースだった。要はヒマ人の涙を誘うことがビジネスに繋がる、しかも確実に映像が取れるというお手軽取材が可能と言う(葬式は、そこに行けば確実に執り行われているのだから)わけでやっているわけだ。


叶姉妹の過去と素性

叶姉妹はミステリアスなタレントだ。女優でもないし、モデルでもないし、もちろん解説者でもない。年齢すら不詳である。しかし姉妹であちこちに出演している。では、彼女たちの生い立ちとか素性とかといったものはいったい?……全然解らないのだ。おもしろいのは、実は解らないのではなくて報道されないことだ。テレビは叶姉妹のフライバシーに一切触れることがない。言い換えれば、加納姉妹はテレビに出ている生身の女性二人とは関係なくメディア的に構築された「加納姉妹」という記号として機能しているわけだ。そして、そういった記号的存在を演出しているのが、彼らを起用しているメディアに他ならない。つまり彼女たちがミステリアスであるのは、メディア的にそのような役割が振られていて、そういったことでビジネスが成立するからなのだ。当然、二人の背後では芸能界の政治力学が働いているんだろう。そして、そのこと触れるのもまた、もちろんタブーだ。

メディア・リテラシーを養うために

さて、ここまで、いくつかのメディアが決して言わないことについて触れてきた。僕は、こういった「偏向報道」を必ずしも否定しない。というか結局報道というのはそういうものだと思っている。よく表現されることに「報道はナマの情報を伝える」というのがあるが、こういった楽観的なジャーナリズムのとらえ方こそが間違いなのだ。

報道では、かならず取材、カメラ、そして編集を通して素材が加工され、演出が施される。どこがポイントとして抽出されるのかは、あくまで任意でしかない。ということは、報道は「客観報道」など無くて、すべてが「偏向報道」と捉えるべきなのだ。

だから、こういった報道は事実の一部を、取材する側が編集したものとまず捉え、こちらとしては、編集側の立ち位置を相対化したかたちで情報を受容する必要がある。ただし、それもまたもちろん、今度はそれらの編集をこちら側、つまり僕ら側が恣意的に解釈するわけで、ということは相対化して受け入れた情報も、僕らによる「偏向報道」として立ち現れるのだ。だから、僕らとしては、こういった報道についてやぶにらみな見方をする必要があると同時に、自らの視点もやはりあまたある視点でしかないと相対化する必要がある(これは哲学では「反証可能性の許容」と言う)。

でも、こうやって、メディアが決して言わないところに目をつけるのは、そういった情報を相対的に捉えるための入り口になる。つまり僕らのメディア・リテラシーを養う格好の材料となる。要するに、こういった所に目をつけることが出来れば、それらの報道は「反面教師」として取っても役に立つというわけだ。

あなたも「メディアが決して言わないところ」に目をつけてみては、いかがだろうか?

メディアが決して伝えない報道の部分、しかもよく見りゃ一目瞭然のそれについて考えている。今回もその例をいくつか挙げていく

オウム真理教信者のプライバシー保護

95年に地下鉄サリン事件などで日本中を恐怖に陥れたオウム真理教。現在はAlephと名称を変更して活動を続けているが、この信者たちに対する人々のバッシングが延々と続いている。開祖・朝原彰晃の家族が住居を移す際に、移住先の役所で住民票の受理を拒否されたとか、あるいは事務所の立ち退きを近隣住民が訴えているとかの報道が時折なされるのだが、この論調はすべて「こんな邪教の信者を受け入れるべきではない」「受け入れたらエラいことになる」と言った色調で彩られている。要するにメディアではオウム=Alephの人間はすべからく「悪」であり、排除すべき存在として扱われている。

とはいっても、彼らもまた日本国民であり、人権尊重という日本国憲法の規定は適用されなければならない。ところがメディア報道では、こういったオウム=アレフ信者への人権蹂躙行動を是として捉え、彼らの人権などそっちのけである。

各種スキャンダルで問題でストップする政治

野党の党員が政治そっちのけで、与党・民主党大臣の失言発言や小沢一郎の資金不正疑惑ににクレームをつけ国会をストップさせている。国政は、その名の通り「国の政治」を司るところのハズ。だが、国会では不正疑惑やスキャンダル、失言などを問題にし続け、こちらが紛糾するため、またこちらを先に解決しろと野党が騒ぐため、年度予算が成立する見込みすら立たない。

これらは完全に、いわば国会議員たちの「職務放棄」あるいは「職務怠慢」のハズ。ところがメディアはそういった指摘をほとんど行わず、野党、そして与党が取り上げるこれらの「政治的な場外乱闘」ばかりを報道し続ける(エジプトでこんなことやってたらクーデターでも起こるんじゃないだろうか?)。ところが日本では、こういった「政争」に、メディアが、そして国民が慣れっこになってしまい、政治それ自体についての思考が停止しているという感すらある。つまり、メディアが報道しないアジェンダが決して意識されないようになっている。

また、小沢一郎の資金不正運用疑惑で、司法の決定が出ているにもかかわらず、小沢を国会に招致し、質問しようとする行為もおかしい。これは「三権分立」という、小学生でも知っている憲法の条項に違反しているのだが、なぜかこのことに触れると言うこともない。

神奈川県の受動喫煙防止条例の項目に「喫煙」がないこと

神奈川県の受動喫煙防止条例で、飲食店に禁煙と分煙のどちらかを明記することが規定されなければならないことになった。だが、「喫煙」という選択肢は、そこにはなかった。喫煙は二十歳以上に認められた権利であり、認められなければならない。ということは、タバコを吸う自由、吸わない自由の二つが満たされるという前提でこの条例を考えなければ「自由平等」という日本国憲法に反する。だから当然、禁煙、分煙の他に第三の選択肢として「喫煙」を設けなければならない。だが、条例にこの項目はなかった。つまり、神奈川県は喫煙者の自由を奪うという不平等を起こしている。にもかかわらず、神奈川県のこの横暴を誰も指摘しない(この内容の詳細については拙ブログ神奈川県ではタバコがすえんゾウ!~受動喫煙防止条例を考える」(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61388334.htmlを参照)

大学内でのアルコールフリーが自由尊重に背くこと

今やほとんどの大学で飲酒は御法度となっている。90年代は大学では、まだ「アルコールハラスメントは止めましょう」「イッキ飲みはやめましょう」程度だったのだが、現在では飲むこと自体が悪質な行為と見なされるようになった。おかげで、キャンパス内では飲酒する側が飲めないという「逆アルコール・ハラスメント」に遭遇することになったのだが、これまた指摘されることがない。原則大学二年の状態で二十歳になるわけで、飲酒自体は法律的に問題ない。にもかかわらず、大学側がアルコール・フリーにする理由は、まあカンタンで、事件が起きた場合には責任問題になるからということなのだ。これまた人権蹂躙なのだが、これもメディアでは報道されることはない。されるのはもっぱらアルコールの害ばかりだ(そういう報道をするニュースの間で流されるのがビールのCMだったりする。どうみてもメディアは統合失調症にしか思えないのだが……)。(続く)

なぜかこのことを、すべてのマスメディアは報道しない

メディアは“社会の窓”として様々な情報をわれわれに伝えてくる。しかし、これらが絶対に伝えてこない、言い換えれば「タブー視」されているトピックがある。で、これらの取捨選択は、メディア側による何らかの「都合」によって行われている。しかもこれらはマスコミが意図的に報道しないだけではなく、マスコミ自体が無意識のうちに切り落としてしまうところでもある。で、今回は、このメディアが決して言わないことについて考えてみよう。

数々のタブー
では、以下、列記する形でこの「決して言わないこと」の例について挙げてみよう。

1.自国モンゴルで療養中の朝青龍と楽しそうにサッカーをしていた中田英寿

どうやら、このサッカー・チャリティー?に朝青龍を誘ったのは中田らしい。朝青龍がゴールを決めたときには、二人は楽しそうにハイタッチをしている。しかも、このシーンはこの朝青龍の「ケガ療養理由による巡業サボり報道」に必ず使われていた。つまり、この時必ず中田が映っていた。で、これを企画したのが中田とすれば、出場した朝青龍はもちろん責任問題だが、これを誘った中田も大問題のはず。しかし、中田のことについてはほとんどその責任について指摘がなかった。

この場合、朝青龍は素行の悪い横綱としてバッシングされるべき対象、一方、中田英寿はサッカーを踏み台に世界を駆け巡る時代のヒーローと位置づけられていると考えればわかりやすい。前者は叩けば視聴率が稼げるが、一方、後者はリスペクトすると視聴率が稼げる。その結果、報道は中田については一切コメントしないことになったと考えればいいだろう。

2.押尾学のマンションで死亡したホステスがMDMAを常用していたこと。

押尾学と六本木ヒルズの自宅でMDMAを服用したホステスがオーバードーズで死亡した事件では、これを一緒に摂取した、あるいは提供したと疑われている押尾が徹底的にバッシングされ、一方で死亡したホステスは同情を持って報道された。しかし、押尾とこのホステスは、要するにドラックを介した親交(セックスを含む)を持っていたのであり、押尾がMDMAを所持していたこと、進めたこと、ホステスの様態が急変したとき介護せずに、そこから逃亡したことはもちろん問題であったとしても、当のホステスもMDMAを主体的に服用していたわけで、二人とも法を犯している。つまりこのホステスも押尾同様、犯罪者である

もし、このホステスが死亡することなく、この事件が発覚したならば、二人は当然ながら「犯罪者」としての報道を受けていたはずだ。にもかかわらず、メディアはこのことをほとんど報道することなく、押尾学によって死に追いやられた人間として取り上げている。

この場合は、もし仮にこのホステスをバッシングする形で報道した場合にはメディア側には二つのデメリットが発生する恐れがある。だからこれを控えるのだ。一つは、遺族からプライバシーなどの点で訴えられる恐れがあること。もう一つは押尾学=ダーティ・ヒーローのイメージを助長することで、視聴率が稼げる。そのためには一緒にMDMAを服用していたホステスを悪者にすると、報道のデフォルメ=コントラストが効かない。だから、こちらについては触れないわけだ。ちなみに離婚した元妻の矢田亜希子は「悲劇のヒロイン」としてコントラストが明確になり、こちらもメディア映りの良いキャラクターとして視聴率稼ぎのネタになる。

3.日本シリーズで引退直前の新庄剛志に相手チーム・中日の保守が球種を教えたこと

06年の日本シリーズ、日ハムー中日が三勝一敗で迎えた第五戦。場所は札幌ドーム。3対0で八回裏、この試合でプロ野球を引退する日ハム・新庄剛志が、このままで行けばプロ野球での最終打席となる状況での出来事。

打席にたった新庄は感極まって涙が止まらない。それを実況はハイテンションでアナウンスする。そしてこれを感じ取っているドームの観客も熱狂の渦の中に。試合はしばし、中断。そのとき業を煮やした相手チーム・中日の捕手谷繁元信が新庄につぶやいた。

「泣くな、まっすぐで行くから」

そして、代わったピッチャー中里はすべて直球を投げ、新庄は三球三振に倒れた。

しかし、これはよく考えれば、とんでもない事件。キャッチャーが相手チームの打者に球種を教えているんだから。しかもその場はプロ野球最高峰の試合、日本シリーズの事実上の決勝戦。エキシビジョンゲームではない。ということは、谷繁は厳罰、あるいは、場合によってはこれは八百長で、球界追放になるはず。

ところが、谷繁の蛮行。誰も非難しなかった、チームも監督もプロ野球機構も。そしてメディアは、このことを美談としてすら取り上げたのだ。

この場合、メディアが谷繁をバッシングせず、しかもこの球種漏洩事件を美談にすらした理由は、要するに新庄剛志というトリックスターをヒーローとして取り上げ続ければ視聴率を稼げるという図式がある。そしてこのバイアスの下では、八百長とか不正とかは完全に吹っ飛んでしまうのだ。このバイアスの強さのためだろうか?日ハムはこの試合に勝って日本一になってしまった。


こんな事例、実はまだまだある(続く)

頻発するK-POPアイドルのゴタゴタ

K-POPの人気グループKARAが事務所の契約で揉め、メンバーが脱退したのしないのと話題になっている。韓国の芸能界は国内ではそのマーケットが小さく、そこで近年、景気が悪いとはいえ世界第二位の音楽市場である日本をターゲットに、タレントをどんどんと送り込むようになっているが、芸能プロダクションのシステムが近代化していないのか、日本に売り込んで軌道に乗った瞬間、こういったもめ事が発生するという事態が何度か起こっている。一昨年にも東方神起のメンバー三人の脱退という事件が起きたばかりだ。

ただし、K-POPが送り込んでくる芸能人たちは、選抜され、仕込まれているだけに芸達者だ。ダンスのレッスンもキッチリ、ボイストレーニングもちゃんとやってきているし、その中には必ず日本語を話すことの出来るタレントがいるといった具合。要するに、K-POPの芸能プロダクションはプロの商品を日本市場に提供することに関しては実に上手くやっている。で、問題はカネということらしい。一説によればKARAは日本上陸当初の月給が一万円だったとも言われている。

さて、この騒ぎで僕が注目するのは、こういったゴタゴタの生むメディア論的な効果だ。ある意味、これって最高のプロモーションなんじゃないだろうか?そこで、今回はちょっとやぶにらみ的に”僕が狡猾なK-POPのプロデューサーだったらこうする”という立ち位置で、この効果について考えてみたいと思う。

これを全部、アングルと考えると、かなりスゴイ

プロレス通の御仁にはよく知られているが「アングル」ということばがある。反則やマイク・パフォーマンス、場外乱闘、あるいはリングを外れたメディアを使った罵り合いみたいなのが典型で、その中には実況アナがレスラーに殴られる、プロレス雑誌が煽るなんてのもあるんだけれど、これらはみんないわばフェイク。つまりお約束で、スポーツと言うより総合エンターテインメントとしてのプロレスを盛り上げる一連の仕掛けなのだ。

そして、もし今回のKARAを巡る騒動が、日韓のプロダクションもつるんだ、こういったアングル=フェイクだったらと考えたら、これは相当上手なプロモーションと言うことにはならないだろうか?

つまりすべてが”出来レース”。もうKARAは日本のプロダクションに移籍することが決まっていて、その移籍金も支払われているのだけれど、KARAの存在をいっそう有名にするために、あえてこういったゴタゴタを演出している。つまり、まさに「空騒ぎ」。でも、こうすればKARAはメディアに大きく取り上げられることになる。すでにワイドショーでは頻繁に取り上げられ、彼女たちのウリであるヒップダンスのシーンがちょくちょく登場した結果、KARAを知らなかったおじさんたちでさえも、このユニットに注目するようになっている。もう先行の少女時代よりも著名度では上を言ってしまったのではないか。

で、このKARAの騒ぎがこういったアングル、つまり空騒ぎであったとしたら、これを仕掛けている人間たちは事務所のゴタゴタ、解散騒ぎというネガティブな、そしてスキャンダルな要素を利用して、ただで電波をジャックしているわけで、こりゃ新手のプロモーション手法と言うことになるだろう。

ただし、このスキャンダルでKARAがマイナスのイメージを被るのはヤバい。そこで、彼女たちはあくまで「本当は五人でやりたい」とか「ファンに対する誠意だけは見せたい」とか殊勝な発言をさせ続けておけば、このネガティブな状況の中でもけなげに活動を続けるタレントということになり、周囲から同情を買うことが出来る。その評価は上がり、知名度も上がりこそすれ、商品価値が下がることはないのだ。いや、むしろ価値は上昇したと言える。たとえば、つい最近東方神起が二人のユニットで復活したが、その復活はほとんど「ファン待望」という感じだった。マーケティングの手法であるハングリー・マーケティング(露出を控えることで、オーディエンスに枯渇感を与える手法)が実に見事に機能したわけだ。

この負を正に変える手法。実は東国原前宮崎知事がやっているのと全く同じやり方だ。どうだろう、日本のプロデューサーもこの技法を使って自社タレントを売り出してみれば?なんといってもワイドショーを中心としたテレビがタダで取り上げてくれるわけで、プロモーションの費用が大幅に削減できるんだから。

もっとも、もう数回やると、僕らの方もこの技法に慣れてしまい、使えなくなるんだろうけど。

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