勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年01月

伊達直人現象は制度化されるべきだ

前回は伊達直人=タイガーマスク現象がしばしばKYな「ありがた迷惑贈答」になっていること、そしてメディアが取り上げなくなることで、やがて収束することを指摘しておいた。

たしかに施設の人たちがボランティアに振り回されるのは、ちょっと問題ありではある。 メディアを通して一過性のものとして終わってしまうことも問題。でも、こういった”贈り手も受け手もともに報酬を得られる”というスタイルを維持するのはよいことだ。ならば、KYにならないように、そして永続するように制度化すればよいわけで。では、どうやるか。

”ヴァーチャルちびっこハウス”を作ろう!

僕が提案したいのは「ヴァーチャルちびっ子ハウス」というものだ。ちびっ子ハウスとは孤児の伊達直人が育ち、タイガーマスクになってからは正体を隠しながら金銭的支援を続けた児童擁護施設。伊達はちびっ子ハウスの子供たちに様々な施しを続け、また子供たちがタイガーマスクの熱烈なファンであることから、自分が所属していたヒール=悪役専門でなければならない組織・虎の穴の掟を破ってベビーフェイス=善玉としてフェアプレーする正義の味方に転じ、タイガーマスクとして子供たちに正しい生き方を提示続けた。そして、それがタイガーマスク=伊達直人としてリングで戦うモチベーションになっていったのだ。

この循環を「平成の伊達直人」たちにも適用可能な環境=情報インフラを用意すればいいのだ。

具体的には、この「ちびっ子ハウス」をウェブ上に構築する。つまり伊達直人の贈り物に対して、子供たちや施設の人間がこれに感謝の意を表したり、今、これをどうやって使っているか、あるいどんな暮らしをしているかについての情報を公開する大がかりなホームページ=掲示板を立ち上げる。たとえばクリック一つで、その児童養護施設にアクセスできるようなホームを用意すれば、伊達直人たちは自分の贈ったものが、どう使われているか、どんなふうに感謝してもらっているか、喜んでもらっているかを確かめることが出来る。もちろん伊達直人が掲示板に登場することもアリだ。そうすれば子供と直接関わることもできる。また、子供たちや施設の人間が欲しい物をリクエストすれば、次の伊達直人の贈り物は、KYな、つまり「ありがた迷惑な」贈答になることもない。

「伊達直人たち」は、本当に伊達直人になれる

こうなれば伊達直人はアニメの伊達直人=タイガーマスクと同様、正体を隠しながら子供たちと交流を図ることも出来る。そして、こうすることで子供たちは伊達直人に感謝し、伊達直人とコミュニケーションを図ることも出来る。伊達直人はそれをモチベーションに自らの仕事に励み、その稼ぎを再び子供たちに、しかも定期的に贈り物に役立てようという循環が発生する。

こうやって伊達直人現象が制度化されていけば、養護施設の子供たち、そして伊達直人たちも、互いの欲望を満たしながら、これを永続させていくことが出来るわけだ。

この運動。どなたか、始める方はいらっしゃいませんか?

やがて伊達直人は消える

あちこちに出現した伊達直人による児童施設への贈り物事件。しかし、このまま行くと、やがて伊達直人は消える。なぜか?実はこれもまた、メディアが大きく絡んでくる。

本ブログにおけるマスメディアの立ち位置に対する認識、言い換えればマスメディアは何を目的に行動しているかについてのとらえ方は、ずっと読んでいただいている方にはおわかりだと思うが「資本の論理に基づく」というものだ。つまりテレビなら視聴率、雑誌なら発行部数のアップというのが活動の基本。ようするに客がいてナンボ、儲かってナンボの世界なのだ。ということは、メディアはオーディエンス、つまり視聴者や読者の関心を引きそうな「やじうま」なネタ、そしてキャッチーなネタに飛びつく。ジャーナリズムの古くからある論理は「犬が人にかみついても事件にならないが、人が犬にかみつくと事件になる」というもの。このモノの謂いは、われわれの日常のコードからしたら逸脱したものだけれど関心を引くものをネタにすると言うことなのだ。だってそれはカネになるんだから。

今回の伊達直人事件(騒動)は、「ちょいとイイ話」みたいな文脈で一斉に取り上げられることになった。で、これに煽られて次々と伊達直人が現れ、これがさらに波状的に報道されていくという循環が発生。日本中の伊達直人たちは、メディアの報道によって自らの存在を承認されたという精神的報酬(一人ではない、感謝してくれる人がいる、よいことをした)を獲得することが出来た。

ただしである、ジャーナリズムの論理に基づけば、次のシナリオは見えている。あっちこっちで伊達直人が登場すると、こういった贈答行為は、やがて「犬が人にかみついた」ネタになってしまう。だから取り上げても視聴率にも発行部数にも繋がらなくなっていく。そう、カネにならなくなるのだ。ということは、いずれ報道は減っていき、最後には全くといっていいほど報道されなくなってしまうことになる。

こうなると、全国の伊達直人たちは「善意の爆弾」の効果をメディアを通して知ることが出来ない。言い換えれば、報酬が不可視なものになってしまう。となると、だんだんと伊達直人する人はいなくなり、やがては以前の状態に戻ると言うことが考えられる。というか、おそらくそうなっていくのだ。

KYな贈答?

こうなると、児童施設の人々はボランタリーにやった人たちに喜ばされのはいいが、また期待すると今度は肩すかしを食らうという状態に。つまり、勝手にやられたので、その勝手さに単に振り回されただけと言うことに、結果としてなってしまう。

ある意味、先を見据えた人間たちは、こういった伊達直人の行為を「単なるありがた迷惑」だと批判する。「だいたい、本当に施設の子供たちがあんなものを必要としていると思っているのか?」「野菜とか贈っても、腐っちゃったらどうするんだ」なんてのが、それだ。たしかに、このモノに謂いには一理ある。ボランティアは得てして、むしろコトを煩雑化してしまうことがあるのも確かだからだ。でも、これもまたボランティア=偽善、無私の精神でやらねばならないという前提に基づいたウエットな立ち位置にもとづいた批判だろう。問題は贈った側ではなくて、受け取った側が、これをどう処理するかなのだから。

消えてしまう伊達直人とありがた迷惑な贈答。では、この二つはどうしたらいいのか?(続く)



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(ボランティアの積極的意義を説く『ボランティアーもう一つの情報社会』)


ボランティアとは報酬を期待する行為

前回、児童施設にプレゼントを贈る伊達直人たちは、贈答した行為がメディアに報道されることで、匿名でありながら社会的な承認という報酬を得ていることを指摘しておいた。また、それがきわめて自己満足な行為であることも指摘しておいた。さらに、これが許される行為、もっとやってもいい行為だとも、また指摘しておいた。言い換えれば、この行為が偽善でもなんでもないといいたいわけだ。なぜか?それはボランティアということばの語源を辿ってみることで明らかになる。

volunteerの語源は「志願兵」、類語のvoluntaryは「自発的」という意味だ。つまり、ボランティアと言うのは「やっている本人が勝手に始めるもの」だ。そして、そこに「無私の精神でやらなければいけない」という規定はどこにもない。言い換えれば、見返り=報酬を期待しても何ら問題はないのだ。ただし、勝手にやっていることなので、原則、金銭的な報酬の要求はナシである。

じゃ、なぜやるのか。それは、報酬を相手に要求するのはダメであっても、勝手に報酬を期待して、勝手に獲得することはやってもいいからだ。この感覚は、経験もないのにボランティアを偽善と批判する人間には、ちょっとわからないことだろう。ボランティアと言うのは、原則、報酬を期待している、あるいは見込んでいる行為なのだ。

たとえば、町内の通りの清掃に加わるとしよう。自らはボランティア=自発的行為として無償で労働を提供するわけだけれど、そこでみんなで炊き出しやったり、コミュニケーションしたりする。そうすると人間関係が出来て、これが結構楽しい。この人間関係の構築とか、楽しいとか言うのが「報酬」というわけだ。

また、大学だったら大学院生が学生のTA=ティーチング・アシスタントをボランティアとしてしたとする。院生はタダで学生に専門分野の知識を手取り足取り教えるわけなんだけれど、その結果、院生は自分の学んだ知識を提供することの見返りに、自らの学問的知識のブラッシュアップや、後に研究者・教育者となった際の指導や講義のスキルを養成することが出来る。もちろん自らの研究の刺激にもなる。で、先輩後輩関係なんかも出来たりするし、教員との信頼関係が築けたりすると、教員から仕事の斡旋をしてもらったりすることも出来る。そう、金銭的な支払いはなくとも、精神的、技術的側面でのの報酬がたっぷりあるわけだ。いや、仕事の斡旋ともなれば、結果として金銭的報酬にも繋がる(もちろんTA自体での金銭報酬ではない)。

伊達直人現象もこれと全く同じ文脈にある。彼らは自ら稼いだカネを貢いでしまうのだが、そうすることの見返りに、匿名のままではあるが社会的な評価、そして社会との連帯という報酬を獲得することが出来る。つまりボランティアとして、きわめて”まっとう”な行為なのだ。

欧米ではボランティアは偽善でも、無私の行為でもない

こういったボランティア活動。欧米では至極あたりまえのように展開されている。とりわけおもしろいのはアメリカで、勝手に金銭を組織に放り込むというボランティアがフツーに行われているのだ。代表的な例を挙げてみよう。たとえばニューヨーク。コンサートホール・カーネギーホールは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが全額費用を負担して建てられたものだ。すぐそばにあるフリック・コレクションと呼ばれる美術館は石炭王ヘンリー・フリックが自らのアート・コレクション(フェルメールやらエル・グレコやらフレゴナールやらレンブラントやらベラスケスといった、チョーお宝だらけ)と自宅を提供して出来たもの。要するにべらぼうな金をつぎ込んでいるのだけど、アメリカ人は一財産をなすと、こうやってボランタリーに社会奉仕的なことに金を使うようになる。最近ならビル・ゲイツ財団なんかがその典型で、こういったボランタリーな活動には、作られた財団や施設に資金を提供した人間の名前が冠せられ、永遠に讃えられるという報酬がくっついてくるというわけだ。その結果、カーネギーホールやフリック・コレクションがニューヨークの文化を代表する施設になっているわけで。

で、この時、誰が損をしたというのだろう?提供する側も、された側も得をしているのだから、実は全然問題がない。たんなるWIN-WINの関係だ(こういったボランティアの積極的意味づけについては金子郁容『ボランティアーもう一つの情報社会』(岩波新書、92)に詳細があるので、関心のある方は参照されたい)。

ところが、なぜか日本人はこういったボランタリーな行為は「無私の精神」でやらなければいけないと考えているし、無私の精神でやったとしても、しばしば「偽善」というイメージを抱いているわけだ。

伊達直人という匿名を用いる理由

こういった、ウエットな日本のボランティアに対する文脈では、ボランティアによる見返りが期待できない。場合によっては後ろ指をさされる恐れさえある。そこで、伊達直人登場の番となるわけだ。つまり、匿名であることによって、決して「偽善」と後ろ指を指されることがない(誰だかわからなんいだから、あたりまえだが)。それでいてメディアに報道されることによって、社会的連帯、一人ではない、善いことをした、社会貢献であると賞賛されるという報酬を得ることは出来る。おそらく欧米文化圏の人間からしてみれば、こういった伊達直人という匿名による寄付という行為は、理解できないのでは無かろうか。なぜって、繰り返すように、これは日本独自のウエットな感覚がもたらす現象であり、この文化的土壌を共有しない欧米人からすれば奇妙なことにしか思えないからだ。
でも、これって立ち位置を変えれば、実はボランティアを「偽善」と捉えることの方が、はるかに偽善っぽくないだろうか?

しかし、この伊達直人、やがて虎の穴に戻る、いや消えていなくなることも確かだろう。なぜか。(続く)

タイガーマスクが全国各地に登場

群馬の児童施設に伊達直人と名乗り、実際の名を伏せている人間からのランドセルがクリスマス・プレゼントとして贈られてからというもの、全国各地の児童施設に伊達直人名の様々な贈り物が届けられるようになった。伊達直人とはいうまでもなく梶原一輝原作のマンガ「タイガーマスク」の本名。伊達は幼い頃「ちびっ子ハウス」という児童施設に孤児として育ったが、途中でここから失踪。虎の穴に入りタイガーマスクとしてプロレス界にデビュー。その傍ら、自らが育った施設に、自分がタイガーマスクであることを伏せながら、タイガーマスク・オタクの金持ちな「キザにいちゃん」として定期的に訪れ、子供たちにプレゼントをし続けたというキャラクター。まあ、これにあやかったわけだけれども、とにかくアッという間に百件以上の贈り物が全国各地に贈りつけられることになった。伊達直人だけじゃなく、矢吹丈、京塚昌子(肝っ玉母さんだね)伊達政宗(単なる”伊達”つながりだろう)、さらにはスティッチなんて送り主(こりゃ、いったいなんなんだ?)までが登場するに至っている。

でも、なんで、こんな現象が突然発生したんだろう?これをメディア論的側面から考えてみよう。

報道がプッシュした伊達直人現象

伊達直人第一号の意図は、わからない。しかし、続発した後続については、その動機をメディア論(この場合は社会心理学・文化社会学)的視点からはある程度の分析が可能だ。

まず、プッシュ要因として機能したのがメディア、とりわけテレビであることは言うまでもないだろう。メディアが取り上げて全国に知れ渡った。これを見て「自分も」という気持ちが持ち上がったわけなのだが、問題はさらにその先の「では、なぜ、報道を見たら「自分も?」という気持ちになったのか?」ということだ。ここからは文化社会論でのベタな図式をちょいと展開させていただこう。

勝手気ままを匿名という環境によって形成した

情報化、消費化が進んだ社会は、個人の人権、そしてプライバシーが尊重されることで「勝手気まま」が許される環境が構築されている。ただし、こうやって個人の自由が完全に保証されるためには、他者からの干渉が避けられなければならない。行動をするに当たって、まず自らの勝手気ままな行動を相違するのは他者だからだ。

たとえば、人と街に繰り出して食事をしようとする。そのとき、あなたはラーメンが食べたいと思っていたが、相手はピザが食べたかった。こうなると、意見は合わない。だったら、あなたは相手との食事をやめて、一人ラーメン屋に向かえば、心ゆくまでお気に入りのラーメンを堪能することが出来る。

こういった「勝手気ままにしていたい」という個人の欲望を満たすべく展開されてきたのが民主主義と資本主義が同時に発展していく情報化社会・消費社会だった。現在、われわれが情報にアクセスしたり、商品を購入することの動機には、必ずといっていいほど「他人にとやかく言われないで自由な行動ができる」という要素が含まれている。それは行動に際しても(行動を妨害されない)、また行動の後にも(行った行動に対して非難されない)。その結果、われわれは匿名という環境を確保し、人に左右されないシチュエーションを作り上げることに成功した。

社会の一ビットでしかないという感覚

ただし、これは当然ながら“副作用”を伴う。それは「孤立」だ。誰にも邪魔されることはないということは、立ち位置を変えれば誰にも自分が知られないと言うことでもある。ところが人間はコミュニケーション動物。何らかのかたちで他者と関わっていなければ生きてはいけない。

そこで「勝手気ままにしていたい」という欲望に加えて、「でも、人に認められたい。人と喜びや連帯感覚を味わいたい」という欲望も併存してしまう。こういった「勝手気ままで孤立」を取るか、「不自由な連帯」を取るかという「“究極の選択”を究極の選択とはしないで両立させる虫のよい”方法はないだろうか。

その一つとして出現したのが、伊達直人による施設へのプレゼントだった。

伊達直人のプレゼントは”報酬付”

伊達直人、あるいは同様の名前で施設にプレゼントする人間たち。彼らは報酬を求めている。それは「メディアが伊達直人について報道すること」だ。つまり1.プレゼントする→こ2.れをテレビなどのメディアが報道する→3.これをプレゼントした本人が確認するという流れになるのだけれど、これによってプレゼントをした本人は自分のやった慈善が世間に知れ渡ったことを認知する。それは翻って「自分のやったことを喜んでくれた人たちがいる」と言うことになり、テレビというメディアを介して、本人が施設の人々と連帯したこと、さらには世間的に認知されたこと、つまり自分が社会的に認められたことを確認できるのだ。しかも、名前は伊達直人ゆえ匿名。だから自分のプライバシーが暴露されたり攻撃されたりすることもなく、自らはこれまでの勝手気ままを維持することが出来る。いわば、この“騒ぎ”を起こした本人でありながら、その名前が知られないゆえ、ニンマリと満足感を味わうことが出来る。

想像してみて欲しい。自分がプレゼントした事実がテレビで報道され、誰がこれをやったのかを自分だけが知っているという状況を。まあ、本人からすればさぞかしテレビを見ながら酒が進むに違いない。ちょっと社会を牛耳ったという感覚に浸ることすら出来るわけで。

要するに、これは自分が「勝手気ままでいても孤立していない」と言うことを確認するためのものであって「無私の精神」に基づいたものでは全くない。むしろ自己満足・自己中心的な行為に他ならないのだ。

そんな、偽善って許されるのだろうか?それに対する僕の答えは「もちろんOK!」というものだ。もっともっとやるべきだ、とすら思う。では、なぜか?(続く)


政治の話をし、政治家の話をしない

元宮崎県知事、東国原英夫の政治手腕について考えている。

さて、政治に対する東国原の思いだが、これはブログ「そのまんま日記」を見るとよくわかる。とにかく県政の内容が事細かに書かれている。知事を退任してからも、相変わらず宮崎の口蹄疫や鳥インフルエンザについての記述が続くのだ。

こういった東国原の政治に対するスタンスは、最近の国会議員たちの行動との見事なコントラストをなしているといえるだろう。国会でやっていることはなんだろうか?あそこでやっているのは「政治の話」ではなく「政治家の話」だ。しかも、「政治家の悪口」についてのそれだ。ちょっとした失言への責任追及(たとえば柳田前法務大臣の「法務大臣は“個別事案はお答えを差し控える” “法と証拠に基づいて適切にやっている”、この2つ覚えておけばいい」発言)、資金運用問題(小沢一郎の政治倫理審査会への招致)、パフォーマンスについての非難(山本一太が菅直人首相に対して「首脳会談で相手に目をやらず原稿を棒読みしていた」なんてのが典型)、この手の話で国会は審議がストップし、空回りを続けている。そして野党はとにかく与党の議員の足を引っ張ることで、次の選挙のための票を稼ぐという「選挙運動」を繰り広げている。いいかえれば、国会は政争の場であって、完全に政治不在、言い換えれば国民不在。魑魅魍魎が跋扈する状況になっている。

一方、東国原は全く異なる。ブログでもわかるようにとにかく政治の話をする(まあブログで次に多いのは「走る話」だが)。その中で、ほとんど出てこないのが政治家について、国会議員がやるような誹謗中傷だ。他者を非難するのはもっぱら記者などのメディア(これは、自らの発言が適切に報道されないと判断したときに、猛攻撃をしかけてくる)。

繰り返すが、東国原は「政治家の話」ではなく「政治の話」をする。本来政治家がやることはどっちだろう?それは言うまでもなく後者「政治の話」に決まっている。ということは、相手の足を引っ張る国会議員たちよりは東国原の方がはるかに政治家的に”まっとう”なことをやっていることになる。

東国原の国会に対するスタンス

ひょっとしたら東国原は、こういった「足の引っ張り合い」を続ける現状の国会にはとっくに見切りをつけているのかもしれない。また、それが地方分権、地方中心主義、首長たちによる日本の立て直しといった発想に繋がっているかもしれない。だからこそ、最も大きい「地方」である都知事となって地方から中央に攻め込むと言うことかもしれない。そういった意味で、今回の東国原のチャレンジは東国原劇場(あるいは東国原シアター)の第二幕ということになるのだろうか。

改革者は「山の向こう」からやってくる

システムが構造化し、身動きが取れなくなって、どうしようもなくなったとき、その変革を抜本的に担うのは、ほとんど場合、その構造が身体化してしまっている内部の人間ではない。改革者はトリックスターとして、構造の外部、いわば”山の向こう”からやってくる。たとえば日産を立て直したカルロス・ゴーンなどはその典型だ。そして、今日本の政治がデッドロックに乗り上げている、つまり構造化している状況で(足の引っ張り合いをしている人間たちは、さながら沈没する船で船長の地位を巡って争いをしているような輩だろう)必要とされているのは、東国原のような、一見、何の関係もなさそうな”山の向こう”からやってきた人間であることは、これまで歴史が実証してきたことでもある。もちろん、東国原の経済政策に対する手腕は、相変わらず未知数であることには変わりはないのだが……

さて、東国原の第二幕、どうなるのだろう……。

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