勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年12月



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(アメリカを代表するコーヒー、Eight O'clock Coffee。日本で入手不可。ウマイ!)


アメリカでコーヒーを大量買い付け?

僕はアメリカに行くときには、ちょっと大きなスーツケースを持って行くことにしている。ちなみに、行きはカラッポか干物(アジとか丸干しとか)。後者の場合は友人へのお土産。当然ながらアメリカに到着し、スーツケースを開けた瞬間、ものすごい磯の香りがする。当然、スーツケースにもにおいは染みついて……。

で、なぜ大きなスーツケースなのかというと、帰りには、これにコーヒーをぎっしり詰めて、さながら密輸のように持ち帰るからだ。末端価格にして2万円程度(そして、干物の香りを、今度はコーヒーの香りで対抗させ、帰国したときにはスーツケースから干物の香りを追放するという目的も、ある)。

アメリカンはお湯で薄めたコーヒー?

コーヒーなんてのは日本にも腐るほど売られているのに、なぜそんなことをする必要があるのかと思われるかもしれない。ところが、残念ながら日本では販売されていないコーヒーがあるのだ。というかアメリカのコーヒーのほとんどは日本で発売されていない。で、それはアメリカン・コーヒーなのだが……。えっ?喫茶店に行けばそんなのあるだろ?いや、お湯で薄めればアメリカンじゃないか?{そういえば、昔、サントリーのブランデーのCMで「ブランデー、水で割ったらアメリカン」なんていう、とんでもないコピーもあった)。

しかし、これは完全に間違っている。アメリカン・コーヒーはお湯で薄めたコーヒーなんかじゃない。だいいち、アメリカン・コーヒーとは、ただただ単にアメリカで飲まれているコーヒー。ウインナー・コーヒー(ウィーンに行ってもウインナー・コーヒーはない)やスパゲティ・ナポリタン(ナポリに行ってもナポリタンはない)と同様、こういった名称のコーヒー、実はアメリカには存在しない。あくまでも「アメリカで飲まれているコーヒー」であって、アメリカ人はこれを「アメリカン・コーヒー」と呼んではいないのだ。実はアメリカン・コーヒーとは日本で60年代に名付けられたものらしい。つまり、日本には本当のアメリカン・コーヒーはないのだ!(以降、アメリカで飲まれているコーヒーを日本のアメリカン・コーヒーと識別するために「アメリカのコーヒー」と表記する)。

アメリカのコーヒーとは

では、アメリカ人が日常的に親しんでいるコーヒーとは。それは「焙煎の浅いコーヒー(シナモン・ローストと呼ぶ)」のこと。生豆は煎り方が浅いため茶色。これを煎れると当然のことながら色は薄くなる。それは、さならがコーヒーにお湯を薄めたかのように見える。でも、それは焙煎が浅いからそうなるだけのこと。

このコーヒーには独特の味わいがある。その最も顕著な特徴は「酸味が強いこと」だ。半面、苦みやコクは弱い。ヨーロピアン・コーヒーの対極なのだ。だから結局、味はライトになる。ただし、酸味はちゃんとあるわけで、日本のアメリカン・コーヒーのような薄べったい味ではないし(日本の場合、お湯で薄めたんだから、こうなるのはあたりまえ)、香りもしっかりあるのだ。しかも、 焙煎が浅いとカフェインの残留量が増えるので、シャキっとするというメリットもある(まあ、こりゃ「覚醒剤」だね。アメリカのワーカホリック・ビジネスマンがこいつを飲むのも、まあ納得か?)。

コーヒーはお茶

ライト・テイスト、そして苦みが無い分、胃も荒れない。コクがくどすぎない分、飽きもこない。そこで、結局、アメリカ人はデカいマグカップでガブガブ飲む。だから、たとえばデリなんかに行けば必ず売られているし、どんなに安宿でもコーヒーメーカーは部屋に備え付けてある。要するにアメリカ人にとってコーヒーは“お茶”なのだ。

で、僕はこのスタイルにハマってしまった。そして、これはコーヒーに対する根本的な認識の変化を僕にもたらした。それは……嗜好品から完全な日常的な飲料への変化だった。しかし、大問題が。それは日本ではアメリカン・コーヒーはあっても、アメリカのコーヒーは売られていないこと。これだけアメリカ文化が日本に浸透しているというのに、なぜかアメリカのコーヒーは入ってこない。これはなぜなんだろうか?(続く)

セキュリティの設定が生むセキュリティーホール~スポーツクラブで僕が背負い込んだ危険

「セキュリティ」という考え方のリスク=危険性について考えている。

しかし、こういった「セキュリティの設定」、つまりリスク回避のためのセキュリティの線引きは、いいかえれば、セキュリティに対するもう一つのブラックホールを形成すると言うことも意味する。そこで、最後に「セキュリティが備える、セキュリティーホール」という、矛盾した事態をご紹介しておこう。それは、僕が通っているスポーツクラブで発生した。

ある日のこと、僕は近くの電気店でパソコンのディスプレイを購入、持ち帰ることにした。で、その帰り道にスポーツクラブがあるので、寄ることにした。ところが、このディスプレイは23インチと大型。残念ながらロッカールームには収納できない。そこでフロントにこれを預かってもらうことを願い出たのだが……スタッフはこれを断った。その理由は「保証ができません」というもの。つまり、預かっている間に破損したり、盗難されたりした場合の責任を持つことができないということなのだが。

そこで僕は、やんわりと「盗難、破損が起こったとしても一切、責任を問うことをいたしません。もしご心配でしたら書面にしてサインいたしますが」とお願いしたところ、その返事は「前例がございませんので」というものだった。仕方がないので、僕はそのままチェックインし、このディスプレイをロッカーの上に置き、そのままトレーニングに出かけることにした。

マシンは盗難されることもなく、現在、僕はこのディスプレイを見ながらこのブログを書いている。しかしこの時、結果として僕は一番危険な選択をしたことになる。ロッカールームの上に放り投げると言うことは、一番盗難に遭いやすい状況にディスプレイを置いたことになるのだから。ここではスポーツクラブ側のセキュリティと、僕のセキュリティが対立していて、僕のセキュリティが否定され、スポーツクラブ側のそれが適用されたことで、結果として、最も危険な選択を僕がしたと言うことになる。

もちろん、僕はスポーツクラブを責めるつもりはない(まあ、ようするに僕がその日はスポーツクラブを利用することをあきらめて帰宅すればよいだけの話なのだから)。セキュリティというのは、リスクを回避とセットになっている(この場合セキュリティ設定=リスクを背負わないことという図式になる)。しかも現代は、何かにつけてクレームがつきやすい過剰な人権が振り回される時代。だから、スポーツクラブの対応としては、こうするしかないことはわからないでもない。

セキュリティの線引きは、もっと自覚的であるべきだ

ただし、こういった形でセキュリティの線引き合戦が行われることで、結果として個人が背負うリスクが増大するという事実だけは肝に銘じておいた方がいい。たとえば大学でのアルコール・フリーという状況は、結果として、酒の飲み方を知らない大学生を大量に輩出する危険性を秘めているわけで、社会人になった後に彼らがトラブルを発生させる可能性=リスクがあるわけだ。要するに、リスクを回避しようと大学側がセキュリティを高めたために、彼らのアルコール摂取による危険性、アルコールとのつきあい方というのが先送りされたに過ぎない。もし、大学がこういった「社会人教育」をちゃんとしようとするならば、あえて「酒の飲み方」という指導=リスクを背負う必要が出てくるのだ。

セキュリティの線引きに、我々はもう少し自覚的になるべきではなかろうか。また、セキュリティを設定することによるリスクの出現について自覚的になるべきではないだろうか。セキュリティという暴力的な権力装置が、あちこちに蔓延し、われわれが身動きできなくなる前に……

セキュリティという危険な暴力装置が作動するとき

「セキュリティ」という考え方のリスク=危険性について考えている。

こうやって考えてみるとセキュリティというのは二つの側面からのリスクを背負っていることがわかる。一つは、あたりまえだが外部からのそれ。つまり、外からやってくるリスク、そしてもうひとつは今回取り上げた、内部から、つまりセキュリティを設定する側からやってくるリスク。そして、恐ろしいのはむしろ後者の方ではないだろうか。というのも、前者の場合、セキュリティを設定しようとする側にはそのリスクが明瞭であり、コントロール可能だが、後者の場合、そのリスクが不透明、あるいは意識されない可能性が高く、コントロールしづらいからだ。そして、こうやってセキュリティの線引きを対象化せずに線引きを行った場合、それは恐ろしい権力を伴った暴力装置としてセキュリティは機能することになる。しかも、それを発動させる当人は「正義」と信じてやまないわけで、本人すら権力を暴力的に発動しているという自覚がない。いいかえれば、それは、どれだけこの権力をふりまわしても、本人にとっては正当性があるわけで、こうなるともはや手のつけようがなくなってしまうのだ。

そして、こうやって無意識のうちにセキュリティを媒介に権力を振り回すとき、その当事者は、必ずといってよいほど、その権力を振り回そうとする別の欲望が、そこには介在している。おそらく、今回、パソコンに照って的なセキュリティを施そうとした事務員には、大学教員に対する支配欲(あるいはコンプレックス)が、こういった行動の背後には存在する。しかも、やっかいなことに、この欲望を、やはり本人は知らない。つまり、無意識なのだ。

僕の場合は、事務員がプライベートな権力(あるいは「お役所的」権力)を、自ら対象化することなく振り回して、周囲に顰蹙を買ったわけで、まあ、この程度なら「こまったちゃん」で済ますことができないこともない。しかし、これが、国家権力的な影響力を備えていたら、これはとんでもないことになる。何のことはない、多くの人間の自由が剥奪されるのだから。

セキュリティという暴力装置が偏在する現在

そして、こういったセキュリティの権力に基づいた無意識の線引き、実は最近ではあちこちに偏在するようになっている。以前、本ブログで取り上げた神奈川県の受動喫煙禁止条例などはその典型だ。分流煙の害を説くあまり、喫煙の自由を奪ってしまったり、アルコールによるトラブルを防ぐため大学キャンパス内での飲酒を禁止してしまったりといった取り決めがその典型だ。たとえば、前者の場合はこういった条例を実施する側の支持の取り付け、後者の場合、トラブルが起きた際の大学の責任逃れという別の欲望が、この権力装置を作動させていたりするのである。

そしてこの別の欲望装置の存在は、セキュリティには、実は二つのリスクがあることを示している。しかもそれはリスクを回避しようとするとリスクを発生させるというパラドックス的なかたちで生じるのだ。それは何か?(続く)

パソコンのセキュリティを巡る大激論

以前、僕は勤め先で学内の教員用パソコンを更新するにあたって、担当の事務と大激論になったことがあった。「僕は」と言うより、この更新を担当した事務員と大学教員の間で喧々諤々の議論が展開されることになったのだけど。対立図式は事務員一人VS教員全員というものだった。

事務員はセキュリティの問題を前面に押し出して様々な提案を行った。具体的には1.指紋認証システムを採用する、2.パソコンはチェーンロックをかけて研究室のみで使用する、3.学内のマシンからのみ、割り振ったメルアドが使える、4.大学サイトの教員用ページへのアクセスは学内のマシン・学内のネットワークのみ使用可とする、5.パソコンの持ち出しを禁止する、6.いざとなったら外部からのコントロールによってハードディスクの中身を消去可能になるシステムをインストールする、といった具合。

当然、こんな馬鹿な提案に教員たちは一斉に反発した。更新予定は原則ノートパソコン。これにチェーンをつけて持ち出し不可にするなんてこと自体が、かなりマヌケなのだが、本人はこの反対意見に全く動じることがない。むしろこちらに対して「常識知らず」というような上から目線で、まくし立てたのだ。

「情報が漏洩したら、どうするんですか?」

彼は一方的に、この主張を続けた。とりわけ指紋認証システムにはこだわったのだが、教員たちはこれらのかなりを却下してしまった。しかし、この事務員は結局、チェーンロックを更新パソコンにバンドルさせデスクにロックすることを譲らなかった。また、成績登録は学内でしかできなくなった。またハードディスクにもロックをかけて、セキュリティコードを打ち込まないと使えないような仕様にしてしまった(このセキュリティ・コードは大学側で設定するので、教員側はいじれない)。

一方、僕たちは、この乱暴なやり方に一斉に反発。結局、ノートパソコンはそれぞれ勝手に外に持ち出し、誰もチェーンロックを使用することもなかった(自転車用に使っていた教員もいた)。また、教員の中には業者をプライベートに呼んで、ハードディスクのロックを解除させたり、自らハードディスクを換装したりして対抗した者もあった。

僕らの主張と、この事務員の主張。果たしてどちらが正しいのだろうか?

セキュリティとは「線引き」のこと

その答えは「僕らの側」からすれば、僕らが正しい。あの事務員は単なるセキュリティ・オタクとなる。一方、「くだんの事務員の側」からすれば、彼の方が正しい。教員たちは社会性のないバカどもとなる。で、この結論、第三者の立場から見れば「どちらも正しいともいえるし、どちらも正しくない」と言える。というのも、こんな中途半端な結論を下すのは、要するにセキュリティとは「線引き」のことだからだ。この線引きをどういうふうに引くのかが要するに問題なのだ。

たとえば、セキュリティのレベルを徹底的に上げた例を考えてみる。もし、あなたが交通事故に遭いたくなかったらどうすればいいのか?いちばん簡単なのは「外に出なければよい」ということだ。家から外に出ると言うことは、そこで交通事故に遭遇するというリスクを背負うことになるからだ。いや、ひょっとしたら家にいても危険かもしれない。道路からダンプカーがあなたの家に突っ込んでくるかもしれない。こうなると住居も道に面していないところに引っ越す必要が出てくる。

しかし、である。こんなふうに考えたら、実際のところは何もできないと言うことになるだろう。言い換えれば、何らかの行動を起こすときには、それがどんなものであれ、必ずリスクを背負い込むということを意味しているのだ。だから、どこまでを自己責任としてリスクを背負うのかについての腹を括る必要が出てくる。それがセキュリティという線引きなのだ。

研究室のパソコンに必要なセキュリティとは

では、大学の研究室へ設置するパソコンはどのようにセキュリティについて線引きすべきか。理系ならともかく、文系の大学教員であるならばパソコンに打ち込む情報の中でもっとも漏洩を防がなければならないものは学生のアウトプットや成績になるだろう。まあ、あとはプライバシーに関するものというところで、そのほかの情報については一般人と同じレベルだろう。つまりIDやパスワード、他人の住所などの情報といったところだ。

この程度であるならば、僕はノートパソコンを研究室外に持ち出すのは許容範囲と考える。成績付けについては大学のサーバーにアクセスして、ネットを介してそこに直接インプットすればいいだろう。これだと保存しないので、パソコンは単なる入力機器になるからだ。そのほかの学生の情報やIDパスワード関係については、一般同様、ノートパソコンを使用する際にパスワードを設定すれば問題ないと考える。もちろん、その気になれば、こんな簡単なパスワードを開いてしまうことも可能だろう。しかし、そこまでして学生の情報を見ようとするニーズがあるとは、ちょっと思えない。

で、このレベルでよろしいとなったとき、今回の事務員の徹底したセキュリティの主張は全く持って無駄で意味のないものであると言うことで退けることができる。この事務員が主張したことは、こういったセキュリティの線引きの必要性についての考察を一切することなく、ただただ単に「セキュリティ・オタク」として、自らの立ち位置を認識することなくこれを絶対化し、他者(この場合大学教員)に強要しただけなのだから。

しかしこうやってみると、セキュリティとはかなり危険な暴力装置といえないこともないのではないか?(続く)



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缶入り生ビールという「ことばのあや」


無香料なのにペットボトル茶はなぜ香るのかについて考えている。実はこのレトリックと全く同じやり方をしているのが市販されている生ビールだ。

かつて瓶ビールと言えば当然熱処理した「ラガービール」が基本だった。というのも熱処理しなければ、出荷後も瓶の中でビールの発酵が進んでしまい、味が変わってしまうし、保存が利かないからだ。熱を通すというのは、要するに中の発酵菌を殺してしまうことを意味した。ところが、現在、瓶ビール、そして缶ビールのほとんどは「生」と書かれてある。キリン・ラガービールまでが「生」とあるくらいだ。しかし、これらの生ビールは長期保存が利く。ではどうしてだろうか。

このポイントは「熱処理していないこと」にある。生ビールと明記するためには「熱処理さえしてなければいい」というふうに法律で決められている。そこで、サッポロはこの理屈に合う技術を考えた。それは、当然のことだけれど「熱処理しないで長期保存を可能にする技術」を開発すること。これをフィルターを開発することで達成する。製造したビールをこのフィルターに濾過すると、菌が通過せず、液体だけが通過するので、結果として取り出したビールを瓶詰めしても発酵が進むことはない。だから長期保存が可能。これが、現在の瓶・缶ビールの「生」の意味となったのだ。

しかし、まあ、これは理屈といえば、理屈。本来「生」というなら菌が「生」つまり「生きている」べきなのだから。こちらの方が本当の「生」の意味ととらえるのが正しいだろう。だとすれば家で飲むビールは「生ビール」ではなく「死ビール」ということになる。店で飲む生ビールと、瓶・缶ビールの生ビールの味が違うのはこういったレトリックによるのだ。

香料なのに香料ではないという、あやしい理屈

さて、話を「無香料になのに香りがするお茶」の話に戻そう。これはどうしてこうなるかというと、これもまた瓶・缶生ビールと同様、法律的に無香料であるという基準をクリアしているからだ。ということは、実際には香料。だから、こいつにもレトリックがある。

で、また話をちょっと別な方に振らせていただきます。その話とは僕の友人がやっている商売。彼がやっているのは「エキス売り」という仕事なのだが、この仕事が今回のネタと大いに関係がある。ある日のこと。飲み屋で彼と一杯やっているとき、その仕事の内容について、彼は飲み屋のテーブルで実演しながら説明して見せてくれた。

彼は店員に水を一杯注文、そしてそのコップに醤油を注ぎ込んだ。次いでバッグの中から小さな液体=エキスを入った瓶を取り出し、ここに爪楊枝の先をほんのちょっと触れさせ、それを今度はコップの水の中に入れた。エキスは0.01ccもないような量だ。

「ちょっと口をつけてみな」

彼はコップを僕に差し出した。これを手にとってちょっと口に含むと……それはなんとそばつゆだったのだ。コップいっぱいに鰹の香りが広がっている。

「あっちこっちのメーカーから出している、そばつゆの香りってのは、こうやってできているのさ。1トンの砂糖醤油に対して5ccくらいこのエキスを入れれば、香り豊かなそばつゆになるってわけだね」

「へーっ!」と感心しながらも、僕は速攻ツッコミ返した。

「でも、そばつゆに「香料」なんて記載はないぜ」

すると、彼はにんまりしながら、次のように答えた。

「そうだよ。でも、実際は入っている。しかもこれは香料だ。だから本当は明記しなけりゃいけないハズなんだけど、なぜかこれはしなくてもいいことになっている。というのも、添加物は添加するものと同じものから作っている場合には、法律上は明記する必要がないんだ。このエキスの場合、鰹から抽出したもので、それを香りが飛んでしまった鰹のつゆに添加している。まあ、おからを豆乳入れて作るようなもんだよね。で、何でこんなややこしいことをするのかというと、やっぱりそばつゆや鰹だしに香りは必要。でも「香料」みたいな食品添加物は「健康に悪い」というイメージが強い。だからメーカーとしてはなるべく成分表には記載したくない。そこで、記載しなくてもいい鰹から取ったエキスの香料、つまり鰹成分の添加物を使うというわけだよね。でもって、そこがこっちの商売の目の付けどころってわけさ」

食品添加物=悪という図式

「ということは、ペットボトル茶なんかのお茶の香りも、そういうこと?」

「もちろん。お茶の香りがずっと続くなんてことはありえないからね」

彼に言わせると鰹のエキスから取らなくても別のものでも十分香りを作ることはできるそうだ。あえて鰹を使用するのは、ようするに「無香料」と明記したいがためなだけ。

で、じゃあ鰹からエキスを取っているから安全かというと、

「他の化学的な成分から作るものと同じくらい安全だよ」

と、皮肉たっぷりの返事をしてくれた。

これは、言い換えれば「同じくらい危険」と言うことでもあるのだけれど、もっとツッミを入れると、果たして食品添加物が危険なのか?という疑問が沸いてくる。実際に危険かどうかはとにかく、われわれは、ただ単に「食品添加物は身体に悪影響を与える」と思い込んでいるのだ。だからこそ、その明記の必要のない、彼のようなビジネスが成立する。要するに、それは実態とはかけ離れたイメージの中で成立している「安全と危険」という対立軸ということになるのである。

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