勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年11月

僕が関東→九州→関東と生活権を移動することで、アルコールライフが日本酒→焼酎→日本酒と変化したことをヒントに「アルコールのメディア社会論」を展開している。で、前回は、九州生活でもっぱら焼酎がアルコール・ライフの中心になったことを示しておいた。その一方で、日本酒は全然飲まなくなってしまったのだ。これは、九州の食文化のお陰だった。

食が日本酒に合わない

もし九州の料理を日本酒でやったらどうなるか。いわずもがななのだが、全くダメなのである。九州のボヤーッとしたおおざっぱな味、そして単純なハッキリした味は、完全に日本酒のコクに負けてしまう。また、食材の甘ったるさが、日本酒のほのかな上品な甘みを完全につぶしてしまうと言うことで、両者の良さが完全に相殺されてしまうのだ。

九州の居酒屋ではトウがたった日本酒を、全く合わない肴でやることになる

もちろん宮崎にも多くの居酒屋には日本酒が置いてある。たとえばマイジャーな越後の久保田、八海山、〆張鶴、石川の天狗舞、長野の真澄、福島の大七生酛みたいなやつだが、飲み屋でこれをショットで注文した場合にはヒドいことになる。前述したように、ただでさえ料理に合わないところで、多くの人間は焼酎をたしなむので、日本酒を注文するということは無い。で、こんな状況で日本酒を注文すれば、日本酒は開栓してから、もう何日も経ったやつが注がれて供されるのが必定で、ということは、とっくにトウが経っている(醸造酒は発酵するので、開栓したらすぐ飲むもの。開栓して数日もおかれたものなど飲めたものではない)。だから、酸っぱくて鮮度が無くて飲めたものではないのだ。

我が家もまた、焼酎の日々に

しかし、我が家の食卓に並ぶ食材も、当然こういった宮崎の大味なもの。こちらでシャバシャバの日本酒を揃えたところで、まったく料理には合わないわけで、それが結果として、我が家でも焼酎を常飲すると言うことを結果したのだった。

日本酒を飲むのは宇宙食、昭和基地での食事感覚

もちろん、日本酒を飲むことも年に数回はあった。この時は、全てネットで肴を購入し、クール宅急便で送らせたものをテーブルに並べて、これで日本酒で一杯というやり方になったのだ。例えば秋なら岩手・大船渡の秋刀魚を送らせて、南部杜氏の辛口の酒でやるという感じで。ようするに日本酒の楽しみ方は昭和基地や宇宙ステーションで越冬隊や宇宙飛行士が食事をするような、極めて無理な状況になってしまったわけで、当然、そんなバカバカしいことを高々のカネを払ってやると言うのはおっくう。だから日本酒は僕の生活から遠ざかっていったのだ。そう十年も(僕は宮崎で十年間暮らしたので)。(続く)



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宮崎市周辺で親しまれる、霧島と並ぶもうひとつの芋焼酎・日向木挽


気がつくと焼酎派に

僕が関東→九州→関東と生活権を移動することで、アルコールライフが日本酒→焼酎→日本酒と変化したことをヒントに「アルコールのメディア社会論」を展開している。前回は、宮崎に暮らしはじめたら、アルコールのデフォルトが焼酎、しかも芋焼酎だったことを知らされたことについて報告しておいた。

さて、その後、赤ちょうちんに行けば必ず出てくるのが焼酎、具体的には霧島か木挽という芋焼酎のどちらかになった。とにかく、宮崎市周辺の人間はこの二つのどちらかしか飲まないのだ。地鶏をつまみにまずビール。その後は延々と焼酎が続く。お湯割りがメインだが、水割りやロックでも楽しまれているので、みんなで飲むときには、この三パターンがだいたい用意される。

もっとも「それはそれ。周囲がそうなら、酒宴ではそういうふうにつきあえば良いだけのこと。我が家ではワインや日本酒の醸造系を楽しめばいい」と、当初は割り切っていたのだが、この考え方自体が甘かった。気がつくと家庭でカミさんと飲むときも、最初はビール、その次は芋焼酎ということになっていたのだ。その一方で日本酒を飲むと言うことがどんどん無くなっていき、そして最後には年間に数本というレベルにまで下がってしまった。しかも、それは気がつくと、そうなっていたのだ。

全く日本酒に合わない現地の食材と味付け

でも、そうなった理由は簡単だった。ようするにアルコールというのは食とのマッチングで決まるわけで、宮崎の料理がすべて焼酎に合うようにできていたのだ。地鶏、冷や汁、その他の魚や野菜、これらには、いわば「南国独特の味」がある。宮崎は日本でも南に位置するゆえ、極めて温暖な土地で、野菜はどんどん育つし、魚もジャンジャン獲れるという、食生活については極めて豊かな土地だ。だから、こういったものがもの凄く安い。鶏モモなら二百グラム程度、キュウリも袋いっぱいで百円なんて状態が常態的に存在する。

しかし、この温暖さは翻って、デメリットにもなる。こういった食料は南国の、この暖かさに甘えて、いわば「お坊ちゃん」として育てられている。だから、味が原則、全て大味なのだ。

たとえば魚。マグロ系の魚は「朝どれ」のものであっても、関東圏で育った僕にはまったく持っておいしいとは感じられない。刺身はシコシコせず、むしろムニャムニャとした食感、そして魚の甘みといったものがほとんど感じられないのだ。イカも同様で、やたらと弾力があり、ゴムのようだが、津軽半島沖で獲れるようなトロッと溶けるような甘さは一切無い。だから、絶対イカソーメンみたいな料理には向いていない。フライ・天ぷらにするか、タイのヤム・プラームック(茹でイカを唐辛子とナンプラー(魚醤)で、あえた辛いサラダ)みたいな料理するのが妥当なところ。

野菜も同様。とにかくデカイ。ただし、当然のことながら、大きい野菜というのは、そのまま味が大味になるのだ。

単純な味と焼酎が見事にマッチ

で、こういうおおざっぱな味だと、素材それ自体の味は余り深みがない。そこで、勢いガンガンと味付けをすると言うことになるのだけれど、これが、甘い、塩辛い、酸っぱいという、味がハッキリしたものになる(反面、香辛料は殆どもっちいられない)。つまり、素材を生かすのではなく、まさに「味付け」をするのだ。とりわけ甘みが強い(南九州の醤油が茶色で甘いというのは周知のことだろう)。南蛮なんて料理法が典型で、これは小魚を天ぷらにした後、酢でマリネにする、しかもここには砂糖と唐辛子がバッチリという感じで、ほとんど素材本来の味が消えてしまうと言う状況になる。そうそう、宮崎名物チキン南蛮は、甘酢に漬けた鶏を挙げて、これをやはり甘みを加えたタルタル(実はマヨネーズに砂糖を添加したもの。ふらんすのTartarとは似て非なるもの)をかけて食べる。ひたすら甘く、そして酸っぱい。

で、こうやってボヤーッとした味覚の食材と、ハッキリとした味付けというのは、どうみても焼酎向きなのだ。焼酎というのは、余り甘みが強かったりするのではない、どちらかというと「地味な脇役」的なアルコールなので、こういったボヤーッとした味と良くマッチする。また甘くどい味でいっぱいになった口の中を洗い流してくれるという地味な裏方役をやってくれる(チキン南蛮にはピッタリだ)。だから、こういった九州の食材・味付けの肴を口に含んでは、焼酎(僕の場合は、この味のくどさをより流しやすくするようにお湯割りにしている)を口に含むというやり方がベストマッチする。

じゃ、日本酒はどうなった?実は……全然飲まなくなってしまったのだ。(続く)

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宮崎を代表する芋焼酎・霧島各種(普通・黒・赤)



日本酒に戻った僕のアルコール・ライフ

宮崎から関東に戻って三年。僕のアルコール・ライフはすっかり変わってしまった、というか、以前の関東での生活のスタイルに戻ってしまった。それは日本酒→焼酎→日本酒という変化だったのだけれど、今回は、この僕のアルコール・ライフの変化について考えてみる。

とはいうものの、これは僕個人の問題として展開するわけではない。むしろ、僕と同じような酒好きが関東圏から九州・宮崎へ移り住み、そして再び関東圏に戻ったならば、おそらく、ほとんどが僕みたいになるだろうという、一般性を踏まえて考えてみたい。というのも、僕の味覚が変化したわけではなく、住んでいる環境が変化したからだ。ということは、僕のアルコール・ライフの変化は実は、その背後で文化、とりわけ食文化の違いを反映しているというふうに考えるのだ。いいかえれば、僕は食文化の触媒的役割を担っていると、エラそうに設定してみるというわけだ。

というわけで、今回は「アルコールのメディア社会論」をやってみよう。

宮崎生活ではアルコール志向が醸造系が蒸留系に

宮崎での酒宴の主役は焼酎”霧島”という芋焼酎だった(これは、現在、黒麹で醸造した黒霧島が全国のコンビニで売られている)。アルコールについて僕は醸造系派、つまりワインやビール、日本酒が中心。蒸留系、つまりブランデー、ウイスキー、そして焼酎というのは、それまであまり嗜まなかったのだけれど、宮崎に行った途端、蒸留系、というか焼酎系に変貌した。もちろん、80年代の第一次焼酎ブームの頃(「イッキ!」が流行った頃だ)は焼酎をよく飲んだ。しかしこの頃の焼酎と言えば、宝焼酎・純だとかキッコーマン・トライアングルだとかの、いわゆる「甲種」焼酎。つまりほとんど味のないものをサワーで割って飲むというパターンだった。これが、宮崎にやってくるやいなや、乙種焼酎(現在では「本格焼酎」と呼ぶ)、つまり匂いや味のするもの、しかも芋焼酎派に転じてしまったのだ

徳利に焼酎が!

これは、ある種、物理的要因が絡んでいた。そこで焼酎についてのエピソードを、一つあげてみよう。

大学に赴任した直後、新任の教員や事務員を対象に歓迎会が行われた。当然宴会上々では酒が振る舞われる。で、もちろん「とりあえず、ビールで乾杯」なのだが、問題はその後。酒の肴に舌鼓をしながら、ついで登場したのは熱燗の徳利だった。

「先生、お近づきのしるしに、まあ、一杯どうぞ」

と、差し出された徳利に「こりゃ、どうも」とばかりに、おちょこをさしだした。で、口に持っていった途端、僕はちょっと怪訝な顔をしてしまった。というのも、それは僕の頭の中に想定していたのとは異なった味覚のものだったからだ。つまり、徳利でおちょこにつがれるものといえば、それは「日本酒」と相場が決まっている、と僕は考えていた。

そこで、おもわず

「あの、これは?」
と、お酌をしてくれた先生に一言。すると、くだんの先生は

「えっ?焼酎ですけど、何か?」

と、事も無げに答えたのだ。「えっ?」と思ったのだが、ちょっと沈黙の後、まあ相手の気分を害するのもよろしくないので、何事もなかったかのような態度をとりながら

「あっ、そうですよね」

と、返事(何が「あっ、そうですね」なんだ?)

そう、それは焼酎。しかも芋焼酎だったのだ。

やっぱりここは九州。当然酒と言えば焼酎というわけだ。だから徳利に入っているのも焼酎と言うことか。

ここで、やっと僕は九州のアルコールの「常識」を知ったのだった。しかし、このエピソードは焼酎文化に僕が浸らされる、まだ序の口でしかなかった。(続く)


蒼井優のカルビーポテトチップス、宮崎あおいのearthのCMについての“美“について考えている。今回は最終回。

蒼井と宮崎が一般の女優の美からはちょっと離れていること。しかしながらその実力で記号論・メディア論的な美には適っていること。また、二人がCMのなかで、それぞれブサイク・下品、音痴・キレているという、これまた一般的な女優の振るまいとしてのコードから外れていること。しかしながら、実力派でトップ女優と認められていることが、こういったコード破りをわれわれが許容することを受け入れさせる力を持っていること。前回まではこのことを確認してきた。

新しい美の有り様を提案

二人における、これら二つの記号的美は、翻ってわれわれに対し、新しい美の有り様を提示している。つまり美人の新しい定義、そして女優が下品な、キレた演技をすることもありというという提案を。ちょいと一昔前の話になるが、倖田來未がブレイクした当時、彼女はセクシーでエロティックな振る舞いをしていたにもかかわらず、彼女を支持したのが女性たちだったということがあった。そして、彼女を表現するために用いられた造語が「エロかっこいい」だった。この言葉は「女性のエロティシズムが男性だけでなく、女性に向けて開放されていいてもよい。いや、男性を飛び越えて女性が女性に働きかけるエロティシズムが存在するべきだ」という言葉の提案となった。それが、結果として現在の倖田を独自の存在として輝かせ続けている。つまり、彼女は新しい記号表現と記号内容の関係=コードを提示し、それが一般にコードとして認められたわけで、ここでは倖田という存在が新しい記号的・メディア論的な美を提示し、認知されたことで、新たな一般的な美を構築したになる(ちなみに、彼女に与えられたこの呼称は、その後、優木まおみをして「エロかしこい」と表現させるということにも繋がった。これが、倖田のような新しいコードとなり得るかどうかは不明だが。なったとすれば優木もまた、芸能界に長く生き残ることになる)。

記号論・メディア論的な美が一般的な美に転じるとき~美と美の循環

さて、蒼井と宮崎のこの新しい美の提案、受け入れられるであろうか。僕は、二人の実力、知名度からして十分に可能なのではないかと考えている。実際この二人は、こういった冒険をすることが、オーディエンスの間ですでにかなり認められている。

そうであるとすると、この二人のコード破りを真似る連中が出てくるだろう。そして、これが一般化したとき、記号論・メディア論的な美は転調する。つまり、こういった新しい美が、倖田來未の「エロかっこいい」のように、コードとして認められるようなれば、これが美の一般的な基準となるのだ。

そう、実はわれわれが一般的に「美」とか「美人」と認識するコード=モードは、こういうコード破りの存在が、そのコード破りをある種の強烈な力を持って社会に認めさせてしまった瞬間成立するものなのだ。そして美の歴史というのは、こういうコード破りによるコードの再定義によって流転、変遷してきた。また変遷し続けるというのが正しい認識となるだろう。平安時代の美人が下ぶくれ、細めのおかめ顔であったこと、終戦直後の美人の典型が、目が離れたギョロメで剛毛カールヘアの原節子であったこと。今考えてみればヘンな話だが、こういう「美人という記号」の変遷の一断面と捉えれば、極めて納得がいく。

そう、蒼井優と宮崎あおいは美人の未来形なのだ。

記号論的な美を振りまく実力派の二人

井優と宮崎あおいは、はっきり言って、現在の美人というカテゴリーからはちょっと遠い。しかし、彼女たちはあちこちで引っ張りだこだ。蒼井は映画の主演が非常に多いし、宮崎に至っては主演する番組はどれも人気を博するというデータがある(NHKの朝ドラ「純情きらり」と大河ドラマ「篤姫」で高視聴率を記録した)。つまり、この二人、観客、視聴者、そしてプロデューサーを夢中にさせる能力=才能、言い換えれば異化作用をわれわれに起こさせる何かを持っているのだ。そして、それを極言にまで生かそうとしたCMが今回取り上げた二つと考えていいだろう。

ゲジゲジ眉毛と、下品な喰いっぷり

まず蒼井優のカルビーポテトチップス。前述したように蒼井はほとんどすっぴん。彼女はあっちこっちにほくろがあり、眉毛がゲジゲジだが、化粧がほとんどなされていない、しかもこれをアップすることで、これらが一層強調され、かなりグロテスクに見える。そして、トップ女優としてはあり得ない大口を開けポテトチップスを一枚口に放り込むのだ。しかもスローモーションで、このグロテスクさはデフォルメされ、さらに口に放り込んで頬が大きく膨らんだ瞬間が「カルビーの、ポテトチップス」というナレーションの「ポ」の部分と重なって、頬が膨らんだことが強調されている。ここでは、一般的な美の基準が、ことごとく否定されている。

もし一般的な美の基準でポテトチップスのCMを撮影するなら、まず蒼井にしっかりとメイクをし、もう少し引き気味のカメラでポテトチップスをちぎるような形で一気に一枚かじり、その後にニッコリと微笑みさせるというやり方をするはずだ。こうすれば女優の「一般的」な美しさを保持しながら、ポテトチップスのサクサク感を表現できる。

しかし、前述したようにこのCMはこの「ベタな撮り方」とは正反対のやり方だ。「あの蒼井が、下品なやりかたでポテトチップスを食べている。しかもすっぴんで。なんかちょっと下品っぽくない?」多くの視聴者がこんな感じで、驚きを持ってこのCMからインパクトを受け取るのだ。そして、このCMに強烈な印象を受ける。

実力派女優という記号が、こちらにグロテスクさに対して美を読み取ることを要請する

だが、「かわいい蒼井が、あんな下劣な……ありえない」と言いながら、「なんで、こんなCMになっているんだ?」という疑問が浮かぶ。そして、このCMについての印象がいつまでも尾を引いてゆく。こういった違和感とインパクトは宮崎あおいのearthのCMも同様だ。「あんな音痴で、ブチ切れた、泥酔状態みたいな歌い方をするなんて」、そしてこちらも強烈な印象を視聴者に残していく。

そう、この二人にわれわれは異化作用を起こしているのだ。「なんで?」と問いを立てるときには、記述したように記号表現と記号内容にズレが生じている。この場合、二人の人気女優という記号表現と、その人気女優にふさわしい演技という記号内容がまずわれわれにコードとして存在し、次いで、このコードにふさわしくない行動=記号内容がふたつのCMには出現する。そこで「なんで?」となるわけだ。

ただし、こういった異化作用を起こすことができるのは、二人が人気女優であることに加え、実力派女優で、そのことをわれわれが良く認知しているという前提に基づく。だから、このブサイクな演技は、そういった実力派女優の新しい演技のスタイルとして受け入れなければならない、つまり記号として理解しなければならないという強い要請が働くのだ。これが、ただの無名のブサイクだったらと考えれば、このことは納得がいく。なんのことはない、無名だったら、ただグロテスクなだけで、こんなCMを見ようとはしない。まちがい、として切り捨てられるだろう。

かくして、われわれはこのCMに異化作用を働かせ、新しい美を読み取ろうとせざるを得なくなるのだ。(続く)

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