勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年08月

バンコク安宿街・カオサンでのバックパッカーインタビュー第二弾をお送りします。


世界が計算不可能なことを教えてくれたキリマンジャロ


Sさんは29歳のサラリーマン。自由で闊達な社風で知られている自動車会社の営業で働いている。バックパッキングは大学時代にはじめて以来、ずっと続けている。そして今回はなんとタンザニア。というよりもキリマンジャロ制覇。十日間の短い旅行期間を有効に活用して頂上までたどり着いたのだが。キリマンジャロが彼に見せてくれたものは想定外のものだった。


計算可能な人生をやってきた

-----バックパックキングはじめたきっかけは
これをバックパッキングと言っていいのかはちょっと疑問かも知れませんが、自分がバックパッキング的な気持ちではじめた最初の旅は南アフリカ行きでした。実は、一年間の語学留学だったんです。学ぶ言語は英語。だったらアメリカとかカナダとかを目指すのが普通ですが、南アフリカを選んだのには、きちんとした理由がありました。それは、そこに行くことが自分の将来にとって有利と考えたから。南アフリカは治安が悪かったり、アパルトヘイトの問題があったりと、国家としては一目置かれた存在。そんなところに一年行ってたなんてことになれば、就職の面接の時に目立つだろうと考えたんです。

-----実際にはどうでした
てきめんでしたね。南アフリカのことを話し始めた途端、面接官は食いついてきましたからね。おかげでいわゆる一流どころの企業からはいくつも内定をもらい、そして第一志望の現在の会社に入社したわけです。自分の人生はこんな感じで、だいたい何をやるかについて想定して、計画を立てて、これを着実に実行していくという感じで。まあ、それがだいたい成功してきたというところはありますね。しかし、今回のキリマンジャロ行きで、この「計画通り、想定内」という認識が大きく崩れてしまいました。

自然は計算通りにはいかない

----キリマンジャロでは何があったのですか
ガイドやヘルパーを三人ほど雇ってキリマンジャロを目指したのですが、途中でほとんど高山病という状態になってしまい、結局、下山するときには両脇を抱えられてと言うことに。自分としては、十分な準備と計画を立てて、しかも高山病対策までしていたんですが、それでもダメだったというのはショックでした。とにかく、やろうと思っても全く身体が動かない。くやしいというか。しかし、いちばんショックだったのは、自分の自信が失われたこと。「全て計画すればそれは必ず実現可能」というようなこれまでの思い込みが、自然の脅威によって一気に打ち崩されてしまったんです。
ショックでしたね。しかし、それと同時に新しいことも発見しました。実はこれまで、自分は「無意識のうちに自分が達成可能なことにのみハードルを設定して、単にそれを達成してきただけにすぎない」ということに気づいたんです。

新しいハードルを発見した

-----もう少し詳しくお話しいただけますか
出来ることを出来てそれに満足しているだけ、ということに気がついていなかった。これが自分にとって見えない壁、限界だったんです。ところが今回、自然が自分に提示したことは現在の自分では出来ないこと。だから当然、これを達成できない。それは、さっき言ったように、自分が一定の枠の中でしか行動していなかったことを教えてくれたんです。でも同時に、今度は自分が目指すべき新しい世界を見せてくれもしました。つまり、これからは「出来ること」ではなく「出来ないこと」を設定し、これにチャレンジしていく。そうすることで、現在の自分がXだとしたら、これにチャレンジしていくことで今度はX二乗、さらにはX三乗の自分に到達できる。これは、これからの自分の仕事にも十分に生かせることだと考えますね。自分の殻を認識し、それを打ち破っていくこと。それはつらいことだけれど、最終的には満足度の高いものになる。そういった意味では、新しい、チャレンジしていくものを教えてくれると言うことで、バックパッキングはこれからも続けていくでしょうね。

インタビュー後記

“Sさんにとっては、これまでのバックパッキングは、実は日常の延長でしかなかったのでは?”インタビューの中でふとよぎったのがこの印象だった。これまで三十回ほどのバックパッキングを経験している彼だが、実はそれは、ちょっと辛口の表現をすれば「点数稼ぎ」、ややもすれば「出世の道具」。それが今回、キリマンジャロで自然と対峙することで、この点数稼ぎが「自分自身の成長」へ向けられたのではないか。つまり三十一回目にして、彼は新しいバックパッキングの意味を見いだしたのだ。


現在、僕はタイに滞在中。その間、バンコクの安宿街カオサンでバックパッカーにインタビューを行った。なぜ、バックパッキングをするのかを聞き出すのがその目的。そこで、今回からそのインタビュー内容について紹介したい。今時のバックパッカーは、何を考えているのか?


バックパッキングは人生の意味を五感で伝えてくれる

大学で経営工学を学ぶOさんはバックパッキング2回目。1回目は今年の春で、それから間もないこの夏、また海外に飛び立った。とにかくバックパッキングの魅力に魅せられて、行かずにはいられなくなってしまったのだ。そこまで彼をバックパッキングに駆り立てるのは、実は、Oさんが人生との大きな結びつきをそこに感じていたから。では、それはいったい、何だろう。(8/7、午後二時半~四時。Buddy Lodge内、World Coffeeにて)

成長しているアジア諸国を見てやろう!

----バックパッキングをしようと思ったきっかけは?
インドに行こうと思ったことです。近年、中国やインドが急成長していますが、恐らく将来、仕事で関わる国になるので、五感を通じてその感じをつかんでおきたいと思ったんです。現在、大学で発電所設計や下水処理システムの開発について学んでいます。これらの技術が関わる仕事のフィールドは、やはり開発途上国。そういった国でのシステムの構築のためには、現地の人の望むものは何なのかを直接知っておかなければいけないと考えました。そのためには、現地の人々と直接関われるバックパッキングがベストの方法と判断したわけです。そこで、今年の春、一ヶ月かけてインドを回りました。

旅が教えてくれた将来との接点

----実際にインドを訪れてみていかがでしたか
とにかくショックでした。
成長していると言っても、街にはたくさんの路上生活者がいる。「これのどこが成長しているんだ?このままの状態、路上生活者がたくさんいる中でも、このままこの国は成長できるんだろうか?」そう考えたとき、自分が子どもの頃、テレビでこういった風景が映された時に感じたことを、ふと思い出したんです。「自分と違ってまともに食事にありつけない人がいる。世界にはこんな人がいてはいけない」って、その時は子供心に思ったんですが、実際にそういった人を間近に見て、ますます「こりゃ、何とかしなけりゃいけない」って思っちゃいましたね。ちょっと恥ずかしいんですが、自分の中にある「正義の味方」みたいな感覚がもたげてきて。おかげで、いま研究している分野の仕事で、こういった人たちのために貢献してやろうって気がグッと強くなったような気がします。

バックパッキングは内と外、二つの世界を見せてくれる

----そこで、今度は東南アジア、というわけですね
当初はアフリカに行こうと思っていたんですが、親に危険だからやめてくれと懇願されたのと、予算がちょっとかさむということで、今回は一ヶ月かけて東南アジアにしました。タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、それからネパールを回る予定です。その国の人たちの生活の様子を見て、この国には何が必要なのか。そしてエンジニアとして、どうこの国と関わっていけるか。どん欲に吸収できたらいいなと考えています。

---自分の将来の糧としてのバックパッキングという印象を受けましたが
ちょっと、カッコよく言いすぎちゃったかも知れません(笑)。もちろんバックパッキングだからアドベンチャーしてやるぞという気分もあります。地図でしか知らなかった場所を自分の脚で確かめてみること、言葉が通じない、誰も助けてくれない環境で自分がどういうふうにこれをやりくりして行くのかを、もう一人の自分の視点から見てみること。こんなところもバックパッキングの魅力と思っていますから。

----Oさんにとってバックパッキングはいろんなことを教えてくれる手段と言うことですね
バックパッキングは、そのままでは手の届かない世界を見ることが出来る。その世界は二つ。一つは見知らぬ「外の世界」、そしてもうひとつは見知らぬ自分自身の「内側の世界」といったところでしょうか。バックパッキングにハマったのは、自分が結局、何をやらなきゃならないのかを、五感を通じてリアルに教えてくれるからでしょうね。

----まだまだバックパッキングはこれからも続きそうですね?
現在は大学三年ですが、卒業後は大学院に進学することを考えるようになりました。もっともっと技術を上げなければ貢献はおぼつかないし、もっともっとバックパッキングしないと、現地にあった技術を見いだせないですから。
もっとも、行き損ねたアフリカにも、やっぱり行きたいというヤクザな気分もちゃんと入ってますけどね。進学すれば二年間、時間を稼げますから。(笑)

インタビュー後記

「バックパッキングと自分の将来ががっちりと繋がっている」という印象が、Oさんの旅スタイルには感じられた。これからも旅を続ける中で、自分の将来の目的意識と仕事へのモチベーションがどんどん高まっていくのではないだろうか。また、正義の味方でも独善的にはならないように警鐘を与えてくれる役割も旅は果たしているのだろう。でも、まだ彼の先は未知数。だから、Oさんの旅もまだしばらくは終わりそうもない。

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(人でびっしりの夜のカオサン通り)



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(お店の女の子たちも、ちょっと“水商売”風)



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(カオサンのかつての面影を残す数少ない風景。ただし、これは一本北のランプトリ通り)


日本人が見あたらない?

タイ・バンコクの安宿街・カオサンの変容について「日本」との関連で考えている。前回までは日本料理についてお伝えしたが、最後に日本人の状況についてお知らせしておこう。

カオサンの日本料理店がタイ人が目立つようになったのは、何もタイ人だらけになったと言うことだけではない。もうひとつその要因として「日本」に関してカオサンが重要な変化を抱えていることも指摘しておく必要がある。それは……日本人がものすごく減っていることだ。

もし、カオサンで横に広がり連れ立って歩いている東洋人を見かけたら、それは間違いなく日本人ではない。韓国人の若者だ(韓国人のバックパッカーは必ず連れ立っている。しかも三人以上というパターンが多い)。しかも、その数は日本人よりはるかに多い。今回、僕はここで旅の安全に関するアンケート調査をやっているのだが、実は、全然集まらない。これが十年前だったら一日で百票くらいは簡単に集まった。今回は十日間でこれくらいが関の山といった感じなのだ。

この辺の事情についてはカオサン老舗の旅行代理店M.Pツアーのスタッフもお客さんが全然来なくなったと愚痴をこぼしていた。また僕の友人で、十年来バンコクに春と夏となるとずっと暮らしているフリーターの友人がいて、彼はランプトリ通り西端の屋台群の中で焼き鳥を時々売っているのだが(ここの屋台群はファミリー。この家族と仲良くなって彼はしばしば自宅に居候になるようになったのだが、その代わり無報酬で店番をやっている)、やはりここ数年の日本人旅行者の減少には目を見張るものがあるという。日本人の中でも、とりわけ減少率が激しいのが若者・学生の旅行者。だから、道端で出会う旅行者は、結構、年齢層が高い。98年に僕がアンケート調査した際、平均年齢は21.4歳だったがこれよりかなり上がっているのでは無かろうか。また学生が八割以上だったが、これもちょっと様子が違うように思う。

ちなみに前述のフリーターの友人は、日本にいるときには某大学で非常勤講師を勤めている。そこで、たまにだがバックパッキングの話をしたりすると、関心を抱いた受講生が授業後に質問に来たりすることがあるのだが、彼らの関心は「レトロなものへの好奇心」といったほうが正鵠を射ているという。五十=新人類の僕が六十=団塊の人たちの学生運動を好奇心をもって想像するようなものだ。

バックパッキングは、もはやイケてない?

要するに、バックパッキングなど若者にとってはもはや旬ではないとうことになったのかも知れない。海外へのまなざしが次第に消失し「内こもり」になる日本人。たとえ海外でも韓国、中国、台湾といった安・近・短志向(こちらの観光客は年々増加傾向にある。その一方で欧米は年々減少している)。来年、カオサンの日本人はどうなっているのだろうか?

それでもカオサンはそんな日本人の事情などおかまいなしに、また変容していくのだろう。

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(レストラン”Kansai fu(ll)の店内。タイ人たちが楽しそうに和食をつつく)


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(日本料理屋台”Japanese Tavern”。食事をする二人は韓国人)



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(“Japanese Tavern”のメニュー)



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(からあげ定食を注文してみた。味はしごく”まっとう”)


客層も、またヘン

タイ・バンコクの安宿街・カオサンの変容について「日本」との関連で考えている。このエリアの日本が、ちょっとかわりつつあるのだ。前回は妙ちくりんな日本料理店が建ちはじめていることについて指摘しておいた。今回はもうひとつ、というかこっちの方が実はオドロキなのだが、ヘンなところとして挙げておかなければならないものがあり。ある意味、こっちの方がヘンであるのだけれど。それは客層だ。ほとんどタイ人なのだ。

かつて、日本料理店は日本人バックパッカーのためにあった

前述した竹亭やレックさんラーメンがオープンした頃(98~99年)、客のほとんどは日本人だった。竹亭の方は寿司を出しており、これで、ここにやってくるファラン=欧米人も客層としてあてにしていた。欧米では寿司と言えば高級料理。日本人にとってのフレンチに該当する。それが安宿街カオサンで五百円、つまり4ユーロくらいでありつけるとなればこれは欧米人にとってはウレシイ。こう言ったこと当て込んで竹亭のご主人・橋本さんは欧米人向けの寿司(アボガドをベースとした各種の巻き寿司)を用意していた。ただし、カツ丼、天丼、そばという、日本人が食べたい料理もきっちり揃えており、それゆえ客層は日本人と欧米人のミックスだった。

一方、”流浪のラーメン屋”レックさんラーメン(オーナーのイジメによって店の場所を転々とし続けた)の方は、例えば四店舗目(カオサンでは三店目)がランプトリ通り・SAKURAゲストハウスという日本人宿に併設されており、ここの日本人宿泊客と、この客から口コミで広がった日本人旅行者を相手にしていたが、竹亭に比べると価格が安いことからバックパッカーのたまり場になっていた。

タイ人の、タイ人による、タイ人のための日本料理

ところが、新設された日本料理店は違う。客のほとんどはタイ人なのだ。ご存じの方も多いだろうが、現在、タイは空前の日本料理ブーム。Oishiというレストランが食べ放題のレストランを開いて当たったのが始まり。しかも、ここがペットボトルの緑茶を販売するやいなや、全国的な大ブームとなり、今やコンビニのペットボトルの主力商品となってしまったほど(ほとんどは砂糖入りなので、われわれ日本人は口にするとビックリするのだけれど。進出したキリンの生茶でさえも砂糖入りになっているという状態)。そして、今やブームを飛び越えてしまい、もはや定着した感すらある。この波がカオサンにまで押し寄せてきたのだ。前述のKansai fu(ll)もお客のほとんどは日本人。おもしろいのは家族連れみたいに複数での来客が多いこと。みんなでわいわいやっている。

日本食の普及の程度がわかるのは日本料理屋台だろう。つまり日本料理は屋台にまでなったのだ。カオサン通り一本北を並行して走るランプトリ通りにJapanese Tavernという屋台がオープン。メニューはカレー、からあげ、カツ丼、鯖ステーキなど。どれもご飯と味噌汁がつく。米はジャポニカ米を使用。味はごくごくまとも。一般の大学の学食よりもおいしいくらい。ということは、ヘンでもなんでもない日本料理がカオサンで提供されていると言うことになる。そして、この屋台の周りを囲むお客は、やっぱりタイ人なのである。

これまでの日本人バックパッカー向けレストランも……

いや、これだけではない。最初に挙げた竹亭やSAKURA屋(旧レックさんラーメン更。オーナーも代わっている)も様子が変わっている。どちらも、やっぱりタイ人だらけ。竹亭はご多分に漏れずタイ人が増えた。面白いのはSAKURA屋で、ここは場所がもの凄くわかりにくい。ほとんど看板がわからないところに掲げてあり、しかも長い廊下の先、ビル奥の階段を上がった五階(エレベーターは二年前から壊れたまま)にあるので、口コミでなければ絶対に知られそうもないところなのだが、ここにわんさとタイ人がいるのだ。かつてだったら、日本人だらけで日本に帰ってきたかのような錯覚に囚われたこの空間が、今ではタイの日本料理店で日本人がぽつねんと食事をするといった風情に変わっている。おそらく「ここは安い」といううわさがタイ人たちの間に広まったのだろう。やはり、仲間と連れだって、いろんな種類の料理を注文している。それは、さながらパーティを開いているようでもある。(続く)

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(レストラン,Kansai fu(ll))


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(お好み焼きはここのメインの一つ)



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(豚玉。中にまでソースがびっしりで、素材の味を全て台無しにしている(笑))



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(オープンキッチン・スタイル。板さんが鉄板で腕を振るっている)


日本料理店が盛況

タイ・バンコクの安宿街カオサンの変容について考えている。

80年代、日本人バックパッカーがバンコクで定宿としたエリアはファランポーン駅(バンコク中央駅)西のジュライ・サークル周辺だったが、90年代に入りここは寂れ、代わってカオサンに日本人が大挙して押し寄せるようになる。そして、日本人バックパッカーにとってバンコクと言えばイコール、カオサンを指すようになっていった。

当時、日本人が困ったのは、ここにはまだ日本的環境がほとんどなかったこと。日本人がタムロするゲストハウスはすでにあったものの(Friendly G.H.、Terrace G.H.、Thai G.H.など)、日本食レストランはカオサン通りには一件もなく、日本食にありつこうとするならカオサン北・バンランプー地区・プラスメン通りの8番らーめんか、その数軒先にあるあやしげな日本料理店・クライ・シーに行くか(いまだに、かなりあやしげな料理にありつけて、おもしろい。興味ある方はお試しあれ)、スクムビットの日本商店街まで脚を伸ばさなければならなかった。

そんなカオサンに日本料理店がオープンしたのは90年代末。竹亭、レックさんラーメン、トラベラーズ・ロッジ併設食堂などが相次いでオープンした(後者二店舗は現存せず)。バンランプー運河を越えたところにはMusashiという居酒屋も。遅ればせながら、やっとのことで日本の環境も、この頃から、ここに入るようになったのだった。

ところが、2010年の今年、カオサンにやってきてみると日本料理店はさらに数を増やしていた。気づいただけでも、新たに五店舗がオープン。しかもそのうち二つは屋台だ。寿司、刺身、てんぷら、カツ丼、カレーライス、そば、ラーメンはもちろんのこと、チェンマイ産コシヒカリのおにぎり、広島風お好み焼き、オクラ納豆なんてものを出すところまで。現地で生産しているということもあるが、スーパードライのドラフトを提供しているところもある。

ところが、である。この新しく建ちはじめた日本料理店。ちょっと、ヘンなのである。

退化した?日本料理

バンコク・安宿街・カオサンを巡る最近の変貌のひとつに「日本」という言葉にまつわるものがある。まず日本料理店。これがカオサンに林立し始めたのだ。ただし、これがちょっとヘン。その「ヘン」なところだが、いろいろある。

一つは味。カオサンに日本料理店が建ちはじめたころ、その店の味はまあ、日本のものと同じというわけにはいかないが、かといってそんなに変なものでもなかった。メニューだってうどん、そば、寿司、カツ丼、という感じだったのだ。たとえば竹亭のメニューは至極まともだし、レックさんラーメン(あちこちに店を移動し、おしまいにはカオサンから追放されてしまった)も味は薄いが、まあラーメンだった。

後発の店のほうがヘンな味

ところが新しく開店した店の中にはメニューがむしろヘンなものがあるのだ。かつて、まだ日本の食文化や、日本人の海外渡航者が少なかった頃、世界の主要都市に点在した日本料理店は、日本に関する情報がかなりメチャクチャだったため、味の方もかなりヘンだったのだが(たとえば80年代前半、インド・デリーのコンノート・プレイスにあった日本料理店”GINZA”では、「豆腐もやし」「すき焼き天ぷら」という奇っ怪な料理があった。前者は高野豆腐ともやしをギーの油で炒めたもの、後者はマサーラー味付けの甘い醤油に天ぷらが入っているというものだった。どうみても和食からはほど遠かったのだけれど)、こういったヘンな味付けが、結構ある。たとえば、今年オープンした”Kansai fu(ll)”というレストラン。お好み焼きとそばうどん、そして神戸ステーキと寿司・刺身がウリなのだが(まあ、このラインナップだけでも、ちょっとヘンではあるのだが)、ここの広島お好み焼き、牛すじ焼き。簡単に言うと、どっちももの凄い量のソースで素材の味を全て台無しにしているというかソースを味わうといった感じになっている。いや、よくよく考えてみれば牛すじ焼きをソース味にするって、あったっけ?

でも店内はオープンキッチンふうで、タイ人の板さんが和食料理人の格好で鉄板を扱っている。

でも、この「ヘンな日本」は料理だけに留まらない。(続く)

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