勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年08月

8月15日は終戦記念日。日を前後して戦地で散った若者の記録や、戦災を受けた人々の体験が語られる。こういった報道の継承はもちろん重要だ。だが、もっと多くの人々が体験した、あまり語られることのない戦争の記憶も、まだあるように思う。

僕の従兄(歳は三十近く離れていたが)は、終戦の日、朝から池に釣りに行き、帰宅した際、その事実を父親の”鉄拳”で知らされた。「こんな大事な日に、なんと不謹慎な!」というわけだ。
当時の大多数の日本人にとって、戦争というのは、こういった日常の中にあっただろう。ある日、戦争が始まり、激化し、敗戦色が濃くなり、そして戦争が終わった。だが、身の回りには爆弾一つ落ちてこなかった。そういった「大きなことは何も起こらなかった戦争」こそ、これから語られるべきではないだろうか。

もちろん、何も起こらなかったわけではない。戦地に向かった知人や肉親の何人かは帰らぬ人となっている。だが、死は紙で知らされるのみ。また日に日に生活事情が逼迫し、戦時統制も厳しくなっていく。こういった、ひたひたと日常に入り込んでくる戦争の現実を、当時の人々はどう受け止めていたのだろうか。

現在の若者はもちろん、団塊世代ですら戦争経験はない。だから、戦争を様々な視点からイメージすることが必要だ。そして最も共有された経験であるにもかかわらず、地味ゆえに語られず、イメージしづらいのが、こういった、いわば「何も起こらなかった戦争」だ。
そう、それは、もうひとつの戦争の悲惨さを物語っているはずだ。
(神奈川新聞2010/8/29掲載文)

英語力低下は教育力低下

前回までは僕が教鞭を執る下位有名大学(偏差値四十台後半)の学生の英語力が中一レベルであることをお知らせしておいた。だが、これはなにも僕の教えている大学生たちに限っていることではなく、むしろ現代における日本人の教育力低下を物語っていると僕は考えている。そして、国際化云々で英語力のことについてはしばしば指摘されるので英語力ばかりが問題視されているのだが、実はそうではなくて、この英語力の酷さは、単に日本における教育の問題を象徴しているに過ぎないとも僕は考えている。つまり、教育全般がヤバい!ではそれは何か?

詰め込み教育の弊害(ベタですが)

それは、あまりにベタで申し訳ない結論ではあるが(あとで一ひねり入れますので、少々お待ちください)、詰め込み教育の弊害であるからと考えられるだろう。文科省も指摘していたように、とにかく役に立たない知識ばっかり教えるようなことをやっていたので、教える教育内容=情報の中身がわからない。要するに教育を受ける子どもたちは、咀嚼せずにひたすら呑み込むというような「大量の餌(=学習知識)でフォアグラを作らされているカモ」みたいな存在だ。

実際、僕が学生だった頃には、こういった「学習フォアグラ」みたいなヤツが結構いて、こういう連中は完全に「?从甲諭瓮▲織泙いい」とか勝手に考えているほどアタマが悪かった。その一方、当然ながら、実践力が極めて乏しかった人間がやたらと多かったのだけれど。英検一級と英検ナシの大学一年生を同時にタイに連れて行き、安宿街カオサンのボロゲストハウスに投げ込んだことがあるんだけれど、帰り際に友達をたくさん作って、楽しくコミュニケーションしていたのは英検ナシの方だった。つまり英検一級は完全な「学習フォアグラ」でまったくフットワークが効かなかったのだ。

こんな連中を大量生産したわけで、そういった意味ではその後「ゆとり教育」なんてことを考えはじめたのは、結構マトモな発想に思えないこともなかったんだが。

そして、ゆとり教育の弊害(ベタですが2)

ところが、このゆとり教育もまたどーにもならないものだった。ゆとり教育=学習内容の削減みたいなことになったのは、まあ、いい。ところが、ではどうするかについて全然考えがなかったのは大問題だった。ゆとり教育は、ただただ単に学習量を減らしただけ。ところが、教えるやり方は全くといっていいほど同じだった。つまりただ単に知識を詰め込むだけ。言い換えれば数が減っただけ。つまり知識の深度、よく噛んでその知識を身体化する、実践に有用なものとするというようなことは全然やっていない。こうなってしまうのは無理もない話で、教える側が詰め込み教育しか受けていないで、突然、ゆとり教育をヤレと言われたので、結局、何をやっていいのかわからず、単にこれまでの学習指導法を薄めただけと言うことになってしまったのだ。僕は宮崎県で郷土かるたの普及という事業をやっていて、小学校の先生方とよく話をさせいただく機会があるのだけど、口々に「総合的な学習の時間に何をやったらいいのか、全然わからない」と愚痴をこぼしていたのをおぼえている。

また、ゆとり教育は教育の機会について格差を生んでしまったことも大問題だ。学校五日制にして、なおかつ学習内容を減らす。それで教育すればどうなるか。なんのことはない、学校の教育だけを受けている子どもたちは、以前の子どもたちに比べて学習機会が激減してしまったのだ。一方、それに危惧した金持ちの親たちは、これを逆手に取る。つまり学校五日制でスカスカ授業なので、もはや学校の授業などほとんど相手にせず、子どもたちを塾に入れてビシバシ鍛えるのだ。しかも土日はおおっぴらに塾にぶちこめるわけで、しかも塾って言うのは競争原理、業績原理で回転している。つまり、子どもたちに学習内容をどれだけおぼえさせるかが商売の優劣をつけている。だから学校なんかよりもはるかに能率が上がる教育方法を用いて、少人数で生徒たちに、グイグイたたき込むわけだから、こりゃ成績は上がるはずだ。

かくして金持ちはどんどん成績がよくなり、ビンボーはどんどん取り残されるという格差社会の構造が出来上がったのである。

いちばんの問題点はやり方が変わらないこと

では詰め込み教育が悪いのか、それともゆとり教育が悪いのか。その結論は簡単だ。どっちも悪いし、どっちも悪くない。その二つに共通する教育方法が問題なのだ。そしてその問題点とは「ただ知識を垂れ流し的に提供する」というやり方だ。
よくよく考えてみてほしい。授業で一回やったくらいで、その学習内容が身につくなんてことが、果たしてあり得るだろうか。もちろん、ありはしない。学習というのは、同じことを何度も繰り返し、あるいは違うシチュエーションの中、文脈の中にその学習項目を流し込んでいくことで、やっと身につくものなのだ。これは哲学用語でテクネーと呼ぶ技術を指しているのだけれど、要するに実は技術というのは理屈や形式(こっちをハイデガーはゲシュテルと呼ぶ)じゃなくて、こうやって使いこなせるモノなければいけないというわけだ。そこで、次回は「テクネーって何」ってことを考えてみる。

レベル低下は果てしなく:中二レベル未満の傍証

さて、前回はいまどきの学生、僕が教鞭を執る有名下位大学だと、英語については五文系やsomeとanyの使い分けが出来ないという事実をお伝えしておいた。もっとも、これは中三レベル。まあ、よしとしよう。で、じゃあ中二レベルはどうか?というjことになるのだが、これまたあやしくなってくる。やっぱり僕のゼミ生なのだけれど、ほとんどの学生が発音記号がわからなかったのだ。これって、中二で学ぶレベルなんだけど。

落胆するのは、これで終わらない。というのも、ついには、その未達成レベルが中一にまで英語力は達するからだ。それは、次のような英作文から判明する。

出題:以下の日本語を英作文しなさい。
「あなたはペンを持っていますか。はい」

学生の回答に複数見られた回答をまとめると

Are you have pen? Yes. I have.

となる。

一般動詞haveなら、疑問文は冒頭にbe動詞(この場合はare)ではなく助動詞Doでなければならない。それに対する肯定は、当然、助動詞のdoだ。(中学校ではdoやhaveが一般動詞と助動詞の二つがあるのに(もちろん他にも代動詞とかあるが)、これを区別して教えていないために、こういった混同が起こる。doがwillやcanと同じ仲間であることわかっていない)。ちなみにpenもおかしい。不定冠詞 a、定冠詞the、複数形のsのどれかがついていないとpenという単語は成立しない(もっとも、意味が伝わらないと言うこともないが。ネイティブはだいたいは行間を読んでくれるので。かつて山田邦子のギャグのなかに、飛行機の中で飲み物を注文されたときに ”I am orange juice”というメチャクチャな返答をすると言うモノがあったが、実用レベルでは、ヘンテコであっても、これでも十分通用する。これを理解できないネイティブがいたら、よっぽとアタマが固いといわなければならない)。
ということでやたらと間違いだらけになるのだけれど、問題なのは「あなたはペンを持っていますか。はい」という英作文の文法は全て中一レベルの学習内容なのだ。……ということは、僕の大学の学生の英語力レベルは中一並ということになってしまうのだが。

中高六年間をかけて、ほとんど何もやっていないっていうのは、いったい?

日本の教育では大学に進学するまでに(現在進学率は五十パーセントを超えた)六年間に渡り英語を教えている。それでは足りないというので、今度は小学校に英語教育を導入しようという話が進んでいるが、こういう英語力を前提に考えれば幼稚園から英語教育は導入しなければならない。つまり幼稚園三年間、小学校六年間としてトータル十五年間かけて英語を教えなければ、大学生の英語レベルはあがらないと言うことになるが……。

いや、そういうことではないだろう。六年間もかけて英語を教えながらレベルが上がらないというのは、日本人が消費生活ボケ、平和ぼけでバカになったか、あるいは教え方が根本的に間違っているか、どちらかと考えるべきなのだ。で、僕は当然のことながら後者の問題と捉えている(まあ、前者の要因もないとは言えないかもしれないけれど)。実際、こういったとんでもない英語力の僕の教え子たちにしても、最初っから、つまり中学一年から英語をちゃんとやり直すと一年くらいで高校生くらい、つまり英検二級に届くか届かないかくらいのレベルにもっていくことはできるのだから(実際、英語教員志望の学生たちを対象に中学英語を学ぶという教室を開いたことがあったが、学生たちのほとんどは、この期間で、このレベルに達し、そしてそのほとんどが、現在、中学校で英語の教鞭を振るっている)。

で、英語教育にまつわる、このレベル低下の問題。よくよく考えてみれば、実は英語のみに限られた話ではないのではないか。つまり、あらゆる科目がレベル低下していて、英語はたんにそれを象徴するに過ぎないのではないか?

そう、学生たち、生徒たちがバカになったのではない。教える側がバカになったのだ。ということで、次回は、現代の教育における問題点について深~く考えてみたいと思う。(続く)

大学生の英語力は中学生レベル?

内田樹が著作『下流志向』の中で嘆いていた。嘆いていたのは、自らが教鞭を執る学生の英語力レベルのこと。英語関係の教員から「本学の学生の英語レベルは中三程度」と知らされ、がっかりしていたのだが、それが何年かするうちに今度は「中二程度にまで下がった」と言われたことだ。
内田が赴任する大学と僕の大学の偏差値はだいたい同じようなものなので、この指摘はとっても納得がいく。ほとんど状況は同じだからだ。と同時に、内田と同様、僕もこのことを嘆いている。ということで、まず最初に、お恥ずかしい話だが、僕の大学の学生の英語力の現状ついて若干のエピソードを示してみたい。ちなみに、僕は塾や予備校で英語教師をしていたこともあり(英語主任をしていたこともあった)、学生の英語力というのはかなり的確に把握できるという自身は、まあまあ、ある。

「someとanyの区別がつかない」なんてのは序の口:中三レベルの英語力がないことの傍証
たとえばsomeとanyの区別。どちらもベタに訳せば「いくつかの」だけれど、ネイティブの使い方は全く異なる。
まず中学校のレベルでの使い分けの教え方は、「「いくつかを」肯定文ならsome、疑問文・否定文ならanyにする」というもの。つまり

I have some questions.
Do you have any questions?
I do not have any questions.

というところになるのだが、これは中学レベルの教え方(で、ほとんどの中学英語教師は、この使い方をなんの疑問もなく教えている。ヤベェ。)。実際には

Do you have some questions?

というのも、もちろんある。
someとanyの使い分けは、これらの文を発する前提として、その存在の有無が文脈=コンテクスト=空気にあるかどうかで決定される。つまり

Do you have any questions?

なら「なんか、質問ありますか?」もうちょっとわかりやすくいうて「あんたら、しつもんあんの?ないの?」という意味。

一方、

Do you have some questions?

なら、おなじ「なんか、質問ありますか?」でも「あんたら、当然、質問あるよね!」となる。( 同様に”Can I have a coffee”というのもネイティブではフツーにあるのだけれど、中学英語では×になる。”Can I have a cup of coffee”のみが正解なのだ。ちなみに「缶コーヒー一本ちょうだい」というときは前者しかありえない)

しかし、しかし。こんな英語の詳細については、まあどうでもいい。というのも、ウチの学生(Eクラスの有名大学生)の場合、こんなことはチョー難しいので、まだまだ学ぶのは先の話(トホホ)。でもって中学校レベルで学ぶ、この紋切り型のsomeとanyの使い方すら知らないのだ。ちなみに、彼らが英語で「ちょっと質問したいんですけど」という英語は”Can I have any question?”だった(anyがおかしい。強いて訳すと自分に向かって「オレって質問あるのか?」という自己言及的、かつ哲学的な問になる)。

レベル低下はもっと先を行く

と、これくらいでまだ驚いてはいけない。さらに英語のレベルはもっと酷いことがわかってくる。まず、僕のゼミ生の全員が五文系を言うことが出来なかった(S+V+E+Cなんて回答があった。Eって、いったい?せめてMくらいのマチガイにしてほしい)。もちろん五文系の訳し方のパターンも。とりわけ面白かったのは第五文系の使役動詞の運用でI make him go there.という文章を訳させようとしたところ、ほとんどの学生がフリーズ。指名した学生が苦し紛れに訳したのが「私は彼を作るのが……(以後、絶句)」。要するにmakeというのは「作る」という意味しかインプットさせていないのだ。 ニューヨークでイエローキャブの運転手に「もう二ブロック先へ行って」と頼むときには”Make more two blocks”となるが、彼らにしてみれば、さらに二つのエリアを建設させる、という無理難題な巨大プロジェクトをイエローキャブの運転手に押しつけることになるのだ。

いやいや、レベル低下のレベルはこんなもんじゃあ、ない。(続く)

「目的をもたない旅」の先にあるもの


Yさんは、今回で海外旅行が4回目。とはいっても、初めての海外旅行が昨年の夏。ということは、この一年でこれだけの海外旅行をこなしていることになる。そして今回が初めてのバックパッキング。三度の海外経験でバックパッキングが自分の旅行スタイルには向いていると考えるようになった。そのスタイルとは「ボケーッとすること」。Yさんは旅に、そしてバックパッキングに何を求めているのだろうか。(196)(8/7、午後二時半~四時。Buddy Lodge内、World Coffeeにて)


アメリカの語学研修で受けたカルチャー・ショック

-----海外旅行のきっかけは
昨年の夏、はじめて海外に出かけました。行き先はアメリカ。大学のスタディ・プログラムに一ヶ月ほど参加したんです。そこでは提携大学で英語レッスンの毎日でした。とにかくハードで、それをやっていると一日が終わってしまう。海外に来たことがわからなくなるくらい忙しい。取れる自由時間は、食事や移動のほんのちょっとしたあいだくらい。でも、その間にアメリカ人の日常生活が垣間見えて……実はこのプログラムでいちばんカルチャー・ショックを受けたのが、こういったちょっとした時間に見聞きした風景でした。たとえば鉄道の中では、たまたま居合わせた人が、まるで昔からの友人のように気軽に話をする。また、レストランでは家族や仲間が本当にゆっくりと、しかも話をしながら食事をする。日本がで自分がやっているあくせくした生活とは全く違うマイペースさが、とてもすばらしいものに見えたんです。いや、それどころか、こういう生活こそが正しくて、自分の生活が異常にすら思えるようになって。


ボーッとするならバックパッキングがいい

-----それがバックパッキングとどう結びついたんですか
こういった海外の人たちの普通の生活を見たり、聴いたり、感じたりしてみたい。そのためにはヘンな目的なんか持たない方がいい。語学勉強なんかより、街や人の風景をボーッと見ていたほうがよっぽど人生勉強になる。だったらバックパックキングがいいと考えたんです。
もっとも、今年の二月と三月に訪れたタイと台湾はパック・ツアーでした。まあ、友人といっしょに出かけたという理由もあったんですが。タイは、ツアーのスケジュールをこなしただけという感じで、完全に消化不良……これはかえってフラストレーションになりました。一方、台湾は航空券、ホテル、そして空港とホテルの送迎だけのフリープラン。期間こそ三日と短かったのですが、とにかくブラブラと街を歩き、台湾の人たちの行き交う姿をボーッと眺めることが出来て。これが今回のバックパッキングの引き金を引きましたね。では、今度は長期で旅してやろう、と。

-----今回の旅の予定は
一ヶ月かけてラオス、カンボジア、ベトナム、そしてタイを回るつもりです。とくにラオスは期待してます。というのもあそこには何もない、のんびりしていると聞いているので。とにかく街にたたずんで景色を眺めたり、現地で知り合った人と話をしてみたり……その国、その文化の時間の流れに身を任せていたいと思っています。もっともボーッとしたいなんて、ちょっとバックパッカーとしては失格かも知れませんね。よくある「自分探し」みたいな意識とは全然遠いところにあるので。


ボーッとすることの本当の理由は?

----バックパッキングの目的が「目的を持たずにボーッとすること」というわけですね。でも、なぜ「目的を持たない」という目的なんでしょう。
日本では大学の勉強がもの凄く多いんです。ノルマだらけで、とにかく一日中勉強に時間を支配される。そこで、ちょっとのんびりしようと思って、スタディ・ツアーやパック・ツアーをやってみたら、やっぱりここにもノルマがあった。勉強のほうは自分が選んだ道なので仕方がないとは思っていますが、だったら旅行くらいギューギュー詰めでない、何も考えないような時間を過ごしてもいいんじゃないか。いや、旅行に出かけてノルマのない時間の中に自分を置いてみようじゃないか。振り返ってみると、そんなふうに考えたんじゃないかと思いますね。
でも、よく世間で言うような「充電」と言う感覚とも違います。ボーッとしているだけで、何かを詰め込んでいるというわけではないですからね。自虐的に表現すれば、ちょっとした「現実逃避」かも知れませんね(笑)



(インタビュー後記)

「自分はバックパッカーとしての資格がない」というような、控えめな態度で対応するYさん。確かにバックパッキングにありがちな「冒険」とか「私さがし」というのとはちょっと目的が違うようだ。目的を持たないのが目的なのだから。しかし、そうやって異国の空間に漂う中で、実は日本での生活の整理を、ゆっくりと行っているように思えた。もし、そうだとすれば、彼の旅の目的もまた一般のバックパッカーとはスタイルが違いこそすれ、「私さがし」ということになるだろう。

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