記号的価値を維持すると言うことのリスク
80年代若者が新人流と呼ばれ、消費のパイオニアとして脚光を浴びたことについて考えている。
記号的価値を消費行動の欲望として煽らせることの、もうひとつの旨味のなさは、商品の魅力である記号的価値が本質的な価値ではなく、社会的に意味が付与されることによって成立する価値、つまり価値がデッチ上げられることで成立するという構造的から必然的に現れるものだ。
商品に付与された記号的価値=社会的意味は、その商品が備えている使用価値=機能的側面に根ざしているわけではない。だから、こちらがCMなどの広告戦略でいくらでも意味を付与することが可能。しかしながらこの自由度が高いというメリットがデメリットにもなる。それは、社会的意味=記号的価値が失われてしまえば、商品の魅力も衰退してしまうと言うことだからだ。消費を喚起するためには、何らかの形で社会的意味を維持し続けなければならないわけで、これができなくなれば商品そのものが消滅してしまう。 今回のブログで、記号的価値を説明するために例としてあげた(株)アルマンの禁煙パイポがよい例で、「私はこれで、会社を辞めました」のコピーが飽きられるや、売り上げは急降下してしまった。
記号的価値に基づく戦略は膨大な資金が必要
だから、記号的価値による戦略がやれるのは一部の企業、たとえばグッチやヴィトン、ナイキ、タッグ・ホイヤー、ディズニーなどの一流ブランドのみ。これらのブランドは膨大な広告費と開発費用をかけて新しい商品を開発するとともに、そのCM戦略としてハリウッド・スターや世界レベルのスポーツ選手を記号として扱うことで、その社会的な意味を維持し続けている。たとえば、ナイキであれば時代時代によってマイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズといったアスリートを広告塔に起用してきた。彼らに払われたギャラは極めて高額だが、これはもちろん商品の経費に還元されている。つまり、ウッズの出演料を消費者が支払う仕組みだが、これによってナイキは業界トップの一流スポーツブランドという記号的価値を維持してきたのだ。
結局、この戦略は、八十年代のテクノロジーのもとではほとんど儲からないという事態を結果した。だから、その「効能」が明らかになるにつれて、記号的価値に基づく戦略は影を潜めるようになる。
大ヒット商品の出現……マーケティング業界のマッチポンプ的な作用の中で新人類は消滅していった
ただし、記号的価値に基づく差異化戦略が捨て去られてしまう最も大きな理由となったのはマーケット情勢の変容だった。多品種少量生産ではなく少品種大量生産を求める「大衆」「ダサい奴ら」が復活したのだ。80年代後半、自己実現欲求に基づく消費活動を行う現代人=分衆=新人類の欲望には存在するはずのなかった大量生産商品が突如バカ売れするという状況が発生したのだ。アサヒビールのスーパードライ、ミノルタの一眼レフカメラα-3000、音楽業界のビッグネーム、サザン・オールスターズ、松任谷由美のアルバムのメガヒットといったものがその典型で、マーケティング業界は再び大量生産型の販売戦略に注目するようになった。
となれば、飽きられてしまった差異化消費にはもはや旨味は、まったくない。戦略的にもリスクが高く、見返りが少ない、さらにこれまで通りの計量マーケティングに基づく手法が有効、というわけで、分衆という消費者のイメージは廃れていく。いうまでもなく、それは分衆の典型である若者イメージ、つまり新人類という若者像の消滅でもあった。