勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年07月

記号的価値を維持すると言うことのリスク

80年代若者が新人流と呼ばれ、消費のパイオニアとして脚光を浴びたことについて考えている。

記号的価値を消費行動の欲望として煽らせることの、もうひとつの旨味のなさは、商品の魅力である記号的価値が本質的な価値ではなく、社会的に意味が付与されることによって成立する価値、つまり価値がデッチ上げられることで成立するという構造的から必然的に現れるものだ。

商品に付与された記号的価値=社会的意味は、その商品が備えている使用価値=機能的側面に根ざしているわけではない。だから、こちらがCMなどの広告戦略でいくらでも意味を付与することが可能。しかしながらこの自由度が高いというメリットがデメリットにもなる。それは、社会的意味=記号的価値が失われてしまえば、商品の魅力も衰退してしまうと言うことだからだ。消費を喚起するためには、何らかの形で社会的意味を維持し続けなければならないわけで、これができなくなれば商品そのものが消滅してしまう。 今回のブログで、記号的価値を説明するために例としてあげた(株)アルマンの禁煙パイポがよい例で、「私はこれで、会社を辞めました」のコピーが飽きられるや、売り上げは急降下してしまった。

記号的価値に基づく戦略は膨大な資金が必要

だから、記号的価値による戦略がやれるのは一部の企業、たとえばグッチやヴィトン、ナイキ、タッグ・ホイヤー、ディズニーなどの一流ブランドのみ。これらのブランドは膨大な広告費と開発費用をかけて新しい商品を開発するとともに、そのCM戦略としてハリウッド・スターや世界レベルのスポーツ選手を記号として扱うことで、その社会的な意味を維持し続けている。たとえば、ナイキであれば時代時代によってマイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズといったアスリートを広告塔に起用してきた。彼らに払われたギャラは極めて高額だが、これはもちろん商品の経費に還元されている。つまり、ウッズの出演料を消費者が支払う仕組みだが、これによってナイキは業界トップの一流スポーツブランドという記号的価値を維持してきたのだ。

結局、この戦略は、八十年代のテクノロジーのもとではほとんど儲からないという事態を結果した。だから、その「効能」が明らかになるにつれて、記号的価値に基づく戦略は影を潜めるようになる。

大ヒット商品の出現……マーケティング業界のマッチポンプ的な作用の中で新人類は消滅していった

ただし、記号的価値に基づく差異化戦略が捨て去られてしまう最も大きな理由となったのはマーケット情勢の変容だった。多品種少量生産ではなく少品種大量生産を求める「大衆」「ダサい奴ら」が復活したのだ。80年代後半、自己実現欲求に基づく消費活動を行う現代人=分衆=新人類の欲望には存在するはずのなかった大量生産商品が突如バカ売れするという状況が発生したのだ。アサヒビールのスーパードライ、ミノルタの一眼レフカメラα-3000、音楽業界のビッグネーム、サザン・オールスターズ、松任谷由美のアルバムのメガヒットといったものがその典型で、マーケティング業界は再び大量生産型の販売戦略に注目するようになった。

となれば、飽きられてしまった差異化消費にはもはや旨味は、まったくない。戦略的にもリスクが高く、見返りが少ない、さらにこれまで通りの計量マーケティングに基づく手法が有効、というわけで、分衆という消費者のイメージは廃れていく。いうまでもなく、それは分衆の典型である若者イメージ、つまり新人類という若者像の消滅でもあった。

新人類=高感度消費者の消滅

80年代の若者像「新人類」。だが86年をピークにこの名称は次第に死語へと転じていくことになる。但し、ここまで展開してきたように、若者が新人類ではなくなったというわけではない。新人類は、もともとメディアやマーケティング業界が「期待されるべき消費者像」としてでっち上げた若者のイメージでしかないからだ。ということは、こういったイメージがイケたものではなくなってしまったというのは、要するに新人類像を標榜して商売を展開したところで費用対効果的に旨味がなくなったからだと考えるのが妥当だろう。
では、具体的にはどのような「旨味のなさ」が、現れたのだろうか。

多品種少量生産という矛盾した商品戦略
旨味がなくなる理由は、そもそも新人類=分衆といった消費者像に根本的問題があったから。というか、もともと儲からないようなマーケティング手法を提唱したことがまずかったとも言える。マーケティングの手法はここまで展開してきたように記号的価値、すなわち商品に付与された社会的意味をもとめて商品を購入させるというやり方だった。自己実現を商品購入によって達成させるために提唱させた手法は「多品種少量生産」、つまりたくさんの種類の商品を少しずつ生産して、消費者がそれを購入することで他者とは違っているという欲望を満足させることだったのだが、そもそもこの発想自体が資本の原理とは矛盾したものだ。

少ない種類を大量に売ったほうが、儲かる

資本の原理はこの逆、つまり「少品種大量生産」である。これはこんなふうに考えてみるとわかりやすい。たとえば、消しゴムを生産して販売したとする。消しゴムを生産するためには生産ラインが必要だ。この生産ラインにたとえば一千万円の経費がかかるとする。もし、この生産ラインを使ってたった一つの消しゴムしか作らなかったとしたら、この消しゴムを販売して利益を得るためには、この消しゴムは最低いくらで販売すればよいか。当然、、生産ラインの経費に原材料費、流通の経費なども考えるわけだから一千万以上でなければならない。

だが、この生産ラインで消しゴムを一千万個生産して販売すれば、消しゴム一個が負担する生産ラインの経費は一円で済む。一億個作れば十銭、十億個作れば一銭だ。ということは、同じ生産ラインを用いて同じ種類のものをたくさん作れば作るほど、商品の単価は下がるとともに、結果として生産者側の利益も増大するわけだ。もちろん、消費者も商品を安く購入できるわけで、こちらも万々歳になる。

ところが、多品種少量生産とは、極言すれば一つの生産ラインで一つの消しゴムを作るようなもので、これでは単価が高くつく。しかしながら、生産数を増やせばそれは分衆の好む「人とは違っているもの」ではなくて「大衆が所持するダサいもの」に転じてしまう。結果として多品種少量生産の戦略は費用対効果的に極めてリスクの多い、そして利益を期待できないものだったのだ。



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(iPhone3G(S)にiOS4をインストールしてはいけません!)


(iPhone3GにiOSをインストールするとどうなるかのパロディ)

一見、すばらしいiOS4

iPhone4を手に入れて3週間が経過した。僕はiPhoneの購入が今回は初めてだが、それまでiPod Touchの第一世代を使用してきたので、それとの比較でiPhone4がいかにすばらしいのかと言うことがよくわかる(携帯機能は、もちろんわからないが)。簡単に言ってしまえば「ワクワク感が違う」というところだろうか。

マルチタスクでテキパキとアプリを切り替えできるし、Retinaディスプレイはもの凄くキレイで、これを見た後にTouchの画面を見るとボケているように思える。テレビ画面のアナログとデジタルくらいの違いはある。しかし、なんと言ってもすばらしいのはそのスピードの速さだ。とにかくサクサク動く。待たなくてイイというのは、こうも快感なのかと思わせる。とりわけ文字の入力は思いっきり早く、レスポンスがよすぎて注意しないと誤入力まで起こる。

とにかく、はじめてiPhoneを所有した人間にとってiPhone4はこういった基本的な機能の充実度が最も快適さを感じさせるものとなっている(これは他機種にはない魅力だろう)。だが、これは実際に手に取ってみないとわからない魅力でもある。これに搭載されているiOS(他のiPhoneOSとの対比上、以下”iOS4”と表記する)は、本当にすばらしい。の・だ・が……

3GにiOS4をインストールすると壊れる?

ところが、これまでiPhoneを所有してきた人間たちにとって、いま、かなり大きな問題が起きていることも事実だ。それは3GにもiOSをインストール可能であることから発生しているのだが……これが大、大問題なのだ。だが、その問題の中身を説明する前に、一言だけ重大な警告を3Gユーザーにはしておきたい。

それは

「iPhone3Gには決してiOS4をインストールしてはいけない!」

ということだ。なぜなら、これは“トロイの木馬”だからだ。

3GにiOS4をインストールすることは可能だ。そしてマルチタスクなどの一部の機能を除いてiPhone4と同等の機能にアップデート出来る。そう、確かに同等の機能にすることは、できるのだが……これがヤバイのである。何がヤバイのかっていえば、入れた瞬間、あなたのiPhoneが壊れてしまうからだ。いや、正確に表現すれば、iPhoneが壊れてしまうのではない。壊れてしまうのは、あなたのiPhoneに関する認識やイメージだ。ようするにiOS4をインストールした瞬間、あなたの「アタマ」が壊れてしまうと言う、おそろしいOSなのである。そして、その壊れたアタマは、これを回復しようと治療をはじめるのだが……どうやって?

あなたの「対iPhone3Gアタマ」が破壊されるプロセス

あなたのアタマは、以下のようなプロセスで破壊され、そして自ら治療をはじめる。

まず3GにiOSをインストールする。すると、いつもと同じ画面が登場し、「おお、これでオレのiPhoneも4に負けない機能になったぜ!」と瞬間的にほくそ笑むのだが、その微笑みは1分もしないうちにフリーズしはじめる。

「えっ!なんだ?このもったりとした動きは!」

そう、あなたのiPhoneは、突然、もの凄く遅いマシンへと変貌してしまったのだ。とはいうものの、アプリの立ち上げなどはまだガマンできないこともない。ということは、この辺はまあ、まだアタマが驚愕している程度で収まっている。ところが、これでメールを打とうとした瞬間、恐ろしいことが起きるのだ。

「うっ、打てん!」

タダでさえ遅かったキー入力が、以前にも増して、いやはるかにグッと遅くなってしまうのだ。タッチ→小休止→文字がやっとこ出現、という具合。これでは、もはやメールなどを打つ気には到底なれない。

「くそっ!」

ここで、あなたのアタマは半壊状態に。それでもオレの愛し続けたiPhone3G。イライラしながらも何とか使ってやろう、という気はまだある。

しかし、まだこれだけでは終わらない。それ意外にも奇っ怪な事態が生じ始める。

「おいっ!なんでこんなにどんどんバッテリーが減っていくんだ?」

もはや「たまごっち」の「おやじっち」のように、介護=餌、いや電力供給を頻繁に要求するように、あなたの「iPhoneっち=おやじっちiPhone」はなっている。完全な動脈硬化状態だ。

さあ、こうなるとあなたの「対iPhoneアタマ」はもう、崩壊寸前。あっ、でも最後の手段があった……。

「やっぱり、おれのiPhoneは所詮3G(S)。やはり身の丈にあったスタイルがいい」

ということで、iOS4をあきらめ昔の環境に戻そうと考えるのだが……なんと、今度はダウングレードする方法がないではないか(Jailbreakを除く)

”パッカーン!!!”

この瞬間、あなたのアタマは音を立てて壊れてしまうのである。

iOS4はトロイの木馬

iOS4ではまともに動かない、かといってダウングレードする方法もない。そう、iPhone本体はともかく、あなたにとって目の前にあるiPhone3Gは壊れてしまったに等しい。しかし、あなたの身体はiPhoneにとっくに毒されていて、もはやこれなしでは生きていけない。

で、あなたは身体の一部が不調になったのだから治療をせねばと対処に出る……どうするか?なんのことはない、SoftBankショップへ直行しiPhone4の予約を済ませてくるのである。iPhone4は発売当初、予約が殺到したが、この勢いが止まることなく延々と続き、現在、あまりの多さに予約を受け付けていない。生産が追いつかずiPhoneのホワイトの販売も延期された。こんなにもニーズが継続し続けるのは、iPhone4のすばらしさもあるかも知れないが、実は途中から求めはじめた人間の多くがiPhone3Gのユーザーだからではなかろうかと僕は懸念するのだが。

僕の知人は、やはり3GにiOS4をインストールした瞬間、アタマが壊れてしまい、速攻でiPhone4に切り替えた。iPhone4を手に入れた直後、彼曰く

「いや~、iPhone4って本当にすばらしい。3GにiOS4をインストールして失敗した分、余計すばらしく見えるよ」

う~ん、彼はひょっとして、まだアタマが治っていないのかも知れない(失礼)

要するに3GユーザーにとってiOS4は「トロい」がゆえに“トロイの木馬”なのだ。タダでアップグレードできると思っていたら大間違い。入れた瞬間、新機種を交わされる、交換されられる、つまり買わされるハメになるのだから。

アップルはダウングレード・サービスを提供するべきだ

しかし、アップルのこのやり方は酷いと思う。はっきり言って陰謀、ほとんど詐欺・脅迫ではないか!本日(7/29)のウォールストリート・ジャーナルでは遂にこのことに関する記事が掲載された(「アップル、iPhone3Gの新OS不具合で調査」 http://jp.wsj.com/IT/node_86526)が、これでは、そのうちあっちこっちから訴訟が起きることは間違いない。
アップルがやるべきことはただ一つ。ダウングレード・サービスプログラムをアップルのダウンロードサイトに速攻でぶら下げることだ。

いいかげんに、しなさい!!!

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(後藤和智『「若者論」を疑え』。本書は「若者論というフィクション」に、くそまじめに「けしからん」と鉄槌を下すというドンキホーテ的展開がなされている)

高度な消費者としての新人類というでっち上げ

80年代の若者論の消費的若者像について考えている。

記号的消費を積極的に展開するパーソナリティとして設定された消費者像としての少集=分衆。そしてそのパイオニアとしてターゲットをあてられた新人類という若者イメージ。つまり、80年代若者像は新人類的な存在を若者の中に社会が見いだしたのではなくて、高度な消費者が必要という社会的要請が先にあり、これに合わせたかたちで無理矢理若者が設定され、それが新人類という言葉で表現されたのだった。いわば高度な消費者が独立変数で、この媒介変数、あるいは存在することにしてしまった「でっち上げ的若者像」として新人類が措定されていたと考えるべきなのだ(まあ、若者像というのはいつもそうなのだが)。

でっち上げるには、それなりの理由が、ある!

だから、新人類が本当に存在したかどうかという議論自体は、80年代消費の側面から考えたら不毛ということになる。なんのことはない、もともとヴァーチャルなのだから。高度消費をする新人類など存在するわけはないし、いたとしても、それはいわばマーケティング戦略に煽られたエピゴーネンでしかない(実際、こういう「俗物」は存在したのだけれど。当時から、そういう「新人類を自称する人間」はかなり恥ずかしい、さぶい存在として見られていた。)。

ということは後藤和智が著書『若者論を疑え』(宝島新書)で、さんざん指摘している「若者論はでっち上げで、インチキデータばかり並べている」というのはまったくもって意味のない議論と言うことになる。はじめからでっち上げ、若者なんか扱っていないのだから、これは「ウソつきに「おまえはウソつきだ」」と非難しているに等しいのだ。これに応える側は「ハイ、ウソつきですよ」と応えれば、ことは足りる(実際、現在「若者論者」としていろいろやっている「識者」たちは、山田昌弘にしろ香山リカにしろ相当なウソつきだ。(ちなみに、これは彼らを否定しているわけでは必ずしもありません。ウソにはウソの効用があるので。あしからず))。

社会学=メディア論的に若者論を捉えるならば、若者論で語られる若者像が正鵠を射ているか否かを議論するのではなく、「なぜ、こんなインチキな若者論が跳梁跋扈するのか」ということこそ最も考察すべきなのだ。言い換えれば、若者に関するこういった「ウソ話」「ウソ若者像」になぜ需要が集まるかと言うことこそ、問題とすべき。

で、僕は、これはこれで十分社会に寄与していると考える。(続く)

記号的価値のもうひとつのメリット~飽和状態がない

記号的価値に焦点を当てた商品展開、いわばオマケで商品を買わせる=モノで釣るようなようなやり方が80年代消費戦略において焦点を当てられたのにはそれなりに理由がある。
一つはここまで説明してきたように人々の欲求の中心が自己実現欲望へと変化したことだが、人々がこのような認識にいたる背景には、当然ながら消費物の一巡という事態があった。前述したように、実際にはともかくとして、80年代には必要な商品が大衆一般の下に浸透し、もはや必要なモノ、つまり使用価値に根ざした商品はあらかた個人が所有しているという状況にあった。だから、もう消費物の「椅子取りゲーム」は終わっている。だったらどうすべきかということになっていたのだ。

タワシは家庭に1コか2コしかいらない

これについてもう少し詳細に状況を展開してみよう。
たとえば前述した「タワシ」をまた例にとろう。これ自体は典型的な使用価値に根ざした商品だ。だから、人々はこれを購入しざるを得ない。これがなければフライパンのこげを削り落とすことが出来ないからだ。だが、この「使用価値に根ざしている」という特性が、ある時点から、突然、むしろネックになる。

考えてみてほしい。あなたの家でタワシはいくつ必要だろうか。恐らく、一つか二つだろう。ということは、とある国家が3500万世帯から構成されていて、各家庭に二個のタワシが必要とするならば、この国家でのタワシの総需要は7000万個と言うことになる。少なくともこれだけの販売を期待することが出来るのだけれど、言い換えれば、各家庭に二つづつ行き渡ってしまえば、そこで需要は生まれなくなると言うことでもある。あるのはせいぜい買い換え需要だから、販売量はグッと減り、それ以降はこの販売数しかさばくことができなくなる。言い換えれば使用価値に根ざした商品には「飽和点」が存在しているのだ。そう、これこそがネックなのだ。つまり頭数しか売れない。

ミッキーマウスは何体あっても大丈夫!

ところが記号的価値に根ざしている商品にはこれがない。たとえば、これも前述したぬいぐるみを例にとって考えてみよう。あなたがミッキーマウスのファンだとしたら(いや実際にファンであるかもしれないが)、あなたはミッキーのぬいぐるみをいくつ所有するだろうか。「一つあれば十分」こんな答えをする人間は少ないだろう。そう、ミッキーには何ら使用価値がなくて、記号的価値だけだから何体あっても問題ないのだ。

かつて1996年、ディズニー映画「101」が上映されたときに発売されたスゴいぬいぐるみがあった。これは1961年に上映されたディズニーアニメ「101わんちゃん大行進」の実写リメイクだったのだが、両映画は当然のことながら101のダルマシアンが登場している。この時、キャラクター商品として販売されたのが101体のぬいぐるみだったのだ。このぬいぐるみ、成犬のポンゴとパディータの二匹を除くと、原則、全て同じ子犬。異なるのはドットの数や位置、耳の形状なのだが、順列組み合わせで、少しずつ別にはなっている。さて、あなたが「101」に登場するこのダルマシアンのファンだったらどうするだろう?もちろん、というか、当然のごとく101体全てを購入しようとするだろう。これらは意味の差異化こそあれ、それぞれはほとんど同じ。そして使用価値に至っては、いうまでもなくゼロに等しい。でも、これを全部買い占めて、友人に披露したら、ちょっと自慢できるし、相手もディズニー好きだったら、スゴイとは思いはしても不信感を抱くことはないだろう(もし仮に、あなたがタワシをコレクションしていて101コのタワシを友人に披露したとしたら……あなたはその友人を友人として失う可能性がある。なんの意味もないからだ)。


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(101匹のぬいぐるみ。形状はほとんど同じだ)

そう、これこそが記号的価値のアドバンテージなのだ。必要性に根ざしていないから、こちらが社会的意味を付与することで、いかようにも、そして無限に消費の欲望を喚起することが出来る。これだったら、モノが充実、モノあまりになっている80年代であっても十分商品展開が可能。だから、マーケティング業界はこぞって記号的価値に目をつけたのだった。

記号的価値戦略にコミットメントしてくれる人間像こそ、デッチ上げられた若者像としての新人類だ!

そして、この記号的価値に魅力を感じてくれる人間像、いわば差異化志向の強い人間こそが消費者として求められる存在。だからこそ、80年代の若者は記号的消費を志向すると煽り、分衆という消費者、そしてそれを若者に振った人間像として新人類と名付けたのだった。

「ナウい」「感性豊かな」若者は記号的価値をめざす

マーケティングが煽ったのは、こういった若者像。しかし、実のところ若者たちはそれほど消費活力が旺盛というわけでもなかった。しかし、こういった「ダサい奴らに差をつける」というのをもっぱらとする若者像はCMなどのメディアを通して一人歩きする。そして、実際の若者もこれに振り回されながら消費のトレンドを追いかけることを強いられたのだった。ただし、若者がこういった消費者像に煽られたのも、彼らの側に理由があったのだけれど。(続く)

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