勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年05月

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(lalaのサイトを開くと閉鎖されたことが掲載された画面が現れる)

Appleがlalaを買収

2009年12月、アップルが米ストリーミング音楽サービス会社のlalaを8500万ドルで買収した報道がコンピューターの情報サイトなどで小さく報じられた。そしてこの五月にはアップルはLalaの活動を停止させている。この報道は、なんのことやらわからない人間にとってはどうでもいいことのことのように思えるが、音楽のネット配信とアップルの戦略についてある程度知識のある人間には、実は聞き捨てならぬ事態なのだ。というのもアップルによるLalaの買収とこれに基づいて予想される今後の展開は、われわれの音楽の購入パターンや聴き方を根底から変えてしまう可能性があるからだ。MacがiPodが、そしてiPhoneがそうであったように。そしてiPadが、おそらくそうであるように。

サブスクリプションとは

Lalaは楽曲のサブスクリプション・サービスを行っていた企業。日本ではサービスが展開されなかったが、同様のサービスはナップスター・ジャパンが今月いっぱいまでおこなっている(米ナップスター社との契約更新がなされなかったため、日本サービスは五月をもって終了する)。具体的に何をしているのかというと、要するにネットを利用したジューク・ボックスと考えればいい。lalaは800万曲の楽曲を用意し、ユーザーはコンピューターとネットを介してその中から自由に曲を聴くことができる。曲単位でストリーミングさせたり、ダウンロードすることができるのだ。またナップスターの場合は定額聴き放題というサービスもある。月極で使用料を払えばライブラリーの曲を何曲聴いても価格は同じ。ちなみに日本では月々1000円程度でこのサービスを展開していた(ストリーミングのみ。これをミュージック・プレイヤーに落として楽しむ場合には倍程度の契約だった。ただしiPodはダメで、専用の東芝製デジタルプレイヤーが必要だった)。800万曲と言えば聞きたい楽曲数のほとんどをカバーしているわけで、言い換えればこのサブスクリプションサービスに加入していれば巨大なレコード屋を持ち歩いていると言うことになる。実際、最新盤のアルバムも提供されていたわけで(たとえば2009年12月、ナップスターではスーザンボイルのアルバム『夢やぶれて』が発売直後にアップされていた)、これは便利なサービスだった。

ITMSにlalaのサービスが持ち込まれる

世界で最もシェアを持つデジタル・オーディオ・プレイヤーのiPod。その成功の秘訣は操作の簡易性やデザインの良さもあるが、最大の要因はiPodに楽曲をダウンロードするソフトウェアiTunesの出来の良さにあることは、もはや言うまでもない。ディスクを入れれば即座にiTunesが立ち上がり,ボタン一つでプレイリストにコピーされ、これをiPodにダウンロードすれば完了。全ての行程をこなすのに十分とかからなかったのだから。実はiPod登場の前にもデジタル・オーディオ・プレイヤーは存在した。にもかかわらず普及しなかったのは,ひとえにこの操作性の優秀性にあった(iPodはiTunesがWindows版をダウンロードで無償提供した瞬間ブレイクしたことはこれを傍証する)。



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(ご存じ、iTunes)


iTunesにはその中にミュージック・ストアである(ビデオやソフトウェアなども販売している)iTunes Music Storeがある(以下ITMS)。ここでもlalaと同様、楽曲のダウンロード購入は出来る。ただしお試しで三十秒聞けるという程度だ。サブスクリプション、つまり聴き放題+ダウンロードし放題のサービスはない。一方、lalaにはその機能がある(ただしNapstarのように聴き放題というスタイルではなかったが)。そしてアップルがこれを買い取った。アップルが企業を買い取るという場合は一定のパターンがある。その多くが買い取った後にそのアーキテクチャーをアップル風に改変し市場に出すという作業を行っているのだ。たとえばiLifeのシーケンスソフト・Garage Band(シンセサイザーのソフトウエア)などはその典型だ。いやいやそれどころかアップルの最も中心的なアーキテクチャーであるMacOSXも元はといえばネクスト社のOSだし、iPodも買収した他の企業の技術がベースになっている。ということはlalaの買収とは、将来的にはITMSにサブスクリプション・サービスが展開される可能性が十分にありうることを意味するのだ。8500万ドルという買収額はタダことではないのだから。

では,これを買収してアップルは何をしようとしているのか?(続く)

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(サンタナ・ロッジのライブラリー。マンガが中心だ)

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(奈良、大和郡山にあるレストラン・サンタナ。長男のクンナが経営する)

サンタナの精神性を受け継ぐサンタナ・ロッジ、そしてサンタナファミリー

現在、サンタナ・ロッジはサンタナの三男フォクナによって運営されている。ちなみに次男トゥンナは新館のサンタナ・ホテル、長男クンナは奈良・大和郡山でレストラン・サンタナを運営すると共に、自ら立ち上げたNPO法人インド日本人友の会の活動に精力的に関わっている。

フォクナの運営するサンタナ・ロッジもまた、かつてのサンタナ・ロッジのスタイルを踏襲、深化させた形を採っている。一泊二食、チャーイ二杯つきで130ルピー、つまり三百円弱と激安。料理は焼きめし、ラーメンセット、ベジタブルバーガー、焼き魚セットなどが選べ、オプションに鰹のたたき、ロブスターなんてものもある。ライブラリーには数千冊に及び日本語の書物(主としてマンガ)が収められ、宿泊客は自由に読むことが出来る。また雀卓もある。館内はWi-Fiが敷設され、パソコンの貸し出しも行っている。

まさに、痒いところに手が届くようなサービスだが、これもよくよく考えてみると不思議なところがある。これだけの充実した設備とサービスと整えながら食事付きで130ルピーという宿泊料は、どうみても経営的に釣り合いが取れないのだ。ところが、そんなことはお構いなしにゲストハウスは繁盛し、ブランチの高級ホテルまで建て、日本でも事業を展開してしまった。でもどうやって?

コミューン的な要素がいまだに

そのからくりは、やはり人間関係だ。サンタナ・ロッジにやってくるゲストはリピーターが多い。また大阪(現在は奈良)のクンナの店で紹介されてやってくるというパターンも非常に多く、要するにインド・プリーと大阪双方でゲストを捕まえて、二カ所を往復させるかたちでサンタナのコミュニケーション空間を作り上げているのだ。そして、ここに宿泊し、NPOでクンナと活動を共にする人間たちが、さらに人間の輪を広げ、彼らがサンタナ・ロッジを中心とした活動に参加する。あるいは資金の提供を申し出る(たとえばサンタナホテルは一人の日本人が一千万以上の資金を融資している)。

かつてレストランの中でヒッピーたちを巡って形成されたコミューンが、今では日本とインド二つの間で展開されている。いわばサンタナコミューンの二十一世紀型パターンがここにはある、といってよいのかも知れない。


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(CTロードの北突き当たりにある現在のサンタナロッジ)

サンタナが嫌がらせ受けた背景にあるカーストの存在

作っては壊されるサンタナロッジ。それはその賑わいを妬んだ周辺の人間たちの嫌がらせだった。こういった執拗な嫌がらせを受けるのは、実は賑わいにたいする妬みだけのせいではない。その背後にはインドの階級制度のカーストもまた絡んでいる。サンタナのカーストはバラモンと最高位にある。というのも、サンタナの実家は隣町のクルダにある寺であり、本来ならサンタナもまた僧侶の職に就くはずであったからだ。実際、少年時代は僧侶の手伝いをしていた。本人も、本来なら僧侶になっているはずだったのだが、ちょっとした諍いから家出をしてプリーにやって来て仕事に就き、その延長線上でサンタナをはじめたのだ。

ところが、商業を生業とする階級はカーストではヴィシャ、つまり平民のものである。つまり、サンタナは自分の階級よりも二つ下の職業に就いている。本人の中ではカーストなどはどうでもいいことなので、階級が低かろうが一向にかまうことではないのだが、ヴァイシャの人間からするとこれはよろしくないことになる。階級侵犯であり、人の職業領域を侵犯するとことになるからだ。だからサンタナは執拗に嫌がらせを受けたのだ。

そして現在のサンタナロッジが誕生

もうこうやって場所を転々とするのはゴメンだ。そこで、現在の場所、つまりプリー海岸の北漁民の集落を安住の地に定めた。この地は高僧ビヌゥババが政府から土地を譲り受け、これを貧民たちに解放したところ。ビヌゥババはこの土地を利用する人間に1.土地を売買しない、2.土地を離れる際には第三者に贈与しなければならないという条件を付け、その私有を許可したのだ。これで宿の土地を取り上げる人間はいなくなった。
ただし、土地はあくまで貧乏人用。商業をする場所ではない。だからなかなか客は来なかったし、また、その頃にはヒッピー・ムーブメントもその勢いを失っており、結局ヒッピーのコミューンはここに終わりを迎えるのである。

その後、サンタナは80年代から日本人宿へとスタイルを変え、現在に至っているのだが、今回はヒッピー・コミューンがテーマなので、この話については次の機会に譲りたい。とはいうもののサンタナが創造したヒッピー・コミューンの精神は現在のサンタナロッジ、そして長男クンナが日本で繰り広げる活動にも受け継がれている。(続く)

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(旧サンタナの隣ではじめた新サンタナ跡地。ここも三年ほどで潰された)

繁栄の影で

ヒッピーたちとのコミューンを作り上げたサンタナ。しかし、これは快くないインド人の目からは「サンタナが事業に成功した」と受け入れられた。そして「それなら、自分も二番煎じで一儲けしよう」と欲望がもたげる。彼らはサンタナの従業員を引き抜き、宿泊施設を用意した。また、サンタナ・ロッジに従業員として入り込み、ノウハウを盗んで、新しく宿をはじめる者も登場する。しかし、こういった事態に、鷹揚なサンタナは、例によって一切気にとめることはなかった。こうやって周辺に外人相手のゲストハウスが建ち味はじめる(現存するのはZホテルやピンクハウス)。

また、別荘の鍵の管理もサンタナから奪い取ると言うことが起きた。まず家主を懐柔。サンタナに対して「ここはこれから自分で住むから」と言う理由で鍵を取り上げ、その鍵を今度は自分が借り受けて、部屋の斡旋をした。

ただマネしたところでコミューンは生まれない

ただし、サンタナがうまくいっていたのは金儲けとは関係のないところで環境が成り立っていたからに他ならない。そしてヒッピーたちはこのコミューンの居心地の良さに意味を見いだしていたのであって、収容施設それ自体に関心があったというわけではない。だから結局こういった二番煎じの商売はうまくいくことはなかった。

うまくいかない自分たちと、うまくいっているサンタナ。彼らはサンタナを妬むようになり、サンタナへの嫌がらせがはじまった。まずは、あそこでは何か悪いことをしているという噂を流す。そして74年、サンタナ・ロッジは閉鎖させられることになる。現在利用している建物のオーナーに、サンタナが到底払えない価格にまで家賃をつり上げさせるようにけしかけててサンタナ・ファミリーを追い出し、代わって自分たちが経営して一儲けしようとけしかけたのだ。支払うことの出来ないサンタナはやむなくこの建てもを去り、隣のもっと家賃の安い建物を借り受けた。

奪い取ったサンタナの跡地は改装され、部屋もこぎれいにして事業を開始したが、肝腎のヒッピーたちは移動した薄汚いサンタナ・ロッジへ集まった。するとまた嫌がらせが。店内を破壊し、また例によって家賃を上げさせという具合に執拗な嫌がらせを続けることで、サンタナは遂にこの力撤退を余儀なくされてしまったのである。(続く)

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(サンタナに集まったヒッピーたち

アナーキーな予定調和の世界

サンタナはどうやってロッジやレストランを運営していたのか?

実は、これが本当に面白い。何もしないのだ。そして何もしないことが、完璧な運営を結果する。それは、どうやって?

メニューに値段表記がない

まず、宿にもレストランのメニューにも値段が明記されていない。レストランにはクッキーやビスケットなどのお菓子が瓶の中に常置してあり(サンタナ自身が甘いものが大好きなので(お陰で糖尿病持ちになってしまったのだが)作り置きしていたのだ)、ヒッピーたちは勝手にとって食べていた。そして空になると、サンタナは瓶の中に補充するということを繰り返していた。また、サンタナは頼まれた料理をその都度作るということをしていたが、それをいちいちカウントしたりはしていない。台帳すらないのだ。

ヒッピーたちは好き勝手に代金を払った

結局、宿泊したり、食べにきたヒッピーたちが勝手に合計して払うということになるう(しかし値段はどうやって決めていたのだろう?)。ロッジへの宿泊もチェックアウト時に自分で宿泊日数を申請して、一泊の料金も自分で決めて宿泊数分を置いていくという感じだった。お金のことについてはサンタナは全くどうでも良かったのだ。もとより金儲けの感覚が一切無い。むしろ彼らと楽しくやって、自分の好奇心を満足させることが重要。だった。だから、中には半年間もいて、1ルピーも支払わなかった客もいたという。

ここにも神の見えざる手が

しかしロッジの経営は全く問題がなかった。それはヒッピーたちが「よい人」(サンタナ談)たちだったからだ。というより、サンタナロッジに愛着を抱いていたからだ。前述したように、全く代金を払わない者がいるかと思えば、二週間宿泊して7000ルピーもの大金を置いていく者もあり(当時の7000ルピーは数十万円相当になる)、結局は「神の見えざる手」によって帳尻が合ってしまう。ここにはまずコミューンがあり、それにぶら下がるかたちでお金が回転していた、言い換えれば貨幣経済の原理とはほど遠い世界=アナーキーで、それでいて調和の取れた環境が存在したのである。

ちなみに、この頃から日本人がサンタナロッジを訪れるようになる。当時の日本語ガイド『インドを歩く本』には、次のようなサンタロッジの紹介がある。

「1ベッド4ルピー。合室。建物は古く設備は不十分。レストランはメニューも豊富で味もイケル。ヒッピー風旅行者が多く、情報交換に好適」

だが 70年代半ばに入り、このパラダイスのようなコミューンは崩壊する。(続く)

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