カジュアルな外国イメージが導く「たかが英語」
英会話学校ジオスの破産に見る、外国、そして英語イメージの変容について考えている。今回は第二回。
海外イメージ、とりわけ欧米のそれのカジュアル化は、人々の英語に対するイメージを意外な方向へとシフトしていくことになる。たとえばテレビ番組を取り上げてみよう。かつてのTBSの海外番組『兼高かおる世界の旅』に典型的に見られるように、70年代くらいまでは、海外での映像というのはそれだけで一番組を制作可能なほどのオーラを放っていたのだが、80年代後半以降、外国が現実に到達可能なものともなると、海外の映像というのはコーナーの一つくらいにしか位置づけられなくなってしまう。
当然のことながら、こういった事態は外国=欧米とセットになっていた英語のカジュアル化ももたらすことになった。欧米=英語に対するトラウマがなくなり、外国は「欧米か?」(タカ&トシ)と、パロディ的に扱われるほどの「たかが外国」となり、それと平行して英語もまた「たかが英語」という地位に成り下がっていった。海外への空腹感が満たされた結果、そのアウラがはげ落ち、それに付随した英語もまた「国際化=英語」という記号を失っていったのだ。言い換えれば国際化とは必ずしも英語とは関係がないというかたちで、英語に対する印象は相対化されていった(ちなみに、大学では英文学科の人気凋落が著しい)。
内こもりで、いい
「あこがれの欧米」というイメージがはげ落ちると、今度は海外に対するネガティブなイメージが逆に台頭してくる。遠くて時間がかかる、時差ボケがいやだ、習慣が違う、そして言葉が通じない。かつてなら「言葉が通じない」というのは「だからこそ外国語を学ぶべき」という志向性を生んだのだが、ここまで海外=欧米が相対化されてしまうと「外国語=英語を学ぶのはめんどくさい」と言うことになってしまった。これが2001年以降の海外渡航者数の停滞→減少傾向を生むことになる。そして、英語熱もまた冷めていく(なぜか文科省だけが、英語教育に躍起になっているのは、実に不思議だ)。
そして、語学学校の存在も、また相対化されていく(続く)。