勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年03月

偏差値神話を捨てよう

日本経済の変動によって終身雇用制度ー偏差値という組み合わせが崩壊し、偏差値はもはや必ずしも就職の最終兵器とはなり得ないことを展開してきた。

もちろん、そうはいってもまだ偏差値の力が有効でないとは、決して言えない。やはり、早慶上智あたりならアドバンテージありというのは否定できないだろう。だから、この三つに入っておくというのは、確かに御利益が大きい。問題はMARCH以下だ。もう、このレベルになるともはや団子状態。というか、おいしいところの超安定株、終身雇用も大丈夫と言った企業は早慶上智でその枠が終わっているので、MARCH以下は、結局、エントリーシートを書きまくって、自らのコミュニケーション・スキルをアピールしなければならない。となれば、大学が明治だろうが、東洋だろうが亜細亜だろうが桜美林だろうか、もはやあんまり関係ないと言うことになってくる。

大学受験が終わった若者たちには、そろそろ気がついてほしい。これまで、君たちは、そのアタマの固さ、世間の狭さで「偏差値帝国主義」「偏差値絶対主義」を信奉してきたはずだ。しかしキミがMARCH以下だったら、その偏差値という基準では、まともな企業に悠々と入ることは不可能。そして偏差値は、ここまで示してきたように現在の日本経済を踏まえればもはや”神話”。いや、たとえ?从甲佑鬟殴奪箸靴徳畄直綯劼△燭蠅貌?譴燭箸靴討、その先の一流企業が十年後に存在するかどうかも怪しい時代なのだ。

だったら、もう「偏差値ごっこ」「偏差値アタマ」は、入学と同時にヤメるのがいいんじゃないだろうか。そして四年後にイイ企業(僕はもう「イイ企業」なんてのは、ここまでの展開を踏まえればハッキリとは定義できなくなっていると考えているが)に入る、あるいはもっとアクティブに考えれば自立できるようなスキル(これこそ、偏差値に代わってこれからの日本を渡り歩くツールだ!)を獲得するためには、別のことをはじめた方がはるかに早くて効率的じゃないんだろうか。

僕が教鞭を執る関東学院大学は「関東上流江戸桜」と呼ばれる偏差値40台の下位有名私大の一つに属している(このグループが創立1990年前後ということで、「関東」が関東学園と見なされる場合もあるのだが)が、学生の中でも入るヤツはけっこうイイところに就職するようになっている。で、そういった学生は、とうの昔に偏差値ごっこなど脱し、コツコツとコミュニケーション・スキルを養ってきた連中だ。一方、ダメなのは偏差値負け組コンプレックスを抱え続け、グズグズしているような連中。

これから四年間が、いろんな意味で勝負!

そう、だから言いたい。もう偏差値なんてのは馬鹿馬鹿しいから考えるのはやめろ、と。するべきことは、この四年間で何をするのか、何をスキルとして自らに装着できるか、だ。もちろん、それは資格を取るとか、大学でよい成績を取るとかをかならずしも意味しない(これじゃあ「偏差値アタマ」から「資格アタマ」「成績アタマ」にスイッチしただけの、単なるアホだ)。意味しているのは、繰り返すがコミュニケーション・スキルなのだ。

で、こういったスキルを四年間を使って養えば、早慶上智の連中の持っているアドバンテージをラクに凌駕することも可能だ。繰り返すが、時代は、そして日本の経済構造は根本的に変化しつつある。それを読んで風に乗ろうとするならば、もはや偏差値は、あまり用をなさない。

「やわらか頭」でのステップ・アップ。これを期待したい。じゃあ、そのためにはどうするか?それは勉学だろうが、遊びだろうが、バイトだろうが、部活だろうが、なんでもハンパなく徹底的にやることによって、全方位からコミュニケーション・スキルを養成するとことだ。この詳細については2009/3/25~4/1の本ブログ記事「大学をどう利用するか」(本ブログ「教育問題」のフォルダにあります。http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2009/03/25)に詳細を示したので、そちらを見てほしい。

新入生のキミ。新しい、そして本当の競争が明日からはじまるよ!

そんなに偏差値は価値があるのか?

大学の選択基準がもっぱら偏差値に基づいている現代の受験生。
しかし、だ。ここまであくせくして頑張るほど、偏差値はそんなに価値のあるものなのだろうか?今から十年以上前ならともかく、最近は必ずしも有用なものとは僕には思えないのだ。その理由をいくつか挙げてみよう。

終身雇用システムと偏差値はセットだった
偏差値が有効に社会的御利益として作用するのは、間違いなく終身雇用システムが前提になっていたからだ。

いわゆる一流企業は、これまで偏差値上位校の人間が幅をきかせるというのが常識だった。一流企業は安定していて潰れることがなく、年功序列で黙々と働き続けさえすれば、ある程度の地位と収入、そして退職金を確保できることが約束されていた。そして、このシステムを維持するために一流企業は、大学というネットワークを下部組織を抱えていた。つまり大学偏差値は人生の安全なレールを約束するわかりやすい目安、安定した人生のための既得権だったのだ。これが結果として、大学偏差値と社会的地位というのがイコールで結びつけられる図式を形成したのだ。

終身雇用の崩壊は偏差値神話の崩壊

ところが、昨今こんな状況は、ほとんど通用しないという日本経済の状況が出来上がっている。年功序列であったとしても、それは形式だけでしかなく、かつてのように、ゆっくりとだが確実に収入が上昇すると言うことが必ずしも期待できなくなってしまった。というのも、現在では一流企業を含めた多くの企業が定期昇給をやめてしまっているからだ。その一方でリストラを進めるため、新卒の正規社員の採用枠を縮小し、それを契約社員で埋めるという方針を採用している。これを、今後とも続けていけば、将来的には契約社員がさらに増加するわけで、それは言い換えれば現在、正規採用の社員はいつまでたっても正社員のいちばん下っ端が続くと言うことでもある。
いや、それだけではない。もはや一流企業であっても、ほとんどの企業が将来的に安定した経営が継続できるかどうかは確かではない。97年の山一証券倒産以来、大手企業の倒産という事態は珍しいものではなくなっている。

ということは、どんなに?从甲佑鬟殴奪箸靴動賣大学に入ったとしても、その先は以前ほど明るい見通しが立っているわけではないと言うことが解るだろう。

コミュニケーション能力という新しい採用の目安

いや、これだけではない。偏差値神話を崩壊させる要因は他にもある。こういった終身雇用的なシステムが必ずしも有効に作動しなくなり、企業もサバイバルのためになりふり構わぬ手段に打って出なければならない状況ともなると、採用基準がもっと別の合理的な物差しに置き換えられるという状況が出現しているのだ。

ちょっと考えてみてほしい。現在、企業が必要とするのはどのような人材なのかを。この流動性の激しい経済状況の中では、これを乗り切るような能力こそが最も必要とされるはずだ。それは一言で表現してしまえばコミュニケーション能力と言うことになる。つまり、企画を策定、実行するにあたって、他者の意見を取り入れる、他者の話が聞けるとともに、自らの創意工夫を表現し、それをグループ・ワークの中で展開、まとめ上げることができる力。言い換えれば総合的な創造力だ(その最も対極はオタク的な人格だろう。こりゃ、使えません)。そして、こういったスキルは偏差値という物差しでは決して測定することができないものなのだ。偏差値が測ることができるのは単なる処理能力に過ぎないからだ(しかも、その処理のベクトルが間違っていれば、全く使えないものでもある)。

そこで、現在、リクルートの方法として中心的な手法となったのがリクルート・サイト(リクナビやマイナビ)を経由してのエントリー・シートでの企業へのアプライというやり方だ。エントリー・シートは原則、指定校を設けていない(まあ、実質的には設けているところもあることはあるが、以前ほどではない)。これで書類選考し、残った学生が数回にわたる面接に挑む。第四次、五次面接なんてのがヘーキであるような時代なのだ(80年代半ばが就職活動時期だった僕の世代では、こんなに面接することなどはかった。面接なんか1~2回なんてのが多かった)。これは要するに、大学偏差よりも面接で人物を見てコミュニケーション能力を測定しているわけだ。企業としてもサバイバルをかけたならば、こちらの方が人材の選択方法としては適切と考えているわけだ。

つまり、受験生たちが思っているほど偏差値は使い物にならない時代がやってきたのだ。では、どうするべきなのか?(続く)

大学受験生の大学選択基準は偏差値

大学受験生はどういった基準で大学を選択するのか?自分の将来を見定め、自分がやりたい分野の学部学科を見定めて……もちろん、そんなことはあり得ない。全ては偏差値に基づいて大学は選択される。例えば早稲田の商学部と法政の社会学部、立正の経済学部に合格したなら、よほど専攻に固執することがない限り、本人が何をやりたいのかにかかわらず早稲田の商学部が入学先になる。この三つの中で早稲田が最も偏差値が高いからだ。ちなみに、こんなバラバラの大学受験をする受験生なんているのだろうかと思うかもしれないが、ごくごく普通の受験スタイルだ(早稲田を政治経済学部から社会科学部まですべて受けるという受験生も、ザラにいる)。受験生たちは、要するに偏差値のことしか眼中にない。それが、最も役得、御利益が多いと考えるからだ。

多少、学びたいことがあっても偏差値至上主義は変わらない。たとえば、社会学を学びたいと思うなら、全国あまたある社会学部のリストから自分の偏差値に合致しそうな範囲の大学を受験し、合格したうち最も高い偏差値の大学が選ばれる。合格したのが立教と東洋なら、間違いなく立教を選択する。そこに学びたい科目があるとか、師事したい教員がいるとか、そんなことは関係ない(というか、ハナからそんなことは考えていない。大学=偏差値という頭しかないのだから、これはあたりまえだ)。

偏差値が唯一負けるものはブランド

まずは偏差値が重要視されるが、その一方でブランドも大切だ。これも例を示せば「社会」という名称が共通の早稲田大学の社会科学部と法政の社会学部に合格した場合は、偏差値が拮抗する分、ブランド力が選択においてプライオリティーを持つ。この場合、かなりの受験生が早稲田ブランドを選ぶだろう。ちなみに早稲田大学社会科学部は、あくまでも「社会科学部」。かつての「教養部」的な存在であって、かならずしも「社会学部」ではないし、社会学の研究者レベルとしては法政より下なのだが、これまたブランドの前では関係なしなのだ。

それは、言い換えれば、自分がやりたい研究分野が決まっていて、なおかつ師事したい教員も決まっていたとしても、本人の偏差値がその教員が所属する大学の偏差値に合致していなければ、そこに入ることはできないと言うことでもある。いや、その大学の偏差が、自分の偏差値より低かったりしても、やはり入学先としては回避される。要は「大学とは偏差値で入るところ」なのである。

しかし、そんなに偏差値って価値のあるものなのだろうか?僕は大いに疑問だ。そして、「偏差値って裸の王様」じゃないのかという印象が最近はますます強まっていると考えている。

そこで、今回はこの偏差値という存在を分析、相対化してみたい。結論を先に述べておけば「偏差値、もう使えないよ。一部を除いて」ということになるのだが……(続く)



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(写真1:シェラトン・ラグーナ・グアム・リゾートの全貌。立派だが結構老朽化している)


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(写真2:ラグーン。全てがプールのように見えるが、実際に開放しているのはブルーの部分だけだ)


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(この“ちんたら”仕事が、リゾート気分を盛り上げる?)


「おおらかさ」が生む、リゾートにいるという感覚

グアムのリゾート、シェラトン・ラグーナ・グアム・リゾートの不思議な感覚について考えている。ボロくて、メインテナンスもサービスもメチャクチャなのに、結構、快適という感覚がここは味わえたのだが、それはなぜなのだろうか?今回は文化論的な立ち位置でその結論を語ってみたい。

このおおらかなサービス。結局、設備やメインテナンスのヒドさは、気が滅入ってしまう同様の設備の日本やタイのホテルと同じなのだが、この陽気さに見事に僕はダマされてしまっている。言い換えればボロくて、イイカゲンでも陰惨な気分にはならず、彼らと同様、陽気な気分をこちらも維持することができる。だから、この設備にあまり目くじらを立てる気にならないどころか、これをむしろ快適なものとして受け止めてしまったというわけだ。いわば”おおらかさの伝染”。おかげで、このいい加減さに染まることで、かえってリゾートでのんびりすると言うことについては満喫できたのだった。ムードというのは設備やサービスより、これを背後で形成するコンテクスト=文脈=空気が決めていると言うことがよくわかる。

快適かどうかは、利用する側のニーズにもよる

ただし、このコンテクストの要素のひとつには、僕が「何もしないでホテルで原稿書いたり本読んだりするリゾート」というスタイルも含めなければ、当然ならない。これがあるから僕にとっては○なのだ。ところが、これが二泊三日で、毎日アクティブにアトラクションやったり、ごちそう食べたりするスタイルのリゾートだったら、むしろこの雑さ加減で頭に血がのぼるんじゃないんだろうか。事実、前述したようにネットのレビューにはこのリゾートをボロクソに書いてあるもの(「二度と泊まりません」とあった)もあったほど。この人たちは、当然、日本やタイと同じレベルの待遇(価格やグレードのレベルで)を求めるだろう。そして、その立ち位置からしたら、このホテルは完全に×だ。気持ちは、よくわかる。

結論:やっぱり、ここはアメリカ

で、こういうサービスが一般化している文化圏は他にもある。それはアメリカだ。アメリカもまた、だいたいの宿泊施設は、こういったいい加減な設備、メインテナンス・サービスだ。

でも、よくよく考えてみればグアムってのはアメリカだよな。だから、この「どっか~ん」「ばっこ~ん}といういい加減なやり方なのはあたりまえということなのだ。

シェラトン・グアム、また行ってもいいかも。このおおらかな快適さを求めるために



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(写真1:クラブ・ラウンジ)


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(写真2:ラウンジの朝食。純和風です)


サイパンホテル、周辺ホテルもボロかった

グアムのリゾート、シェラトン・ラグーナ・グアム・リゾートの不思議な感覚について考えている。ボロくて、メインテナンスもサービスもメチャクチャなのに、結構、快適という感覚がここは味わえたのだが、なぜか。

ミクロネシアにやってきたのは昨年に続いて。ただし、前回はサイパンだった。宿泊ホテルはハファダイ・ビーチホテル。ここも、実に古いホテルで、まあ結構メインテナンスもイイカゲンだった。で、今回のグアムもまた、同じような印象を受けたのだ。ちなみに、今回宿泊したシェラトンのすぐそばにあるオンワード、サンタフェ・グアムといったリゾートも覗いてみたのだが、やっぱりかなりイイカゲン。すごく雑なのだ。タイのきめ細やかさとは全然違う。壊れたところはそのまんまほったらかしと言ったところは同じだった。いや、ホテルだけでなく街の店やレストランもまたなかなか雑な作りだったのだ。「焼けたコンクリートが朽ちたまま」というムード。食べ物の味にしても同様で、大味。ひとことで表現すれば「どっか~ん」あるいは「ばっこ~ん」という感じ。

ということは、このボロさ加減というのはミクロネシアの場合、今回のシェラトンに限らないと考えた方が、どうやら良さそうなのだ。そういえば、以前、テニアン(サイパンの隣の島)に宿泊したときも、やっぱり同じだった。

従業員たちのマイペースな態度

日本のホテルや温泉でこういった設備やサービスの不備があったとしたら「こりゃ、もう長くないな」と恐らく考えるようになるだろう。もう指揮系統がメチャクチャで、経営自体が実質的に死んでいるような状態だからだ。で、こういった場合、当然のお約束として従業員もやる気なし、出される料理もひどい、温泉だったら浴場それ自体が汚いといったような散々たる状況があちこちに展開され、お客としてはネガティブな気分にさせられる。だから「もう二度と来まい」と思いたくなる。でも、よくよく考えてみると設備そのものより、この陰惨な気分がムードを台無しにしてしまうのだ(ボロくても素敵なホテルは、あちこちにある)。

ところが、このシェラトンは違う。従業員はみんな結構、生き生きと仕事に勤しんでいる。「こんにちわ」と日本語で挨拶してくれたり。ときたま従業員同士でおしゃべりしているってこともあるのだが、これがサボっているという感じには見えず、南国ののんびりしたムードと妙にマッチしている。とはいうものお客そっちのけでサボっていると言うこともなく、お客に気付ば愛想良く対応してくれるのだ。手を抜いているわけでは、決してない。

クラブ・ラウンジでも同じようなことが起こった。ここに入るためには入り口のドアに自室のキーをかざす必要がある(クラブラウンジ・ルームだけにキーが反応するようになっている)。でも、出入りはほとんどこれだけ(メンバーの後ろからついて行けば利用できてしまう)。入り口で部屋番号を聞いてくることもあるのだが、入り口にスタッフがいないなんてこともしょっちゅう。だから、お客も結構勝手にやっている。ドリンクなどの持ち出しは禁止になっているのだが、お構いなしに持っていったり。で、スタッフはこれに気がついてもさしてとがめる様子もない。まあ、いい加減なもんだと思えないこともないが。

とはいうものの、意外と客の様子はよく見ている。数日間泊まり続け、さんざっぱらクラブ・ラウンジを利用しまくっている僕たちなどは、完全に行動パターンを見破られていた(だいたい、ここは二泊三日くらいが普通なので8泊という客はきわめて珍しいということもあるのだけれど)。僕が冷蔵庫にワインを取りに行くと、ちょうどワインを切れた状態。それを見つけたスタッフが「ちょっとまって、今、白ワイン持ってくるから」と気を利かしてくれた。でも、冷蔵庫の中にはビールやコーラ、オレンジジュースと言ったものがいろいろ入っている。ところが、そのスタッフが僕にかけた声がこれだったのだ。つまり僕たちがいつも白ワインを飲んでいることをお見通しなわけで、思わず笑ってしまった。彼らなりの心遣いというものが感じられる。

また、とある日のハウスキーピングの時のこと。前述したように従業員はてんでバラバラに仕事をするので備品が入っていなかったり、違ったものが置いてあったりするのだが、逆に言うと従業員それぞれのサービス精神が反映されて、毎回違った妙なおもてなしがなされる。トイレットペーパーが三角に折ってあったりなかったりってのがその典型。おもしろかったのは洗面器の横の僕らの歯ブラシや歯磨きがタオルの上にきれいに並べてあるなんてことも(写真3)。思わず笑ってしまった


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(写真3:なかなかユニークな演出?)


つまり、タイのホテルや日本の温泉のようなきめ細やかな「心づくしのおもてなし」なんてのは全く期待できないが、彼らなりのマイペースで、おおおざっぱな「おもてなし」はちゃんと存在している。そして、マイペースだけどもスタッフは一生懸命に仕事をしている、というわけなのだ。

ちなみに、クラブ・ラウンジで夕方に出されるオードブル。毎回四品程度だが、宿泊している間は全て違う料理が出された。ビーフ、ポーク、チキン、サーモン、そして牡蠣。この料理はロビー階のレストランから運んできたもので、味は結構いい。グアムやサイパンのレストランなんてのは、おおざっぱな料理と相場が決まっているが、ここはかなり繊細のものを出していた。こんなところの心配りもうれしい。おかげで、僕らは夕食を外に食べに行くことが全くなくなってしまったのだ。ワイン片手にラウンジのごちそうを、夕焼け見ながらいただく。しかもゆったりとして落ち着いた(ただしちょっとボロの)クラブ・ラウンジで。当然、五千円の追加料金、つまり一人二千五百円分は、とっても安かったと言うことになる。。でも、なぜこんなヘンテコな状況になるのだろう。最後にこれを文化として考えてみよう。(続く)

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