勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2010年02月

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(エリーが作成したMy Adventure Book。そこには意外なメッセージが(映画『カールじいさんの空飛ぶ家』より)

飛ばない家の中で見つけた写真集がカールに告げたメッセージ

映画『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析している。今回と次回はカールがパラダイス・フォール行きを断念する理由について考える。

なんとかマンツの下から逃げ切ることができたカール、ラッセル、ケビン、そしてダグ。しかしダグの犬語翻訳機にはGPS機能が装着されていたため、その居場所は容易にマンツの知れところとなり、やがて追っ手がやってきて巨大鳥ケヴィンはマンツによって捕獲された。これを取り返すべくカールは家を使ってマンツの飛行船に接近しようとするが、このことを予期してマンツはカールの家の風船の多くを破裂させてしまう。

もはや飛行船に近づく手段、つまりケヴィンを助ける方法はなくなってしまったのか?カールは意気消沈する。しかしケヴィンを助けたい一心のラッセルはひるまない。なんと自分のカラダに風船を巻き付けファンを推進機にしてマンツの飛行船へと単独向かってしまったのだ。

一人家に取り残されたカール。居間の椅子に座ってしばし呆然とするが……するとそこにアルバムが一冊。これはエリーが”My Adventure Book”と名付けたもの。カールがエリーと初めて家の中で出会ったときに見せられたものだ。もっとも、当時はパラダイス・フォールの絵(エリーが図書館の本をちぎって持ってきたもの)が貼り付けてあるだけだった。ただし、これはエリーの夢、そして秘密。その秘密をカールは見てしまったがゆえに、カールはエリーをパラダイス・フォールへと連れて行くことを無理矢理約束させられ、そして二人は結ばれたのだった。

しかし、結婚後、このアルバムはパラダイス・フォールへの冒険日記どころか、二人のこの家での日常生活の記念アルバムになっていた。一見すると冒険とはほど遠い展開が綴られている。言い換えれば、冒頭十分間のエピソードのダイジェストが貼り付けられていたものだったのだが……一番最後の写真が貼り付けられたページの次のページを、ふと開いたとき、カールは驚くものを発見する。それはエリーからのメッセージだった。

「楽しい日々をありがとう。さあ、次の冒険に出発して!」

えっ?次の冒険って?まだはじめの冒険すら始まっていないのに?なぜ?

奇っ怪な行動を始めたカール

しかし、そのメッセージを見た瞬間、カールは、家の中にあるエリーとの思い出の家具を次々と投げ捨て始めた。なぜ彼はこれまであんなに大事にしてきたこれらのものを惜しげもなくバンバンと捨ててしまったのか?もちろん表向きは家を軽量化するためだ。つまり、家具を捨てれば家の重量が減る。そうすれば少なくなった風船でも家は浮き上がり、マンツの飛行船へたどり着き、ケヴィンの救出を試みることができるからだ。つまりこの時、冒険はパラダイス・フォールへ行くことからケヴィンを救出することに変更されたのである。

だが、この行為にはもっと大きな意味がある。そう、カールはこの瞬間、「本当の冒険」とは何なのかを理解したのだ。そしてそのことを教えてくれたのがラッセルとマンツだった。前者は見習うべき冒険家として、後者は否定すべき冒険家として。それは何か?(続く)

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(左から:犬のダグ、巨大鳥のケヴィン、ラッセル、カール。映画『カールじいさんの空飛ぶ家』より)

言葉を話す犬、ダグとの出会いがもたらした意外なもの

映画『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析している。

78歳の老人カール、8歳のボーイスカウト・ラッセル、そして巨大鳥のケヴィンによる珍道中。この道中にさらに一匹が加わる。犬のダグだ。ダグは犬語翻訳機(これはタカラ(現タカラトミー)の製品・バウリンガルをヒントにしている)を付けているので人間と会話を交わすことができる。そして、ダグにこの犬語翻訳機を装着したのは……なんとカールとエリーが少年時代に憧れていたヒーロー、冒険家のチャールズ・マンツだった(しかし、この設定だとマンツは90代半ばより上という年齢になるという、恐ろしい設定)。マンツは南米に向かい、犬に犬翻訳機を装着させて部下にし、いまだに巨大鳥を追いかけていたのだった。そして、ダグはマンツの部下だったのだ。ただし、落ちこぼれの。

だがダグ以外のマンツの犬たちはカールたちを見つけると、なぜか襲いかかってきた。カールたちはダグに手ほどきを受け、這々の体で洞窟の中に入ると……なんと、そこにあったのはマンツの飛行船(二人が初めて空き家で出会ったとき(もちろんこの家は、その後の二人の住み家になるのだが)、エリーが家を飛行船に見立てていたのだが、その現物)。そして、そこにマンツがいたのだ。

カールはマンツに対し、家を風船にぶら下げてパラダイス・フォールを目指していることを告げると、部下たちはカールへの攻撃を止め、またカールがマンツに「自分のあこがれの人だ」と手を差し出すのべることで、態度は豹変。今度はカールたちは歓迎すべき客としてもてなされる。

マンツの豹変

料理でもてなし、巨大鳥を生け捕りにするという野望を語るマンツ。だが、それは言うまでもなくケヴィンのこと。するとここでラッセルが「ああ、ケヴィンのことだよね」とあっさりと語り始める。ラッセルはマンツの話の意味を理解できていない。つまりケヴィンを生け捕りにしようとしていることを。だが、年老いたカールにはこのことがすぐに察知された。しかも、洞窟の横に停泊しているカールの家の上にはケヴィンが……。

ラッセルとケヴィンの間に築かれた友情。だが、マンツの知るところとなれば、この関係は遮断される。そこでカールは知らぬ存ぜぬを決め込むのだが、これが、かえってマンツに怪しまれる原因になる。いや、それどころかマンツはカールが巨大鳥を生け捕りに来たのだと勘違いする。

それはつまり、自分の成功を持ち去られること。もし、そうなれば自分に着せられた汚名を一生晴らすことはできない。巨大鳥、つまりケヴィンを生け捕りにすることはマンツの社会的名誉の回復という、アイデンティティをかけた一生の戦いなのだから。これを妨害する可能性のある存在は駆逐しなければならないのだ。実際、これまで同じ目的を持ってここにやってきたと少しでも思われた人物を、マンツはことごとく殺害していたのだ。

「この男も抹殺せねば」

マンツは再び悪魔と化して、カールを殺しにかかる。なんのことはない、最初部下の犬たちがカールを襲ってきたのも、成功争いの敵という想定だったからなのだ。社会から隔絶された環境で一人で生活し続けたあげくマンツは完全に社会性を失っていた。


人生を通じての、そしてエリーとの出会いのきっかけとなり、二人が共有し続けたヒーロー・マンツの豹変。だがこれこそがカールのパラダイス・フォールへの旅を、そして冒険の意味を、根本から変更させることになる。(続く)

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(映画の狂言回し役:ラッセル。ボーイスカウト・グレードアップのための全任務達成まであと一つ。だから肩から回した帯には一つだけバッジがない。そしてその最後の任務が「老人のお世話をすること」だった。(映画『カールじいさんの空飛ぶ家』より))

狂言回しラッセル

映画『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析している。今回はカールを真の冒険に誘う役割を果たす、狂言回し・ラッセルを取り上げる。

ラッセルは8歳のアジア系少年。ボーイスカウトに所属し、自らのボーイスカウト内でのグレードを上げるべく、様々な任務に勤しんできた。成し遂げた任務についてはバッジが贈呈されるのだが、このバッジを全て満たすとグレードが上がる。そして遂に一つを残すのみとなった。最後のミッションは「老人のお世話をすること」。ラッセルは自らの目的を達成すべく一人暮らしの老人に目を付ける。それが78歳のカールだったのだ。

しかし、家に引きこもり、エリーと暮らした生活スタイルを頑なに守ろうとするカールにとっては、ラッセルに依頼することなど一つもない。それどころか、ヘタに部屋の中をいじられてはたまらない。だから、けんもほろろにラッセルを追い出したのだが。なんと、ラッセルは家を風船で空中に上げたとき、玄関に居合わせたのだ。こうして、ラッセルはカールのパラダイス・フォールへの旅の道中に加わることになる。ラッセルはカールに何を働きかけたのだろうか。

バッジよりも冒険を楽しむラッセル

パラダイス・フォールの旅に出たのはよいのだが、カールとラッセルのベクトルは全く逆を向いていた。カールの目的は、ひたすら求道的にパラダイス・フォールに家を引っ張っていくこと。徐々に風船の中のヘリウムが減っていくので、次第に浮力が落ちる。だから風船が家を浮かばせることができなくなる前に家をパラダイス・フォールへと運ばなければならない。

一方「お年寄りの世話をする」ためにやってきたラッセルの方は、そんなことはお構いなしだ。ワクワクドキドキで、このアドベンチャー=冒険を心から満喫してしまっている。 一方で、バッジを獲得することなどとっくの昔に忘れてしまった。 だが、ラッセルがその楽しみを満喫すればするほど、カールが家をパラダイス・フォールへと運んでいける可能性は小さくなっていく。なんと言っても時間との戦いだからだ。だから、カールにとってラッセルはとても迷惑な存在なのだ。

転機を呼んだケヴィンの登場

パラダイス・フォールへと向かう道中、ラッセルは巨大な鳥と遭遇する。二人?はすっかり意気投合し、巨大な鳥にケヴィンと命名した。明らかにオスの名前。ところが、実際にはこの鳥は子供がいるメスだったのだ。

ケヴィンの存在はカールの悩みをまた一つ増やすことになった。珍道中を繰り広げる存在が一つ増えれることは、パラダイス・フォールに向けての不確定要素がまた一つ増えることになるからだ。カールは二人(一人と一羽)を無視して単独でパラダイス・フォールに向かおうと決意する。だがケヴィンの存在はカールの気持ちを思わぬ方向へと誘っていくのだった。(続く)

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(上:二人の出会い。この空き家が後の住み家となる、下:雲を見ながら子供を夢見る二人(映画『カールじいさんの空飛ぶ家』より)

カールがまず求めていたものは「冒険」という名の「保身」

ディズニー=ピクサー映画『カールじいさんの空飛ぶ家』の徹底分析を行っている。そこで、まず主人公カールの、旅を続ける中での心性の変化を追いながら、カールが何を求めてパラダイス・フォールに向かい、結果として何を獲得したのかを分析していこう。

まず、カールが家に風船を付けて旅立った理由は至極単純な理由からだ。家は愛する妻・エリーと過ごし続けた場所。かけがえのない大事な空間。しかしエリーは今やいない。だからエリーの形見としての家を徹底的に守ろうとする。生活のスタイルはエリーが生きていた頃と全く同じ。食卓テーブルは二人が向かい合わせになっているかたちで配置されており、そのまんま。いやいや、家具、装飾の配置まで、室内のあらゆるものがエリーがいたときのままを頑固に保っている。そして、エリーの写真が入った額縁が。つまり、この家はエリーの分身、エリーそのものなのだ。しかし、それが、今やディベロッパーによって破壊されようとしている。

だったら、これを守る方法は一つ。自分が営んでいた風船売りの商品である風船を家に取り付けて飛び立つこと。そしてエリーと目指した冒険の地、南米のパラダイス・フォールへと向かうこと。だから飛び立った。

この「冒険」は確かに常軌を逸した危険、つまり冒険の含意の一つであるベンチャードなものではある。ただし、これは冒険=adventureの他の含意である「何か新しいものを発見しようする」とか「胸おどる体験」というものからはほど遠い。つまり、前向き、未来を指向した冒険ではない。カールが冒険の旅に出たのはやむにやまれぬ事情、つまりエリーとの思い出を破壊されることを避けようとする一念に基づいている。言い換えれば、パラダイス・フォールを目指すことは、そのための「言い訳」に過ぎない。
だからカールにとって物理的には冒険であっても、精神的には冒険であることを意味しない。徹頭徹尾「後ろ向き」で「夢おどることのない」旅なのである。

冒頭のエピソードの正体:その1

そして、これは冒頭十分のエピソードと絡んでくる。実は、あのエリーとの一生を綴ったエピソードこそが、カールを頑固にさせてしまい、家に閉じこもるようにさせたトラウマなのだ。つまり、観客が思わずホロリとさせられるようなメロドラマをカールもまた引きずっている。言い換えれば、あのエピソードは、カールがあのエピソードを回想する度に、彼をより一層頑なにさせていくモノなのだ。さらに言い換えれば、このトラウマに惑わされている限り、カールは決して本当の意味での冒険=Adventureに出発することはできないのである。

しかし、ここに狂言回しの子供ラッセルが絡んでくることで事情は変わってくる。カールは結果として本当の冒険を始めることになるのだ。さて、その「やむ終えぬ冒険」が「本当の冒険」に変化するのはどのような過程を経ていくのだろうか。(続く)

最初のショート・ストーリー

この映画の冒頭の十分程度のショート・ストーリーは以下のような流れになっている。

主人公のカール・フレドリクセンは子供の頃、冒険に憧れる。カールのあこがれのヒーローは冒険家チャールズ・マンツ。カールはマンツの冒険の様子を映画館のニュース映画で目にした。ところが放映された報道は、マンツが発見した巨大な鳥の骨格標本が偽物であるというもの。マンツは冒険家協会の会員資格を剥奪されてしまう。だが、これにリベンジをすべく巨大鳥の生け捕りのため南米に向かい消息を絶ったというものだった。

その帰り道、とある空き家から女の子の声が。彼女の名前はエリー。空き家を冒険の気球(もちろんマンツの乗るそれ)に見立て、冒険ごっこに興じている。そしてエリーにとってのヒーローも、やはりカールと同様、マンツだった。二人は意気投合、やがて結ばれ、その空き家を買い取り、南米にある伝説の滝「パラダイス・フォール」に行くことを目指す。

だが、そのための資金集めはしばし頓挫する。家のリビング・テーブルには冒険のための小銭を集める大瓶があるのだが、クルマのパンクや家の破損などの度に瓶は割られ、やがて月日が経過、二人は年老い、夢を果たそうとした頃にはエリーは病に倒れ、他界してしまう。

ひとりぼっちになったカールはエリーとの思い出に固執し、次第に頑固な性格となり、周辺との関係を閉ざしてしまった。そして二人の思い出の家だけがカールの拠り所となったのだった。

最初の十分にダマされるべからず

ところが、カールの家の周辺は次々とデベロッパーに買収され、気がつけば周辺は丸裸。デベロッパーが家を売るように交渉してくる。もちろんこの思い出の家を手放すわけはない。カールは断固として拒絶していた。そんなある日、デベロッパーの一人とカールはいざこざを起こし(エリーと二人で作った郵便ポストを破壊されてしまう)、怒ってデベロッパーに暴力をふるったことから裁判沙汰となり、いよいよ家を捨てて老人ホームに入ることを余儀なくされてしまった。だが、老人ホームに行く当日の朝、カールは家に膨大な数の風船を付けてパラダイス・フォールに向けて旅立ったのだった。

ちなみに、ここで狂言回しとしての存在としてのボーイスカウトの少年ラッセルが絡んでくる。
この冒頭のエピソードはピクサー映画が長編上映の前に流すショート・ストーリー(今回は『晴れときどき曇り』)と同じようにコンパクトで、それ自体が秀逸な作品として捉えることができる。ただし、前回も指摘しておいたように、このエピソードは、実は全て否定させるためだけのために冒頭に置かれたものだ。言い換えれば、このエピソードにわれわれがノスタルジーを感じさせられるように作られているが、そのような感動が最終的には単なるセンチメンタルな小話でしかない、つまりエピソードそのものの表層的立ち位置を否定するために置かれているのだ。

そう、はじめに感傷的になったあなたは、その甘ちゃんな態度にしっぺ返しを食らわされることになるのだ。では、どうやって?まずはカール自身の分析から始めていこう。(続く)

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