勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年12月

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     (鮪を鮪で巻き、ドレッシングがかかった”Sushi”。デカい!)

洗練されたアメリカン・フード店の提供する寿司

WDW(ウォルト・ディズニー・ワールド)、ダウンタウン・ディズニー内にあるアメリカン・フードの店”ウォルフギャング・パック”を四年ぶりに訪れた。アカデミー賞授賞式の料理を提供することでも有名なこのチェーン店。僕はWDWに行く際にはここに行くことをいつも楽しみにしている。料理がどれも洗練されていて、実においしいというのもそうなのだが、イチバンの楽しみはどんな寿司、いやSushiが出るか?ということ。ここでは日本で展開している支店(東京、横浜、名古屋、大阪にある)では出されていない寿司や刺身が提供されるのだ。そして、その中には一種独特の、とても寿司とは思えない、それでいて実においしい逸品にありつくことができる。もう少し丁寧に説明すると、日本では使用されないような食材や使用法を展開し、一見寿司とは思えないようなものなのだが、立ち位置を変えると実にクリエイティブでしかも洗練された料理に遭遇できるのだ。

僕はこれを日本文化に定着している「寿司」と差別化する意味を込めて”Sushi”と英語表記することにしている。つまりこれは日本から輸入されたものだが、もはや日本文化であることをとっくに乗り越え、アメリカ文化のカルチャーになっている”クレオール料理”と考えるからだ。前回は花の語りをあしらったちらし寿司だった(本ブログ2009年8月16日号参照)。さて、それでは今回は?ということで二品にチャレンジした。

マグロをマグロで巻く太巻き

ひとつは「オススメ」と言われて注文した巻物(残念ながら名前を失念してしまった)。漬けにされたマグロの太巻きなのだが、表面に巻かれているものは海苔ではなくマグロかサーモンの刺身。この上にサウザンアイランド・ドレッシングかかけられ、粒子がトッピングされている。アメリカンなサイズで大きいこともあって、ちょいと見た目は少々グロな感じがしないでもない。

マグロをマグロで包むというなかなか暴力的な嗜好。しかもこってりとしたドレッシングにピリピリと塩味が感じられる粒子。これだけでも結構複雑な味であろうことは、想像がつくのではないか。だが、このSushiの本領はココにあるのではない。つまり見た目にあるんじゃあないのである。

なんとラー油が下味だった!

食べた瞬間「なんじゃ、こりゃ?」と思わせたもの。それは下味に使われていたものだった。なんとラー油なのだ。当然、これだけコテコテ下味にラー油が入ってくれば、一層味は複雑に。下手すりゃ味はゴチャゴチャになる。ところが、これらが薄味でまとめられているので、こってりとしているわりに上品(もちろんカロリーはどう見ても高そう、っていうか高い!)。
そして、食べ方はこれで終わらない。寿司皿の横にはわさびがトッピングされ、醤油小皿もまた用意されている。ということは、このSushiにさらにわさびをトッピングし、これを醤油をつけて食べろというわけだ。当然、ただでさえ複雑な味が、一層複雑な味になっていく。

さながらSushiのオーケストラ

ところがこの複雑さが見事なバランスを保ってアンサンブルを奏でている。まず薄味なのにこってりなところを醤油が締める。そしてイチバンの見事なアンサンブルはラー油とわさびの”辛さ対決”だ。ラー油の辛さは舌に張り付く辛さ。一方、わさびの辛さは鼻につく辛さ。もう少しわかりやすく表現すれば舌がヒリヒリと焼ける辛さと、鼻にツンと来る辛さ。辛さの質が違うのだ。この二つの辛さが口の中、鼻の中いっぱいに広がって、そして醤油と粒子のことなる塩辛さとツープラトンでドレッシングのこってり感を打ち消している。実に見事なSushiワールドが展開されていた。

もちろん、この寿司に日本酒は合わない。カリフォルニアのシャルドネ、あるいはアメリカンビールがイチバンのマッチングだろう。

ちなみに、頼んだもう一つのSpider Rollはカニを湯葉で巻いたものだった。湯葉にはタレが塗ってある。残念ながらこちらはハズレ。欧米人が考える日本食の一つである照焼(正しくは”TERIYAKI”か?)のイメージが寿司に加えられているのだが、これは僕の口、というか日本人の口には合わないものと見た。もっともこれもまた、アメリカ文化の一つで、このスタイルが人気軽と言うことも確か。”Sushi”ならぬ”寿司”文化にどっぷりとつかっている僕には、流石について行けない味だったということなんだろうけれども。

※Spider Rollはこの店のオリジナルというわけではない。アメリカのSushiレストランでは結構見受けられるものではある。ただし、この料理の仕方の洗練度はちょっと他には見られないものだ。

日常と非日常、二つのディズニーランド

ディズニーランド。日本とアメリカでは客層が異なる。日本は大人中心。一方、アメリカは家族中心。
日本とアメリカでのこのゲストの年齢層の違いの原因はディズニーランドという施設が置かれる空間の違いにあるのでは?と僕は考える。空間とは、もちろん日本とアメリカのことだけれど、この二つの根本的な違いは“広さ”だ。アメリカは広大で、おいそれとカリフォルニアやフロリダに行けるわけではない。だから、アメリカ人はディズニーランドを一生に一回だけ行く、非日常を感じる「聖地」として、気合いを入れて出かけていくわけだ。

一方、日本人の場合はこの反対。東京ディズニーリゾートを訪れるゲストのほとんどはリピーターで、関東エリアに在住する。すぐそばだから何度でも行くことができるわけで、日常的な「非日常空間」となっている。

表層の子供モードと深層の大人モード

この空間の広さの違いは、翻ってディズニーランドという空間に対するゲストの認識の仕方を二つの空間で異ならせるということになっているのではないだろうか。

つまり、アメリカ人にとってディズニーランドは一回しか行かないところだから、結局、その程度ではパークの造詣の深さはわからない。ましていわんや出かけるのが子供の時。その詳細な作りを評価する鑑賞眼もまだ養われてはいない。つまり、子供だましの普通の遊園地と同等の情報感知能力しかゲストは持つことができない。そこがアメリカ人にとって特別な場所であるというアウラを除いては。

一方、日本の場合はしつこく何回も行くので、その詳細についてチェックが入っていく。こういった顧客層にとってディズニーランドはたまらない魅力を秘めた存在だ。テーマ性、作りの手の込みよう、様々な情報の横溢は「探り出す場所」としてハマる場所になるからだ。そう、行けば行くほどこれらを知りたくなり、しかもすぐ側にあるので気軽に行くようになる。

ディズニーランドはアメリカ人にとっては通過儀礼として子供時代に一回経験するところであるに対して、日本人にとってはオタク萌えを促す環境なのだ。

アメリカ人、実は二度ディズニーランドに出かけている

さて、一つだけ付記しておきたいことがある。それは厳密に言えばアメリカ人にとってディズニーランドは二度行くところであることだ。子供の頃、そして大人になったら自分の子供を連れてくるところ。ただし、大人になったとしても日本人のようにディズニー萌えすることはない。それは、幼い頃自分が連れてこられたように、自分の子供を連れて行く「親の通過儀礼」の場所であるからだ。ということは、やっぱり日本人のように「ディズニーオタク」には、決してならないのである。

子供の遊園地?

ミッキーマウスやドナルド、プーさんがいる遊園地、ディズニーランド。おとぎ話のアトラクションがいっぱい。絶叫マシンもあるけれども、他の遊園地と比べれば実にマイルドなつくり。実際、スペース・マウンテンやビッグサンダー・マウンテンの最高スピードは40キロくらいしかない。本格的な絶叫を楽しみたければ富士急ハイランドに行ってドドンパとかFUJIYAMAとかに乗ればいい?

というわけで、ディズニーランドは子供の遊園地?と思いきや、実は入場者=ゲストのほとんどは大人、しかもカップルというのが多い。リピーターもしかりで、大人の方が多い。というのも、ディズニーランドはテーマパーク。そのテーマ性を徹底的に突き詰めることで、大人の鑑賞にも堪える「子供だまし」ならぬ「大人だまし」の遊園地になっているからだ。

アメリカでは?

と、ここまで書いてきたのが日本にある東京ディズニーランドへの、一般的な位置づけだろう。実際、今年、東京ディズニーシーでは「大人のディズニー」という名の下、黒木瞳をイメージキャラクターに成人層を優遇するキャンペーンを展開したほど。開園26年目を迎えディズニーランドの顧客層も一巡し、かつて若者だったゲストも子供を連れ、そして子供が成長して今度は友人と連れ立ってくるという”大人の遊園地”としての機能をすっかり定着したわけだ。

一方、本家のアメリカはどうだろう?実は、これが全然というか、全くといっていいほど「子供の遊園地」なのだ。それは年齢層の構成が物語っている。子供の比率が東京ディズニーランドに比べると圧倒的に高いのだ。というよりも、ほとんどが家族連れ。しかも子どもたちの年齢はだいたい十代前半まで。

聖地ディズニーランド

社会学者の能登路雅子は『ディズニーランドという聖地』(岩波新書)の中で、その表題どおり、ディズニーランドがアメリカ人にとって聖地であることを指摘している。日本人ならさしずめ日光東照宮とか伊勢神宮と行った位置づけになるらしい。それは言い換えれば、アメリカ人として生まれたならば一回は行っておくべき場所と言うことでもある。その一回とは?子供の頃に親に連れられて行く一回ということになる。一生に一度の楽しみとして子どもたちが目指すべき場所。それがディズニーランドなのだ。

じゃあ、もう少し年齢が行くとどうなるのか?十代半ばともなると、もはやディズニーは子供っぽくてつまらない。一方で、年齢相応のもっと大人向けの遊園地を望むようになる。それはユニバーサル・スタジオであったり、あるいはディズニーランドより遙かに強烈な絶叫を楽しめるジェットコースターランドであったり。

しかし、二つの国でのディズニーランドの位置づけの違いは、なぜ起きたのだろうか?(続く)

○○都民という言葉がある。典型的なのは千葉都民、埼玉都民。居住空間が千葉や埼玉にあるのだが、勤務先が東京。アイデンティティも東京にある層をさして、こう呼ばれる。おもしろいのは神奈川だ。千葉、埼玉同様、東京に隣接している。にもかかわらず神奈川居住者は自らを「神奈川都民」とは呼ばないようだ。あくまでも「神奈川県民」である。この違いはどこにあるのだろう?

僕は神奈川に居を構えて二年目だが、こういった「新参者」にはその理由がよくわかる。文化の重層性が違うからだ。たとえば関内あたりを歩いてみると、古い煉瓦の建物、港、老舗のレストラン、こんなものがぎっしり詰まった状態で建ち並ぶ。その密度はめまいがするほど。

いっぽう○○都民と名乗る場合の心性は逆だ。新興住宅地の奥行きのなさに対する意識が反映している。だからこそ東京という文化に憧れる。一方、神奈川は歴史を刻み文化を発信する、全国でも最も魅力的な県の一つとみなされている。そしてそのことを県民は無意識のうちに認識している。つまり他地域はもちろん、東京にすら対抗意識を持たない「金持ちケンカせず」の感覚を持つ。だから神奈川”県民”なのだ。

ただし、このコンプレックスのなさは、翻って県民意識を希薄さを生んでいないだろうか。神奈川県民は自らの財産をもっと意識してもよいと、僕は思う。
言い換えれば、それは「神奈川県民」であることに自覚的になれと言うことなのだが。

(神奈川新聞 12月21日 掲載文)

時代が康を追い抜いていく?

イカサマ的なイベントを繰り広げ、戦後世代の意識を混沌に陥れ、そして活性化させた昭和の興行師・康芳夫。だが、最近、康が派手なイベントを展開したという話を聞かない。事実、康の香具師としての顕著な業績は猪木-アリ戦を最後にぷっつりと途切れてしまっている(『虚人のすすめ』でも、語られているイベントはここまでだ)。それはなぜか?それは、やはり、時代性を踏まえことで明らかになってくる。

その後、メディアは次々と情報チャンネルやソースのインフラを整備し、これらを使いこなすようになった人々たちが、次第に情報を相対化して捉えることを学んでいくようになる。つまり情報を易々とは信じ込まないような心性が身についていく。

その一例を挙げれば八十年代に入り、たとえばテレビの漫才ブームの中で「相対化の笑い」がある。この時期登場したお笑い芸人やユニット(現在のたけし、タモリ、紳助、さんまなど。ただしタモリは漫才ブームで登場したのではない)は、明らかに「笑いを笑う」というメタ的な笑いのスタンスをとる芸を繰り広げたのだ。たとえば春やすこ・けいこというユニットは、アイドルがアイドルを演じているという事実を徹底的にパロディにして見せた(ここから、たとえば松田聖子に「ブリッ子」というあだ名がつけられるようになった。松田聖子は「アイドルを演じている」と見なされたのだ)。また太平サブロー・シローに至っては、大御所のお笑い芸人のパロディを「古くさいもの」として演じるという禁じ手すら見せたのだ。
こうなると康のやるような素朴なスタイルで客をペテンにはめるようなやり方は、通用しづらくなってくる。多元的な価値観を備えるようになったオーディエンスが、それを「ウソ」とわかってしまうからだ。

テリー伊藤の「見え見えのナウ」

そんな中、価値観相対化の笑いを徹底的に推進、展開して見せたのが康の弟子であるテリー伊藤だった。テリーは日曜八時からのバラエティ番組「天才たけしの元気が出るテレビ」の中で、康がやって見せたようなイカサマを次々と展開して見せた。浦安フラワー商店街の復活プロジェクト、大権現(巨大な権現が突如として動き出し鎌倉に行進するプロジェクト)などがそれで、テリーの展開する企画は康が繰り広げたイカサマ・プロジェクトのほとんどコピーというか、そのものだったのだ。

ただし、テリーの場合は康と異なりオーディエンスがメディア・リテラシーを上昇させていること、価値観相対化が進んでいることを踏まえた上でのイカサマの展開だった。つまり、この企画を見ている視聴者たちはこれが真っ赤なウソであることを知っている。だからハナから信じてなどいない。見え見えのウソと認知している。テリーはそこに目をつけた。

それは、これをウソと知りつつ、このウソにつきあうことで楽しんでしまおうというスタンスを視聴者に準備することだった。いわば、送り手=テリーと視聴者がグルになって、このウソを実現させるという感覚をもたせるのだ(もちろん、これも「そのように思わせる」という巧妙な仕掛けが組まれていたのだが)。こうやって、テリー伊藤は康の考えたイカサマを時代に合わせて進化させて見せたのである。こういった、ウソをウソと知りつつそれを送り手受け手が一体となって楽しむ感覚を社会学者の稲増龍夫は「見え見えのナウ」と読んだ。そして、視聴者=受け手=消費者は、制作者=送り手=生産者の視点を併せ持つとされ、生産者=プロデューサーと消費者=コンシューマーを合体させたプロシューマーと呼ばれることになる。

さらに進化するイカサマ技術とオーディエンスの相対化感覚

テリー以降、こういった怪しげな展開をパロディとして楽しむというスタイルはどんどん一般化していく。それはテリーの弟子である土屋敏男の”すすめ電波少年”であったり、現在も放映されている”サンデー・ジャポン”,であったりするのだが、こういった「元気が出るテレビ」の後続は、さらにこの感覚を一般化させ、もはや手法の一つとして定着した感がある。

で、こうなるともはや康芳夫の出番はない。そう、康のやり口は、後続によって踏襲され、オーディエンスによって消費し尽くされてしまったのだ。

次の虚人は登場するか?

では、康のようなトリックスター=虚人は今後登場する可能性はないのではなかろうか?……いや、そんなことはないだろう。もっともっと手の込んだやり口で人々をペテンにかけることにロマンを感じる人間は登場するはずだ。

ちなみに、その最たる存在は小泉純一郎であり、新庄剛志であり、東国原英夫である。彼らはテレビがすっかり相対化されたメディアでありながら、それを逆手にとってさらに新しい手法で国民全体をペテンにかけることに成功している。もっとも彼らが康の言うところの「虚人」であるかどうかは定かでない。カネ以外に何らかのロマンを抱いているかどうかは未知数だからだ。

康芳夫の『巨人のすすめ』、是非手に取ってみてほしい。

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