勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年11月

ワン・パターン文章法から始めよう

若者の文章がとんでもなく下手ということについて、その現状と原因を考えてきた。そこで、最後に処方箋を示しておこう。

言語力強化、文章力の養成のために必要なことは何か?それはいうまでもなく、この多様化(もちろん、これは前回示したように情報化がもたらしたものだ)した文章表現パターンの中でおぼれることをやめ、どこか一つのパターンに固執して、そのパターンのみをとりあえずは習得してしまうことだろう。

包丁の使い方は、どうやって覚えるのか

これは包丁の技術を学びたければ菜切り包丁一つだけを購入し、これでとりあえずあらゆることをやってしまおうというやり方と同じだ。菜切り包丁は出刃包丁のように先が尖っているわけではないので刺したりするのには不便だが、たいていのことは出来る。で、これだけを使っていろんな切り刻み方を覚えれば……その次に出刃包丁に手を伸ばしたとしても、菜切り包丁のスキル=菜切り包丁で鍛えた包丁の使い方についての基礎の上でこれを使い始めるので、簡単に応用が利く。

昔の人のように型に流し込む練習をすれば、その先には……

つまり、とにかく文章パターンひとつを覚え、そればっかり使ってみる。要するに一本調子の型に流し込む。そしてこのパターンなら何でもござれという状態になれば、そこで次第に、そして自然に応用パターンにも手が伸びていくはずなのだ。そのパターンばっかり使うことでフォーマットがしっかりして伝達性が高まるとともに、そのパターンばっかりでは飽きてくると、今度はスケベ心が芽生えて、ちょこちょこっとやり方に尾ひれをつけていくようになり、それが次第に自分のオリジナルなスタイルになっていくからだ。

のび太になろう

これは、のび太がドラえもんから渡された”秘密どうぐ”を、はじめは手順通り使っているんが、途中から悪用し始めるのと同じ。人間は意味を求める動物なので、最終的に必ずこういうのび太的なスケベ心が現れる(ちなみに、スケベ心が現れる直前、われわれの意識に浮かび上がってくるのは「そのやり方は飽きた」という感覚だ)。とはいうものの基本を押さえずに、つまりパターンをちゃんと習得しないうちにスケベ心が出てくると、のび太みたいに失敗してしまうことになる(この場合は文章スタイルが空中分解する)ので、このへんは気をつけなければいけない。つまり、パターンが完全に定着するまでは禁欲しなければならないのだけれど。

で、これって、要するに昔の人の文章学習パターンに戻ればいいってことなわけだ。じゃあ、現代ならどんなパターンを使えばいいのか。それは……(続く)

昔の人間はなぜ文章が上手かったのか

「若者が文章下手になったのは新しいメディア・テクノロジーが出現したせいだ」というモノのイイ。これを僕は完全に否定するわけではない。ある程度メディアにも責任はあるとは、まあ言えるだろう。つまり新しいメディア・テクノロジーの機能の一部が影響はしているうだろうと。しかし、主たる原因の根源はもっと他のところにあると考える。それは結局「情報化」という言葉に集約できるのだけれど。

かつての日本人は文章が上手だった(字も上手かったが)。普通の人間なら他者が容易に理解できるような文章内容を綴ることが出来ていた。実際、自分の父や母、祖母、祖父が書いていた昔の文章を見てみると、確かに上手い。ということは、かつての人間の方が想像力豊かで思考力が鋭かった言うことになるのだが……そんなことはないだろう。「世間」が存在した昔の人間の方がよっぽど保守的で、閉鎖的なハズだ。個性など尊重されない時代だったのだから。

書き方が一つしかないから文章が上手かった

かつての日本人が皆文章が上手かった理由の答えは意外と簡単なところにある。それは、書き方のパターンが「一本調子」だったからだ。つまり、書き方のパターンがあまりなく、ほとんどの人間が定型の中に文章を流し込んでいた。また、オリジナルな文章を書く人間も、その数少ない定型をこねくり回して使っていた。だから、これらのパターンは社会一般にコード、つまり共有されたパターンとして定着していた。それゆえ、読む側としてはその単純なコードに従って解読すればいいわけだったし、作る側も定型パターンに流し込んでいけばよかった。そしてもっぱらこのパターンだけを繰り返し、定型化したのでだんだんとこの使い方に馴染んでいった。それが結果としてわかりやすい、そして「上手い」と思わせる文章を一般人にも作らせるということを結果させていたのだ。

言語力衰退の原因はパターンがつかめなくなったことにある

このブログでは何度も指摘しているが、情報化の進展は価値観の多様化をもたらした。つまりメディア・テクノロジーの進化に伴って膨大な数の情報量を入手可能となったのだが、それは情報それぞれを相対化し、かつ人々が共有する情報を減少させるという事態を生んでしまう。そして、こういった情報価値の相対化は文章の書き方にまで反映させられることになった。

つまり、昔だったら書くパターンはほんの少し。これをくどくどと何回も使ううちに文章の定型、つまり書き方のパターンが身体化された。いわば、フォーマットに流し込むという作業が日常的にくりかえし行われた、その結果「一方調子」が出来上がったわけだ。しかもパターンはほんのわずかしかないので、結果として人々が皆、このパターンを共有することで、お互いにこのパターン=フォーマットに基づいた文章によるコミュニケーションが可能になったのだ。いいかえれば、文章の書き方の基礎ばっかり、やらされていたわけだ。こりゃ、うまくなるはずだ(ただし必ずしも創造的になるというわけではないが)。

ところが、現代では文章の定型も多様化した。だから文章を読むときにも多様なパターンに接することになる。そしてそれは、今度は自分が文章を書く段になると、どのパターンも使えるのだが、だが、それがかえって多すぎて、どのパターンを使ったらいいのか解らないという事態を発生させる。しかも、それぞれちょっとづつ使ったとしたならば……恐らくそれぞれのパターンが身体化して定型となることはない。つまり、情報量に幻惑されてるわけだ。

要するに、子供や僕の教える学生がまともな文章を書けないのは、こういった細分化された文章表現パターンばかりが与えられているので文章の書き方の基本が解らず、結局それが文章表現の崩壊状態、いや文章表現のスタイルを構築できない状況を生んでいる。これが言語力衰退の最たる原因ではないだろうか。

では、文章下手を直すためにはどうしたらよいだろう?(続く)

「ほとんど文章では、ない」というものを書く学生たち

いや、ヘタである。本当にヘタである。大学教員ゆえ、日がな学生の文章をチェックするという仕事をヤラされているのだが、これが、もう大変!誤字脱字なんてのはまだいい方で、全く誤った語彙の使用法(例:「とうとう煮詰まってしまった」、これは「行き詰まった」が正しい)、文法の誤り(例:「社会学の本は、彼女が本屋で元気に声をかけてきた」文章の係り結びが破綻している)、表現の重複(例:「腰が腰痛で痛い」)、文章構成の無策(例:1200字詰めのリポートが一段落構成)、無礼千万な表現(例:「この内容については長くなるのでめんどくさいし、先生も知っていると思うので省略します」)など、とにかく学生たちの文章の酷さは呆れるのを通り越して、もう笑ってしまうしかないという状況にまでなっている。

とはいうものの発想力とか想像力がないというわけではない。喋らせれば結構おもしろいこと、キラりと光る表現をしたり出来たりはする。だから決してバカというわけではないのである。だから表現力が貧困と言うより、これを文章化する能力が貧困と考えるべきだろう。では、なんでこんなにヘタになってしまったんだろうか?

言語力衰退の原因はメディアのせい?

言語力という言葉がある。これは自らを表現する力を指すのだそうだが、これがどんどん弱体化しているのだそうだ。このことを2009年11月25日のNHK番組「クローズアップ現代」が特集していた。そしてその原因を識者と呼ばれる学者たちが説明している。たとえば家庭で、子どもたちがゲームやネット、テレビなどのメディアに接し、直接的なコミュニケーションが失われてしまったために表現力を失ってしまったのであるとか、ケータイ・メールばかり使っていておかげで文章が短くなり表現力が乏しくなったであるとか。

こういった、モノのイイ。例によって僕はちょっと眉唾っぽくおもってしまうのだ。というのも、子供に何か変化が起きたとき、必ずといっていいほどその張本人にされるのがメディアだからだ。つまり上の例だとゲーム、ネット、テレビ、ケータイ。かつてテレビが普及し始めたときノンフィクション・ライターの大宅壮一がテレビを批判して「一億総白痴化」と表現したことがある。つまりテレビばっかり見ていると人間はだんだん想像力と思考力を失い、バカになると警鐘を鳴らしたのだ。ところが実際にはそうはならなかった(まあ、ある程度そうなったと言えないこともないかもしれないが……)。

またメディアに接すると対面的コミュニケーションがなくなるというパターンもほとんど聞き飽きた俗説だ。これまた例を出してみよう。ケータイが普及し始めたとき、メールばっかり使うのでまともな関わりが出来なくなっているという指摘があったりした。ところが、実際の調査ではケータイ・メール使用頻度が高い子供ほどコミュニケーション能力が高いというデータが出ているのだ。だから、必ずしも、この俗説はあたっていない。

とにかく、なにか困ったことが発生したときには、とりあえず新しいメディアのせいにしてしまうと言うのが常套パターンなのだが、今回もやっぱりこれをやっているように僕には思えるのだ。じゃあ、下手になった原因は何なのか?(続く)

二つの情報

「情報を伝えるメディアが、それ自体、独自に情報を持っている」、このことを明らかにしたのはメディア論の父・M.マクルーハンだ。これは彼の最も有名なアフォリア「メディアはメッセージである」という言葉に集約されている。そしてこの”メッセージ”ということばを”情報”と置き換えると、このアフォリアはグッと理解度が増してくる。本来はメディアは「メッセージ=情報の伝達手段」であるはずだ。ところがマクルーハンは「メディアはメッセージ=情報」と表現したのである。要するに情報伝達において情報は二つ、つまり「伝達する情報」と「メディアの備える情報」があるということになる。それはどうなっているのか。

彼女にブローチをプレゼントするなら

情報とメディアの情報。二つの情報の存在とその質的な違いを明らかにするために、ちょっとここで一見関係ないような例を出してみたい。それは「彼女に5000円のブローチをプレゼントするなら」という問いだ。選択肢は四つ。

1.ハダカでそのまま渡す
2.袋に入れる
3.ケースに入れる
4.ケースに入れ、リボンでくるむ。

さて、これらの内、もっともブローチが魅力的に見えるのはどれだろう?って、そんなことは考えなくても解るだろう。いちばん魅力的なのが4で、そうででないのが1だ。どれも5000円にもかかわらず、箱やリボンで装丁することでブローチのイメージはグッとあがるのだ。

そしてこの時、ブローチが相手に手渡すもの、つまり「伝達する情報」である。これは情報1としておこう。ところがこの情報1はその伝え方によって魅力が変化してしまう。袋や箱やリボンがその情報の質を変えてしまうのだ。言い換えればメディア=袋や箱やリボンが備える情報が魅力を変化させている。と言うことは、これらのメディアそれ自体に情報が含まれているということになる。言い換えれば情報1を演出する別の「メディアが備える情報」があるわけで、これを情報2としよう。

もう説明の必要はないだろうが、この情報2こそがメディア論が最も注目する部分なのだ。なぜか?それは前述したように、現代では伝えるもの(この場合はブローチ)=情報1の魅力が相対化されてしまっているため、それ自体では受け手に向けた訴求力がない。またテクノロジーの進展によってこれらの情報の差異化がつけづらくなっているのもいる(情報やモノの品質が均一化してしまっている)。だったら、中身=ブローチ=情報1よりも、見た目=袋や箱やリボン=情報2で勝負した方が受け手にビビッドに、そしてリアリティを持って情報を伝えることが出来る。もちろん、それがホンモノであるかは別としてだが。

つまり、情報化の進展に伴ってあらゆる価値観が相対化した彼岸に現れたのが、情報それ自体よりも情報の手触りとかイメージの良さへの志向だったのだ。そこで、この情報2、つまりメディアのメッセージ性を取り扱うメディア論に俄然注目が集まったというわけだ。「目(=メディア)は口(=情報1)ほどにものを言う」いや「目は口以上にものを言う」時代、それが情報化時代なのだ。

メディア論を学ぶことの御利益

「何をバカなことを言っているんだ。やっぱり必要なのは情報それ自体(情報1)であって、メディアのメッセージ性(情報2)などまやかしに過ぎない」とツッコミをいれられるかもしれない。しかし、そんなふうに「けしからん」と言っている人間がいたとしたら、その人間こそ、このメディア性に簡単に騙されてしまう輩だと思った方がいい。情報2=メディアのメッセージ性を無視するということは、それらに対する脆弱性を高めること、つまりメディアのメッセージ性を見抜く能力が養われないので、情報2を使って人を騙そうとする人間からすれば「飛んで日にいる夏の虫」と言うことになってしまうからだ。

たとえば2005年の衆議院選挙の時のこと。時の総理大臣・小泉純一郎は選挙戦の際、「郵政民営化は改革の本丸」とだけ言い続け、さらにこの方針に反対する国会議員を「抵抗勢力」と命名。すると郵政民営化という御旗の下に、さながら勧善懲悪の水戸黄門もどきの選挙戦が繰り広げられたことは記憶に新しいだろう。やれ「くの一」だとか「落下傘候補」だとか「小泉チルドレン」だとか、選挙戦に出てくる候補者にあやしいキャッチフレーズがつけられ、選挙戦は大いに盛り上がり、その結果、小泉自民党は大勝したのだが、その後やってきたのは格差社会というどうしようもない現実だった。つまり、われわれは小泉が何をやるとか、どういう政治的手腕があるのだとか、政策の妥当性があるのだとか言う情報1には目もくれず、選挙のスペクタクル、つまり選挙を演出する様々なコピーやイベント、要するに情報2に首ったけになったお陰で、結果として馬鹿を見たのである。これは要するに情報2のメカニズムを知らないから起こったことに他ならないだろう。

こう考えると情報2はもう無視するわけにはいかないのだ。言い換えれば、われわれはメディアのメッセージ性について学ばなければならない。

だからこそ、メディア論が今こそ必要、というわけなのである。

情報のとらえ方が変わった

メディアやメディア論が注目されるようになった理由について考えている。

メディア論にまなざしが当てられるようになった原因は、新たなメディア・テクノロジーの出現にあるのではない。むしろ、それらを包摂する情報化社会の進展と、それに伴う人々の情報行動の変化にある。もう少しはっきり言ってしまうと情報に対するとらえ方が変わってきた、それによってメディアに注目せざるを得なくなったことによる。では、どう変わったのか?

情報の正確な伝達を志向したマスコミ論

まだメディア論が存在せず、これらの分野がマスコミ論とかコミュニケーション論と呼ばれていたような時代、情報は常に「どうやったら正確に伝えられるのか」という点に焦点があてられていた。つまりA(=送り手)からB(=受け手)に情報が流れる際、伝える前の情報X1と伝えられた後の情報X2が、どれだけX1=X2になりうるのかというのが問題の焦点だった。そしてそのことを志向してテクノロジーを追究し続けた結果、機械のレベルでは情報をデジタル化することでX1=X2は達成される。そして、この恩恵を、われわれは日常的に受けている。たとえば、パソコンで文字やファイルをコピーすれば……する前のものと後のものは寸分違わぬものになるといった具合に。

しかし、これは機械=テクノロジー上での話。人間の場合、情報化の進展はむしろ情報を混乱させるように作用し始める。情報テクノロジーが進化することで、われわれは様々な情報源から様々な情報を獲得可能になったのだが、そのおかげで、かつてのように「これが正しい」という情報に近づくことが出来なくなってしまったのだ。というのは、次のような循環が生じたからだ。ある情報を入手し、それを信じようとすると、今度はそれを否定する情報が別のソースから入手され、それではと、こちらの方を信じようとすれば、さらにこれを否定する情報が入ってくる。そしてさらにこれを否定する情報が……こうやって堂々巡りを繰り返させられることになり、情報に関する感覚はすっかり相対化されてしまった。つまり、テクノロジーはわれわれの情報に対する確かさをむしろ奪うというかたちで作用したのだ。

情報の信用性がなくなった時、頼りにされたものは?

こうやって情報が相対化されてしまうと、人は何を頼りに情報を入手したらよいかが解らなくなってくる。立ち位置を変えれば、情報を送る側も発信する情報がどんなに正確なものであったとしても、それを伝えるすべがなくなってくる。つまりどんなに情報が正確に伝えられたとしても、受け取った側がそれをマトモには受け取らないという心性が生まれてしまう。

では、どうやったら受け手は送り手の情報を受け取ってくれるのか。そこで、脚光を浴びたのが情報を伝達する手段であるメディアだったのだ。というのもメディアは情報を伝達するだけでなく、メディア自体もまた情報を持っており、これが情報の信憑性=リアリティを作り出す重要な要素として機能していることに、われわれが気づき始めたからだ。そこでメディア論は一躍、脚光を浴びるようになる(で、もって僕みたいな人間でも大学でメシが食えるようになる)。

それでは、メディアの持っている情報とは何か。

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