勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年10月

だが、まだ一つデュシャンがアート界に向けてやりたかったこと、つまり「ちゃぶ台返し」があるのではないのだろうか。そして、それがもう一つの新しいアートの表現方法を生んだのでは無かろうかと、僕は考える。それは、アートというものが何もカンバス上で展開されなくてもいいという主張だ。そしてここでの美の定義に照らし合わせれば「異化作用を生むものならなんでもアート」という考え方だ。

レディメイドという新しいスタイル

展示された作品『泉』にもう一度立ち返ってみよう。これは既製品の小便器である。だから、デュシャンのやった作業はMuttという仮名を便器の端にサインすることと、これをアンデパンダン展に出品することだけだ。しかし、もし、これが実際に飾られたとしたらどうだろう?おそらく展覧会にやってきた人々は、アートというコードからはほど遠いこの作品(既製品かつ作成過程がない)に驚き、非難し、怒っただろう。しかし、それは美の定義からすればまさに、この作品が美に満ちていることを照明するものとなる。お客たちは美のコードからずれてしまっているこの作品に異化作用を感じてしまったからだ。もっとも異化作用を感じると言うより「間違い」「不届き」といって作品それ自体を否定したといった方が妥当かもしれないが。

しかしながら、このデュシャンの試みはアート界にその後、レディメイドという作風を生むことになる。既製品をそのままとかいくつか並べるとかといった手法が登場するのだ。そう、デュシャンのこの試みはその後、すっかりアートのコードとして織り込まれていったのである。

カンバスを飛び出すアート、イベントアートとしてのパフォーマンス

さて、でも、よくよく考えてみるとディシャンはさらにもう一つアートの新しい手法を提示していると言えないだろうか?しかも、それは絵画やオブジェと言ったも事物によるアート表現=作品ではないものを。

この『泉』を巡る騒動、僕にはどうもうさんくさいものに見える。というより、これはデュシャンの確信犯に違いないのではと考えるのだ。つまり、デュシャンは、アンデパンダン展の審査員たちが、デュシャンの出展物=小便器を作品と見なさず、それゆえ誰でも展示できる作品展にもかかわらず出展を拒否するであろうことをあてこんでいた。で、出展したにもかかわらず展示しなかったという審査員たちの行為を批判し、メディアを使ってその不当を訴える(この時点ではこの作品が委員の一人であったディシャンによるものであることがまだバレていなかった)。すると世間にはこの作品を巡って一騒動が起きる。この一連の出来事を仕込んでいたのでは無かろうか?
もし、そうであるとするならば、それはこの後アートの表現形態として一般化するパフォーマンスがここで行われていたことになる。

このように考えるとデュシャンがやろうとしたことは、アートという表現を純粋に異化作用のみに求め、その方法が必ずしもカンバスに限定されないこと、いやナンデモアリということを知らしめようとする行為ではなかったのだろうか。(続く)

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                M.デュシャン『泉』

小便器を出展する

M.デュシャンはどうやって「アートのちゃぶ台返し」を行ったのか。

デュシャンは自分が委員をやっていたニューヨーク・アンデパンダン展という美術展に『泉』と言う名のオブジェを出展する。ただし、リチャード・ムットという仮名で。ただし、それは作品と言ってよいのかどうか微妙なものでもあった。というのも、それはその辺に売っている一般の小便器だったからだ。で、この美術展はお金さえ出せば誰もが展示できるというものだったのだけれど、これが作られたものではなくて既製品だったこと、しかもそれが小便器であったこで、異例の展示拒否にあってしまう。

そこでデュシャンは早速「この作品を展示させないのはルールに反する」と、委員として抗議する内容を新聞に掲載したのだった。

しかし、デュシャンは小便器を出展することで何がやりたかったのだろう?実は、それこそがアートという世界に対する存在論的問い、つまり「ちゃぶ台返し」だったのだ。

ここでデュシャンがやろうとしているのは「作品がアートであると言うことはどう定義されるのか」という問いだった。ある作品がアートとして認定され、他のものは認定されない。この基準はどこにあるというのか?本ブログの特集では何度も提示しているように、アート=美は異化作用にあると定義している。つまり、美の感じ方は人それぞれで違っているが、美を感じるとき、人間はその対象に記号を見てしまう。しかしその意味=記号内容がわからなくてイライラするという点では同じであるとしている。
ところが、当時のアートは、こういった定義にはなっていない。では、作成されたものがアートであるかどうかが、どうやって決まるのかという事実を青天白日の下に晒してしまおうという企てがこれなのだ。


アートをアートと決めるのは権威だ!

デュシャンが言いたかったことは、つまり、こうだ。

「作品がアートであるかどうかは、美術館に飾られること、つまり美術館が認定することで決まる」

言い換えるとアート界という「権威」=コードが存在し、その権威の傘下に入ったものは何であれ、アートである。そしてアンデパンダン展はどんな作品でも金を払えば出品可能になる。ということは既製品の小便器だって陳列すれば、それはアートになる。しかるに、アンデパンダン展の委員たちはこれを拒絶した。彼らはアートという権威の傘にの下にいる俗物だ。まるで免罪符を販売する中世の僧侶のように。

いうまでもなく、これは当時のアート界に対する痛烈な皮肉であるとともに、美とは何かについて問いかけになっているのである。つまりアートは権威によって決まるものではない。そして、当時のアート界における美の定義はアート界が決定する「コード」に適っているかどうかで決定するわけで、今回の特集で展開している美の定義からすると正反対の定義になるのだ。

ちなみに、『泉』という名前のついたアートにはもう一つ有名なD.アングルの作品がある。これは傑作と呼ばれてはいるが、これを制作したアングルは19世紀フランスアート界の権威としてこの世界を牛耳っていた。ひょっとしてデュシャンは、アングルの権威主義へのおちょくりもやっていたんじゃなかろうか?

しかしデュシャンの「ちゃぶ台返し」はこれ一つで終わるわけではない。(続く)

美は美術館が定義する。美は権威でしかない~M..デュシャンの挑戦

ここまで、アートにおいて美とは、見ている側に異化作用、つまり記号(=シーニュ)は存在するが、記号表現(=シニフィアン)だけがあって、シニフィエ(=記号内容)が見あたらないときのイライラ感であると定義してきた。ようするに、「なんだかわからないが、この作品には意味があるはずだ。なんなんだろう。知りたい」と思っているときにわれわれはその歯がゆい対象に美を見ていると説明してきた。またアートでは常に“「コード破り」というコード”が存在し、それがアートの新しい手法を生んできたと指摘しておいた。それは具体的には、目の前にある対象をとにかく消していくという展開を生んだとも説明してきた。印象派→野獣派→キュービズム→抽象表現主義→ミニマリズム→ポップアートという流れがそれだった。

しかしモダン・アートはこれとは別にもう一つ”「コード破り」というコード”にもとづいて、美を追究しようという流れが存在した。そして、それは、いわば「ちゃぶ台返し」とでもいうべきアプローチだった。それをやって見せたのはM.デュシャンだった。

ちゃぶ台返しとは存在論のこと

ディシャンのちゃぶ台返しを説明する前に、ちょいと哲学的な概念を持ちだして恐縮だが、哲学における基本的な思考の方法に認識論と存在論がある。前者は物事の前提を顧みることなく、それら物事がどのように認識されるのか、構築されていくのかを見る立場。後者は認識論が前提している前提を考察する立場だ。ちょっとややこしいので、例を二つほどあげて説明してみよう。

その1.秋の味覚は秋刀魚?松茸?
秋の味覚の代表といえば、秋刀魚と松茸あたりがあげられるだろう。そこで、あなたの妻が今日は奮発して松茸ご飯にしようと考えとする。これを聞いたあなたは、今晩の食卓を心待ちにすることに。ところが夕食に出てきた料理は秋刀魚だった。松茸が法外に高く購入を断念したからだ。がっかりしたあなたは妻に不満を漏らした。すると彼女はあなたに少々下品な捨て台詞を吐いた「どうせクソになるんだから、同じでしょ」

このとき、二人の議論はまったく持ってズレている。まず、あなたは認識論レベルで議論している。つまり、秋の味覚における、秋刀魚と松茸の違いを踏まえている。それが食品であると言うこと自体は前提されており、そのことは議論の対象とはなっていない。ところが妻の方は存在論レベルで二つの認識の差異を無化してしまっているのだ。つまり「ちゃぶ台返し」(ちなみに、これはいしいひさいちの四コマ漫画のネタです)

その2.原子力発電を考える

ある番組で原発問題について考えるという特集があった。番組では原発の有り様についてさまざまなデータが提供されたのだが、なかなか難しい問題だった。その時、ゲストで出演していた所ジョージがおもわずこう言った。「原発問題は難しいですよね。何が難しいって、何が難しいのかがわからない。いっそのこと「原発を考える」考え方を学ぶ会」でもやってくれないもんでしょうか?」

この場合、「原発を考える」というのが認識論、「原発を考える考え方」というのが存在論だ。この原発にとどまることなく、われわれは人と議論をしたり考えたりするときには必ず、考える立脚点、つまり立ち位置を前提にしている。そして、そうやって考えているときには、立脚点=立ち位置それ自体については顧みることはない。これが認識論的な思考ということになる。いっぽう、その立脚点について考えはじめたとき、それは存在論的な思考を行っていると言うことになるのだ。

ここまでは認識論上の美の追究だった

そして、ここまで展開したアーティストたちによる美の追究は、ある立脚点についてはまったく共通していた。つまり認識論ばかりをやっていて、存在論的な立場、つまり自分たちの立ち位置については振り返ることはなかったと言える部分がある。そう、ま「コード」の存在が認識論では打破され続けていても、存在論においてはまったく打破されずコードが延々と維持されてきた、そんな部分が存在したのだ。そして、そのコードを指摘し、存在論的な問い、つまりちゃぶ台返しをやってしまったのがM.デュシャンだった。ではデュシャンがやったちゃぶ台返しとは?それはアートという定義それ自体の存在をひっくり返そうとする試みだったのだ。(続く)

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        上:『キャンベルのスープ缶』、下:『New Spirit』

無意味さの意味を突き詰めれば~A.ウォーホールのポップアート

えっ?ラインハートの『抽象絵画』以上に対象を消す方法なんてあるのか?あるとするならば、ラインハートの真っ黒けの絵のどこにコードを見いだし、これを否定すればいいんだ?

ラインハートの作品に残るほんのわずかのオリジナル=対象の片鱗とは?確かにあるのだ。ただし、それは作品にあるのではない。作品は真っ黒だからそれ自体はメッセージを持っていないと言ってもいいだろう。ところが、カンバスに真っ黒ベタに塗られているがゆえに、これはやっぱり「アート」なのである。というか、これを見る側が「これはいったい?」と思うとき、まず見る側が前提しているのは、この作品が「絵画である」という認識=記号だ。だから、受け手は、この真っ黒な絵の先にオリジナルの映像=対象を見いだそうとする。もちろん、そのオリジナルは前回も示しておいたように、個人個人でバラバラなのだが。しかし、それでも見ている側は、そこに「何かが写し取られている」という思いがある。

そう、これが唯一残ったオリジナルなのだ。つまり送り手にはないが、まだ受け手がそこにオリジナルを感じている。それこそがオリジナルの最後の片鱗だ。

「オリジナル=志向対象はありません」と作品に示しておく

では、どうすれば受け手に「これにはオリジナル=志向対象がない」ということをわからせることが出来るだろうか?その一番簡単な方法を示したのがA.ウォーホールだった。しかも、実に簡単な方法で。それは絵画に「これはオリジナルではありません」というメッセージを付け加えておくことだ。紙幣を印刷物に掲載する際に、偽造されては困るので、紙幣のコピー上に「見本」という文字を加えるということがあるが、これと同じことをすることで、これはメッセージではないということをあからさまにメッセージとして伝えるということにウォーホールは成功する。まあ、これもポロックと同様、反則技では、ある。で、どうやったのか。

彼がやったのは、既存の作品のコピー。しかも、誰が見てもわかるようなあからさまなコピーを作品として提示したのだ。あるときは色を変えただけ、またあるときはほとんどそのまんまというかたちで。マリリン・モンローを描いた絵では映画『ナイアガラ』のモンローのスチル写真を色づけし、並べた。『キャンベル・スープ缶』という作品では、アメリカ人に最もポップな缶スープ(缶スープの中身を鍋にあけ、空になった缶に水をいっぱいに浸し、これを鍋に空け、暖めるとできあがりで、たくさんの種類がスーパーで販売されている。デザインは皆同じ)の缶が精密に描かれていた。『New Spirit』では箒を銃に見立てて肩に担ぎながら行進するドナルドダックが登場した(このタイトルはドナルドの主演したアニメ作品と同じ。というか、この絵は、その作品の一部をそのまま写したものなのだ)。いずれもオリジナルはウォーホールのものではないことが見る側にわかるようなポップな題材が意図的に選ばれていたのだ。つまり「リジナル=志向対象はないよ」ということ、つまり「「メッセージがない」というメッセージ」をパロディ的に、そしてこれ見よがしに示そうと彼は考えたのである。

ここまでくると、アートは何かを表現すると言うよりも、表現することを否定すると言うことが表現という、徹頭徹尾ひねくれたものになる。ちなみにウォーホールは作品を作るスペースのことをアトリエではなくファクトリーと呼んでいた。ようするに工場でアートは生まれないというわけだ。ある意味、ウォーホールほどアートのコード、つまり「「コード破り」というコード」を徹底的に守って見せた、きわめてコンサバティブなアーティストと言えないこともないのかもしれないが(ブログを書いている僕までが、ひねくれてきたかも?)。

さて、こうやってオリジナル=対象は絵画から徹底的に消されていったのだが、それでも実はこれらアートには共通するもう一つのコードが存在する。そしてアートはこの絵画が共通して備えているコードを破壊するという試みにもまたチャレンジしていたのだ。では、ここまで展開してきたアートに共通するコードとは何か?それは、いわば「ちゃぶ台返し」とでも言うべき手法だった。(続く)

オリジナルを消す最終形態は?アド・ラインハート

さて、J.ミロのコックリさん画法にまでたどり着くと、もはやオリジナルは完全に消し去ることが出来たのではないか?と思いたくなるのだが……ところがどっこい、この先にまだオリジナルを消す、つまりミロをコードとして、このコード破りをやるアーティストが存在した。それがアド・ラインハートだ。「えっ?もう、やることねーだろーがー」とお思いのあなた。アーティストたちの「ひねくれ度」はもっと先を行っているのですよ。

それはラインハートの『抽象絵画』(川村記念美術館蔵)という作品だ。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/european_art.html参照)。
この作品、実はカンバスが真っ黒に塗られているだけ。ただしよく見るとこの黒塗りは九つの四角い黒がギリギリでわかるかわからないかくらいのレベルで表現されている。「でも、だからどーだって言うんだ?」ってなことになるんだが……そう、「なんでもねーよー」なのである。

ラインハートがやろうとしていたことは、ようするにミロがやっていたような「魂の叫び」みたいなメッセージすら取っ払ってしまうことだった。つまりこの絵は「何にも表象していない」「オリジナルがない」ということを表現しようとする絵だったのだ。いいかえれば、この絵をいくら真剣に眺め続けても、そこにラインハートのメッセージをメッセージを見いだすことは不可能。「何も表現していない」というメッセージを除いて。だからタイトルもほとんどキャプションにはならない『抽象絵画』という名前だった。そして、こういったスタイルはミニマリズムと呼ばれた。


じゃあ、この作品に対して、見ている側は、いったい、どういった意味を読み取ればいいのか。その答えは「読み取らないで、感じること」ということになるだろう。つまり、ほとんど黒なのでなんだかわからない、解釈できない。だから感じてほしいというわけだ。しかし、そうはいっても単なる黒。この理屈は、別に絵画じゃなくても可能だろうと考え直したとき、かなりこの絵自体がバカバカしいものにみえてくると言うのも、事実だろうなあ。

クール・メディアとしての絵画

また、こんなとらえ方もある。真っ黒なので、なんだかわからない。そこで「何なんだろう」とイメージ=妄想を働かせる。そして、見ている側に勝手に意味を創造させる。こんなやり方もあるだろうし、実際このスタイルはJ.マチューナス、J.ケージ、オノ・ヨーコといったアート集団・フルクサスが得意とするところだった(これ、いずれ取り上げます)。

さて、こういった送り手側に情報が何にもないので、受け手の側が勝手に情報を補填する、前述の言葉でいいなおすと「妄想する」ことを余儀なくされる対象=メディアをメディア論では「クール・メディア」と呼んでいる。ということは、この作品の前で、受け手はそれぞれ妄想=クールするので、その解釈はみんなバラバラになるというわけだ。そしてこれは、美を感じるときの定義に見事に適っている。美とは異化作用、つまり記号(=シーニュ)は存在するが、記号表現(=シニフィアン)だけがあって、シニフィエ(=記号内容)が見あたらないときのイライラ感を指しているからだ。そう考えれば、これは「究極のアート」かもしれない。

ということで、ついにアートはオリジナル=写し取る対象を消し去ることに成功した。もう、やるネタはこれで終了!よかった、よかった……と、いいたいところだが……実は、まだ、その次があったのだ。この作品ですら、まだオリジナル=志向対象は存在するらしい。アーティストっていうのは、よっぽどヒマなんだろうか。(続く)

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