勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年09月

定義が難しい「美的」ということば

今回はちょいと抽象的な話を。

「美しい」という言葉はどのように定義されるのだろうか?

これに対する回答は、得てして「美しいものは美しいから美しい」となる。で、これっていうのははっきり言って情報ゼロで何の回答にもなっていないに等しい。これよりもうちょっとわかりやすそうな回答は「言葉では表現できないもの」とか「理屈ではなく感覚に訴えてくるもの」と言うところになるだろうか。最初の回答よりはよいかもしれないが、やっぱり意味不明瞭であることには変わりない。

美しいかどうかの基準は、人それぞれである?

対象に対して「美しい」と感じるのは、そこに絶対的な美があるからなんだろうか?まずこれから考えてみよう。

例えば焼き物鑑定士の中島誠之助が古伊万里の茶碗をみて「いい仕事してますねえ」と感想を述べるとき、この言葉の含んでいる意味は、それが「美しい」ということであることは誰でも解る。ただし、同じものを素人である僕がみたら「いい仕事してますねえ」とはいえない。つまり「美しい」とは言えないはずだ。というか、こちらとしては古伊万里の善し悪しを判断する基準がないのだから。もっと言ってしまえば僕の場合には「美しい」とも「美しくない」とも言えない。「わからない」のである。

だが、これは中島が美を見抜く鑑識眼があるからで、ということは古伊万里自体に絶対的な美が存在していると言うことになる。だったら絶対的な美はあるのか?

その逆を考えてみよう。僕は職業柄、映画を分析的に見ることが多い。で、そのとき「おっ!これはスゴイ」とか感じることがあるのだけれど、この時も当然、その作品を「美しい」と感じている。一方、同じ映画を「これのどこがいいの?」とみる人間も多い。「いやいや、この映画の良さはねえ!」などと、したり顔で分析してみせるのだが、とするならば、この時僕が「美しい」というのは、さっきの古伊万里のを評した中島誠之助と同じ立場にいて美を見抜く鑑識眼があるということになり、ということはやっぱり映画に絶対的な美が存在していると言うことになる。

さて、本当のところはどうだろうか?この答え、僕は「美は相対的なものでしかない。しかし形式的=メディア論的には絶対的な美が存在する」と考える。これはどういうことだろうか(続く)

音楽を語れない人間の登場は音楽の貧困を生むか?

コンピレーション・アルバム視聴が涵養する新しい情報行動スタイルについて考えている。

コンピは本来、そのジャンルやミュージシャンの入門/ガイド的な存在として発売されているものだろう。つまり、とりあえずそのジャンルなどを知りたい。で、購入してみて、その世界を概観すると同時に、自分にとっての向き、不向きなどを決定し、それから個別具体的なアルバムやミュージシャンにディープにアクセスする、といったことが意図されているはずだ。

しかし、ここにあげたようなコンピの聴き方はマジメにオタク的に聴こうが、不真面目に垂れ流し的に聴こうが、もはや入門という目的からはほど遠いところに視聴目的がある。つまり、コンピ→ディープの流れではなく、コンピ→コンピ、あるいはコンピだけで終わりという聴き方。言い換えるとすでに指摘しておいた超消費的な聴き方なのだ。そして、これも指摘しておいたように、このような聴き方の背後にはコミュニケーション志向と保守回帰という行動傾向が背後に目的として設定されている。これは美的というものからはほど遠く、これまでの音楽を真剣に聴くという立ち位置からすれば、明らかに退行現象といえるだろう。

つまり、この聴き方だとコンピに例えば前述したゲッツ&ジルベルトの「イパネマの娘」というすばらしい演奏が入っていたとしても、これでは単なるBGMとしか思えない。曲の奥行きとかを知るためには、ミュージシャンやそのジャンルとリスナーの深い関わりが必要だからだ。だから、この経験の無い、コンピだけしか聴かない人間には、それは単なる「耳障りのよい音楽」の域を決して出ることはないのだ。

鑑賞の新しい対情報行動スタイル?

ただし、こういった音楽の聴き方に対する正当性を僕が振り回せるというのは、これまでの聴き方が正しいという前提においてである。立ち位置を変えれば、これはこれで新しい音楽の鑑賞スタイルが誕生しつつあると考えるのがメディア論的立場ということになる。そして、すでにこういった内容より、ジャンルや分析面、消費面にターゲットをあてた音楽があちこちと出回っていることも事実。つまり、音楽聴取という情報行動が変わりつつあると考えるべきだろう。それが、どのような新しい音楽的感性を生むかどうかは、今のところは不明だが。

僕は、いずれ情報を整理し、一つのジャンルや一つのアルバムをじっくり聞くというシンプルな視聴スタイルが揺れ戻しとして起こるのではと踏んでいる。もちろん、情報環境は飛躍的に変貌しているゆえ、かつてあったスタイルにそのまま戻るというものではないだろうが。

無難=他者の存在という「安心」

コンピレーション・アルバム視聴が涵養する新しい情報行動スタイルについて考えている。

二つめの聴き方、つまり垂れ流し的、BGM的でコードに従順なコンピレーション・ミュージックの聴き方というのは、「耳障りの良さ」という「安心」の他にもう一つの「安心」を提供してくれるものでもある。それが「無難」という「安心」だ。

人間が他者とコミュニケーションを図ろうとするときには必ず共通のメディア、より限定してしまえば共通のネタが必要だ。エリカ様が解雇されたとか、イチローが退場になったとか、巨人が優勝したとか(09年9月27日現在)。こういった情報の内容自体は、はっきり言ってどうでもいいことなのだけれど、これを入手しておけば、とりあえず話題として通用する。だから、われわれはこれをチェックするわけだけれど、これらネタにはネタになるための共通の条件がある。それは、相手がその情報をネタとして取り上げてくれる確率が高いと言うこと。

もし、これがたとえば「スタンリー・クラークとマーカス・ミラー、ヴィクター・ヴィッテン三人のベーシストのアルバム「サンダー」で、三人の絡みをどう思う?」などというディープなネタを取り上げたらどうなるか考えてみればいい。解らない人にはまったく解らないネタなので、恐らく、というか確実に相手は引いてしまい「コイツとはあまり関わりたくない」と思うだろう(ジャズベース・オタクの間なら、話はもちろん別だが)。だから、一般的なコミュニケーションの場合にはマスな情報、つまり共有しやすいソースからの情報がネタとして扱われる。その典型はテレビからのネタだ。

コミュニケーションのネタとしてのコンピ

で、コンピもこれと同じ機能を備えているということになるだろう。とにかく、コンピでセレクトされているのはすでに多くの人間の承認を得た楽曲。だから、ここに収めてあるナンバーをおさえておけば、さしあたりネタとしては問題なく無難に対応できる。つまり、会話が明後日の方に行ってしまう心配は少なくて済む。もちろん気持ち悪がられることもない。

で、この時、音楽は聴かれているのではなく、単なるコミュニケーションのメディアとして利用されているということになる。だからデータだけそろっていれば、その中身の内容など大した問題ではない。「知ってる?」「知ってる、知ってる」この程度の会話で十分だし、逆に言えばこれ以上の会話内容に触れてしまってはいけないと言うことでもある。繰り返すが音楽は単なるコミュニケーションのネタでしかないからだ。

で、こんな聴き方で、いいんだろうか?(続く)

コンピレーションアルバムの効き方の二つめである「垂れ流し的に聴く」層の情報行動の変容について考えている。

スタバに行くと?

スターバックスに行ってみる。スタバでは、とっても「スタバ的」な音楽が流れていることは、スタバ通いをしている人間には周知のことだろう。これはスタバがプロデュースした耳障りのいい曲が流れているからだ。つまりスタバによるコンピレーションがここで行われているわけなんだけれど、さて、そこでお客は流れる音楽=コンピに対してサティが指摘したような勝手な読み込みをやっているだろうか?いや、そうではないだろう。これは、すべて「スタバ的なサウンド」というかたちでまとめられた一つの保守的なジャンルなのだ。そして、このスタバ音楽がスタバの環境を構成する一部として機能している。お客はこの環境に親密性を覚えているがゆえにスタバにやってくる。あるいはスタバでコーヒーを購入し、さらにスタバ提供のCDも買って、自室で「スタバ気分」に浸るというわけだ。

これだけだと、サティの指摘通り、スタバでの音楽はまさに「家具」=インテリアとして機能していることになる。しかし、お客は思い思い音楽に意味づけをしているのかといえば……そうではないだろう。彼らは「スタバのコンピ」という音楽を聴きに来ているわけで、つまりスタバの提供するスタイルに感化されているというわけだ。要するに、こうやってスタバを、そしてスタバの音楽を愛好する人間たちも保守的に、そして消費的に、つまり共有されたパターン=コードを消費するためにここにやってきているのだ。これは、サティのねらいとは違ったところで音楽が受容されていることになる。

あいだみつをこそ家具としてのアート?

少しわかりやすいように、スタバのコンピの対極を示せば詩人・相田みつをの色紙に書かれた一連の作品があげられるだろう。相田の最も有名な作品はおそらく「にんげんだもの」という色紙だろう。ミミズのような雰囲気の字体(相田の筆致)で、こう書かれているこの作品は、しばしば家の玄関などに飾られる。しかし、この「にんげんだもの」は意味がさっぱりわからない。というか、この文章は英語で言えば複文の従属節にあたるもので、ということは本来なら主節が存在しなければならないのだ。

ちょっと英語が苦手な人のために解説しておくと、「自分は朝起きてみると、庭に一羽の鳥がいることにいることに気がついた」という分の英文は”When I got up,I found a bird in the garden”となるのだけれど、この後ろの”I found a bird in the garden”の部分が存在しない。相田のことばを英語にすると”Because I am a man”となり、because=なぜ、と接続詞を置くことになった従属節の、主節=元の部分が存在しないのだ(ちなみに、このにんげんだものは、従属節の主語がIのみならず、youでもheでもTheyでもTomでもおよそ人間に該当するのなら何でも想定が可能でもある)

こうなると「にんげんだもの」はその時その時の気分に合わせて、勝手に意味づけをする、つまり主節を加えることが出来る。「失敗したなあ。人間だもの」「うれしいなあ。人間だもの」「悲しいなあ。人間だもの」「寂しいなあ。人間だもの」……(ちなみに、僕はこの色紙をみると「相田みつをは商売が上手いなあ。こんな字をチョコちょこっと書いただけでボロ儲けするんだから」と読んでしまう。つまり僕の場合は「相田みつをもカネが好き。にんげんだもの」となる(笑))

ところがコンピの場合、垂れ流し=消費的に聴くというのは、こういった聞き手の側の意味づけに基づいて聴くというのではない。そうではなくて送り手=コンピレーションした側(正しくはコンパイルした側)の意図に基づいて聴くことになるのだ。スタバの場合なら、スタバの方針にしっかり従い、これを快適なモノとして受け入れるということになる。

BGM的にコンピを聴く行為は創造的行為の対極

結局、こうやって耳障りのいい音楽を聴き続けるという行為は前回指摘したように純粋に消費的な行為であって、そこに創造性とか啓発性というのはほとんど無いということがわかる。既存の慣れ親しんだパターンを繰り返すだけなのだから。そうなると結局、コンピがわれわれに提供する情報は、最終的にわれわれの保守的な感覚を強化すると言うことを結果するといえないだろうか。言い換えれば、垂れ流し的にコンピを聴く限り、どこまでいっても内向きで、新しい美的な世界へ自らを踏み入れようとは決してないのである。(続く)

2.はじめから環境音楽=BGMとして聴く

コンピレーション・アルバム視聴が涵養する新しい情報行動スタイルについて考えている。前回は分類という行為が前面に現れ、音楽の内容よりも形式に関心を抱く、そしてこの形式を背景に自我やコミュニケーションが構築されることを指摘しておいた。ただし、これはコンピを「マジメ」に聴く場合、誤解を恐れずに言い換えれば、オタク的に聴く場合だ。

だが、コンピを聴くのはオタクだけに限らない。つまり「マジメ」に聴かない層もいるはずだ。というか、こちらの方が大多数だろう。当然、こちらの音楽の受容の仕方の方が現代人の情報行動スタイルの変容の趨勢を語っていることになる。で、こういった人間にとってコンピは体のいい「BGM」の対象として立ち現れるのでは無かろうか。

いろいろな意味で耳障りのいい音楽

コンピに挿入される楽曲は、すべてそのジャンル・ミュージシャンのスタンダード・ナンバー。だからある意味「安心して」聴けるBGM(ほとんどイージー・リスニング)ということでもある。「安心して」というのは二つの意味がある。一つは「馴染みやすく」聴けるということ、そしてもう一つは「無難に」聴けるということだ。

保守的なことが「安心」を呼ぶ

ひとつめの「馴染みやすく」聴けることについて、まず考えてみる。スタンダード・ナンバーは多くの人間が支持したという担保つきの楽曲という点で共通している。それは多くの人間の耳に馴染む音だったということで、結果としてほとんどが「聴きやすい」ものになる(Sex Pistolsの”Anarchy in the UK”みたいな例外もあるが)。いいかえれば多くの大衆に共有されているパターン(記号論=メディア論的には「コード」と呼ぶ)を多く含んでいる楽曲である。つまり保守的なサウンドということになる(ちなみに、保守的か革新的かという区分の基準は、音楽それ自体にあるのではく、その文化や時代で支持を受けているかどうかにある)。

だが保守的ということは、「マジメには聴かない」つまりBGM=イージー・リスニングのように音楽を聴く層を「啓発しない」ということでもある。つまり、音楽は徹底して消費物、垂れ流し的なサウンドとして受け入れられるのだ。とにかく「耳障りのよいこと」これが音楽に必要とされる最も重要な項目になる。だから最近はラテン音楽とかハワイアンとかがウケるわけで。この手のジャンルは、そしてコンピで取り上げられるものはとにかく耳障りがいい。ゲッツ&ジルベルトの「イパネマの娘」などはその典型だ(ただし、耳障りがよいことと、楽曲が優れていることはまったく別の話だ。だからラテンやハワイアンの音楽の質とは関係がない。たとえば、上記した「イパネマの娘」は耳障りがよいが、楽曲的にも演奏的にも秀逸だ。ただし後者の部分には一切注目が寄せられない。これら議論の詳細は後述)。

E.サティは100年も前に、音楽の「耳障りの良さ」に注目した

で、こういうふうに、日常のインテリアのような装飾的な意味合い(雰囲気を盛り上げるわけね)で作られる音楽を19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した作曲家・E.サティは「家具の音楽」(サティによる同名の曲もあり)と呼んだ。ちなみに、この時「家具」の意味は「物を収納する」といった機能的な価値ではない。そこにインテリアとしておかれることで、「室内空間の印象を作り上げる」、つまり記号的価値=付加価値に重点を置いたものだ。要するにムードを醸し出すツールという意味だが、サティはこの機能が音楽にあってもいいと考えたのだ。耳障りのいい音楽、つまりメッセージをほとんど持たない、押しつけがましくない音楽を日常生活に流し、これを聴く側はその時々に応じて音楽に勝手に意味を読み込むべきと。実際、サティはこういったコンセプトの基に曲を作り(『ジムノペティ』は代表作)、そのひとつをコンサートの休憩時間に流す実験を試みている(このとき演奏された曲が『家具の音楽』)。その際、サティは聴衆に「演奏している間、音楽に耳を傾けず、会話を続けてください」と呼びかけたという。

こういったサティの発想が現代のBGMにつながり、コンピにおいてもこれと同様の聴かれ方をするようになっているというわけだ。しかし、現代人は、コンピに対してはたしてサティの思惑のような聴き方をしているだろうか?僕には、それはちょっと疑問に思える。なぜか?(続く)

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