東浩紀のデータベース論……二つの物語の奇妙な接合
哲学者の東浩紀は、2001年に刊行された『動物化するポストモダンーオタクから見た日本』(講談社現代新書)リオタールー大澤の<物語>と大塚の「物語」をアクロバティックに接合することでデータベース論というメタ的な<物語論>を展開している。これについてみておこう。ただし、今回はその前半部分でデータベース論それ自体には触れない。オタクの古典的定義は週刊読売が89年に掲載した「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じこもりやすい人々」というものである。アニメや漫画などに埋没し、反面で社会的活動から撤退するという文脈だが、東はオタクがこのような行動を行う理由を「失われた社会的規範、すなわち<大きな物語>の代替を求めるため」と分析する。「オタクたちが社会的現実よりも虚構を重視するのは後者の方が人間関係にとって有効、すなわち友人たちとのコミュニケーションを円滑に進ませるから(43)」である。
東のこの指摘は、まさにリオタールー大澤の量的及び質的側面での<物語>の縮小を踏襲している。すなわち「単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程」が前提され、これに対してオタクは「ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げる」。もちろんサブカルチャーそれ自体が虚構であるのだが、これ以外に依拠すべき<物語>が存在しないゆえアイロニカルにこれらに没入しざるを得ないのである。このオタクたちの振る舞いは、まさに、<大きな物語>の失墜を背景として、その空白を埋めるため登場した行動様式と定義されているのである。
東のこの指摘は、まさにリオタールー大澤の量的及び質的側面での<物語>の縮小を踏襲している。すなわち「単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程」が前提され、これに対してオタクは「ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げる」。もちろんサブカルチャーそれ自体が虚構であるのだが、これ以外に依拠すべき<物語>が存在しないゆえアイロニカルにこれらに没入しざるを得ないのである。このオタクたちの振る舞いは、まさに、<大きな物語>の失墜を背景として、その空白を埋めるため登場した行動様式と定義されているのである。
虚構の時代の<小さな物語>の保持方法としての物語消費
東によれば<大きな物語>=カルチャーの<小さな物語>=サブカルチャーへの移行は、オリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークル=虚構が増加することによって生じる。そして、このようなシミュラークルの生産過程を説明する装置として用いたのが前述した大塚の「物語消費論」である。東は<大きな物語>の凋落に対処するために、その補填として大塚の設定=世界という「大きな物語」(≠<大きな物語>)を充当する。ただし、これとて虚構であることに変わりはない。そこでこの「大きな物語」にリアリティを与えるために、「大きな物語」の断片である「小さな物語」(≠<小さな物語>)が持ち込まれる。よって<小さな物語>は「大きな物語」と「小さな物語」の二つの物語から構成されることになる。
<小さな物語>は「大きな物語」
二つの「物語」のリアリティ形成を上記の内容を整理するかたちで展開すれば、以下のように機能する。リオタールの<大きな物語>が凋落すると、その代替として虚構かつ細分化された<小さな物語>が出現する。この<小さな物語>というシミュラークルは東によれば物語消費として構築されている。すなわちその内部に大塚の指摘する「小さな物語」があり、それらが集積された世界観=設定である「大きな物語」を志向することで<大きな物語>の代替を確保しようというわけである。このように整理すると東においては<小さな物語>=虚構が「大きな物語」=世界であることが理解できる。相対化され信頼しきることの出来ない<小さな物語>を、それでもアイロニカルに信用する、言い換えればシミュラークルにリアリティを付与する機制こそが物語消費、すなわち「小さな物語」の背後に「大きな物語」を見ようとする行為なのだ。そして、そのような虚構=「大きな物語」を共有するサブカルチャー=準拠集団に所属する人間たちを、東はオタクと呼んだのである。(続く)