勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年07月

「キレる人」と「クレーマー」は同じ精神構造

以前のブログで「人はなぜキレるのか」を取り扱ったことがあった(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/59201857.html)。今回は同様のタイトルで一言だけ入れ替えて、これを考えてみる。つまり「人はなぜクレーマーになるのか」。というのも、二つの精神構造はまったくと言っていいほど同じだからだ。

「キレる」構造、そのおさらい

以前のブログでは、「キレる」というのが単なる動物的な感情の発露ではなく、きわめて論理的な構造に基づいていることを指摘しておいた。つまり、キレている人は自分が攻め込まれた論理に対抗するために、自ら別の論理を持ち出し、これにカウンターを当てているのだと。ただし、その論理は社会的妥当性・有効性の低いゆえに、趨勢となる論理を支持している人間にとっては理解不能で、それが「キレた」という様に見える。感情的な側面は、趨勢の論理にカウンターを当てようとする部分だ。クレーマーもまた、これと同じ構造を持っている。ただし、こちらの場合は必ずしも感情的にはならないところがミソだ。

クレイマーとは

クレームとは購入した商品の欠陥や故障をメーカーに訴え、その損害の補償を要求する行為をさす。そしてクレーマーは本来なら、そう言った行為を行う人間を意味するのだが、その行為が度が過ぎ、ちょっとした欠陥や故障を大げさに扱い、法外な要求を突きつける人間を指すようになっている。言い換えれば、一般には問題にならないような部分にまでクレームを付け、自らの正当性を主張し、その主張が通るとなると、さらに補償を要求するようなたぐいの人間だ。

「キレる人」と「クレーマー」に共通するバックボーン

「キレる人」「クレーマー」、この二つの出現は、共通の社会背景に基づいている。それは「価値観の相対化」だ。かつてであるならば社会内において常識ー非常識といった軸が安定した形で存在し、その多くの人々が「常識」を、かなりの絶対性を持って支持していた。そして、その常識に基づく「イメージとしての空間」を人々は「世間」と呼んでいた。「世間」が広く浸透していた時代、常識に反する行為を行うことは「みっともない」ことであり、そのような行為を行う人々は、一般からは「困った人」とみなされてた。つまり、非常識な行為を行う人々は、こういった世間によって、ある程度抑制されていたし、実際に行動を行った場合は、社会的に何らかのかたちで社会的制裁を受けていた。

ところが情報化の進展と共に、価値観が多様化し、この「世間」すらもあまたある価値観の一つとなってしまった。そして、こうなると人々が依拠する常識は偶有化、つまり人それぞれでバラバラになってしまう。だが価値観がフラットになって、どれがいちばん正しいのか、行動の基準にすべきかという明確な基準がなくなったとしても、人々は自らの行動を正当化する価値観がほしい。そこで、個々人は多様化した、あまたある情報の中から、任意に情報を選択し、それに依拠することで新たな価値観を構築するようになった。

ただし、これは多様化された価値観の一つでしかない。だから、これを支持する母体もまた、小さいものだ。だが、このような小さな価値観であっても、支持する層はそれなりに存在する。だから、その支持層の中ではこれは有効だ。もし、キレる人やクレーマーがこのレベルの価値観を持っていたとしたら、意外に問題は起きないだろう。小さな価値観であっても、そこには多少なりとも「常識」「世間」が存在するからだ。

ところが、これらのタイプの人間たちの価値観はまったく持ってスタンドアローンで、それを聞いている側にとっては何ら正当性がない。精神病で言えば妄想性障害に該当するような、常識、あるいは常軌を逸した主張となる。では、なぜこうなるのか。(続く)

われわれが日本人であるという確証は?

われわれは自分が日本という国家に生活する日本人であるということを当然のように自覚している。しかしその確証はどこからやってくるのかと問われたら、明瞭な回答をすることができるだろうか。強いて言えば自分が日本国の国籍に登録されていることが唯一の確証になるが、それは書面上のことだけであって、それだけではこの確信にはたどり着かないはずだ。たとえば大学に所属していても、そこに愛着を感じなければ(それは、たとえば自分が希望しなかった大学にやむ終えず入学したような状況でしばしば起こる)、学生証を持っていても、自分がこの大学の学生とは思えないというように。

この確証がどのようにわれわれの意識の中に構成されるのかについて明瞭な回答を与えたのがインドネシアの文学者ベネディクト・アンダーソンだ。彼は国民とか国家というものが「想像の共同体」として成立していると指摘したのだ。

共同体とは

共同体とは人々が衣食住を過ごしていく空間を指している。中世まで、人々は生まれ落ちたところで一生を終えていた。つまり生活すべてをそこでまかなっていた。そして、この人たちには自分が国民であるとか国家であるといった認識はおそらくなかっただろう。というのも、その空間から出て行くことがほとんどなかったので、他と比べようがなかったからだ。

ところが近代にはいると人々の移動性が高まってくる。共同体を出でてあちこちで暮らすようになったのだ。そうやって故郷=共同体を離れてしまった人間は共同体の成員であることをやめたのか?ある意味ではそうだ。だが、人間は社会的動物であり、社会的空間=環境におかれなければ生きていくことできない。それゆえ共同体を失ったとしても別の形で共同体を保持する必要がある。そうやって獲得されたものが「想像の共同体」、すなわちイメージとしてわれわれが今日浮かべることのできる国家や国民という概念だ。

想像の共同体は文字通り「イメージ」としてアタマの中に出来る

国家や国民イメージの形成に際してアンダーソンは出版資本主義がその媒介となったと指摘する。15世紀半ば、ヨーロッパでは活版印刷による印刷物が普及し始める。だが、当時、共同体の人々はそれぞれの地域で独自の言葉=部族語を使用していた。そしてこれは出版物を大量に販売するためにはきわめて不都合な状況だった。というのも、部族ごとに印刷物を作成していたのでは大量に売りさばくことができないからだ。そこで、考案されたのがこれら部族語を統合した出版専用のことばだった。これが普及することで、それは「標準語」となっていく。

そして、共同体の人々はこの同じ言葉を使用する人々が数百万、数十万と存在することを知ったのだ。実際、その言葉が使用されている地域に行けば、当然のことながら現地の人々のコミュニケーションが可能になる。こうやって仲間意識が誕生することで、その言葉が通用する範囲が国家、そしてその範囲に生活する人々と自分が国民であることをイメージするようになったのだ。言い換えれば出版物というメディアを媒介としてわれわれは「想像の共同体」という共同体の代替物を獲得したのである。

現代のわれわれも国家を想像の共同体として認識している。つまり日本人であるという認識は、われわれが日本語を使用し、出版物にふれることで実は確認されたものなのだ。加えてマルチメディアの現代、われわれは出版物のみならず様々なメディアにふれることでこのイメージとしての共同体である国家と国民を認識している。たとえば日本の領土を実際には眺めたことはないにもかかわらず(この経験の持ち主は宇宙飛行を体験した日本人だけだ)日本のかたちをイメージできるのは、まさにわれわれがメディアに表現された日本のかたちを媒介にしているからに他ならない。

このような認識は、言い換えれば本来国家や国民というのがイメージとしてしか成立し得ないと言うことでもある。国家・国民は実態ではなく概念である。アンダーソンが最終的に指摘していたことはこれだった。

今回は、ドイツの思想家ヴォルター・ベンヤミンの「アウラの消滅」というメディア論ではつとに有名な概念について、考えてみよう。記号論的に考えると、この概念の一般的な解釈、ちょっとヘンというのが僕の考え。それを明らかにしつつ、僕の視点を提示してみたい。

アウラとは

ベンヤミンは論文『複製技術時代の芸術作品』の中で、機械(写真や映画など)による複製技術の発達が芸術に対する価値を変容させていくことを論じている。芸術作品の複製が可能になることで、作品からアウラが消滅していくというのだ(ちなみに、この論文は20世紀前半のもの)。アウラ(オーラとも言う)とは「いま、ここにある」ということで出現するイメージ。つまり、芸術が物理的、空間的な担保によって、唯一無二であることから私たちが感じる「礼拝的価値」だ。日常的なわれわれの経験からすれば、美術館で著名な絵画を鑑賞するときや、芸術以外であれば教会を訪れる際に感じる神々しさがこれに該当する(要するにモナリザ見たら「スゲーッ!」って思ってしまう感覚ね)。「オリジナルが目の前にあることで、その真正性を感じている状態」と言ったらいいだろう。ところが、複製技術、つまりコピー技術が発達すると、こういったアウラは作品から奪い去られていく。コピーによってそれら芸術は携帯可能になり、そこに行かなくても見ることができるようになる。となると、作品は大衆にさらされることになり、一回性=つまり「いま、ここにある」というありがたみが失われてしまうのだ。

アウラの消滅

ただし、ベンヤミンは複製技術=コピーの大量出現によってアウラが消滅することを嘆いているわけではなく、代わって芸術作品に対する新たな価値として「展示的価値」が生じることを指摘している。芸術は携帯できることで、繰り返し鑑賞可能になると共に、手元に寄せてクローズ・アップしてみたり、構成や構造を分析したりすることもまた可能になる。つまり、複製技術という科学の発達によって、芸術は宗教的な価値付けから抜け出て、科学的なメスを施す対象となったのだ。また、これは芸術に付与される権威や重みの消滅をも意味する。これは、芸術の「一部の者による独占から大衆への解放」ということでもあるわけで、こういった芸術の価値観の変容をベンヤミン自身は積極的に評価していたのである。

アウラは「一回性」というコード=共同幻想が付与された記号に付着する

しかし、アウラの議論でしばしば看過される点については留意する必要がある。それは、アウラもまたコードによって規定されているということだ。実は手垢や汚れ、人々のそれらに対する権威付けといったものもまた、社会的に構築された「共同幻想」でしかない。こういった共同幻想を共有していない人間にとっては、アウラは感じられず、それは単なるモノでしかないからだ。アウラはむしろ、一回性、つまり唯一無二という担保。つまり「いま、ここにある」と人々が思いこむ共同幻想=コードの共有によって、ある種の礼拝性が付与されたものと捉えるべきなのだ。

礼拝的価値と展示的価値の往還

このような認識に立ったとき「礼拝的価値」と「展示的価値」は相対するものと言うよりも、相互補完、あるいは循環するものであることが解ってくる。

たとえば、海外旅行を趣味とする人間たちにとって「世界遺産」は、旅行の目的として重要な位置を占めている。では、そういった旅行者は世界遺産に何を見ているのだろうか。それは言うまでもなく「アウラ」である。ピラミッドを見たとき、観光客は「スゲーッ!」と礼拝的価値を抱くのだ。

ただし、それは複製技術が再定義した一回性としてのアウラだ。世界遺産を訪れる旅行客は、事前にその世界遺産を写真や資料でチェックしている。そして詳細に調べれば調べるほど、それは展示的価値をまずは有するようになっていくだろう。だが、そうやって入手した世界遺産に対する情報は「世界遺産」という社会的に構築された記号=パラダイム=コードを装着することに他ならない。いわばメディア的に構築された共同幻想をインプットすることなのだ。そして、その心性を持って世界遺産を訪れたとき、旅行者はそれら世界遺産が一回性を帯びた礼拝的価値を持つモノ、つまりアウラを放っているモノに見えるはずである。言い換えれば、世界遺産を訪れる旅行者の心性は、アウラを失って一旦、展示的価値となったモノにメディア経験を通して再びアウラを見ていることになる。

ただし、このとき、アウラはコピーを横溢させた記号的なオリジナルとして、いわばポストモダン的に成立しているのである。ようするに、われわれが見ている神々しさ、一回性とは、学習によって培われたものなのだ。

ラジオをホットメディアと定義したマクルーハン

すでに述べてきたようにマクルーハンはラジオをホットメディアと定義している。これはおそらくマクルーハンがラジオのニュース番組あたりを想定しているからではないかと僕は踏んでいる。ラジオニュースの場合、当日発生した事件や出来事がひたすら論評抜きで読まれるだけ。しかもその語り口はクリーシェ、つまり定型でてきている。だから、こちらとしては意図的に介入しない限りは、ニュースを聞いてクールになるということはない(ニュース速報は例外)。

ただし、ラジオのコンテンツはニュースだけに限られるわけではない。娯楽的要素を含んだ番組もある。そして僕が出演した番組はその手のたぐいのものだったのだ。

ラジオ・ジャムセッション?の様子

ラジオのコーナーは十分程度と予定されていた。もっともこれは番組のメインを仕切る川野アナウンサーの意向でどうにでもなるらしい(結局伸びたのだけれど)。話題は衆議院選とこれにまつわる東国原知事の動向。ちょうど東国原シアターの幕が下りた直後だった。

で、川野アナはとにかく、ある意味適当に場を仕切りながら、その場の雰囲気で話を右に左に展開していく。ただし、そこはプロ、最後の着地点についてはしっかり押さえているので、完全にあらぬ方向に向かい話がメチャクチャになると言うことはない。一方、もう一人の若手女性アナ・迫田アナは川野アナの、このややもすると強引な展開に相づちを打つ役割。これで川野アナの一見迷走じみた展開にビートが刻まれ、一定のリズムとバランスを形成している。そして、僕はこの番組をジャムセッションと表現したが、まさにここでは各パートがジャムしていた。川野アナはリーダーとして(しかもかなり独裁的な)ソロを取る。これに迫田アナの堅実なビート、言い換えれば控えめなベーシストとしてのタイムキープがなされているわけだ。こうすることで番組=サウンドはギリギリのところで体裁を保っているわけだ。

そこに、僕が加わる。いわばゲスト・プレイヤー。でも、ジャムセッションである。だから、楽譜を見ながら演奏したのでは、これはドッチラケだ。ジャムセッションの醍醐味であるインタープレイは感じられない。それどころか、周囲がノリノリでやっているときに一人だけ棒読みみたいなことをやったなら、マヌケということになる。だから、用意していた原稿を放り投げ、これに加わろうとしたわけだ。もちろん、原稿に用意していた内容を話さなかったわけではない。用意していたものはモチーフとしてアタマの片鱗に残しておき、二人のアナとのインタープレイのなかで、こちらのアドリブとして適時提示していくことになったのだ。

こうなると「おもしろい」。三人の間で話題はあっちこっちに飛ぶが、そこにビートが生じ、集団思考的な空間が生まれる。ただし、前述したように、川野アナのリーダーとしての裁き、つまりコーナーをまとめるという感覚=技量(もはや身体化されている)が、アンサンブルを奏で、そして曲の構成を成立させる。事実、ちゃんとオープニングとエンディングには「テーマ」(僕の新刊の売り込む含む)が演奏されていた。


クールなラジオ空間のしくみ

ここで発生していたことはラジオが、少なくとも送り手側としてはクールなメディアとして機能していると言うことだ。それぞれがどんなアドリブを飛ばすかわらない。それに刺激を受けつつ、こちらもアドリブで返す。すると相手もまたこれにインスパイアされる。先の見えない、それでいてバランスのとれたクールな空間がそこに出現しているのである。

さて、こういった、いい意味、脚本なしのいい加減な番組を仕組んだのは、実は川野アナではなく、番組を構成しているディレクターだ。彼の仕込みは「ナマを生かした、限りなくいい加減な番組」というところだろうか。もちろん、どうでもいいから「いい加減」なわけではない。マジメに、徹底して「いい加減」にすることで、ラジオ生番組をジャムセッションにしてしまおうという、かなりチャレンジングなたくらみなのだ(僕が呼ばれたのも、この「いい加減さ」がある人間だったからなんだろう)。自画自賛っぽいが、このたくらみは、今回は成功したのでは無かろうか。

もっとも、MRTはTBS系のマジメな局なので、その番組はきちんと台本がつくられていて、それに従って黙々と進行する、つまりホットに徹するというのが基調(東国原知事が出演する番組はいずれも木っ端微塵に番組を潰されてしまう。あの男はアドリブだけの人間だから、脚本が無視されてしまうのだ)。だから、彼のたくらみはかなり理解されていないらしい(本人談)。要するに彼がやりたいのは、ちょっと専門筋で説明すると70年代前後にマイルス・デイビスが試みたエレクトリックジャズ(通称”エレクトリック・マイルス”)の手法と同じだ。ミュージシャン=パーソナリティが、それぞれの力量に基づいて「よーい、どん」で時間を仕切って集合表象を作り上げる。僕は、凄くおもしろい、スリリングな試みだと評価するが……(ただし、それぞれのプレイヤーは、それなりに力量とコミュニケーション能力が必要)。ディレクターの O君(実は、僕の教え子です)、クビにならない程度に頑張ってください。

ホットでベタでつまらないディズニーアニメ

もちろん、その逆、つまりクールがホットになってしまうものもある。たとえば六十年代まで作られていたディズニー短編アニメ、とりわけキャラクターのプルートが出演する作品がその典型だ。今、これを見るとほとんど退屈でかなりの人間が眠くなるのではなかろうか?言い換えるとありきたりで、つまらない。ただし、これはこの作品がはじめからイマジネーションに欠けていたことを意味するものではない。恐らくこの作品が上映された頃には、かなりの観客(当時は映画館で上映されていた)が興奮した、つまりクールになったはずだ。

では、なぜ今われわれがこれを見るとおもしろいと思わないのかというと、それはこのプルートの登場する作品の中で展開されるギャグやパターンが完全に普及し、一般化されてしまったからだ。つまり、受け手の方にギャグパターンに対する情報がすっかり入っていて、もう見飽きている、使い古された「ベタな展開」。だから、われわれはここで出てくるギャグに「なんじゃ?こりゃ?」と」クールになることはない。それが、結果としてつまらないという印象を生むのだ。言い換えれば、当時の観客にとって、これら逆は新鮮で、驚きで、「なんじゃ?こりゃ?」だったのだ。

典型的なクール映画『2001年宇宙の旅』だってホットになる

また、個人レベルでもホットとクールは変化する。私的な経験で申し訳ないが、S.キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』は僕にとって、その見方がクールからホットに変わってしまった典型的な作品だ。

初めてこの作品を見たとき、とにかく「わけがわからん」という感じになり、作品の意味するところは何なのかを一生懸命探るというようなことをやっていた。ティコモノリスという石版はなんだ?なんで最初に類人猿が出てくるの?骨が突然宇宙船に変わるのは?宇宙の果てに、なぜお城みたいな部屋があるの?宇宙に浮かんでいる胎児は?などなど。この時点では完全に僕のアタマはクールな状態だった。

ところがメディア論を勉強した後に、この映画は僕にとってはホットな映画になっていた。前記した謎が、メディア論、とりわけマクルーハン理論を踏まえると一気に解ってしまったのだ(ちなみに、この作品は、実際、マクルーハン理論を下敷きにしている。いずれ本ブログで『2001年宇宙の旅』は手亭分析する予定)。

ホットとクールは送り手と受け手の間で相対的に決定されるのであり、メディアそれ自体が本質的にホット性、クール性をそなえているとは必ずしもいえないのだ(ただし、あくまでも「必ずしも」のレベルでしかない。ちょっと専門的な話になるが、活字と音楽では直線性(線条性)というレベルでは明らかに活字の方がホットではある)。

ということはラジオというメディアも、その運用法によってホットにもクールにもなりうると言うことになるのだが……話をこのブログのテーマに戻せば、僕の出演した番組の中で、少なくとも僕を含む送り手は一様にクールになっていたということになる。それはなぜか?(続く)

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