「キレる人」と「クレーマー」は同じ精神構造
以前のブログで「人はなぜキレるのか」を取り扱ったことがあった(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/59201857.html)。今回は同様のタイトルで一言だけ入れ替えて、これを考えてみる。つまり「人はなぜクレーマーになるのか」。というのも、二つの精神構造はまったくと言っていいほど同じだからだ。「キレる」構造、そのおさらい
以前のブログでは、「キレる」というのが単なる動物的な感情の発露ではなく、きわめて論理的な構造に基づいていることを指摘しておいた。つまり、キレている人は自分が攻め込まれた論理に対抗するために、自ら別の論理を持ち出し、これにカウンターを当てているのだと。ただし、その論理は社会的妥当性・有効性の低いゆえに、趨勢となる論理を支持している人間にとっては理解不能で、それが「キレた」という様に見える。感情的な側面は、趨勢の論理にカウンターを当てようとする部分だ。クレーマーもまた、これと同じ構造を持っている。ただし、こちらの場合は必ずしも感情的にはならないところがミソだ。クレイマーとは
クレームとは購入した商品の欠陥や故障をメーカーに訴え、その損害の補償を要求する行為をさす。そしてクレーマーは本来なら、そう言った行為を行う人間を意味するのだが、その行為が度が過ぎ、ちょっとした欠陥や故障を大げさに扱い、法外な要求を突きつける人間を指すようになっている。言い換えれば、一般には問題にならないような部分にまでクレームを付け、自らの正当性を主張し、その主張が通るとなると、さらに補償を要求するようなたぐいの人間だ。「キレる人」と「クレーマー」に共通するバックボーン
「キレる人」「クレーマー」、この二つの出現は、共通の社会背景に基づいている。それは「価値観の相対化」だ。かつてであるならば社会内において常識ー非常識といった軸が安定した形で存在し、その多くの人々が「常識」を、かなりの絶対性を持って支持していた。そして、その常識に基づく「イメージとしての空間」を人々は「世間」と呼んでいた。「世間」が広く浸透していた時代、常識に反する行為を行うことは「みっともない」ことであり、そのような行為を行う人々は、一般からは「困った人」とみなされてた。つまり、非常識な行為を行う人々は、こういった世間によって、ある程度抑制されていたし、実際に行動を行った場合は、社会的に何らかのかたちで社会的制裁を受けていた。ところが情報化の進展と共に、価値観が多様化し、この「世間」すらもあまたある価値観の一つとなってしまった。そして、こうなると人々が依拠する常識は偶有化、つまり人それぞれでバラバラになってしまう。だが価値観がフラットになって、どれがいちばん正しいのか、行動の基準にすべきかという明確な基準がなくなったとしても、人々は自らの行動を正当化する価値観がほしい。そこで、個々人は多様化した、あまたある情報の中から、任意に情報を選択し、それに依拠することで新たな価値観を構築するようになった。
ただし、これは多様化された価値観の一つでしかない。だから、これを支持する母体もまた、小さいものだ。だが、このような小さな価値観であっても、支持する層はそれなりに存在する。だから、その支持層の中ではこれは有効だ。もし、キレる人やクレーマーがこのレベルの価値観を持っていたとしたら、意外に問題は起きないだろう。小さな価値観であっても、そこには多少なりとも「常識」「世間」が存在するからだ。
ところが、これらのタイプの人間たちの価値観はまったく持ってスタンドアローンで、それを聞いている側にとっては何ら正当性がない。精神病で言えば妄想性障害に該当するような、常識、あるいは常軌を逸した主張となる。では、なぜこうなるのか。(続く)