勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年05月

芸人をファンに持つ有吉

禁じ手芸を展開する有吉が、なぜ芸能界から追放されないのか。いや、それどころか、これが許され大ウケけするのか。その答えは簡単だ。それは有吉がスーパースター・猿岩石だったからだ。言い換えると、今売れているどの若手芸人よりも、知名度は有吉の方が上なのだ。

有吉を取り囲むお笑い芸人を中心とする芸能界の人間が、有吉にする反応をよく注意してみてほしい。だれもが、みんな微笑ましい顔をしてみているのだ。というか、ほとんど保護者のような顔になっている。それは彼らがある意味、猿岩石のファンだったからだ。十数年前、若手芸人たちは”電波少年”で猿岩石のヒッチハイクを見ている。大ブームを起こしたこの番組、おそらく夢中になってみていたに違いない。そして、彼らは猿岩石のファンになった。そして、人気が去り、再びはい上がろうとしている猿岩石の一人、有吉を見ることになった。

こうなるとファンである芸人たちは、是非とも苦労人=有吉のサクセス・ストーリーをみたいというファン心理が作動する。そこで、ちょっとでもおもしろいことを言うのであるならば、彼を使ってみたい、彼と競演してみたいと思う。で、有吉がそこでレベル2の芸を披露する。すると、若手芸人たちは保護者の顔つきになり、きわめて甘い評価で有吉を褒め称えるのだ。ちなみにこの心性は競演する芸人たちにとどまらない。オーディエンスであるわれわれもこれらの芸人と全く同じ心性にある。つまり有吉に成功してほしいという保護者感覚、ファン感覚だ。で、こうなると原則、有吉のやることは全肯定されていく。つまり単なるネタの連続に「笑わなければならない」という無意識の心性が働くようになるのだ。みんな有吉の晴れ姿を見たいのだ。


ところが、このとき有吉がやるのは毒舌、つまり素人ゆえの禁じ手。ところがひいきするのが前提となっているので、これもまた肯定される。芸人たちは、自分がとんでもない悪口のあだ名を付けられても免罪する。いや、それどころか、ニコニコしていたり、絶賛したりさえする。自分がファンであった有吉にかまってもらって、うれしいという感じだろうか。あるいはアントニオ猪木にビンタされる感覚なのだろうか……。

だが、これが結果として、これまで芸能界では使われてこなかったお笑いのパターン=禁じ手のそれが、一般的なものとして認知されるきっかけとなっているのだ。有吉がやるなら、それもあり。で、それに周囲が慣れると、それは立派な「毒舌」という芸のジャンルを形成した。その結果、有吉は「毒舌芸人」という社会的地位を獲得することになったのだ。つまり猿岩石有吉+素人芸人有吉=毒舌芸人有吉という図式の完成だ。いいかえれば、有吉の毒舌は猿岩石自体の財産を担保にしつつ受け入れられた。ただし、その毒舌は、たまたま新しいお笑いのジャンルを形成してしまったのだ。

有吉の芸風というのは本人の力とそれを取り囲む社会的環境の関数として結果されているのである。(続く)

前回、有吉弘行は芸人のレベルとしては四段階の内の下から二番目、柳原可奈子、まちゃまちゃ、陣内智則と同程度、ギリギリレベル3の部分がかいま見られる程度だと分析した。にもかかわらず有吉はブレークしている?では、レベル2の芸人をブレークさせるその原因とは何か?それは有吉を取り囲む環境にある。

禁じ手を連発するアブない素人芸

まずあらためて有吉の芸を確認しておこう。有吉のレベル2の芸とは、ただひたすらネタを連発するというレベルのもの。ネタのインパクトだけが勝負で、ネタそれ自体の展開は弱い。

ただし、フツーのレベル2の芸人とは違うところがある。それは、有吉が十年以上も芸能界の荒波にもまれていること。そして、それぬもかかわらず変わらず素人感覚が抜けていないところだ。つまりすれっからしにはならない、というかなれない。だから、相変わらず芸能界の空気を読むことが出来ていない。ところが、この芸能界のしきたりを学習できていないところが有吉の個性となる。それが毒舌というか悪口という「芸」だ。

この芸は、ある意味、ギリギリである。つまり芸能界ではやってはいけない禁じ手に限りなく近い。ところが、有吉の場合、芸能界の空気が読めていないので、これが禁じ手ゆえやってはいけないと、超自我が自らに作動することはない。つまり回路が入っていない。だから、平気で悪態をつくと言うことになる。そして、その悪態は空気を読んでいない分、辛辣さもひとしおだ。で、このヤバい感じが視聴者の共感するところ(「ホントはそうだよな」と思わせるところ)となるし、有吉からすればウケるので、ますます調子に乗る。その結果、有吉のはき出すものは、われわれがよく知っている芸能界では見ることの出来なかった新しい笑いを生んでいるということになるのだ。もちろん、素人芸なので洗練度は非常に引く(だから、仇名でも全くおもしろくないものがある。これはコピー名人の関根勤と比較すれば明らかだろう。関根の場合には記号論的に見ても、実に的確なコピーをする。そして関根流のスタイルというものがきちんとあり、それを本人が自覚している。だから関根のコピーには安定感があるのだ)。

有吉の芸。それはキワものに近い。だが、オーディエンスにとっては実に斬新だ。そのあやしいツッコミが、時にはツッコまれている芸人に思わず本音のアクションをもたらしたりして、これがまたスリリングでもある。

しかし、である。なんでこんなことが許されるんだろうか?もともと有吉の芸はすでに述べたように禁じ手ギリギリのもの。というよりは本来、禁じ手そのもの。やってはいけないものだから(たとえば、横山やすしが現役時代に、有吉がやすしにこんなことをやったらどうなるか。当然、ボコボコにされるだろう。芸能界の上下関係を徹底重視するやすしゆえ、これを冗談とか芸とかとして認定することは決してないだろうから)。

で、よ~く考えてみてほしい。もし、有吉以外の若手芸人が有吉と同じ手法でお笑いの世界に出て行こうとしたらどうなるか。おそらく、というか、確実にあっという間に干されるだろう。というか、テレビに出てくる前に抹殺されるに違いない。有吉の芸というのは、そういう芸なのだ。

しかし、有吉には、なぜかこれが許されている。なぜだろう?(続く)

有吉の芸のレベルは?

有吉の芸人としてのレベルは前回上げた四段階のうちのレベル2と3の間にあたりにある。まず、次々とネタを繰り出すというところはレベル2。このネタをつなげる技術はレベル3にやっと届いたかどうかというところ。だから小ネタの連打と言うことになる。ただし、有吉のおもしろいのは、小ネタと小ネタの間に微妙にだが関連が見えるところだ。たとえば小ネタの三段オチみたいなことは、下手だが、できる。もっとも下手なので、ハズすことも結構多い。もうすこしはっきり言ってしまえば、要するに文章にすることがまだまだ下手なので、そのつなぎがぎこちない。アドリブといったところにまではなかなかなっていないのだ。仇名付けにしても、実は結構ワンパターン。やたらと「クソ」と「野郎」が多い。仇名自体は純粋に単語の羅列なのだが、結局、有吉は命名して、それでおわりなのだ。もし、これを島田紳助がやっていたら、なぜそういう仇名に命名するかを、延々説明して笑いを取るだろう(実際、羞恥心がそうだった)。有吉にはこれをする芸が、今のところはない。

モノマネも同様で、これは典型的な小ネタの連打。たとえば阿部寛だったら、ひたすら「阿部です!」というオチの小ネタで引っ張る。実はいくつかははずしているのだが、最後に「阿部です!」とやれば、ごまかしが効く。これは哀川翔にしても桃井かおりにしてもおなじだ(芸を冷静に見ていると、結構笑えないところを見つけることが出来る)。

ということは芸人としては未知数というか、そこいらへんの若手芸人(レベル2)と同じ程度ということになる。要するに素人芸の域を出ていない。だから、この分析の枠組みで考えた場合、有吉の芸は△どころか×、いずれ消える(再び消える)芸人と言うことになる。

ところが、有吉はこれだけでは終わらない。実は、有吉を支えるもう一つのおもしろさを、われわれはそこに見ている。そしてそれは、実は有吉自身が想定してさえいない、つまり気づいてさえいない部分でもある。それは何か?(続く)

元猿岩石の有吉弘行の才能について考察している。前回、まず結論を述べたように現状では僕は△の評価。つまりホンモノとも偽物ともいえない状態であるという立場を取る。以降その根拠を示すことで分析を進めていこう。ただし、今回は有吉自信については分析せず、おわらい芸人の芸のレベルの判断基準について考察する。

芸人の才能はどう判断するか。芸人評価の目安

芸人の才能はどのような基準で測ることができるだろうか。これを一般の学習過程、具体的には言語学習のプロセスとその運用パターンの変化から考えてみたい。

レベル1:一発ネタ~小島よしお、波田陽区程度

第一段階はウケるネタが勝負となる。言語学習で言えば基本的な単語を覚えるレベルだ「ママ」とか「マンマ」とかという言葉の取得段階。とにかくオーディエンスにその存在を認知され、しかもウケを取らなければならない。そこでとにかくキャッチーなネタをひねり出す。これが受ければとりあえず認知され、このネタが飽きるまでの場つなぎは可能となる。ただし、これだけ、そしてネタを深く掘り下げる力もないので、飽きられるのは早い。で、才能がなければ単なる一発屋として終了する。パイレーツ(だっちゅーの)、テツ&トモ(なんでだろう)ダンディ坂野(ゲッツ)、波田陽区(残念!)、だいたひかる(わたしだけー)小島よしお(そんなのかんけーねー)なんてのが典型で、後が続かない。

レベル2:ネタの連打~柳原可奈子、陣内智則程度

で、第二段階がネタを次々と打ち出すというもの。言語習得なら単語をいくつか覚え、とにかく中身の吟味なしに次々と繰り出すという段階だ。これはまちゃまちゃ、柳原可奈子、陣内智則、なだき武あたりが典型だろう。新作を打ち出すというやり方だ。しかし、これもまた個人が繰り出すネタであるため結構限界がある。本人がどんなにネタを繰り出したところで、結局一人が考えているのでネタはこれまでのネタの改変ということになり、新味にかける。しかも第一段階同様、ネタに深みがないので賞味期限も短い。で、いずれ飽きられれば消えていくと言うことに。現在の芸人のほとんど(「エンタの神様」に出演しているお笑い芸人たち)はこのレベルなので、いずれ淘汰されることになる。

レベル3:ネタをつなげ、物語を作る~千原ジュニア、テツ&トモ程度

第三段階が、ネタの乱発をやめ、持ちネタを上手に使いこなすような段階。つまり新しいネタを繰り出すと言うよりも、既存のネタをこねくり回してウケを取るようなやり方で、それまで自転車操業的なネタの連射からネタに深みを持たせるようになっていく。言語習得なら文を作れるようになるレベルだ。それなりの語りが出来るレベル。オーディエンス側がネタよりも、本人の語りの部分に注目するようになった芸人がこれで、一般にこれは「アドリブが効くようになった」と評価される。こうなることで、芸人は初めて「芸風」の域に達することに。つまりネタよりも本人のキャラクターや話芸が前面に出るようになる。若手ならば千原ジュニア、テツ&トモ、劇団ひとり、友近といったところだろう。で、このレベルになると”笑っていいとも”でコーナー担当を任される。

ただし、このレベルはさらに洗練度を上げていく必要があり、そうしないと語りがワンパターンになって飽きられる。友近あたりは結構境界線上だ。展開のパターンが少ないので先が見えてしまうところが将来性が危ぶまれるところ。もっとも上島竜平や出川哲朗のようにワンパターンのマンネリを武器にして生き残るという方法もあるが。

言い換えれば、このレベルで止まっても個性が強ければ、居場所を確保可能ということである。もっとも、さらに言い換えれば個性がなければ全くダメなのだが(上島や出川はワン・アンド・オンリーであるがゆえに、生き延びていると謂うことになるわけだ)。

レベル4:その場でネタを作りスペクタクルを展開する~さんま、紳助、志村といった巨匠レベル

そしてこの先の第四段階ともなると、仕込みネタの数はさらに減ってくる。その一方でネタをめいっぱい引き延ばし、それだけでオーディエンスを魅了するような一流芸の域に達する。これは言語習得なら文章がまっとうに書けるというレベル。で、こうなるとネタは仕込むと言うよりも、自分のパターンをこねくり回すうちに勝手にどんどんわいて出てくるようになるわけで、爆笑問題、島田紳助、明石家さんま、ビートたけし、タモリ、志村けんの領域となる。このレベルは本人がしゃべっている最中、同時に考えるということをやっており、明らかにしゃべっている自分をもう一人が対象化しながらいていて、コントロールしているという姿をオーディエンスは見ることが出来る(具体的にはしゃべっている時、目線を上に向けるなど時々考えているしぐさが現れる)。つまり、こちらこそ本当の「アドリブ」になる。

巨匠たちの芸、その具体例

この具体例を二つほど。一つはさんまと伸助の掛け合い。さんまが自分の経験談をおもしろおかしく話していると、伸助が突然「それ、ウソやろ?」とつっこみを入れる。そしてさらにさんまの話の矛盾を徹底的に展開する。するとさんまは、しばらくして「私、今、ウソを申しておりました」と謝罪する。

この掛け合い自体もアドリブでおもしろいが、このとき実際、さんまはウソを語っている。経験を語っている内に、自分がおもしろくなり、また、人を嗤わせようと、どんどん話に尾ひれを付けてデフォルメしてしまったのだ。つまり、リアルタイムでネタを作っていたのである。

二つめ。何年か前、テレビの特番でさんまとたけし、そして志村がジャンケンをし、最初に三回負けた者が世界で一番臭い缶詰の臭いをかぐという、本当にどうでもいいゲームをやったことがあった。ネタはジャンケンだけ。ところが、この三人次に何を出すのかでさんざんやりとりをし、これを二十分近く続けたのだが、会場は爆笑、また爆笑。見ていた僕はこの巨人三人のたった一つのネタで笑いをとり続ける技術に鳥肌すら立ってしまった。で、おもしろいのは、この時、三人が笑いながらやっていたということ。自分たちのやっている芸に自分たちがおかしくなってしまっている。完全にオーディエンスのことなど無視しているのだが、三人が作り上げるクリエイティブな瞬間に全員が酔っていたのだ。その酔いにオーディエンスもまた、めいっぱい酔わされるのだ。

まあ、こんな連中なので、たとえば島田紳助が若手を転がすなんてのは朝飯前ということになる。レベル4とそれより下は、どだい、圧倒的に技量が違うのだ。そして、その技量を違いは要するにネタ=単語を使いこなす技術に基づいている。

さて、以上をまとめれば、芸がアップすればするほどネタの数は減り、少ないネタで展開する力が上昇。それが、傍目からすべてが新しいネタの連続に見えるという逆転現象が生じていれば巨匠と言うことになる。さて、それでは有吉はどのレベルにいるか?(続く)

再ブレーク中の有吉弘行

もう十年以上も前、日本テレビ”すすめ!電波少年”のコーナーで、ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅をやらされたお笑いユニット「猿岩石」の一人、有吉弘行が再ブレークしている。有吉は猿岩石時代、香港からロンドンまでのヒッチハイクが報道されることで、本人の知らぬ間に日本国内で人気者に。帰国後、ユニットが歌った「白い雲のように」も大ヒットし、一躍、スターダムに登りつめる。だが、芸も経験もない素人同然のユニットだったゆえ、坂を転げ落ちるのも早かった。僕の弟は芸能人撮影を専門とするカメラマンなのだが、十年ほど前、彼らの故郷広島凱旋ツアーの撮影記事作成のために彼らと同行したことがある。その際、弟は彼らをこう評していたのをよく覚えている。

「あいつら、眼が死んでる。まっ、すぐ終わるんだろう」

そして、弟のモノの謂いはそっくりそのまま現実になった。曲は出すたびに売れなくなり、テレビからもお呼びが罹らなくなり、いつの間にか「過去の人」として、ほとんどの人々の記憶の彼方に葬り去られていたのだ。猿岩石が解散していたなんて知らない人間がほとんどというくらいに。
これが、突然のブレークである。しかも有吉だけの。なぜ、こんなことが起きたのだろうか、今回はこれについて考えてみよう。ただし、現在の有吉が芸人として生き残れる才能があるかどうかを吟味する形で。

ヒッチハイカーから悪口/毒舌芸人へ

有吉が再びブレークしたのは、それまでとは全く異なるイメージで自らを売り始め、これが人気を博したからである。有吉は「電波少年でヒッチハイクをやらされた若手芸人」から「周囲のことを気にかけることなく、芸人の悪態をつきまくる毒舌芸人」となっているのは周知のところ。そのブレイクのきっかけとなったのは芸能人の仇名命名とモノマネだ。千原ジュニアを「へりくつガイコツ」、関根勤を「説明ジジイ」、おすぎを「泥人形」、南海キャンディーズのしずちゃんこと山崎静代を「モンスターバージン」、国会議員の山本一太を「ハッタリ君」などなど、とにかくネガティブ、あるいは罵詈雑言調で命名するやり方がウケにウケている。また、モノマネについては哀川翔、阿部寛、桃井かおりなどが持ち芸で、こちらも基本的にはネガティブなツッコミとデフォルメが人気の秘訣となっている。

有吉は現状では芸人として△

今回はこの「有吉現象」の分析なのだが、本ブログのタイトルにもあるように、ここでは有吉の新しい芸が「ホンモノの芸」として認められるかどうかというところも分析の対象となっている。これをメディア論/社会心理学的視点から分析するわけだが、まず結論から述べておこう。現状で有吉は芸能人として本物でも偽物でもなく、その中間、つまり○でも×でもなく△な状態だ。これを1.芸能人の才能の評価基準と、2.芸能人を取り囲む社会的環境の二つから考えてみようと思う。(続く)

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