芸人をファンに持つ有吉
禁じ手芸を展開する有吉が、なぜ芸能界から追放されないのか。いや、それどころか、これが許され大ウケけするのか。その答えは簡単だ。それは有吉がスーパースター・猿岩石だったからだ。言い換えると、今売れているどの若手芸人よりも、知名度は有吉の方が上なのだ。有吉を取り囲むお笑い芸人を中心とする芸能界の人間が、有吉にする反応をよく注意してみてほしい。だれもが、みんな微笑ましい顔をしてみているのだ。というか、ほとんど保護者のような顔になっている。それは彼らがある意味、猿岩石のファンだったからだ。十数年前、若手芸人たちは”電波少年”で猿岩石のヒッチハイクを見ている。大ブームを起こしたこの番組、おそらく夢中になってみていたに違いない。そして、彼らは猿岩石のファンになった。そして、人気が去り、再びはい上がろうとしている猿岩石の一人、有吉を見ることになった。
こうなるとファンである芸人たちは、是非とも苦労人=有吉のサクセス・ストーリーをみたいというファン心理が作動する。そこで、ちょっとでもおもしろいことを言うのであるならば、彼を使ってみたい、彼と競演してみたいと思う。で、有吉がそこでレベル2の芸を披露する。すると、若手芸人たちは保護者の顔つきになり、きわめて甘い評価で有吉を褒め称えるのだ。ちなみにこの心性は競演する芸人たちにとどまらない。オーディエンスであるわれわれもこれらの芸人と全く同じ心性にある。つまり有吉に成功してほしいという保護者感覚、ファン感覚だ。で、こうなると原則、有吉のやることは全肯定されていく。つまり単なるネタの連続に「笑わなければならない」という無意識の心性が働くようになるのだ。みんな有吉の晴れ姿を見たいのだ。
ところが、このとき有吉がやるのは毒舌、つまり素人ゆえの禁じ手。ところがひいきするのが前提となっているので、これもまた肯定される。芸人たちは、自分がとんでもない悪口のあだ名を付けられても免罪する。いや、それどころか、ニコニコしていたり、絶賛したりさえする。自分がファンであった有吉にかまってもらって、うれしいという感じだろうか。あるいはアントニオ猪木にビンタされる感覚なのだろうか……。
だが、これが結果として、これまで芸能界では使われてこなかったお笑いのパターン=禁じ手のそれが、一般的なものとして認知されるきっかけとなっているのだ。有吉がやるなら、それもあり。で、それに周囲が慣れると、それは立派な「毒舌」という芸のジャンルを形成した。その結果、有吉は「毒舌芸人」という社会的地位を獲得することになったのだ。つまり猿岩石有吉+素人芸人有吉=毒舌芸人有吉という図式の完成だ。いいかえれば、有吉の毒舌は猿岩石自体の財産を担保にしつつ受け入れられた。ただし、その毒舌は、たまたま新しいお笑いのジャンルを形成してしまったのだ。
有吉の芸風というのは本人の力とそれを取り囲む社会的環境の関数として結果されているのである。(続く)