勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年04月

ディズニーランドのカジュアル化

ディズニーランドのゲストたちが、なぜこんなにマナーが悪くなってしまったのか。いや、ディズニーのテーマ性を自ら破って、ウォルトの築いた世界観を破壊してしまうのか?その理由を一言で集約してしまえば、それは「ディズニーランドがカジュアル化したから」と表現することが出来るだろう。

かつて疑似外国体験を提供する空間だったディズニーランド

83年オープン当時、ディズニーランドがその社会的機能として向けられていたまなざしは「疑似外国体験」だった。当時の年回海外渡航者数は200万人程度(現在は1700万)。海外旅行というのはまだあこがれの域を脱していない時代。そして海外といえばイコール欧米という時代でもあった。そんな認識レベルであった日本人に東京ディズニーランドは「すぐに行ける外国」を用意したのだ。もちろんこれ自体がヴァーチャルなものであることは言うまでもない。つまり、当時の日本人のイメージにある外国は、極言してしまえば映画の中にあるイメージ、要するにハリウッドやヨーロッパ映画のそれ。だから、現実の欧米はともあれ、この映画のイメージを再現すれば、それは日本人にとっては外国だった。

ということは、ディズニーランドはあこがれを、ある意味、現実化する空間。だからそこはハレの場、非日常の場所として位置づけられたのだ。「いつかは海外」を実現する装置、ありがたい場所。そして、そこにはこちらの知らない情報でいっぱい。ということは、このありがたさは拝まなければならない。拝むと言うことは、送り手=ディズニー側が提供するコンセプトに完全に恭順の意を示すと言うこと。だからやってきたゲストたちはおっかなびっくり、かつみるものすべてが新しいものとして、送り手側のなすがままに受動的に行動したのだった。それが結果として、実にマナーを守る客に見えたのだ(実際にマナー感覚があったかどうかは別として)。

ディズニーのシステムに従順であると言うことは、要するにディズニーランドの理念の大元であるウォルトのコンセプト、つまりファミリー・エンターテインメントやテーマ性を享受すると言うこと。ゲストはまさにこういった送り手側の方針に包摂される形でパーク内を楽しんだ。お弁当を持ち込まないし、勝手に地べたに座ったりすることもないというのは、こういったディズニー側への畏怖の精神に基づくものではなかっただろうか。ところが……(続く)

イメージ 1

      " (パレードの陣取りをするゲスト。まだ開始四時間前だ) "

マナーの崩壊2~パレードルートにレジャーシートで場所取り

次に気になったのが、パレードルートに陣取るゲストたちだ。もちろんパレードとなればゲストが陣取るのはあたりまえ。ここで気になったのは、パレードが始まる数時間も前から、つまりパレードルートがキューイングバーとワイヤーで敷設される前から、レジャーシートを敷いて場所取りをしているゲストのこと。早いゲストだとパレード開始の四時間前から、もうレジャーシートを敷き、パレードの開始を待っている。彼ら/彼女らは、はじめから待つことを想定しており、本やらテレビゲームやらをちゃんと持参してくる。前述したお弁当を広げピクニックしているというとんでもない連中もいる。で、この数がやたらと多いのだ。

でも、これのどこが悪いのか?理由はこうだ。本来そこは通路であり、人が往来するところ。そこにたくさんのレジャーシートが広げられれば通行の妨げになる。また弁当の持参同様、テーマを崩すものでもある。ディズニーランドは非日常。そこで日常の行動である場所取り、テレビゲーム、読書なんてのをやられたら、はっきりいって他のゲストにとっては興ざめ。第一、景観の統一性を損なう。つまりディズニーランドのムードをぶちこわすのだ。

これが、パレードルートが設営されてからなら同じ陣取りでも様子は変わってくる。というのも、この場合、陣取りするゲストがパレード開始のムードを盛り上げる役割を果たすのだが……これは、それとは全く逆の効果となっている。

で、こっちの方も年パス所有率が高い。年パスを購入して年がら年中ディズニーランドにやってきているんだから、ディズニーの理念やコンセプトを一番理解している人間たちのはず。だったら、こういうことは一番嫌悪することと認識しているはず。ところが、こういった人間がむしろ進んでそのコンセプト破壊を行っているのだ。しかも喜々として。なぜ?(続く)

東京ディズニーランドの変化は著しい

4月13日、久々に東京ディズニーランド(以下、ディズニーランド)を訪れた。ちょいと、最近はディズニーランドに飽きていたのでご無沙汰だったが、ミッキーマウスレビューの終了とモンスターズインクのオープンの二つが気になり、出かけたのだ。前者は5月25日をもって終了(他のディズニーランドで好評の3Dアニメシアターのフィルハ・マジックに変更される)。後者は三日後のオープンだったがスネークレビューを期待して出かけた。もっとも、調べが行き届いておらずスネークはなし。モンスターズインクのアトラクションを覗くのはまたこの次にということに(とはいうもののYouTubeでは、とっくにその全容が紹介されているのだけれど)。

で、感じたのは、ますますもってディズニーランドが別物へと変化していること。しかも、僕にとっては悪しき方向に。今回はこのことについて受け手側、つまりゲストの変化から考察してみよう。例によって結論から述べておけば、

”ディズニーランドのゲストは俺様化している!”

マナーの崩壊1~弁当の持ち込み

まず気になったのが、マナー(イヤ、ルールの方が正解だろう)を守らないゲストが目についたこと。その一つが「弁当の持ち込み」だ。ベンチのあちこち、いやレストランの中で堂々と自前の弁当を広げるゲストを見かけるのだ。ディズニーランドは、弁当の持ち込みが禁止されている。その理由は「テーマパークのテーマを損なうから」。つまり、ウエスタンランドやトゥモウロウランドでおにぎりを広げて、のりとお茶の香りを周辺にばらまけば、開拓者精神も未来世界のイメージもぶちこわしになる。だから禁止しているのだ。その代わりに、ディズニーランド内の飲食物の価格は穏当なものに抑えられている。とはいうものの弁当を持参してはいけないと言うことではない。食べたければいったんパークを出てゲート向かって左にあるピクニックエリアに行けばよいし、ディズニーランドの食べ物が気に入らなければパーク外に出て、たとえばエクスピアリや周辺のホテルで食事をしても良いのだ(パスポートは一日有効で、パークを何回でも出入り可能)。
ところが、このコンセプトは見事に無視されている。ベンチで弁当を広げているのはまだ理解できる。このコンセプトを知らないからと考えればよいからだ(まあ、そうでない場合が多いように見受けたが。この連中の多くが年パスを所持していた)。問題はレストランでこれを平気でやっているゲストが存在することだ。
ウエスタンランド、ビッグサンダーマウンテン横にあるレストラン、ラッキーナゲット・カフェ。ここは屋根付きと青天井からなる客席で構成され、横にアメリカ川を眺めながら食事ができ、ちょっとしたピクニック気分が味わえるのだが、ここにくだんの客を見つけることが出来た。夫婦と赤ん坊の三人からなる家族。ランチバッグを広げると中からはおにぎり。さらにタッパーウェアからこれまた定番のソーセージや玉子、そして水筒からお茶。つまりフルセットをこのテーブルで広げている。ちなみにレストランの食べ物は一切購入していない。
そこにキャスト=従業員がやってきた。もちろんキャストは持ち込みが禁止であることは知っている。というか、日本以外のアジア諸国じゃないんだから、レストランに持ち込みはやらないのが常識だ。そして、ディズニーランドでは前述したようにコンセプト的な側面からもこれを禁止している。で、当然のことながらキャストはこのゲストに、ここでは持ち込みでの食事が禁止されている旨を伝えたのだが……なんと、この夫婦はキャストを完全に無視し、食事を続けたのだ。それどころか顔には「うっせーんだよ~」的な表情が。つまり完全な確信犯。キャストは困惑した顔で、仕方なくその場を去っていったが、このゲストはその後も延々、そして堂々とここで持参のランチで食事を続けたのだった。(続く)

まずiPodをメディアの一つと冷静に捉えること

前回、iPodの自己/主体性構築の可能性を、iPodの機能それ自体ではなく、iPodが開くコミュニケーションの視点から考えてみた。つまり、iPodを他者との関係性をつなぐツールと見なすことで、これが社会的自己の構築に寄与するといったことを指摘した。これについてさらに加えておけば、この場合には自己というものは近代的個人がメディアと自己意識的に対峙するのではなく、無意識に関わり合うことで、つまり身体に直接働きかけられる形で涵養される。言い換えればそのメディア性が意識ではなく身体から忍び込んでくることも触れておいた。

ただし、である。これだけの議論では、まだ不足するところがある。ここまでの議論で論考を閉じてしまえば、もう一つの前提である「重層決定」が抜け落ちてしまうからだ。つまり、これだけではiPodというメディアだけで自己/主体性を構築するという議論から脱却できていないからだ。では、さらにどう考えるか。

電子メディアが開くコミュニケーション・スタイル

ラジオ、テレビ、ケータイ、インターネット……これらメディアがなぜ一般の支持を得たのかは、ここまで展開してきたコミュニケーション性に焦点を当てるとわかりやすい。共同体が崩壊し、さらにプラバタイゼーションが進行するに従って、人々はかつてのようにコミュニケーションの地平を開くシチュエーションを持ちづらくなってしまった。というのも、かつてコミュニケーションのネタとなったのは近隣の人間のうわさ話だったからだ。個人的生活が重視されて近隣の噂は入手しづらくなり、また、近隣の人間がいたとしてもこれをコミュニケーションのネタにすることはプライバシーに抵触する。だから、これらをネタにすることは出来ない。そこで、この代替を果たす電子メディアが重宝がられたというわけだ。メディアは我我一般の多くがアクセスし、しかもそこに登場する人物や事項は自分とは直接関わりのないメディア越しの事象。だからどれだけ噂を使用と、悪口を言おうとこちら側のプライバシーに関わることはない。

つまり、われわれはリアルな共同体を社会:世間として、それを映し鏡に自己を構築するというスタイルから、ヴァーチャルなメディアが提供する想像の共同体を社会:世間として自己構築するというスタイルへ変更することで、共同体の崩壊とプラバタイゼーションの進行によって得られなくなったコミュニケーションの契機を再び獲得した。そして、われわれはこれらメディアを媒介として自己を構築するようになった(恐らく、この中でもっとも強力なメディアはテレビだろう)。言うまでもなくiPodもまた、こういったメディアの一つとして位置づけられるだろう。

iPodというメディアの独自性は?

ただし、である。iPodが支持されたと言うことは、上記のコミュニケーション・メディアとしての特性の他にもiPod独自のメディア性がなければならない。言うならば自己構築のためのメディアとして、他のメディアが備えていない機能を有していたがためにiPodは普及したと考えるべきだからだ。つまり、他のメディアとの関わりで、どのような形でiPodのメディア性が重層決定されているのか?
これについては、ちょいとまだ議論するのは時期尚早、というか現状の僕の力量の範囲外にあるので論考を避けておく(アイデアはあるのだが、中途半端なので)。皆さんも、考えてみてください、とサジを投げてiPodの考察はひとまず終了しようと思う。

ただし、このとき「そのメディア性が理性ではなく、身体から忍び込む」ということだけは、間違いないとだけは指摘しておきたい。これまでのメディアのメディア性がすべてそうであったように……。

ものぐさユーザーはどうやって自己を形成するか

さて、本ブログ「iPodの使われ方」で常に貴重としているのは1.ものぐさーザー、2.重層決定の二つ。今度はこれを堅持しつつ、iPodを媒介にどうやって自己が形成されるか考えてみよう。

まずものぐさユーザーとiPodの関わり方についておさらい。彼らはiPodが備えている機能をほとんど使用することなく、CDをパソコンに挿入し、これをコピーすることに専念する。で、このとき重要なのが著作権法違反だ。つまりレンタル店か友人のCDを借りてきて、これをコピーする。このうち、自己形成にあずかるのはまず友人とのCDの貸借だ。友人からCDを借りるということは、当然、自分も相手にCDを貸すことが前提される。そしてCDのコンテンツ=曲がその友人と共有されると言うことでもある。ということは、貸借によってコミュニケーションが発生するとともに、コンテンツを共有することによっても、それを話題にコミュニケーションが発生する。言い換えるとiPodという電子メディアは、アップルのねらい(あくまでも名目上だが)とは違い、ヴァーチャルではなくCDというリアル=物理的媒体を媒介にリアルなコミュニケーションを可能にするメディアと言うことになる。

さて、この現象を分析するために、ちょっと「自己」という概念について説明しておこう。自己とは対象化=他者化された自分のイメージだが、この自己を自分であると同定することを自己同一性、つまりアイデンティティという。そして自己が自己として受け入れられるためには単に個人がイメージ化した自分=自己を受け入れるだけではダメで、その受け入れが社会的に是認される必要がある。言い換えると、社会内で適応できる自己である必要がある。そして、こういった自己が社会性を備えていく過程を社会学では「社会化」と呼んでいる。

で、この社会化を促すわれわれの人間的営為がコミュニケーションに他ならない。コミュニケーションによって他者の様子を知り、それと同一化しつつも差異化することで、社会内存在としての自己が構築されるのだ。

ということは、iPodはこういった自己形成のための十分条件である社会化の機能を果たしていると言うことになるだろう。つまり、友人とのCD貸借、そして音楽の共有というコミュニケーションが他者を知り、それを立ち位置に自分の方向性を決めるための糸口となる。そして、このプロセスは近代的個人の求道的な態度と言うよりも、なーんちゃっての消費的行動の中で無意識のうちに進行するのだ。そしjて、このときiPodは世間をみる覗き窓の役割を果たしている。ただし……(続く)

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