" (テーマ性を失ったフロートと、セットが何もないショー) "
ニーズに応えた東京ディズニーランド
こんなヘンテコリンなかたちで東京ディズニーランド(以下TDL)をカジュアルに使い倒し、物語を無視、あるいは持たない、そしててんでバラバラに行動する俺様化したゲストたち。ところが、TDLは盛況でこの不況時にも年間入場者記録を軽く突破する勢い。なぜか?それは、意識的か無意識かはわからないがTDLがこのディズニーオタクたちに対応したからだ。具体的には細分化した個別のニーズに徹底的に配慮したのである。それは言い換えれば物語を省略するというやり方でもあったのだが。25周年を記念して開催されたパレードのジュビレーション。このパレードはこれまでのものとは全くと言っていいほど異なった構成によるものだった。これまでパレードの多くはフロートごとにテーマが設定されていた。というより作品ごとのフロートというパターンだった。つまりスノーホワイトが乗るフロートなら七人の小人もそこに同乗する。そしてフロートが映画・白雪姫をあしらったものになっているというパターンだ。
ところがジュビレーションは違う。とにかくてんでバラバラでわけのわからないフロートがひたすら登場するのだ。たとえば鯨のフロート。これはピノキオがテーマのはず。当然ピノキオとジムニークリケットが同乗し、その前をストロンボリ劇団の人形が練り歩くところまではいい。ところがこのフロートはダンボも同乗しているのだ。これをつなぐ接点は鯨の真ん中に用意されたトレジャーアイランドのジェットコースターとメリーゴーランドだ。これがダンボに登場するケイシーサーカス・トレインを彷彿とさせるようになっている。で、さらにその後ろに連結されているフロートはファンタジアのフロート。これはなんのことはない「象つながり」、つまりダンボとファンタジアの「時の踊り」の中に登場する象だけが接点なのだ。いやいや、このフロートはよく見ると後ろの方に三匹の子豚がいるではないか。もうこうなると単なる動物つながりでしかなくなってくる。で後ろに続くダンサーたちは今度はピエロ。これはダンボに戻ったと言うことなのだろうか?とにかくミクロな形で関連性はあるのだがフロート全体としてのテーマは完全に破壊されている。
また同時期にキャッスル前で開催されていたショー、マジック・ウイズイン(だっけな?すいません。後で確認します)も同様だ。とにかく一つの鍵をめぐってなんの脈絡もなくキャラクターが登場する。しかも物語的な背景を背負っていないキャラ立ちの状態で。とにかくキャラクターやダンサーが次々と登場し、物語のないダンスをし、入れ替わるというかたちでショーは展開される。かろうじて子供を狂言回しとして出ずっぱりにすることでこれをつないでいる状態。ちなみに、これらを演出する仕掛けはほとんどないという「お金をかけないショー」でもあった。さすがに、これには僕もあきれてしまった「二十五年間のキャッスル前で行われたショーの中で、これは最低のもの。しかもダントツで」思わず僕はため息を漏らした。
しかし、これ、実は見事な送り手=ディズニー側の対応と考えれば合点がいく。「萌え萌えゲスト」にとって、自分が入れ込むキャラクター以外はすべてディズニー的イメージを醸し出す添え物でしかない。しかも、ゲストたちが入れ込むキャラクタはバラバラ。だったらいちいち物語りレベルでシーンを設定すれば、その物語の中に感情移入させられる必要が出てくるわけで、キャラ萌えしたい側からすればそれはうざったいノイズになる。だったら、いっそのことテーマや物語は希薄にして、そこにキャラ立ち可能なようにキャラを配置すればいいのだ。意識的か無意識的かはわからないが、ディズニー側は確実にこういった演出を行っている(とりわけ21世紀に入ってから、あるいはディズニーシーがオープンしてからのTDLはこの傾向が著しい)。
で、パレードやショーに、細分化した嗜好を持ったディズニーオタクたちが各自バラバラに萌える。そうすると……見事に利害は一致し、入場者は増加するのである。
で、パレードやショーに、細分化した嗜好を持ったディズニーオタクたちが各自バラバラに萌える。そうすると……見事に利害は一致し、入場者は増加するのである。
もうここにはディズニーのコンセプトなどというものはとっくに消えているのだ。TDLは当初、ウォルトの理念を踏襲して作られた環境だったが、次第に日本文化にローカライズされたあげく、オタクランドとして完成を見たのである。そしてこのローカライズの基調となったのが徹底した細分化と物語の消去なのであった。もうここにウォルトはいない。だからここはウォルト・ディズニーの描いた国、つまりディズニーランドではない。「ディズキャラ萌え萌えランド」なのである。