勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年04月

ディズニー版ピーターパンのあらすじを確認

ディズニーを代表するアニメ作品の一つ、そしてもっとも人気のある作品の一つピーターパン(ディズニーランドにあるアトラクション「ピーターパン空の旅」は、世界中のどこのパークでも抜群の人気を誇る(なぜFast Passにしないんだろう?)。サブキャラのティンカーベルもアメリカの子供なら誰でも知っているほど。こどもたちはディズニーランドやテレビ/映画でティンクが登場すると、決まったように手を挙げて指さしながら「ティンカーベル!(「ティン」のところにアクセントがある)と叫ぶのだ)を徹底分析するにあたって、まずそのあらすじをチョー簡単に確認しておこう。ピーターパンはだいたいこんな感じの話になる。

ある日、ひょんなことから「大人になれ!」(=子供部屋から一人部屋に移る)と父親に命じられたロンドンにあるダーリング家の長女ウエンディ。そこにピーターパンがやってきて、ずっと子供のままでいられる島・ネバーランド(存在しない島)にウエンディを連れて行く。ネバーランドでは、ウエンディは冒険やフック船長たち海賊との対決を経験するが、それによってむしろ大人になることを決心。再びロンドンに戻っていく。

この映画の謎

さて、この作品。腑に落ちないところがいくつかある。なんでなの?という展開なのだが、実は、これこそがこの作品の謎解きの部分でもある。
で、謎を列挙してみると……

1.大人になりたくなかったウエンディが、ずっと子供のままでいられるネバーランドへ行ったら大人になることを決心してしまったこと。

2.ママ(メアリー)の不可解な行動?ママはネバーランドやピーターパンをどう位置づけているのか?

3.ピーターパンなど全く信じていないと思われていたパパ=ダーリング氏がラストシーンでピーターパンが乗ってきた船の存在を認めてしまったこと。

4.子守の犬NANAが子守をやめさせられたこと。

5.ピーターパンがロンドンへやってきた理由。表向きの理由は自分の”影”を探しに来たのだが。

6.ピーターパンにとっての”影”の意味

7.ジョン(ウエンディの弟)はネバーランドでキャプテンを命じられるが、簡単にインディアンに捕まってしまう。なぜ?

8.一緒にロンドンまで来て、ママに会おうとしたロスト・ボーイズはなぜ、ママに会うことなくネバーランドに戻ってしまったのか。

9.フック船長はなぜ海賊として航海に出ないのか。

10.フック船長はなぜピーターを仇敵としてネバーランドで対決し続けるのか。

11.フック船長はなぜ時計ワニが嫌いなのか。これまた表向きは自分の左手を喰われたからなのだが……

12.フックに空を飛ぶなと言われ、それを約束。そして窮地に立たされたピーターだが、ウエンディに「飛んで」と言われても、決して飛ぶことはなかった。ピーター曰く「約束は破れない」。この言葉の意味するものは?

13.ピーターはなぜ最後にウエンディをロンドンに帰すことを快く引き受けたのか。

14.ピーターの役割とは?

15.何度か登場する時計は何を意味しているのか。

16.この話は本当の話なのか?それとも単なるウエンディの夢なのか?

17.空を飛ぶという行為が意味するもの。

というわけで、これら謎を説いていく形で次回以降分析を展開していきたい。

評判の悪いディズニー化(Disneyfication)という手法

ディズニーアニメ、ディズニー作品を特徴づける言葉に「ディズニー化」ということばがある。これは A.ブライマンによれば「文化や歴史の無菌化プロセス」「ある対象を表面的なもの、または単純すぎるとさえいえるものに変容させること」と定義されている。かみ砕いて言えば、たとえばディズニー版シンデレラのように、いつか王子様がやってきてハッピーエンドになるというように原作を作り替えて、毒気をことごとく抜いてしまう作業を指している。(原作の「灰かぶり」(「シンデレラ」とは「灰かぶり」=灰を布団に暮らした女という意味)や「サンドリヨン」の場合には、もっとおどろおどろしい話がある(たとえば姉二人が鳩に目つぶしされたり、靴に合うように脚を切り落とされたりなど))。また、キャラクターを極端に単純化したり、ストーリーから性的な描写を削除してしまうといった手法もこの一つ。これらのディズニー化によって、ディズニーの作品は一目で判別がつくようになっている。

もちろん、こういった過度の単純化と無菌化はしばしば批判の対象となる。いわく「現実を見ようとしない」「きれいごとの世界」というふうに。しかも、ディズニー自体が大きな力を持っているので、ディズニーによって制作されたおとぎ話は、結果としてオリジナルよりもポピュラーになり、そちらがオリジナルになってしまうことも批判される一つだ(「リトルマーメイド」「美女と野獣」のオリジナルバージョンなんてとっくに忘れ去られているんじゃないんだろうか。前者のオリジナルではリトルマーメイド、つまり人魚姫は最後には泡になって消えてしまうのだが……)
※ちなみにディズニー化はDisneyficationとDisneyizationの二つがある。後者は世界がテーマパーク化していくことを指しており、本ブログで頻繁に取り上げてきたものだ。

単なるディズニー化(Disneyfication)ではない、ディズニー版、ピーターパン

ディズニー版「ピーターパン」 (1953)も、他のディズニー作品同様、ディズニー化が施されている。たとえばフック船長を単なる悪者にしたり、性的な部分の描写を外したり(女性陣の葛藤、とりわけウエンディとティンカーベルについての描写は作品の中では結構曖昧だ)。しかし、この作品はそのディズニー化というカスタマイズによって原作とは少々違ったテイストをつくりあげ、それが異なるメッセージへと昇華されている点が他の作品群とは異なっている。つまりディズニー化を単に悪しきこととのみ評価するのではなく、ピーターパンのように見事に別の文学作品として評価できるレベルにまで達すると言う側面もあると考えるならば、これは成功している希有な一例といえるだろう。

実は、僕がこのピーターパンを見た回数は尋常ではない。優に百回は超えている。最初は子供の頃に見たのだが、ハッキリいってこの頃はそのメッセージが全くわからなかった。覚えているのは時計ワニの上でダンス?をするフック船長のシーンだけ。ところが二十歳過ぎて、たまたま、この作品に遭遇した時(1982年12月24日。東京ディズニーランドのオープンのプロモーションとして日本テレビで放映されたのだ。ちなみに当時ディズニーの方針で、ディズニーアニメがテレビで放映されることは一切なかった)以来、この映画の奥行きの深さに惚れ込んだ。で、何回となく見ることに。それどころか講義(=社会心理学)のネタにまですることに。

そこで、今回はこのディズニー版ピーターパンについて徹底的に分析をしてみようと思う。理論的な側面がちょこちょこでてきてややハードな内容になるかもしれないけれど、その代わり、いろいろな秘密を明らかにするので、お楽しみに。(続く)

草彅剛の今後。以外や名誉回復は早い!

じゃ、もう草彅はダメなのか。ダーティなイメージがついて、これまでの誠実な人のキャラではやっていけないのか。もちろん普通ならヤバイのだが……意外なことに起死回生の一発が彼には待っていた。それは謝罪の記者会見だ。

ノーカット記者会見が福音

そもそも記者会見すること自体がおかしい。酔っぱらいの記者会見なんて前例がないのだから。でも、やった。しかもNHKまでが。これはもちろん、抜群の視聴率が稼げるためだ。つまり、赤っ恥の男をさらし者にするショーを、「報道」というイクスキューズを使ってやってしまおうというわけ。そして記者会見は生放送で冒頭部分がノーカットで行われた。その後の民放のテレビ番組もほとんどノーカット。もちろん、さっき書いたように視聴率が稼げるのだからあたりまえなのだが……だが、このノーカット放送が、意外にも草彅には功を奏するのだ。

ノーカットと言うことは、報道側の編集が入らない。つまり報道側の意図に基づいて草彅君のイメージを構成することが出来ない(編集可能なら、場合によっては「変態」と演出することも可能なのだ)。こうなると、会見全体を仕切るのが草彅君自身と言うことになる。

草彅君がした対応は、ある意味完璧だった。表情は硬く、しかも席の側を見るか、うなだれるか、考え込む表情。質問一つ一つをかみしめるようにゆっくりと聞き、丁寧に答えていた。しかもとにかく謝って逃げるという方法をとることもなく、その説明に努めたのだ。また、返事に窮しても横の弁護士に助けを求めるような仕草をすることもなく、ひたすら考え、言葉を探し、そして感情を押し殺しながらゆっくりと説明に努めたのだ。しかもかなり理路整然と。

たとえばSMAPのメンバーに電話をしたのかという質問をされたときには
「中居君、木村君、五郎さん、慎吾」と回答しているが、これは答え方としては、そして電話のかけ方としては完全に正解だ。中居正広はリーダーだから最初にかけるのは当然として、その後のかけ方がちゃんと年齢順になっている。しかも最古の香取慎吾だけは呼び捨てなのだが、これはその前のメンバーが「君」「さん」と敬称がついているゆえ、香取を軽蔑しているのではなく、呼び捨てにすることで親密性を表している。こういった表現の仕方が完璧だったのだ。

いいわけもせず、感情を吐露することもこらえ、相手の質問に最善を尽くして回答し、ぶれない姿勢で回答するその姿は、ようするに癒し系の「まじめ」で「誠実」な「いい人」である「草彅くん」そのものだった。しかも、それを演じている風にも見えないという完璧さ。

これで、オーディエンスたちは草彅剛というタレントが、公園で全裸になったからといっても、それは酔っぱらったから仕方がない、というイメージを作ることが出来た。いいかえれば変態でもなんでもなく、フツーの人が酒を飲み過ぎておバカをやってしまったという認識を位置づけることが出来たのではなかろうか。だから、この記者会見は非難と言うよりも、多くの同情を買ったと僕は踏んでいる(ついさっき見たが、実際ネットでのアンケートは草彅への同情が圧倒的だった)。よって草彅の名誉回復は早いだろうし、いずれそのカウントダウンで盛り上がるだろう。そう、草彅剛は、ここで一世一代の大芝居、しかも芝居ではなく本音のそれ、を演じて見せたのだ。

やっぱり、タダのヨッパライが起こしたどうでもいい話でしかないんだが

もっとも、よくよく考えてみれば、くどいようだがタダの酔っぱらいがバカやっただけに過ぎない。だからここまで騒ぐのははっきり言ってやりすぎ。非難するあなたも酒を飲み過ぎてバカをやったことがあるんじゃないか、とツッコミ返せば否定できない輩も多いはずだ。

でも芸能人だから、草彅剛だから、これだけ大騒ぎになった。それは言い換えれば、マスメディアの発想が貧困であることの証左でもある。もうちょっとまともなプログラムを考えてほしいと思うのは僕だけだろうか?今週も終わりとなれば、この話はとっくに終わっている。で、振り返ってみれば、あれはいったい何だったんだ、ということになっていると僕は踏んでいる。究極の「茶番」、それを臆面もなくやってしまったメディアの無知。このへんが、次第に浮き彫りになってくるんではなかろうか。
なんだかんだいっても、草彅くんは、「普通の人」なのさ!

まるで殺人犯という扱いの草彅君

二十三日未明SMAPの草彅剛が酒に酔ったあげく、公園で全裸になり公然わいせつ罪で逮捕されたことは、センセーショナルな事件としてメディアは一斉に報道を行った。それは芸能番組という枠をはるかに飛び越え、一般のニュースでも大々的に報道されるという状態。いや、謝罪の会見に至っては NHKが夜九時のニュースをぶち抜き生中継を行ったほど。各紙もトップで報道。もちろん草彅剛という人間が芸能人でもトップレベルの人気者であることは理解できるが、それにしてもこの扱いは尋常ではない。それはさながら「殺人犯」的な扱いなのだ。何でこんな報道がなされるのだろうか?今回はこれを考えてみたい。

この事件の事実関係をまず押さえると

まずこの事件(騒ぎ?)の骨格を押さえておこう。つまり、この事件が草彅剛というタレントではなく、一般の人間が行った行為として考えてみる。

夜中泥酔したあげく、記憶を失い、おそらく自宅と勘違いするような状況で全裸になった。そこに警察がやってきて保護しようとしたら抵抗した。そこで、全裸なのを理由に公然わいせつ罪のかどで逮捕に至った。

一般的にこういったことが発生したときに警察側はどのように扱うだろうか。まず、よっぽどのことがない限り、逮捕には至らないだろう。ようするに「酔っぱらい」。前後不覚に陥っているわけで犯罪性は一切ない。だから、多少抵抗したところでも押さえつけ「保護」という形で署に連行し、一晩留置し(トラ箱に)、酔いが覚めたところで調書を取って、説教して終わりである。しつこいようだがたかが「酔っぱらい」。こんなアホなことは平気でやるなんてのは十分想定できるはずだからだ。つまり、行為としてはまったくもってどうでもいいこと。そして、一般人でも場合によっては起こしてしまいそうなこと。さらに珍事件ではあるが犯罪と言うにはちょっとお粗末すぎる内容でもある。

どうでもいい事件に次々と尾ひれがつく

ところがこれにいろんな文脈がついてくると話は変わってくる。まず、ことの始まりは空気を読めない警察が草彅を「公然わいせつ罪」で逮捕してしまったこと。全裸になったのだから理屈の上では正しいのだが、はっきりいってこの辺は「酔っぱらい」ということを踏まえなければいけない。通常はその場での情状酌量が行われ、こんな罪状がつけられることは、まずない。

ところが、そうはしなかった。そして「わいせつ」という性的にあやしいイメージがこれに付与された。つまり、ややもするとこの人物は変態ではないのか?という懸念だ(おそらく、そんなことはまず間違いなくないのだろうが、そういうふうな勘ぐりをしたくなるし、すれば話はおもしろくなると言う「野次馬」性もある)。

で、この公然わいせつ罪をやったのがタレントである、しかもかなりセレブな。こうなると騒ぎとしてはより大きく扱うとおもしろい。だから大きく報道しようとした。

草彅だから話が大きくなる

さらに、これにもう一つ、それをやったのが「草彅剛」であるということが重要だ。たとえば同じSMAPの中居正広がやったとしたら、これほどまで大騒ぎにはならないだろう。中居はやんちゃ坊主なキャラクターという位置づけがなされている。だから「おバカが過ぎた」という文脈で語られるだろう。

ところがこれが草彅だとまるっきしイメージが変わってくる。彼のイメージは「いい人」「まじめ」「誠実」であり、こういった「変態的なイメージを彷彿とさせる行動」をとる人間から一番遠いところにいる存在に思えるからだ。メディアで使い古された言葉に「犬が人をかんでも事件にはならないが、人が犬をかめば事件になる」というものがあるが、草彅の場合にはこれがぴったりと当てはまる。逆に言えば、この報道を知らされた側は「なんで、あの草彅君が?」とイマジネーションが喚起されるわけだ。そして、絶対やりそうもない人間がやった場合には、解釈も極端のものに変わっていく。つまりこの隙間を埋めるために出てくる解釈は「実は、彼は変態ではないのか?」

こういった要素が積み重なって、たかが酔っぱらいの騒動が、さながら殺人事件、テロごときの大々的な報道となってしまったというわけだ。そう、だからさながら草彅剛は「殺人犯」、イヤそれ以上の扱いをされてしまったのである。これで草彅剛はもう終わり?(続く)

外食産業の歴史になぞらえると……大食堂が復活した?

2008年12月10日から8回に渡り「食と情報」というタイトルでブログを連載したが、最後に、ここで展開されたレストランの歴史になぞらえながらTDLの現在の状況を説明してみよう。
このブログではかつてデパート最上階にあった大食堂がお好み食堂やファミレス化し、さらにディズニー化したことを指摘しておいた。つまり、食に対する嗜好の多様化に従って、ごった煮的な大食堂は個別化したニーズに対応できないため姿を消し、それが最上階のお好み食堂(大食堂を細分化したもの)や国道沿いのファミレスに変化した。さらに、一層、嗜好が多様化することで今度はレストランがテーマパーク化していったと述べておいた。

さて、現在のTDLだが、僕はこの延長線上に現在の姿があると考えている。それはごった煮である大食堂の復活、逆戻りである。ただし、大食堂はべらぼうに大きな巨大食堂と化し、メニューも数万品に及んでいるというのが、全く違うところなのだが。

このメタファーは、つまりこういうことだ。TDLには、メニュー、つまりキャラなどの「萌え要素」が膨大にあり、それぞれの好みに応じてそれを選ぶことが出来るようになっている。しかも家族総出でやってきて、かつそれぞれのお好みが違っても大丈夫。それらすべてを品揃えしているのがTDLという空間なのだから。そして、もちろんそこには「巨大食堂」というメタ的な、物語ともいえないような包括的な物語=データベースがあるに過ぎない。ゲストたちは空間を共有しながらも、各自がバラバラにTDLを楽しむことが出来るのである。それでいて一つのテーブル=ディズニーランドを囲んでいるのだから、ディズニーのコンセプトであるファミリー・エンターテインメントはしっかり踏襲されている。みんなバラバラでも連帯しているという状況が作られているのだ。

当然ここには、25年前には存在した物語は、もう、ない。こういったポストモダンの最先端の環境こそがTDLであり、そこにやってくるのがこれまたポストモダンの最先端に位置する俺様化するゲストたちだったというわけだ。そこでゲストは思い思いにその欲望を満たすのだ。反面、他人のことなど、そしてもちろんディズニー世界のことなど、お構いなしである。

TDLは僕にとってはもはやディズニーランドではない

さて、最後に個人的なツッコミを一言。僕はこんなディズニーランドはまっぴらごめんである。そこには物語の重層性なんてのは一切ないし、歴史や文化の積層が放つアウラも存在しない。関連性のないべらぼうな情報からなる、のっぺりとしたモザイク的データベースがあるだけだからだ。

90年代から続けられているエレクトリカルパレード・ドリームライツは、かつてのこの物語=ナラティブを踏襲したパレードで(フロートごとに物語が設定されている)、これを見るとホッとするが、反面、もはやTDLのこのポストモダン状況からすると古びていて、違和感すら感じてしまう。僕にとってはホッとするものだけれど、ポストモダンの俺様ゲストには「おしつけがましいもの」、つまりノイズにしか見えないのではないか。

皆さん、ウォルトをディズニーの世界をみたいと思ってTDLに出かけても、そこでその世界を見ることは出来ません。そこはTDLという萌え萌えオタクランド。現代の情報化社会に生きる日本人にぴったりの亜空間なのです。だから、こういった期待を決して抱かないこと。

じゃあディズニーの世界を見たければどうすればいいのか。カンタンです。アメリカ・アナハイムの本家ディズニーランドに行けばよいのです。あそこは徹底した物語と歴史、文化が積層された世界。ウォルトがちゃんと、あそこでは生きていますよ。

↑このページのトップヘ