勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年03月

ゼミ選びは教員の性格を見抜け

では、次にゼミはどうやって選ぶか。で、その際ポイントとなるのが前回取り上げた講義だ。講義はあたりまえだが、その講義を受けることで研究分野の概要がわかるので、専攻する際の目安になるが、もっと重要なのはその講義を担当する教員の質を吟味できるということだ。わかりやすい授業をやっている、カリキュラムがしっかりしている、学生の反応をフィードバックしている、この辺をしっかりチェックする必要がある。で、下手すると専攻分野よりもこっちの吟味の方が重要といってもいい場合が多い。言いかえるといい加減な授業をやっている教員は、おおむねゼミもまたいい加減。わけのわからない授業をやっているなんてのは問答無用なのだ。

教員のタイプは大別して四つ。1.全く何もやらない、2.研究に熱心で教育はどうでもいい、3.教育は熱心だが研究はやらない、4.教育も研究も熱心にやる。楽したければ当然1だが、一生懸命やりたければ絶対に4だ。2は1と同様ほったらかしだし、3はいいように見えるが、時にネタが古くて使えないということも。でも本人はそのことに気付かず一生懸命指導するので、やりたくもないことをやらされることになり、うんざりすることも多い(ただただ単に人がいいという場合はこれには当たらないが)。4の場合は自分の研究内容を頻繁にフィードバックしてくれるというか、ほっといても新ネタをしゃべり続けるので、聞いている学生の側も刺激されてハマる。で、よく考えるとこういった教員は研究と教育を分けていない。同じことの二側面でしかないのだ。その同じこととは研究を遊びとか人生とかにしていて、インプットが研究、アウトプットの一つが教育になっていること。東大の上野千鶴子などはその典型で、あのアグレッシブな研究活動の背後で教え子(院生だけど)をバシバシ鍛えているというスーパーぶりを発揮しているという。ちなみに、このブログで前回に挙げた、僕が学部時代、その講義に感銘した法政大学の船橋晴俊教授も同じで、ゼミ生、院生には徹底した教育を施している(だから法政社会学部では、このゼミから多くの研究者が輩出されているのだが)。

講義がうまいのは当然3と4。二つの違いを見極めるのは、講義内容に対する情熱の持ち方の違いあたりだろう。教えるのに一生懸命なのか、内容を語るのに一生懸命なのか。語学的な学習スキル(処理系)を学ぶなら前者、思考をめぐらすような学習スキルを学ぶなら後者となる。で、最終的に狙うのは、やっぱり4だ。(続く)

大学のまっとうなシステムをちゃんと利用する方法

さて、前回は、いきなり「けたぐり」みたいな、大学の「ふざけた」利用方法を紹介した。大学教員の僕が、こういう利用法から紹介しているのは、やっぱり「ふざけている」ということに思えるかもしれない。しかし、これが一番簡単で効率的だから、そして大多数の学生が利用する方法だから、先ず紹介しただけ。何かを説明、紹介する場合、一番簡単なものとか、いちばん典型的なものからやるのが当たり前なので、そのルールに従っただけだ。

で、今回は、大学を教育、研究機関と見なした場合の「まっとう」な利用方法を紹介したい。つまり、ここまで紹介してきた大学教育のシステムをフル活用して、専攻分野のスキルを身につける方法だ。言いかえると、講義内容を確実に修得し、ゼミの三本柱(購読、フィールドワーク、卒論)を着実にこなす方法だ。これは前回にも書いたけれど、地方の国公立大、それから小規模の私大でやりやすい方法だ。少人数であること。そして地方の大学の場合、大学の周辺に学生たちは住まう(徒歩かチャリで通える程度)ので、大学と学生が密着できるからだ(とはいっても、もう大学決まってるから、いまさら遅いか?)。

講義選びはピンポイントで

大学の講義でスキルアップを図ると考えるのなら、何でもかんでも成績はA=優にするというのは、ハッキリ言ってマヌケだ。スキルアップは「量」ではなくて「質」。ただ形式的に優秀な成績を収めたとしても全く意味はない。そうではなくて、自分が必要と考えた講義に徹底的にエネルギーを傾斜させるべきだ。その方がスキルは着実に身に付く。とにかく「これ」と決めたものはA=優ではなくS=秀を目指すべき。

問題は、じゃあ、どれを「これ」と決めるのか、だ。これは二つのポイントがある「好きな科目、面白そうな科目」と「教員がまっとうな講義をやっていそうな科目」だ。前者はとにかく自分の関心のあるものでよいが、その際、やっぱり、この講義がまともに行われているかどうかをチェックすべき。たとえば「社会心理学」が面白そうだったとしても、教員がイイカゲンだったら全く意味はない。後者はつまらなくても「まっとう」であれば登録しておいてもよい。学問的には関心外だったとしても、その教員の提示するアカデミズムのスタイルが十分、学習の対象となるからだ。つまりここで学ぶのは、学問の「内容」ではなく「形式」だ。僕は法政社会学部出身で、大学時代「社会計画論」という講義を受講していた。ちなみに、この授業科目は僕の完全な関心対象外だ。ところが、この講義が実にアカデミックで面白い。船橋晴俊教授(当時は助教授)が担当していたもので、とにかくきちんとしたカリキュラムに基づいて理路整然と体系だてられた講義はすばらしいの一言。しかも、その講義を教員自身が夢を語るように講義する。「学問ってのはこういうもんなんだ」と惚れ込んだが、これが僕が研究の道に入るきっかけの一つになったことは間違いない。

これらを選択する際、やっぱり事前の情報収集は欠かせない。ということは、徹底的にナンパレベルで授業を利用するコースと同様、やはり部・サークルに所属し、クラスメートと頻繁にコミュニケーションをとり情報収集に努める必要がある。違うのは、自分が試験対策用のノートを作成する数が増えるということ。つまり、ナンパレベルで授業を利用するクラスメートに情報を提供してあげることだ。こうすることで、他の学生からは重宝がられるし、他の学生が解るようなノートにしなければならないという要請が働くから、その理解度も高まろうというもの。つまり、人に情報を提供することで、講義の知識レベルを上げてしまおうというわけだ。当然、結果される成績はS=秀となるはずだ。ではゼミ選びはどうするか?(続く)

大学利用術実践編

それじゃあ、こんなに体たらくな教育を施す大学をどう利用すべきか考えてみよう。ただし、ここでは、どんなかたちであれ大学を効率的に活用しようと考える学生を対象に考えてみたい。つまり大学生活をアグレッシブに過ごそうとする人間が対象。いいかえれば、ハンパな感覚しか持ち得ない人間には、このあと僕が展開する内容は、ほとんど何の意味もないことになるので、読まない方が時間の無駄にならなくていい。

ちなみに、前回示したおいた、本来の学習を提供してくれる可能性のある大学は地方の国公立大に多いとだけは、言っておこう。国公立は私立に比べると教員一人あたりの学生数が圧倒的少ないからだ。一方、中央の私大、とりわけ大手のそれは、前回書いたような、完全に何もしてくれない大学になる。たとえば早稲田、明治、法政なんてところは、本当にイイカゲンだ(まあ、これはこれで利用方法もある(後述))。

お手軽利用コース。「学生ほったらかし教育」を逆手にとる

先ず、いちばん手っ取り早いのは、大学を「腰掛け」としてしか見ないという方法。どうせ何にもやってくれないんなら、でも大卒の資格をくれるんなら、適当にやって単位とそこそこの成績だけはもらってしまい、エネルギーを学業以外のことに投入するというやり方だ。こう考えると大学のカリキュラムのいい加減さはむしろ福音となる。このいい加減さを逆手にとればいいんだから。

人脈活かして、単位を楽勝ゲット

こう考えるキミは、大学に入ったら部かサークルに入ろう。そこそこ規模が大きくて、なおかつナンパで活動がラクなやつがいい。また、大学には語学の授業を軸としてクラスが作られることが多いが、ここでもコンパを開催したりするので、これには積極的に参加する。そして語学の授業はなるべく顔を出す。これは、授業をマジメにやるということではない。ラクして単位を取るための情報を得るためだ。ようするに部・サークルであれクラスであれ人脈をキッチリと作るのが目的だ。

部・サークルには先輩がいる。彼らは当然のことながら、どの授業が単位が取りやすいとか、楽だとか、出席をとるだとかという情報を持っている。これをしっかりとゲットするわけだ。ついでに言うと、教科書のお古をいただけるというオマケも付く。一方、クラスの方での人脈作成のいちばんの目的は語学授業対策。これは先輩からは得られない情報。で、クラスではマジメなヤツがしっかりノートをとっている。このノートをコピーさせてもらうためだ。また、クラスメートも部・サークルに所属しているので、その連中の所属するところから単位対策情報を効率的にゲットできる。

但し、これをあまりにあからさまにやると、当然のことながら「セコイやつ」と煙たがられることは必至。だから、ちゃんと見返りを用意しておくことも大切だ。たとえば、宴会係を買って出るとか、自分の好きな科目一つだけは、ちゃんと出席し、クラスメートにノートや対策などの情報を流す。何ごともギブアンドテイクの状況を作り出し、フレンドリーにやらないといけない(互助感覚ね)。で、こういうのって、実は大切な社会勉強なんだよね。

楽勝ゼミを選択

ゼミもいちばんいい加減そうなのを選ぶ。ちょくちょく休講する、卒論がないなんてのはもってこい。無駄な時間を割く必要もない。教員とはよろしくやっていれば、よい成績が自動的にやってくる。むこうも適当にすませたい、こっちも適当にすませたいということで、利害が一致しているからWin-Win関係を結ぶことができる。

こうすることで、最小の努力で最大の効果、つまり授業を適当にやりながらそこそこの成績をゲットできる(こういうスキルの獲得も、やっぱり重要な社会勉強のひとつだ)。で、ありあまった四年間の時間を精力的に別のことに割り当てる。バイトや部・サークル活動に徹底して社会人のシミュレーションをやるとか、ナンパでもなんでもとにかく遊びまくってコミュニケーション能力を養うとか(これが本当のコミュニケーション能力の養成だ。英会話学ぶなんてのはコミュニケーション能力の養成でもなんでもないよ)、あるいはダブル・スクールでなんかの専門学校に行くとか、長期の海外旅行に出かけるとか。でもって、三年から始まる就職活動に全力投球するとか。

ちなみに、この方法を活用する際のベストの大学は、私立の大手私大、しかも学生数が一万人以上のところだ。とにかくイイカゲンなんだから。

う~ん、これって、実に効率的な大学の有効活用方法といえないだろうか。(続く)

ゼミの現状

ゼミは大学生活いちばんの財産。集約的なスキルを身につけることができる。

しかしそれは、あくまで「本来あるべきもの」でしかない。ほとんどのゼミの実態は、実は、ここからはかなり遠いところにあるといっても過言ではないのだ。

ゼミの活動の三本柱である文献購読とグループワーク、そして卒業論文。これをまともに全てこなそうと思ったら、どう考えてもかなりの時間がかかることになる。しかし、実際にゼミ時間として用意されているのは一週間に一コマ。つまり90分一回きり。これでは事実上不可能。だから、まともに教育しようとする先生は、完全に時間が「手出し」となる。授業時間以外にサブゼミと称して別の授業を組んだり、夏休み中にグループワークをやったりする。

もっとも、手出しといっても大学教員は勤務労働制、つまりタイムカードで労働時間を計測しているのではなく、みなし労働制、つまり大学に来ようが来まいが、研究をしようがしまいが、教育をしようがしまいが、一日八時間労働したこととみなされている。当然、一日八時間以下の労働でも給料を差し引かれることもないし、また八時間以上働いても残業手当が付くわけではない。これは研究者という特殊な職業ゆえの配慮(研究者というのは常に研究、つまり仕事をしているという捉え方)なのだが、このことが教育者という職業役割にも該当させられている。

一週間に90分だけゼミを開いて、あとはさようなら、また来週

で、教育なんか面倒くさいという教員は、このみなし労働制を勤務労働制と逆に「みなし」、最低限の指導しかしないことを正当化する。つまり一週間一回90分、年間で16~30回のゼミというオブリゲーションだけを行い、あとはゼミ生とは一切関わらないというやり方だ。実際、このスタイルを採用する教員、あるいはそれに近い教員(一泊二日程度の合宿を年一回程度行う)は、大多数になるだろう。

こうなると三本柱のひとつになっているフィールドワークはなし、ということになる。時間的制約が多いため、どう考えたってできるわけがないからだ。で、残りの二つをこの時間枠の中で消化する。どうやって?3年次(専門ゼミは、たいていの大学では3年次より開始される)は文献購読、4年次は卒業論文作成というスタイルで。ということは、どうみても読み込める文献は年間1~2冊程度(3年次のみ)。卒業論文は原則個人指導とすれば、四年生のゼミは開講しなくてもいいことになる。教員にとって4年のゼミは、まさに「みなしゼミ」。もっとも、これは就職活動に忙しい四年生にとっても好都合ということになるのだが……

もう、おわかりだろう。大学での勉強の中心となるはずのゼミが、これではほとんど機能しないと言うことが。いやいや、さらにひどいのもある。それは「卒論なし」というゼミも結構あるということだ。

と、かなり悲惨な大学の現状をご紹介しておいたが、これが偽りなき現実だ。じゃあ、有能な社会人となるため、大学で右脳と左脳を鍛えるには、これをどう利用すべきなのだろうか?(続く)

大学のイイカゲン教育の実態を把握しておこう!(2)ゼミ編

次にゼミ。ゼミというのは少人数編成の授業のこと。教員と学生が直接、インタラクティブに関わり合う中で、専門的知識を学んでいくという、大学教育ならではのシステム。たとえば僕ならばメディア論なので、この分野の知識について学生に対してインテンシブに知識や技術などのスキルを提供していくということになる。

ゼミでやることは?

具体的なカリキュラムとしては、まず専門文献の購読がある。専門分野の概説書や入門書、あるいは理論書といったものを輪読(=ゼミ生全員で読む)するのだが、この時一般にはレジュメ(=本の内容をまとめたプリント)が前もって作成される。作成はゼミ生が順番で行う。で、購読時にはレジュメ作成者が発表者として、これを用いながら説明する。発表報告の最中には、しばしば進行は中断され、内容の理解を深めるために議論がおこなわれる。それは、文献の内容に対する質問であったり、意見であったり。こうすることで、発表者は1.本の要約力、2.プレゼンテーション能力が養成されると同時に、ゼミ生全員が文献の内容を学習し、知識を共有することになる。

またグループワークもある。共同で調査、イベント、制作などをおこなうわけだ。社会学系だとサーベイ(社会調査)、フィールドワーク、つまりアンケートやインタビューなどによって様々な状況を集団で調べたりする。グループワークを通して、ゼミ生は理論だけでなく、手足を使ってスキルとチームプレイを学習する。僕の場合、タイの安宿街をフィールドに、これに関するホームページ(現地ガイド、旅行者の意識調査)や、社会実験としての郷土かるたの地域への普及(小学生対象)を実施している。

そして、もう一つの重要なカリキュラムは卒業論文の作成だ。ゼミ生それぞれ(あるいはグループと言うこともある)が、参加したゼミの専門分野の中でテーマを決定し、大学4年次、一年かけて論文を作成する。この間、学生たちは教員の指導を受け、また中間発表を行ったりして、長文を作成する。文章量は、一般的には一万五千字(四百字詰め原稿用紙なら三十数枚)以上になる。ゼミによっては大学3年次に卒論の練習として「ゼミ論」を作成させるところも。これまで学習したスキルのすべてを卒論という形式でアウトプットするわけで、いわば、大学四年間で学んだことの集大成となる最重要プログラムだ。ちなみに僕のゼミだと卒論の題材は映画、小説、ケータイ、インターネット、ファッション、テレビ、おたくなどがよく取り上げられる。ナンパ、アルコール自粛、アダルトビデオ、宝塚なんてのもあったが、これも全てメディア論との関連で作成が行われている。

これらプログラムを円滑にこなすために、ゼミでは合宿の実施や親睦が行われる。こうやって教員とゼミ生、ゼミ生とゼミ生が集約的に関わり合う中で、お互いの信頼関係を構築しつつ、集団でスキルアップが図られるわけで、学生にとっては大学生活いちばんの財産になるものなのだ……が?(続く)

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