勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2009年02月

虚実ない交ぜの芸

やすしきよしの全盛期は横山やすしが不祥事を起こす時期と結構、重なっている。やすしという人物は思いこみの激しい性格だったらしく、その妥協のなさ、融通の効かなさで、たびたび一般人とケンカをしたり、メディアとぶつかったりしていたのだが、漫才の中ではこれをネタとして頻繁に取り込んでいた。で、この不祥事がネタの中に現れたとき(ネタを振るのはもちろんきよしの方だ)、やすしはこれに恥じるどころか、事件それ自体をさらに枝葉をつけながら大仰に語ったのだった。だが、このしゃべくりはネタなのか、本人が「やんちゃ」という視点で好き勝手なことをしゃべっているのか、ほとんど解らないというようなものだった。もちろん、ネタそれ自体は台本に書かれていた(やすきよのネタはアドリブのようでいて、その実そのほとんどが台本に書かれていた)が、やすしの語りは、とっくにネタの域を超えていて、それがネタであっても、事件時にやすしがやっていたと思われるパフォーマンスがそのまま再現される(もちろん、笑いをたっぷり加えたかたちで)という感じにしか思えないようなものだったのだ。こういった狂気に、オーディエンスは少し恐ろしい気がしながらも魅了されていたのだ。

やすしにとってネタとは笑いを誘うための呼び水でしかなく、本当の笑いはこのネタをダシにパフォーマンスを繰り広げるところにあった。言いかえるとネタなんかハッキリ言ってどうでもよかったのである。この辺が、現在の若手のネタ依存の芸とは全く違うところだ。

やすしは朝から晩まで稽古していた?

では、こういったノリノリの究極の芸をやすしはどこで学習=稽古していたのか?もちろん、やすしはきよしのいうような意味での稽古=練習は嫌い。だから、実際、やっていない。では、あの芸はどこで培われていたのか?

やすしという人間は破天荒で、まったく抑制といったものが効かないキャラクターだったことはよく知られている。それは言いかえれば一本気な性格、曲がらない性格ということでもあり、裏表がないということでもある。そして、この性格を漫才の芸に流し込んだら……なんのことはない。朝起きてから寝るまでひたすら漫才のことを考えているということになるだろう。つまり、やすしは一日中、いや人生をかけて芸を磨いていたのだ。より厳密にいえば、やすしにとって漫才は「仕事」ではなく「人生」「生活」それ自体だったのだ。これはモダニストであり、漫才を「仕事」「出世の手段」とみなしていた相方のきよしとは見事なコントラストをなしている。だから、きよしにはやすしが「仕事としての漫才」をしない人間に見えたのだ。

しかしながら、やすきよというのは「漫才を人生とする人間」を「漫才を仕事とする人間」がコントロールすることで初めて成立する漫才コンビ。やすしの狂気をきよしの正気が制御することで成立したもの。だから、きよしという暴れ馬=野獣にはこれを押さえられる強力なモダニスト=西川きよしの存在がなければ成立することがなかったものでもある。事実、きよし以外にやすしの相方を務められる人間など存在しなかったのだから。しかし、この関係は、それでも長くは続かなかった。(続く)

昭和を代表するやすしきよしの漫才

久しぶりに横山やすし・西川きよしの漫才を見た。といっても、テレビで放映したとか言う話ではなく、自分のビデオ・ライブラリーを整理していたらたまたま出てきて、思わず見てしまったのだが。その中の一つにフジテレビがやすしが死去した際に編成した追悼番組があったのだが、ここで相方だったきよしが出演していた。僕は、このきよしのコメントに僕はとっても引っかかってしまったのだ。

きよしはやすしのことを回想しながらこういった

「稽古の嫌いな人でした」

どうやら二人で稽古や打ち合わせをしようにもやすしがしばしばサボったり、いやがったりしたおかげで苦労したことを言いたかったのだろう。

実際、やすしは競艇に出場するために舞台をサボったりなんてことを平気でやるような人間だったので、稽古もそんなもんだったのかもしれない。

しかし、このコメントはなんか変な感じがしたのだ。やすしきよしの芸風は言うならば「猛獣と猛獣使い」と言った組み合わせだった。つまり公私ともに破天荒な生活を続けるやすしを、きよしが虚実ない交ぜにしながらこれをネタにし、もっぱらやすしにツッコミを入れ続けることで笑いをとるという芸風だった。言いかえると、この時きよしは「猛獣使い」として、暴れまくるやすしという猛獣をコントロールすることで拍手喝采をさらっていたのだ。

これはもっと言いかえれば、きよしはやすしの芸を引き出すという芸だったわけで、やすきよの笑いのほとんどはやすしのパフォーマンスの方にあったのだ(やすしの存在がなかったら「やすきよ」という伝説的な漫才コンビは決して出現することはなかっただろう。きよしはやすしという類稀なる相方に巡り会えた幸運な男だったのだ。もちろん、本人もこれを見抜く力を持った「賢い」男だったのだが)。
ということは、稽古をしない方がもっぱら芸を展開していて、それがウケるということになってしまうわけで、これはちょっとヘンなのではなかろうか?

ならば「西川きよしはウソをついている」という結論を下せばいいのだが……いや、そうではあるまい。「稽古をしない」天才=横山やすしについて今回は考えてみたい。やすしは稽古をしないのに、なぜあんなにスゴイ芸ができたのか?(続く)

受け手=オーディエンスのマゾヒズム

では、オーディエンスはこういった宮崎あおいの演技にどうして引きつけられるのか?今度は受け手の側から宮崎の魅力について考えてみよう。で、先に答えを述べておけば、これは結局、「このキモチワルサがわけがわからない。だから知りたい」というマゾ的な感情に基づいているということになる。

前々回にも述べたように、彼女の演技のほとんどは無意識に依存している。言い換えると、その演技の表現は宮崎あおいという女優の知らないところで展開されていると言ってもいい。だが、この無意識の演技、無意識による情報伝達をやはりオーディエンスの側も読むことができない。言い換えると彼女の無意識の情報=演技は、受け手のわれわれの意識=認識の部分にではなく、意識をスルーして、やはりわれわれの無意識に直接刻印されるかたちで伝えられる。そして、こちら側にある種の感銘を与える。しかし、これはわれわれの認識のあずかり知らぬところの感銘なので、やはりわけがわからない。そこで、われわれはいらいらする。「この引きつけるような感じは何なのだ?」。ようするに明確化されない無意識の情報を意識化しようと努めるのだ。でも、わからない。だから、とてもキモチワルイのである。そしてわれわれは、彼女の無意識の情報=演技を理解したいと思う。そこで、繰り返し宮崎あおいという女優にアクセスするようになる。こういうふうな展開が続いていくことで、次第にわれわれ受け手は宮崎の演技に対して次第に中毒症状を起こすようになっていくのだ。

「知りたい、知りたい」。われわれは切に思う。ところが、何とか解ったと思える兆しが現れた瞬間、宮崎はさらにその先に行ってしまう。つまり宮崎はまた別の役柄のイタコとなって、理解しようとするわれわれを突き放していくのだ。そしてこの循環がこの五年間くらい続けられ、国民全体を「宮崎あおい中毒」に陥れているというわけなのだ。

キモチワルサは怪しさ、そして魅力

今回のブログでは、あえて宮崎あおいの魅力を「キモチワルイ」という言葉で表現してみたのだけれど、彼女の魅力の側面を感じられていただけただろうか。改めて繰り返すが、彼女は女優としての魅力はゼロだ。そしてこの「女優」という意味は「女の役者だからこそ魅力的な存在」という意味での魅力だ。つまり、セクシーとかキュートとかナイスバディだとかといったものが、なにもない。だが、彼女に女優としての魅力など必要ない。彼女は女優、男優というカテゴリーを必要としない俳優なのであり、この側面では強烈な、そし手悪魔的な魅力を放って、われわれを打ちのめす。

そう、彼女は本物の俳優、役者さんなのである。

キモチワルサの中身

前回、女優宮崎あおいの魅力の秘密が「キモチワルサ」にあると指摘しておいた。今回はそのキモチワルサの中身と構造についてメディア論的に考えてみる。
彼女の演技は一言で表現すれば「わけがわからない」ということになろうか。

子役の頃から鍛えられているので演技の文法はしっかりしている。だから、まあ、うまい。ただし、子役の多くが大人になることで役者生命を失うという運命にあるのは、子供の頃にこの演技パターンが染みついてしまい、ここから抜け出すことができなくなってしまってワンパターン演技になってしまうからだ(宮脇康之や四方晴美がその典型。そう、ケンちゃんチャコちゃんね)
。そして、彼女の演技も文法的には結構ワンパターンである。ということは、本来なら成人俳優になることができなくて消えてしまう運命にあるはずなのだが……。

二つの無意識がなす、究極の演技

ところが、違うのである。これを説明するために前回(「音楽は1,000回聴くと、解る?」)のブログで用いた「学習」、つまり意識による学習と無意識による学習という考え方を再び用いてみよう。

演技をしているという自覚に乏しい演技

宮崎の意識上の演技はまさに子役の文法どおりのベタな演技だ。だから、これがメチャクチャうまいのかというと、決してそんなことはない(だから「まあ、うまい」と評しておいたのだけれど)。ベタと表現したとおり、型どおりなのだ(たとえば、織田裕二のように演技パターンを徹底的に考えて作り込むというのとは違う)。だったらつまらないはずなのだが、宮崎の場合はそうはならない。というのも、彼女の場合、もう一つ、無意識上の演技というものがあり、これが彼女の演技に大きな影響、というか彼女の演技の大半を占めているからだ。つまり型どおりの演技は正確。ところがこれを自覚することなくやっている。つまり正確であることが身体化している。だからそれがブレない演技となる。言い換えるとブレなさが無意識の働きによってなされている。もっと言い換えると、本人自信が、その演技がブレていないことに気がついていない。つまり、型どおりの演技を、本人は対象化していない。これが妙な一貫性を持つことでキモチワルサを醸成している。

宮崎あおいの無意識の感情の横溢が演技を支配する

ただし、これだけではないだろう。彼女のキモチワルサを醸し出す中心はもう一つの無意識の方だ。たとえば彼女が演技で感情が切れるような状況を思い浮かべてほしい。これもまた無意識のなせる技なんだろうか。切れていることを対象化している宮崎あおいがいるようには見えない。つまり前述した「イタコ状況」。この瞬間、彼女は逆に宮崎あおいそれ自体になる。しかも、本人も知らない無意識の。いうならばジキル博士とハイド氏のような二面性を持ち、その恐ろしい方が無意識にあって勝手に作動するのだ。その演技は、演技を超えてしまった「感情の横溢」だ。演技が感情をコントロールしているのではなく、感情が演技をコントロールしている。いや、支配していると一タラより適切かもしれないが……。前回取り上げたグリコのCMでのなくシーンなどはその典型だ。キモチワルイ、そして恐ろしい。これこそ、彼女の感性のなせる技なのだろう。

子役の文法+二つの無意識=宮崎のキモチワルサ

そして子役のベタな演技、ただし対象化されない無意識が作動させるそれの上に、時に、このイタコ演技(こちらも無意識)が被さってくると……二つは微妙なコントラストを奏で始める。この三層からなる演技は本当にキモチワルイ、おそろしい、それでいて麻薬のように吸い寄せる力となるのだ。そう、もう見ないではいられないのだ。(続く)

21世紀の大女優、出現

宮崎あおいは不思議な存在だ。自らが主演する作品すべてが、ことごとく当たる。しかも、国民的レベルで。映画「NANA」のナナ、朝ドラ「純情きらり」の桜子、大河ドラマ「篤姫」の篤姫。どれもが記録破りの成績を上げてしまうのだ。新作「少年メリケンサック」もおそらく当たるだろう。監督が宮藤官九郎ということもあるし。

しかし、よくよくみてみると、宮崎あおい。女優としては何の魅力もない役者に見える。美人?いや、フツーの顔だ。自分が教えている学生にも、この程度の顔の女の子はナンボでもいる。セクシー?全然!。バディは華奢だ。つまり、どう見てもフツーの女性なのだ。僕らが「女優」というカテゴリーに一般的に感じる輝き=萌え要素が、全くない。にもかかわらず、オーディエンスをぐいぐいと引きつけ、もはや23歳にして大女優の地位に上り詰めようとしている。彼女の魅力とはなんなのか?僕は、これを「得体の知れない」という意味で「キモチワルイ」とカタカナで表現してみようと思う。これは「見ないではいられない気持ち悪さ」と言い換えてもいい。そして、この「キモチワルサ」、大女優になるための絶対的条件でもある。さらに、この数年の間に現れた俳優のなかで、彼女だけが持ち得ているものだ。

ブレない目線

宮崎あおいのいちばんの魅力は、その悪魔的な「目線」である。全くブレることがない。常に真正面を見つめている。そして彼女はブレていないとき、実質的には演技を行っていない。では、なにをやっているのか?イタコとして憑依しているのだ。つまり、そのキャラクターに完全に没入してしまい、もうそこに宮崎あおいは存在しないのだ。そのとき、僕たちオーディエンスは宮崎あおいというイタコ=メディアを通して、作品が作り上げる人物像それ自体に遭遇する。それは、さながら神が降誕したような怪しさ。つまり、キモチワルイ。でも、僕らはこれに抗うことができず、ズルズルと中毒患者のように引きつけられていく。そして、このキモチワルサ。すべての演技、(CMも含めて。グリコのCMで宮崎がなぜか海を見ながら泣いているというシーンが映し出されるのだが、これが最高にキモチワルイ。そして何度も見てしまう)すべてに通底しているのだ。

これと同じキモチワルサを備えた役者は女優なら市原悦子、大竹しのぶ、男優なら山崎努、宇野重吉あたりが該当する。もちろん、いずれも歴史を彩った大俳優たちだ。ということは、宮崎あおいも当然時代を背負う大俳優になるということになる。では、このキモチワルサの正体とは何か?(続く)

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