勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年12月

公共心溢れるポルトガル人

ポルトガルが、いやポルトガル人が人格的に美しいことを報告している。今回は後編。

ポルトガル人を観察していて、いちばん感動的だったのは、その多くが、まず「相手の立場に立つ」というスタンスができているところだ。例えば横断歩道を渡ろうと、その前に立つ。で、クルマが横断を待っている人間を見つけた場合、これまた100%の確率で停車し、人を横断させるのである。列を作っているのも同じ。きちんと一列になった、決して割り込んだりはしない。いやいや、急いでいるような人がやってきた場合には、率先して順番を優先してくれるという気の使いよう。日本人がよくやっているような列争いでのいがみ合いなんてのは、ここは全く関係なしの環境なのだ。

また、街では必ずと言っていいほど見知らぬ人が挨拶をする。ちょっとしたことでもコミュニケーションを図る。とにかく、街角で人が話をしている。これが老若男女関係なく、そのあとにはお互い握手、これである。

また、こんなこともあった。なんだか知らないが地下鉄に乗ってきた太ったバアさんがキレていた(ポルトガル語がわからないので内容は把握できなかったが)。すると、このバアさん、近くの人に(もちろん、見知らぬ他人)、その鬱憤を大声でしゃべりはじめたのだ。すると、たまたま乗り合わせていた乗客が、その話を聞いたのだ。で、なんと相づちまでしている。で、これがしばらく続くことで、このバアさんは気分がおさまり、やっと落ち着いたのである。いやいや、この「話を聞く」(正確には「話を聞いたフリをしてあげる」だろうが)という配慮で、バアさんの癇癪はかなり短い時間で済んだはず。だから、婆さんもスッキリ。がなり立てる状況を長々見させられることもなかった乗客もスッキリといったところだろうか。地下鉄内はふたたび静寂な空間に戻ったのだった。

日本にはなくなってしまった、こういった公共心、愛他心といったものが制度的にしっかりと生きている国。僕は、そのことを称して「美しい国」といいたかったのだ。12日間滞在したが、とにかく嫌なことに一度も会うことがないという画期的な自体を、僕は旅人生の中で初めて経験した。これはビックリである。

EUの劣等生ポルトガル、でもこれでいいのかも

しかしである、よくよく考えてみればポルトガルはEU圏の中でも経済的には劣等生。つまり経済的な保護を受けているという立場にある。産業の中心は農業や水産業、あるいはフランス、ドイツ、イタリアから進出してきた自動車工業(もちろん、所得の低さが魅力だったので進出したのだろう)なわけで、どうして民心が荒れたりしないのかちょっと不思議な感じがしないでもない。ちなみに治安もまた抜群である(あちこちに落書きがあることを除いてはだが)。夜中街をブラブラしても不安な感じは一切ない。というか、多くのポルトガル人が街を夜中にブラブラしている。

これは憶測でしかないが、このポルトガルの「人の美しさ」は、やはりヨーロッパという文化・伝統を引きずっていることにまず起因すると思う。とにかく、仕事が丁寧。誰も手を抜かないし、あちこちキレイにしている。公共トイレはどこも清潔。そして街の美観を維持するために、一般市民が気をつかっていることもよくわかる。これは数百年、いや千年以上に渡る文化が人々の身体に刻印された習慣=スタイルだろう。

そして、さらにもう二つあると僕は考える。一つは、仮にヨーロッパであったとしても、フツー、こんなには人は美しくはない(EU諸国はどこも大変長い文化と歴史がある。だから長いだけではこの特異性は語れない)。ポルトガルの場合、南欧的なおおらかな体質、つまり、あまり競争原理に人々がかき立てられることなくよろしくやっているというところが考えられるのではないか。とにかく、ポルトガルの人たちはマイペース(かといって、この言葉がしばしば含んでいる「作業が遅い」ということはない)。行動一つ一つをじっくりと楽しむ、いやじっくりとやってしまうという感じが、こういった仕事の丁寧さを引き立てているのではないだろうか。仕事をしている人誰もが自分のペース、スタイルを持って仕事を「楽しんでいる」という感じなのだ。レストランのオヤジもよ~く見ていると、自分のスタイルが明確にあり、このパターンに乗りつつ快調に飛ばしているという雰囲気が伝わってくる。
そしてもう一つは、この国が人口一千万程度の小国であるということ。だから、日本なんかに比べると地域の顔が見える。つまり共同体的な人間関係がこの規模の小ささで維持されている。だからではないだろうか。首都リスボンでさえ人口は57万。大都会というよりも地方都市という印象が強いのだから。

「美しい国、ポルトガル」をぜひ訪れて欲しい。

次回以降、しばらく”ポルトガル紀行”をお届けしようと思う。

感動的なまでに美しい国?ポルトガル

ここ二週間ほどポルトガルに滞在した。まあ、普通の旅行。つまり僕の場合だと宿に泊まって本読んで、メシ食って、酒飲んで、街をブラブラするというスタイル(バックパッカーのなれの果て?)になるのだが、ポルトガルは予想したとおり、イヤ予想した以上の国だった。一言で表現すれば、ポルトガルは「美しい国」である。景色が?まあ、もちろんそうだ。というかヨーロッパはだいたいどこもキレイ。でポルトガルは典型的な南欧の景色。美しいに決まっているのだが(夜、飛行機でリスボンに到着したのだけれど、上空から見るリスボンの街並みは「宝石箱」という月並みな表現がピッタリ。街は屋根の色と明かりでオレンジに輝いていた)、僕が指摘したい「美しい」は、この景色の「美しさ」ではない。そうではなくて「人」の美しさなのだ。

なんでここまで親切なの?

もちろん美男、美女がいっぱいという意味でもない。美しいのはその文化が形成している「人柄」だ。とにかく人がいい。どんだけいいって、これは感動的なまでに人がいいのだ。ちょいといくつか例を挙げてみよう。

まず、駅で切符を買おうとマシンを相手に格闘を始める。ポルトガル語を英語モードに変更し、ウイザードに従って切符の種類や行き先を探す。ところが、である。この作業をやっていると、ほぼ100%の確率で誰かがやってくるのだ。それは係の人ばかりではない。市井のごくフツーの人間もやってくる。場合によっては英語がしゃべれない人もやってくる。でもって、なんとかこっちの話を聞き出し、こちらがウイザードをチェックする前に、勝手にどんどんやってくれるのだ(おかげでやり方を覚えられない)。で、最後には改札の前までついてきて「こっちの番線に乗るように」と指示までしてくれる。一番最初にこれをやられたときには「親切な人間に当たってラッキー!」と思ったのだが、いやいやこれが毎回続いたのである。

電車の中でも、行き先をチェックしていると、また誰かがやってくる。で、落ち着いた口調で丁寧に教えてくれるのだ。で、こんな調子が、あらゆるシチュエーションで登場するのである。「おれは幼児か?」とまで思いたくなるくらい。とにかく、親切。


一度もぼったくられない、ふっかけられなかった

次にタクシーに乗る。料金交渉なんてヤボなことはなし。とっととメーターのスイッチを押して、公定の料金でクルマを動かしはじめる。「釣り銭はチップ代わり」と『地球の歩き方』には書いてあるのだが、どの運転手も速攻でおつりを出し始める。これが10.2ユーロくらいだと「10ユーロでいいよ」ってな始末(どっちも断りました。つまりチップにしたり、きっちり払ったりしました。気分的にはそれでも安いという印象すら受けてしまうのだ)。

レストランでも同様だ。料理の「お任せ」なんてやると、ボッタクられることが旅先ではよくある。しかし、ここではそんなことは一切ない。もうこうなると安心なので、「なんかウマイものくれ」とか「おいしいワインは」「オススメは」とか、チョーいい加減なオーダーを連発。で、出されたものは十分ウマイし、しかも、予想よりも支払いが少ない(まあ、物価が安いので心配する必要がハナからないと言うこともあるのだが)。で、お愛想はしてくれるわ、サービスはいいわで、だんだんこっちとしてはいちいち感動し始めるようにすらなってしまった。「ポルトガルはイイ国だ!ポルトガルは大人だ!」(続く)

アンコール・ワットに行きたがる若者たち

僕は毎年、学生をタイ・バンコクに連れて行っている。ウエッブサイト「カオサンからアジアへ」(http://www.khaosan.mac.com)というサイトの更新作業を学生たちに継続させているためだ。ちなみに、これは世界最大のバックパッカー向け安宿街・カオサン地区のガイドブックの情報ページ。で、学生たちはバックパッカーが立ち寄るゲストハウスやレストラン旅行代理店の情報などについて取材をしたり、旅行者にインタビューをしたりしている。
とはいうものの、こういった取材・調査をする学生たちもまた、バックパッキングは初めて。だから、彼らには取材・調査の他にバックパッキングを身をもって経験してもらうことをノルマに科している。つまり、自らバックパッカーを体験することで、彼らが旅にどのような認識を持っているのかを実感してもらうというのが目的なのだが……ところが、なぜか毎年毎年、その多くがアンコール・ワットを目指すようになってきたのだ。「なんで?」と思って、僕は彼らに思わずたずねてみた。すると、その理由は至極単純だった。

「やっぱ、世界遺産、みたいじゃないですか!」

この答えを聞いた瞬間、僕はガッカリしてしまったのだ。

なんのために旅行をするのか?

バックパッキングの楽しさは何か。それは、自分の思うがままに好きなところに行けることだろう。で、そうやって好奇心のおもむくままに自らの足を運ばせ、そこでいろいろな発見や経験をする。海外という空間は異空間。だから、そこにたどり着けば、それがそのまま、そしてその場が新しい経験をもたらす場所のはず。例えば通りをボーッとながめていてもいい。そんななから人々の行動や一日の街の移り変わりを見ることが出来る。それは間違いなく、これまで見たことのない、貴重な体験になるはずだ。そして、必ずや、そこにちょっとしたハプニングが待っているはずだ。でもって、それこそがバックパッキング=自由旅行の醍醐味というもの、と僕は思っているのだが。

ところが、である。アンコール・ワット、つまり世界遺産である。そこに行ったらどんな経験ができるんだ?と僕はむしろ問いたい気すらするのだ。そこにいっても写真やテレビで見たとおりのそれがあるだけだし、周辺は同様の観光客や物売りでごった返しているだけ。そして結局のところ、そのほとんどは他にカンボジア旅行に行った人間たちの同じ体験をするだけだ。でもって、そこではこういったヤマほどやってくる海外旅行者のためのインフラが揃っている(詐欺も含めて、だ)。だから、新しい経験=ハプニングがやってくる可能性は他に比べるとぐっと少なくなる。それはもっと言ってしまえばパックツアー客とほとんど同じ。だから、わざわざバックパッキングでやってくる必要なんかまるきりない。パックツアーの方が下手すると安くて快適だったりするわけで。

だいたい、メディアが記号的に取り上げたところしか、自分たちが行く場所ではないと思っていること。これは想像力の貧困としかいいようがなくなってしまうように僕には思える。で、僕は学生たちに「世界遺産なんか、行くな。くだらねえから」と吹聴しているのだが(イヤな教員だなあ)

バックパッキングの楽しみは自分の好奇心を刺激すること

バックパッキングの良さは前述したように好奇心にまかせていろんな体験をすることだ。そして、その体験の入り口はどんな海外の日常の中にも潜んでいるはずだ(いや、日本の日常の中にだってあるはず)。自分が宿泊するゲストハウス、その前を流れる通り、周辺の繁華街……どこにもある。言いかえれば「いま、そこにあるのが、あなたの世界遺産」なのだ。そういった一見、なんの記号性もないところに想像力を発言する場としてバックパッキングを活用してもらいたいと僕は思うのだが。世界遺産に行くなんてのは発想が貧困すぎる(あんなものは、行けば調べていたとものと同じものがあるだけ。そこにもっと奥深いものとかを見いだすことができるのは、本当のプロだけだ)。まして況や世界旅行のスタンプラリーをする人間なんてのは若年寄にしかみえない。

もう世界遺産なんて貧困なものを見に行くのは、やめよう!

(すいません、ポルトガルからの発信のため前回(第四回)のブログが読めません。あらためて、ご覧ください)

ピクサーよ、マック、iPodに見習え!

最近のピクサー作品。持ち前のオタク癖が登場し、ちょっと変な方向に向かっている。だから、以前みたいには当たらないのではという前提で”WALLE”のレビューを連載しているが、今回が最終回。今後のピクサーのあり方について考えてみたい。

ディズニーという鎹がはずれ、ここまでアップル的、ピクサー的に作品を作り続けるようになると、このままだとピクサーの将来もちょっとキビシイかもしれないと思わないでもない。ヘンな言い方だが、僕みたいなヤツ(つまりどうでもいいことを映画から読み取ろうとするヒマ人)だけが喜ぶような作品を作っているようではアブナイとしかおもえないのだ。ここはそろそろピクサーもドラスティックな方向転換をしなければならないような時期にもう来ていると考えるべきだろう。つまり「原点へ立ち戻れ!」これだ。

瀕死寸前のアップルに創業者のジョブズが復帰し、iMacという画期的な製品を発表することで息を吹き返し(コンセプトは'For the rest of us"つまりコンピューターを使わない人やウインドウズ・コンピューターを使っている人がそれを使わない時間を狙えという意味。つまりウインドウズと勝負するのではなく、全く新たなコンピューター市場を開発しようということを目指した。だからパソコンに関係ない人間が次々とiMacを買い求めたのだ)、またデジタル音楽市場にiPodを投入してメーカーの音楽産業への参入を果たしたように(実はiPod出現以前にもデジタル・オーディオ・プレイヤーは存在した。しかし、iPodだけが成功し、あたかもデジタル・オーディオ・プレイヤーの元祖のように語られるのは、パソコン、そしてインターネットとの接続を徹底して簡略化したからだ。また、コンテンツを保有するレーベルの最大手五社と一挙に契約を結んだことによって、数百万に及ぶ魅力的なコンテンツをユーザーが楽しめるようにしたことも大きい。現在、iPodと接続してネット上から音楽をダウンロードするサイトiTMS(アイチューンズ・ミュージック・ストア)は音楽の販売がアメリカではタワー・レコードに続いて第二位である)。

そのためには独自の展開を突き詰めるとともに、この独善性に対する冷徹な視線も必要だ。そしてiMacやiPodは、いずれも自らの立ち位置を省察することから生まれたものだった。そうiMacのもうひとつのキャッチ・コピーは「Think Different」だったが、ピクサーもそろそろthink differentすべき時期に来ているのではなかろうか。

ピクサーが、もし同じような作品を今後も作り続けるとしたら、これは将来的には暗い。これまで二年に一作のペースで作品を作ってきたピクサーだが”Cars”以降は一年一作のペース。ということは、そろそろ来年やってくる次の作品が勝負と言うことになるんではなかろうか。量産体制の中で、自らに行動しすぎ、結果として自らを見失うようなことがないことを、祈るばかりだ。

(すいません、ポルトガルのど田舎からアップしたため、完全に文字化けしていました。再送いたします。ちなみに五回目もアップしていますので続けてご覧ください。)


だれがこんなにマニアックな話を知りたいのか?

で、今回というか本作を含めて”Cars”以降の三作はこの悪い方の「オタク的心性」が疼き、それがかつてのようなヒットを生めなくさせているではないかと僕には思えるのだ。今回、僕はこのWall-Eのレビューで、この作品がスタンリー・キューブリックの”2001年宇宙の旅”といかに酷似しているかということを細かく説明し、これが”2001年”へのオマージュだと指摘してきたが、はたしてそんな「萌え要素」「イースターエッグ」に萌える人間がどれくらいいるだろうか。いや、感づく人間がどれだけいるだろうか?おそらくこれに気付くのは映画オタクか、僕のようなメディア論的視点から分析をするような人間だけだろう。聴衆一般は「ツァラトウストラはかく語りき」が流れようが、マックの起動音がしようが、POD=iPodの関係がカミングアウトされようが、そんなことはどうでもイイ。とにかく、フツーに面白いことが重要で、こんなオタクな情報をいくら詰め込んだとしても、見向きもしないのだから。しかし、ピクサーのスタッフはそのことに気付いていない。だから、観客たちはピクサー作品の続きと言うことで、つまり「ピクサーの映画ならハズレはないという」これまで蓄積してきた信用に基づいて映画館に足を運んでくれるだろうが、作品の新奇性、おもしろさと言うところでは「ピクサーもそろそろマンネリかな」と思い始め、次第に足が遠のくようになっているのではなかろうか(もちろん、この作品が新奇性に満ちていることは確かなのだが、それにたいていは気付かないだろうと僕は踏んでいる)。

ディズニーという”足かせ”を外されるともたげる「独善」

ピクサーは”ファインディング・ニモ”をピークに徐々に興行成績を低下させているが、これはジョブズ=アップル+ピクサー的な独善性が次第に前面に現れ始めたからではないか、と僕は推察する。どんどんマニアックになり(”Cars”などはクルマニアの萌え要素が満杯で、おしまいにはF1チャンピオンのM.シューマッハーまで登場する始末。しかも声を本人が演じているという徹底ぶり。実はラセターも含めてスタッフの多くがクルマニアなのだ)、それがだんだん大衆のわからないものを作り始めているということを結果しているのではないか?

そして、このオタク度の高まりは、ピクサーとディズニーの力関係の変化と見事に相関を描いている。

ディズニーのアニメ担当最高顧問であり、”リトル・マーメード”、”美女と野獣”、”アラジン”、”ライオン・キング”などの傑作を作り出してディズニーアニメ第二の中興を築いたジェフリー・カッツェンバーグの離脱以降、ディズニー・アニメは鳴かず飛ばずで、その失態の全てをピクサーが「ディズニー印」の作品を提供することでフォローしてきた。”トイ・ストーリー”1・2”、”バグズ・ライフ”、”モンスターズ・インク””ファインディング・ニモ”、”ミスター・インクレディブル”といったピクサー作品としてのディズニー映画はすぐに思い浮かべることができるが、ディズニー本家が制作した”ブラザー・ベア”、”アトランティス”、”トレジャー・プラネット”といった作品をキャラクターも含めてイメージできないのではなかろうか(実際、ディズニーランドでここ十年の間にパレードやアトラクションに新たに加わったキャラクターはピクサー作品のものばかりた)。つまりもはやピクサーなしではディズニーアニメが成立しない状況、言いかえるとピクサー映画=ディズニー・アニメの図式ができあがり、ディズニーとピクサーの力関係は逆転してしまった。それが結果としてジョブスによるディズニーのCEOマイケル・アイズナーの追放と、ディズニーによるピクサーの買収(前述したが、これは買わせることで、実はディズニーのアニメ部門を乗っ取ったのだ)という事件をもたらした。

で、こういった関係の逆転は、作品の中にディズニーに対する遠慮をしなくてイイという状況を作り出した。つまり、それまではあくまで「ディズニーに配給してもらっている」という弱者の立場だったので、ピクサーとしてもディズニーらしさ、つまりディズニー的な視点を意識しながら作品作りをしていた。つまり空気を読んでいた。ところが、形勢が逆転し「ディズニーに配給させてやっている」となると、もう傍若無人。ディズニー世界などはあんまり気にすることなく、そして他者の視線を無視して、オタッキーに「自分の作りたいもの」を作るようになった。つまり、やりたい放題ということに。だが、それが結果として、マニアックになりすぎるという結果を生み出し、ややもすると客離れを起こさせ兼ねない状況を生んでいる。僕にはこんなふうに思えてならない。(続く)

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