言葉それ自体が差別性を生むのではない
差別用語が恣意的に決定されていることを前回までみてきた。とはいうものの、言葉が差別性・蔑視性を持つということは十分あり得ることではある。しかも、それは差別用語=放送禁止用語でなかったとしても、だ。そこで、今回は言葉が差別性・蔑視性を備えてしまう、つまり言葉を浴びせらる側が苦痛を感じる場合とそうでない場合についてみていこう。それによって、言葉それ自体が差別性を備えているのではないことをはっきりさせてみたい。僕は究極の差別主義者?そしてハラスメント野郎?
まずは、僕自身の話から。僕は大学教員なので、当然ながらゼミ生を抱えている。で、指導はかなり厳しくやる方だ。で、そのとき学生たちにしばしば檄=罵声を浴びせることがある。「バカ野郎」「死んじまえ」「頭が悪い」「ボケ」「アホ」といった表現が、よく使う「一般的な」罵声だ。まあ、言葉だけをみてみると、確かにに酷い。実際、僕がこの言葉をゼミ生たちに浴びせるとき、たまたまゼミ生以外の学生が居合わせるときには、かなりびっくりする。それじゃあ僕はとんでもない差別主義者、そしてハラスメント野郎なんだろうか。残念ながら、そうはなっていない。僕は学生たちにハラスメントだと訴えられたことはないし、そのほとんどは卒業後も親密な関係を維持している。ちょっとしたシューレを形成してもいる。
では、なぜこんなに酷い罵声を彼らに浴びせるのに、僕は非難されないのか?答えは簡単だ。その言葉の意味をゼミ生たちはよく理解しているからだ。僕が、こういった罵声を浴びせるのは「こちらが課した課題をちゃんとやってこなかった」「学んだことがアウトプットに反映されていない」「周囲の空気を読むことなく、身勝手な行動をとった」「チームプレーを乱した」「ゼミのルールを破った」時。しかもそのことをゼミ生たちはよく認識している。つまり、これが「教育的指導」であることをわかっている。そして、その言葉の後に登場する、数々の説教が、自らのスキルアップのためには必要であることをちゃんと把握している。だから一切、問題が起きないのである(もっとも、確かに、言葉は汚いことは否めないが!)。
言葉の意味は文脈=コンテクストで決まる
記号論では記号=言葉が記号表現(=シニフィアン)と記号内容(=シニフィエ)からなると定義している。辞書を例に説明すれば、記号表現とは「辞書の項目」、記号内容は「項目の解説」ということになる。ただし、意味というのはこういう具合に辞書的には決まらない。この言葉が使われる状況や文脈で意味は全く異なったものになってしまうからだ。たとえば、教員が教え子のあまりのできの悪さにあきれて「君は、本当に頭がいいねえ」と発言したとすれば、これは全く反対の意味「君はバカだ」ということになる。つまり、このときシニフィアンはしにふぃえによって規定されてはいないのだ。言い換えれば、言葉=記号は文脈の中で決定される。あるいは再定義される。ということは、僕がつるし上げを食らわないのは、ゼミ生らが僕の放つ「バカ野郎」という言葉のコンテクスト=空気を十分に読んでいるからということになるのだ。少なくとも乱暴な担当教員よりはゼミ生のほうが空気を読む力が強い?。とはいっても、もちろん、僕も出会った当初から彼らにこんな罵声を浴びせるような「空気を読めない」ようなことは決してしない。もし、いきなり、そんなことをすれば彼らはひるんでしまうだろうし、それこそハラスメントになる。だからゼミ新入生に対しては、しばらくは決して使うことはない。ただし、彼らは上級生たちが日常的に罵声を浴びせられているのを聞く。で、最初はびっくりするが、だんだんと言葉がどのように使われているのかを理解していくのだ。そして、その罵声がいずれ自分にも振り向けられるであろうことを自覚するというわけだ。ただし、罵声を浴びせられるようになったというのは、ゼミ生として認められたということもまた認識する瞬間となる(だから叱られたといって喜ぶ学生もでてくる。これってSMな教育方法だよね)。もっとも、この運用法がゼミ生たちにも浸透し、よく言えば伝統、悪くいえば柄の悪いゼミという評判を形成することにもなるのだが。ようするに「体育会系のノリ」と理解してもらえればいい。
この場合、たとえ言葉が差別用語=放送禁止用語であったとしても差別性・蔑視性、つまり言葉を浴びせられる側が精神的苦痛を感じることはない。
ちなみに、ひとつ加えておけば、正直、「こいつは、マジ、モノにならん」と判断した場合(残念ながら、やっぱり、そういう人間は存在する)や、本当に僕がアタマにきてしまった時には、絶対、こういった罵声を学生たちに浴びせることはしない。それは、本当に差別になってしまうし、僕の教育者のプロとしての美意識がそれを許さないからだ。(続く)