勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年11月

言葉それ自体が差別性を生むのではない

差別用語が恣意的に決定されていることを前回までみてきた。とはいうものの、言葉が差別性・蔑視性を持つということは十分あり得ることではある。しかも、それは差別用語=放送禁止用語でなかったとしても、だ。そこで、今回は言葉が差別性・蔑視性を備えてしまう、つまり言葉を浴びせらる側が苦痛を感じる場合とそうでない場合についてみていこう。それによって、言葉それ自体が差別性を備えているのではないことをはっきりさせてみたい。

僕は究極の差別主義者?そしてハラスメント野郎?

まずは、僕自身の話から。僕は大学教員なので、当然ながらゼミ生を抱えている。で、指導はかなり厳しくやる方だ。で、そのとき学生たちにしばしば檄=罵声を浴びせることがある。「バカ野郎」「死んじまえ」「頭が悪い」「ボケ」「アホ」といった表現が、よく使う「一般的な」罵声だ。まあ、言葉だけをみてみると、確かにに酷い。実際、僕がこの言葉をゼミ生たちに浴びせるとき、たまたまゼミ生以外の学生が居合わせるときには、かなりびっくりする。

それじゃあ僕はとんでもない差別主義者、そしてハラスメント野郎なんだろうか。残念ながら、そうはなっていない。僕は学生たちにハラスメントだと訴えられたことはないし、そのほとんどは卒業後も親密な関係を維持している。ちょっとしたシューレを形成してもいる。

では、なぜこんなに酷い罵声を彼らに浴びせるのに、僕は非難されないのか?答えは簡単だ。その言葉の意味をゼミ生たちはよく理解しているからだ。僕が、こういった罵声を浴びせるのは「こちらが課した課題をちゃんとやってこなかった」「学んだことがアウトプットに反映されていない」「周囲の空気を読むことなく、身勝手な行動をとった」「チームプレーを乱した」「ゼミのルールを破った」時。しかもそのことをゼミ生たちはよく認識している。つまり、これが「教育的指導」であることをわかっている。そして、その言葉の後に登場する、数々の説教が、自らのスキルアップのためには必要であることをちゃんと把握している。だから一切、問題が起きないのである(もっとも、確かに、言葉は汚いことは否めないが!)。

言葉の意味は文脈=コンテクストで決まる

記号論では記号=言葉が記号表現(=シニフィアン)と記号内容(=シニフィエ)からなると定義している。辞書を例に説明すれば、記号表現とは「辞書の項目」、記号内容は「項目の解説」ということになる。ただし、意味というのはこういう具合に辞書的には決まらない。この言葉が使われる状況や文脈で意味は全く異なったものになってしまうからだ。たとえば、教員が教え子のあまりのできの悪さにあきれて「君は、本当に頭がいいねえ」と発言したとすれば、これは全く反対の意味「君はバカだ」ということになる。つまり、このときシニフィアンはしにふぃえによって規定されてはいないのだ。言い換えれば、言葉=記号は文脈の中で決定される。あるいは再定義される。ということは、僕がつるし上げを食らわないのは、ゼミ生らが僕の放つ「バカ野郎」という言葉のコンテクスト=空気を十分に読んでいるからということになるのだ。少なくとも乱暴な担当教員よりはゼミ生のほうが空気を読む力が強い?。

とはいっても、もちろん、僕も出会った当初から彼らにこんな罵声を浴びせるような「空気を読めない」ようなことは決してしない。もし、いきなり、そんなことをすれば彼らはひるんでしまうだろうし、それこそハラスメントになる。だからゼミ新入生に対しては、しばらくは決して使うことはない。ただし、彼らは上級生たちが日常的に罵声を浴びせられているのを聞く。で、最初はびっくりするが、だんだんと言葉がどのように使われているのかを理解していくのだ。そして、その罵声がいずれ自分にも振り向けられるであろうことを自覚するというわけだ。ただし、罵声を浴びせられるようになったというのは、ゼミ生として認められたということもまた認識する瞬間となる(だから叱られたといって喜ぶ学生もでてくる。これってSMな教育方法だよね)。もっとも、この運用法がゼミ生たちにも浸透し、よく言えば伝統、悪くいえば柄の悪いゼミという評判を形成することにもなるのだが。ようするに「体育会系のノリ」と理解してもらえればいい。

この場合、たとえ言葉が差別用語=放送禁止用語であったとしても差別性・蔑視性、つまり言葉を浴びせられる側が精神的苦痛を感じることはない。

ちなみに、ひとつ加えておけば、正直、「こいつは、マジ、モノにならん」と判断した場合(残念ながら、やっぱり、そういう人間は存在する)や、本当に僕がアタマにきてしまった時には、絶対、こういった罵声を学生たちに浴びせることはしない。それは、本当に差別になってしまうし、僕の教育者のプロとしての美意識がそれを許さないからだ。(続く)

「ゲイ」「おかま」、そして「クイア」

前回のブログでは差別用語が実はメディア側が規定する放送禁止用語のことを指していること、しかもこれが法律に基づいた制度なのではなくメディア側の自主規制に基づいていること、さらにその自主規制の方針が商業主義に基づくものであることを指摘しておいた。言い換えれば放送禁止用語=差別用語というものは、かなり恣意的に決定されているということを確認できたと思う。
このことをもう一度、具体例を挙げて説明してみよう。ここでは性的なマイノリティの人たちに投げかける言葉を取り上げてみたい。それは「ゲイ」「おかま」、そして一般にはあまり馴染みがないかもしれないがが「クイア」という言葉だ。

まずそれぞれの語源を確認しておこう。「ゲイ」の語源は「gaily」、つまり「派手」「華やかに」「陽気に」「愉快に」「浮かれて」という単語を縮めたもの。これだけだとニュートラルな言葉に思えるのだが、実はこれ、19世紀、ビクトリア朝期のイギリスで売春婦や男娼(相手が男性の場合も女性の場合もあった)が派手に着飾り、陽気に振る舞っていたことから名付けられたもの。つまり元々同性愛や売春に対するある程度の蔑称的な意味合いが含まれていたのである。
次に「おかま」について。この語源は「お釜」。これが形状的類似から転じて「尻」となり、さらに同性愛者の受け身の側、つまり尻に挿入される側という意味で用いられるようになった。やはり同性愛に対する蔑視がその語源に存在している。

そして「クイア」だが、この語源は英語の「queer」。つまり「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」「変な」「いかがわしい」という、それ自体が指し示す対象を否定的に扱う同性愛を意味する言葉だ、

さて、これら言葉を、その差別性の強さで比較すればどのように順序づけられるだろうか。「ゲイ」と「おかま」は順列がつけづらいものの、少なくともクイアがもっとも蔑視性が高いことは明らかだろう。上記の二つはその蔑れている視性があくまで含意(記号論ではコノテーション)として表現されている、つまり直裁的な言い回しを避けて、ひねりを入れているのに対し、「クイア」はベタに「変」「奇妙」なのだから。

差別用語であるかどうかはかなり恣意的に決定されている

ところがこの中で放送禁止=差別用語に指定されているのは「おかま」だけである。つまり放送禁止用語的にはこの言葉だけが同性愛マイノリティを蔑む言葉になるのだ。「ゲイ」と「クイア」が用いられる理由は「当事者たちが認めている」というところに求められるだろう。まして「クイア」ならば、敢えて自らを「変な存在」と主張することで、その蔑視的な視点を逆転させてしまおうとする。つまり、言葉の語源をいくら追いかけたところで、それが差別性を帯びるのかどうかはわからない。すべて別の事情に基づき、かなり恣意的、言い換えればいい加減な基準で決定されていると考えるべきなのだ。(続く)

差別用語、ちょっとひっかかる

僕はメディア論という分野を研究対象としている手前、マス・メディア、つまりテレビや新聞、雑誌などと関わることが多いのだが、そのとき、いつも引っかかるのが差別用語に対する扱いだ。差別用語とは、たとえば、「かたわ」「めくら」「非人」「つんぼ」といったものが該当する。また意外に知られていないところでは「こじき」や「おかま」「日雇い人夫」や「バカチョンカメラ」も含まれる。最近では「スチュワーデス」といったジェンダー性が強い用語も使用が控えられるようになってきた(現在は「客室乗務員」だ)。そしてこれら言葉をメディアは今では決して使わないし、出演者が誤って発言した際には「番組の中で不適切な発言がありました。お詫びして訂正いたします]という謝罪が入る。

これら差別用語の使用を差し控えるのは「その用語に該当する当事者に精神的苦痛を与えるから」というのがその理由。このもののいいは、一見納得がいくのだが……メディアと関わってきた僕とすればちょっと、いや大いに引っかかるのだ。なぜか?

差別用語は自主規制

実をいうと「差別用語」というものは制度的には存在しない。一般に「差別用語」というとき、その言葉が指すものは放送禁止用語のことだ。そしてもちろん、放送禁止用語にも制度があるわけではない。つまり法律的に罰せられるということはない。それはメディア側の自主規制に基づいているのだ。ここで、僕は引っかかってくる。では、メディアは何を基準に「放送禁止用語」を規定しているのか?

実に都合のいい自主規制の決定

メディアは正直なところ、かなり「いい加減」にこれを決定している。しかも徹頭徹尾「弱腰」に。その心性、あるいは姿勢を、簡潔に表現すれば「この言葉、使ったらヤバそうだから止めとこう」ってな感じになる。で、「ヤバそう」というのは、「視聴者や読者からクレームがやってくる。スポンサーがクレームをつける」という意味。NHKを除けば、すべての民間メディアはスポンサーや視聴者、読者の支持で成立している。これらにそっぽを向かれたらおまんまの食い上げ。だから彼らの顔を常に伺いながら情報を発信する。その結果、問題がありそうと思ったら、事前に自主規制しておくという心性ができあがってしまったのだ(なぜかNHKも全く同じ姿勢なのには笑えるのだが)。もはやジャーナリズムの精神もなにもあったもんじゃない。

どんどん増える差別用語

しかしメディアはこんなことでよいのだろうか?これを続けていけば、どんどん使えない言葉が登場してくることになる。これってちょっと、いやかなりヤバいと思うのだ。このままこれに拍車がかかれば、われわれは余分なことがしゃべれなくなってしまう環境がいずれは生まれてくるからだ。つまり「少数者の苦痛を避ける」という動機に基づいて、「多くの人々が苦痛を受ける」状況が生まれる。しかも本当に少数者の人々が苦痛を受けているかどうかについては確かめることもなく。

「臭いものに蓋」ではなく、そろそろ真剣に言葉使用の有無について考えるべきところにきているのではないか。今回のブログでは、この差別用語の現状と問題点、そしてあり方について考えてみたいと思う。(続く)

消費のフロンティアとして

そして、もう一つはメディアを媒介として消費活動を行い、社会イメージを形成するということを積極的にはじめた若者第一世代であったということ。彼らはマンガに興じ、若者向けの音楽に耳を傾け、ファッションに関心を持った第1号。地域共同体の因襲に従ったのではなく、メディアの提示する消費戦略に乗った、つまりネガティブに言いかえるなら、乗せられた初めての若者。そしてすでに指摘したように「ヤング」という若者イメージをメディアを介して形成した、あるいはさせられた世代なのだ。

こういったメディア媒介的な思考様式、行動様式の形成は、様々な分野にも波及している。例えば結婚。団塊世代のとき恋愛結婚が見合い結婚の割合を凌駕した。つまり、男女の関わりもまたメディアが媒介した「男と女は愛し合ったものどうしが結婚するもの」というディスクールをきちんと踏襲したわけだ。

そして、これらのメディアを介した行動は、すべて消費行動と結びついていた。さらにこの消費行動は、必要に駆られてではなく、差異化や、シミュラークルとして、つまり、提示されたイメージに近づくために行われたものだ。そう、繰り返すが「ヤングになること」これが、彼らに掲げられた命題だった。

良くも悪くも消費世代のはじまり

要は、団塊の世代とは、良きにつけ悪しきにつけ全ての行動・思考が消費と関わるというライフスタイル、そう、われわれ日本人全てが現代において身につけているこの様式を、最初に本格的にはじめた連中だったのだ。いうならば「戦後日本人の心性のOSを形成した世代」、それが団塊世代をもっとも的確に言い当てた表現ではなかろうか。

その団塊が、もう六十になろうとしている。それは言いかえればミーイズム=身勝手世代が60歳から下の人間全てに該当する時代と言うことなのだが……。

結局、団塊の世代とは

さて、そろそろ総括に入ろう。結局、団塊の世代とはなんだったのか。少なくともこれだけは言えるのは二つ。一つは、世間一般で想定されているような、そしてしばしば団塊世代自体が標榜するようなものとは違っていること。そしてもう一つは、実はその後の若者のライフスタイルの先鞭をつけた、戦後世代のキャラクターの第一世代であると言うことだ。

フツーの保守的な人間だった

まず一つめ。世間一般で想定されているものとは実質はかなり離れているという指摘。ようするに彼らの大多数は社会に対して異議申し立てをしているわけでもなく、カルチャーの最先端でもない。言いかえれば、一般的に流布するイメージはかなりステレオタイプ化されたものであるという見方だ。

これは事実だろう。団塊世代のほとんどは、学生運動に血道を上げるごく一部の学生生活を謳歌した若者たちの背後にあって「語られることのない存在」だったのだ。、一般の団塊世代は大都市に繰り出し、あるいは地方都市に居残り、文句一つ言わず黙々と働き、全世代が構築した高度経済成長システムを地味にオペレートする、しごくまっとうな、そして保守的な連中だったのだ。つまり、よく言えば「まじめ」、悪く言えば「融通が利かない」。まあ、「かたくな」といったところだろうか。

これだと、品行方正でマジメな「青年」のイメージがプンプンする。言いかえれば、保守本流。つまり全共闘たちが否定的に語っていた「反動分子」。改革や革命を許さない心性をを保っていたのだ。

だが、この感覚は大人になったとき後続世代にとっては迷惑なものとなった。とにかく巨大な固まりの中に包摂されて、それが「当たり前」と考え、しかもそれを他人に押しつける。だからこそ団塊の世代は後続の世代に煙たがれた、あるいは迷惑がられ、とにかく「ウザい連中」と煙たがられたのである。それが今回の団塊特集の最初に示したエピソード、「オレの酒が飲めないっていうのか」という押しつけがましさに繋がったのだ。

団塊の世代の押しつけがましさ。実は、彼らが全共闘で学生運動をやっていたからではなく、保守本流のおカタい連中だったからこそ、こうなったのではなかろうか。(続く)

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