勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年10月

ヴィーニャ・カロッサの底力

その名はヴィーニャ・カロッサ。スペインのワインで価格はなんと600円。もちろんスクリューキャップだ。カミさんが仲良しの友達を呼んでパーティを開いたとき「この人たちはワインの味はわからないから安物でも買っておけば十分」ということで、買ってきたもの(これって、ものすごくヒドイ言い方だよねえ。でも、結構、仲良しだからこういうふうに見切っちゃうってことはあるんで、笑える)。ところが結局、ワインはほとんど馴染んでいないと言うこともあって、結局ビールと焼酎だけでお帰りになり(彼女たちは全員九州人)、冷蔵庫に白ワインが残ってしまった。そこで「処理」すべく飲んだのだが……驚いた。

もちろん高級というのとはほど遠い。味もブルゴーニュの白のような洗練されたところはないし、カリフォルニアのナパあたりのシャルドネが持っているコクもない。ましていわんやボルドー・グラーブののどっしりとした重みなど微塵もない。要するにスカスカ。そう、高級感などみじんも感じられるものではないんだが、実にスムースに、サクサクのはいるのだ。軽口の辛口なので、ちょっと冷やし方が強めの方が楽しめる。合う料理は焼き鳥(塩のみ)、サラダ、マリネ、クリーム系パスタ。ラベル裏のキャッチフレーズを見てみると「バルセロナ郊外で作られた評判のデイリーワイン」とある。これに僕もカミさんもこれに納得。まさに「デイリーワイン」。これでボンゴレなんか最高だろう。「こりゃオトク」ということになり、早速追加で購入。もちろんこうなったら赤も買わねばならない。


高級料理には、もちろん、合いません(あしからず)

ただし、これは高級なフランス料理(グレービーがたっぷりかかった、ハイカロリーの肉料理みたいなヤツね)はまったく合いません。もし試したら、ワインの安っぽさがひたすら広がるだけだろう。とにかく安物の食べ物。ちょいと目先を変えると白なら漬け物、赤ならフライドチキン、ポテトチップスなんてのがイケるかな?前回挙げておいた宮崎地鶏もいいかも?

しかし、この安物ワインの楽しみ。実はワインという文化、いや食文化全体に関わる大きな問題、いやいや大きなカテゴリーの存在を知らしめるものでもある。ちょいと「けたぐり」みたいで申し訳ないが、やっぱりボルドーの豪勢な赤はウマイのだ。ではボルドーと安ワイン・ヴィーニャ・カロッサはどういう土俵で勝負ができるのだろうか?あるいは勝負できる文化的土壌とは?(続く)

KITANO ACEのワイン

川崎ラゾーナ一一階にKITANO ACEというちょっと洒落た食材を提供するお店がある。チーズやコーヒー、地域の食材(国内外を問わず)とアルコールというのがメイン。まあ、この手のお店は最近全国各地にできつつあるのだが、ここはさらに一ひねりはいっているところが面白い。ちょっとずつだが他とは違ったラインナップでお客の購買意欲をそそるのだ。

たとえば、宮崎地鶏、アジアの食材、コーヒーもちょっとその辺では見ないところのメーカー(サイフォンにするとウマイので、素材それ自体はかなりよいのだろう)、ビールだとタイのシンハーとか……。しかも値段もリーズナブルに設定してくれているところがうれしい。

で、僕が今この店でハマっているのがワインだ。ビンボーなので、もちろん高価なワインを楽しむわけにはいかない。しかし、ここでは千円台のワインを結構揃える。しかも、結構マニアックなヘン?なワインがある。ブルゴーニュ瓶に入ったアルゼンチン産のピノ・ノアールなんてのがあって、これがアルゼンチン産だけに、フランスものよりも安くて、しかもかなりフレッシュ。「ここのワイン担当はかなり凝っているな」と思わせる。チープでリッチなワインライフを約束してくれる。以前は成城石井のワインコーナーが面白かったが、最近はあんまりやる気がないみたい(ラインナップがほとんど変わらない、で安物の数が減ってきた)で困っていた。

で、今回、さらにここKITANO ACEで「おお!」と唸らせるワインにここで遭遇した。

究極の駄ワイン?ヴィーニャ・カロッサ

繰り返すようだが、ウチは金持ちではないので、日常の嗜好品の価格も結構セコイ。コーヒーは1グラム1円台のものしか飲まない。チーズも高くてもKiri止まり。牛乳も148円とかの価格のものを飲んでいる。ちなみに、こういった一連の安物を僕は駄菓子にちなんで、全てに「駄」をつけている。駄コーヒー、駄チーズ、駄牛乳。ヤマザキのパンなら「駄パン」、トヨタのカローラなら「駄カー」となる。
で、僕が楽しんでいるワインは要するに駄ワインなのだが、今回は、この店でさらなる駄ワインを発見したのだが……これが、ある意味、ウマイのである。しかも価格はたったの600円。もう駄ワインを飲んで数十年になるので、高級ワインはわからんが駄ワインなら多少自信がある。そこで、今回はこの600円ワインの魅力を文化論的に分析してみたい。(続く)

大学のあり方を考え直すべきだ

就職活動の前倒しによって、もはや大学の存在は体を為さなくなっているというといっても過言ではないかもしれない。学生たちの未成熟化と就職活動の早期化による教育機能の形骸化がバカ学生をバカなまま社会へと送り出し、それが結果としてバカ社会が実現するという悪循環。これをなんとか変更しなければならない時期に来ているだろう。

紳士協定をより強力なかたちで「制度」として復活せよ

では、何をすべきか。まず、制度として内定を打ち出す期限を以前のように四年時の九月からと言う紳士協定を、紳士協定でなく制度として設定することが肝要だ。いや、もっと厳しく、大学三年生に就職の働きかけをやってはいけないというところまで持っていき、さらにこれを破った企業を厳罰にする(一年間求人禁止とか)。こうすれば、とりあえず、学生は最低三年時までは徹底的に教育を受けることができる。そうすれば、とにかく基礎的スキルや知識を習得する時間を稼ぐことが可能になるだろう。

教育のあり方も考えるべき時

もっとも、時間を与えられたからといって、きちんとした教育が施されなければ全く意味はない。で、振り返ってみると大学での教育はかなりイイカゲン。これは文系の大学に顕著だ(理系は具体的にスキルを身につけなければならないので、必ずしもこうはならない。もっとも理系離れがどんどん加速するので、イイカゲン大学がどんどん増えているということになるのだが)。大学のウリはなんと言っても個別指導を基本とするゼミ。ところがゼミと言っても一週間に一コマ90分だけ。私学ともなるとゼミ生が20名以上なんてのもザラにある。これだと当然ながら個別指導は実質的に不可能だ。そういった意味でも大学での教育も相当ふざけていると考えなければならないだろう。
ちなみに現在、各大学ではFD=ファカルティ・ディベロップメントといって、教員の教育スキルの開発に取り組むようになっているが、まだまだ教育者の養成ということにはなっていないのが実情ではないだろうか。FDのテキストを見ると「ちゃんと学生の目を見て話しましょう」とか「授業は90分しなければなりません」「学生が理解できるよう、プレゼンテーションツールを使ったり資料を用意したりして工夫しましょう」なんてことが書かれているのだが、あまりに当たり前のことが書いてあってハッキリ言って呆れる。いや、これを書いていると言うことは、かなりの教員がこういった「あたりまえ」を実践していないことを踏まえているためと考えてよいだろう。つまり教員は全然教育のスキルを持っていない。問題の根は深いのだ。

萎える日本、バカ拡大再生産の日本を立ち直らせるためには、就活の制限、学生の基礎教育両面での大幅な変更が必要では無かろうか。

III.内定ブルーになる必然的構造

学生の側にも問題はある

今や大学進学率は50%を超え、半ば義務教育化している。だから学生たちには大学で勉強しよう、研究しようなんてことはほとんど考えていない。高校の続きというのが一般的な認識で、実際、彼らは自分たちのことを「学生」ではなく「生徒」と呼んでいるくらいなのだ。

ようするにお嬢ちゃん、お坊ちゃんという認識で大人になってしまう。つまり社会人になるということについて何も考えていないと言う状態。大学というモラトリアム環境の中で、何ごとも未決のまま生活を送り続ける。かつてならばこのモラトリアムの状況をゼミ活動を中心とした学業に励むことで、ここから脱し、大人になっていくと言うこと決意していったのだが、前述したように就活がすぐに控えているので、この学業に取り組むヒマもない。お坊ちゃん、お嬢ちゃんのまま就職部が妙竹林なトレーニングをしてリクルート前線に彼らを向かわせるのである。

企業の方も、もはやこの連中が子どもであることを十分承知している。でも採用しなければならない。で、内定をあげると、今度はこの学生たちが考え始めてしまうのだ。「なんでこんな簡単に内定がとれたの」「ホントにこの仕事を自分はしたいんだろうか」「もっといろんな可能性があるような気がする」。

自分の方向性が全く定まっていない。自分が何ものかもわからない。つまりなんにも考えていない、考えることをさせられてこなかった彼らに、さながらお駄賃のように内定をあげれば、やはりかれらもそれを「お駄賃」としてしか認識しないのは無理もないことなのだ。しかも内定を挙げても、他にやることがないというか卒論をやる力がない。こうなるとブルーになるのも致し方がないことと言えないこともない。まさになにもないのでアイデンティティがさまよい続けるのである。

バカ・フレッシュマンの登場

で、こうやって内定をだし、断られることなく就職してくれたとしても、今度は企業の側に困難が立ちはだかっている。ほとんどスキルを獲得してこなかったので、企業の側はゼロから新入社員を教育しなければならなくなるのだ。しかも就職しても「自分には他の選択肢があったのでは」なんて思い続ける連中も多く、しかも、しっかり仕込んでやろうとバンバン教育すると、今度は無理がきかないお坊ちゃん、お嬢ちゃんなので、耐えられずさっさと辞められてしまうという事態も発生する(実際、離職率は極めて高いのだ。まあ、企業の方もベンチャラスなことをやって新人を消耗品としてこき使うという事情もあるが)。企業に対してのアイデンティファイの低い。つまりロー・スキル、ロー・モチベーションの社員が、こうやって誕生するわけだ。

そして、こういったことが循環すれば、企業全体のモラールが下がっていく。そしてさらにこんな企業があちこちに誕生すれば……現在の極めてモチベーションの低い、そして社会意識の低い、それでいて個人の欲望だけは異常に高い人間たちが量産されていく。
「萎えた日本社会」が出現したのは、こういったことの繰り返しではなかったのか。これはかなりヤバイ状況といわねばならないだろう。(続く)

就職売り手市場が生んだ内定ブルーという現象

「内定ブルー」という現象が、今就職活動をしている大学四年生たちに起こっているという。
現在、学生たちが就職活動を始めるのは大学三年生の秋口から。団塊世代の定年によってポストが大幅に抜けるにもかかわらず、少子化で学生の絶対数は少ない。そこで、企業はなるべくよい学生を早めに、かつ確実にゲットしたいと考えるようになった。それが結果として内定を出す時期がどんどん早め、今年は四年時の四月五月がピークという状態になっている。

ところが、早くから内定もらった学生たちが、では卒業研究に専念しよう、ということにはならず、就職活動を続行するのである。あまりに簡単に内定がとれてしまったので「自分は安売りしたのでは?」「もっと高めねらいでもいいのでは?」と思った結果、このようなことになっているのだという。
この内定ブルーの問題。僕には様々な意味で活力を失った日本社会、日本経済を象徴している出来事のように思えるのだ。

就職紳士協定の破棄が大学教育の形骸化

かつては企業間に就職についての紳士協定が存在した。大学四年の九月までは内定を出さないというのがそれ。ただし、協定破りが多発し、結果として98年、この協定は破棄される。その結果、就職のための青田刈りは年々と時期を早めていくことになった。それが、前述した就職活動開始が大学三年の秋という状況を生み出したのだ。

しかし、こんなことになると大学側は実は大変困ったことになる。

まず、大学教育が体を為さなくなるという問題が生じる。あたりまえのことだが、大学の三年時後半から学生が就活を始めれば、もうその間、大学教育はストップするという事態が発生する。学生たちは就活を理由にゼミを休む。しかし、大学にとってゼミは専門教育を受ける最も重要な場。そしておおむねの大学でゼミ指導が最も活発になるのが大学三年時なのだ。だからこの時に専門の基礎的スキルをたたき込むことになり、大学四年時に、そのスキルを踏まえて卒業研究、つまり卒論作成に挑むというパターンになっているのだが、このイチバン活発な時期、そして基礎を要請すべき時期が就活と重なる。ということは、この間就活をすれば、必然的に基礎的なスキルが学べないと言うことになってしまうのだ。

しかし、大学とてもはやサービス業。今や学習内容ではなく、学生をどれだけ就職させたか、さらにはどれだけ一流企業に入れたかが評価の対象になる。となると、大学の方も本業の学業はさておき、就活支援に精を出すようになっていく。とにかく、就職部が学生たちにあれやこれやと研修をさせるのである。で、こっちが忙しくなる分、当然学業はおろそかになる。もう勉強なんか動でもいい状況が大学には作られているのだ。

で、学生たちはなんとか内定を勝ち取り、再び学業に戻っていくとしても、基礎を積んでいないので卒業研究なんかできないということに。

こうやって大学での教育は実質的に形骸化していった。しかし内定ブルーが起きる原因はこれだけではない。(続く)

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