勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年10月

香港映画?空手?それ、何?

1974年3月のことだった。当時中学一年だった僕はちょっとおいしい環境にいた。群馬県の前橋に住んでいたのだが、市内の映画館をただで見て回ることができるという特権を持っていたのだ。友人の父が市内の映画館協会の会長で、この友人はタダで映画を見ることが出来ていたのだが、一人では寂しいらしく、必ず僕を毎回誘ってきた(なぜ、もっぱら僕だったのかはいまだにわからないのだが)。だから僕もタダで見ることが出来たというわけ。

で、また彼が映画に誘ってくれた。今度の映画は「燃えよドラゴン」という香港の空手映画だという(実際には香港とハリウッドの合作。本作はリーのハリウッド進出第1弾だったのだ(もちろん第二弾はなかったのだが))。そう言われたとき、ハッキリ言って僕はあまり期待しなかった。「香港?どうせハリウッドとは規模も全然違うチンケな映画だろう」「空手?特撮じゃないの?」こんな感じだったのだ。しかし、これは当時の日本人の一般的な第一印象だったろう。香港映画も、空手(ホントはカンフー)もその程度の認識。もちろん、主演の役者の名前も全く知られてはいない。映画自体も大作のオマケみたいに思われていたはずだ。ちなみに当時、地方では映画は二本立てというのが一般的で、この映画も二本立ての一つだったと思う。そして、僕としてはそちらの方を期待していた(残念ながら、目当てにしてしまった映画の題名はもう記憶にない)。

「ま、どうせタダなんだからいいや」

こんな気持ちで、映画館に入っていったのをよく覚えている。

とんでもないものを見てしまった

ところが……見終わって映画館を出てきたときには、僕の頭は完全におかしくなっていた。頭の中にはリーの叫ぶ怪鳥音が鳴り響き、敵を仕留めた瞬間、悲しい顔つきをしながら中空を見つめるリーのイメージがこびりついて離れない。いや、あの動きはいったい何なんだ?

「とんでもないものを見てしまった」。子どもだから、当然、作品鑑賞能力は低い。しかし、そんなことは全く関係なく、リーの衝撃は僕の身体全体を突き抜け、頭の中で映画のシーンを何度も何度も反芻した。もちろん、カラダは「アチョー、アタッ、アタッ」と叫びながら手足が勝手に動いている。自分は完全にリーが乗り移っているという状態に。完全に、狂っていた。

クラスの男子生徒が次々とブルース・リーの病に

翌日になっても僕の興奮が冷めやることはなかった(というか、興奮してほとんど寐ることができなかったのだ)。で、学校に着くやいなや、僕は「燃えよドラゴン」とブルース・リーのことについて、とにかくクラスの連中に吹きまくった。あまりに興奮して話をするので、ほとんどの連中は「何こいつ、のぼせ上がっているんだ」くらいの反応しかしなかったのだが、僕の吹きまくりに感化された男子生徒が二三名現れ、彼らは「そんなにスゴイのなら観てみようか」ということになり、映画館へ足を運んだ。もちろん、この時、僕がいっしょについて行ったことは言うまでもない。しかも今回はちゃんと入場料金を払って。

で、映画が終わって映画館を後にしたとき、僕が連れて行ったこの連中も、完全に僕が最初に映画館に行ったときと同じ状態になってしまった。道を歩きながら怪鳥音を発し、蹴りを入れ、エアー・ヌンチャクを振り回していた。そう、彼らも一発で完全にやられてしまったのだ。

もう、こうなれば、あとはなんと言うことはない。彼らもまた学校で「燃えよドラゴン」を吹きまくり、これで「え?そんなにスゴイのか?」ということで、他の連中も次々に映画館に足を運び、そして当然ながら見終えた後には、全員がブルース・リーになっていたのだ。学校に自作のヌンチャクを持ち込んで教員に取り上げられる生徒が出てきたのは、もうすぐその後だった。
そう、学校中の男子生徒がブルース・リーになってしまったのだ。

歴史を変えた男、ブルース・リー

映画「燃えよドラゴン」で衝撃的な世界デビューをし、世界中が驚いたときにはもうこの世にいなかったアクション俳優、ブルース・リー。それまでのアクション映画のスタイルを全て変更してしまい、その後のアクション映画のスタイルをたった一人で作ってしまったとんでもない天才が彼だ。

ブルースリーの衝撃の後の七十年代以降、リーのスタイルは世界中に伝播する。まずリーの出演していた香港映画は一躍世界中に脚光が浴び、おびただしいほどの二番煎じ、三番煎じ?のカンフー映画が登場。その中には次の時代を作ったジャッキー・チェンもいた。また当時はディスコ・ミュージックブーム。”カンフー・ファイティング”なんてディスコ・ナンバーも登場。76年に大ヒットしたディスコ映画「サタデー・ナイト・フィーバー」では、主演のジョン・トラボルタ(彼はこの映画一発で一躍スターダムにのし上がった)が自室でリーのポスターを見ながらカンフーのポーズをとるシーンがあった。
いやいや、そんなちっぽけな話はどーでもいい。映画だけでなく例えば日本のアニメでもドラゴン・ボール、北斗の拳といったアクションものは全てブルース・の影響下にある。ケンシロウに及んでは姿形がリーそのものだ。

そしてハリウッド映画にはカンフー・アクションが次々と取り入れられるようになる。近年の作品では「キル・ビル」でユマ・サーマンが来ていた黄色のジャージはリーが映画「死亡遊戯」のラストシーンでの対決の際に着ていたものだし、マトリックスに至っては、キアヌ・リーブス演じるネオのアクションはほとんどリーのパクリ、しかもそれを確信犯的にやっていた。たとえば「マトリックス・レボルーション」のスミスとの対決のシーン。それまでは野外で対決していた二人が突然ビルの中に入って戦いを続行するのだが、この建物構造も「死亡遊戯」のラストシーンからとられているし、またネオが左手を前にまっすぐ伸ばし、人差し指と中指をたててふてぶてしく「かかってこい」と相手を挑発するシーンは、いわばリーへの完全なトリビュートといえる。

今や、アクションと名が付くエンターテインメントには全て彼の影がちらつく。そして誰もここから逃げ出すこともできなければ、乗り越えることもできない。ちなみに、ブルース・リーはアメリカで20世紀を変えた人物100名の中に加えられている。

しかし、リアルタイムでブルース・リーの衝撃(日本人がこの衝撃を受けたときにはリーは既にこの世にいなかったのだが)を経験した人間でないと、この凄さはわからないかもしれない。

で、僕もこの衝撃に脳味噌を破壊された人間の一人。今回はその衝撃経験をもとに、この衝撃の内容について分析してみようと思う。(続く)

できちゃった婚記者会見

グラビア・アイドル、リア・ディソンが記者会見。その内容はできちゃった婚の報告だった。この記者会見はかなり歯切れが悪く、中途半端なところで打ち切り。しかもリア本人は「これでポイしないでください」とお願いともされる発言をしてその場を去った。さて、リア・ディソンの行く末はいかに?

記号それ自体という存在だったリア・ディソン

リア・ディソンは「ある日突然、海の向こうから日本のグラビア界にやってきた」というイメージで売り出された。その名も「グラビア界の黒船」。つまりグラビア界に維新を、いや革新をもたらす存在としてデビューしたのである。見事なプロポーション、そしてほとんどフィギュアのような容貌は、オタク萌えアニメがそのままリアルになったような印象(メイクの影響も、もちろんあっただろうが)。これを売り出す側は「黒船」とコピーしたわけだが、これ自体が秀逸だった。国内のほしのあきみたいな年配グラビア・アイドルが幅をきかせる中、まさに殴り込みをかけてきたという印象を与えるには十分。そう、これでリアはファンに向かって黒船から大砲をぶっ放しているというほどのインパクトが与えたのだ。まさに、その実在はともかく「リア・ディソン=黒船」という記号が一人歩きし、彼女はブレイクする。その後、歌に芝居にと進出も果たした。まさに順風満帆の航海をリアは続けていたはずだったのだが……。

しかしその矢先に、突然のできちゃった婚会見。もちろん本人は芸能界を辞めるつもりはない。しかし、記号的存在でないことはリア自身が実は、いちばんよく知っている。だからこそリアは「ポイしないで」と訴えたのである。そうでなければ、こんな自爆的な発言をするはずがない。せっぱ詰まってのホンネだったのではなかろうか。そこには日本の芸能界に振り回されたしまった一人のあわれな外人女性が姿がかいま見えた。

大砲を持たない黒船は、タダの黒い船

しかし、この願いは恐らく叶えられないだろう。というのも前述したようにリア・ディソンは徹底的に記号的な存在。その記号を打ち消す記号を身に纏ってしまった瞬間、それは消え去るからだ。グラビア・アイドルの記号の対極は妊娠した女性、しっかり彼氏がいる、お腹の膨れた女性である。
ということは記号だけの存在がその記号を失えばどうなるか。いうまでもなく、そこにいるのはただのリア・ディソンという外人女性でしかない。いや、それどころか妊娠してグラビアを飾る資格を失ったタレントという記号まで与えられる始末。他の芸能人ならともかくグラビア・アイドルのマタニティ・ヌードを見たい人間などいない。つまり”黒船は大砲を失った”のである。
大砲を失えば黒船はただの黒い船。そんなものに国内のグラビア界=幕府が恐れることもない。だから、これまで通り「黒船」を追い出して「鎖国」を続ける。つまり外人アイドルを排斥すると言うことになる。

そう、そしてリア・ディソンは「ポイされる」のである。

二つのカルチャー

ボルドーのフルボディワインと安スペインワイン、ヴィーナ・カロッサはどう勝負できるか。ここでは文化についての二つの考え方についてあてはめるかたちで考えてみよう。

カルチャーの一つめはハイ・カルチャーとよばれるもの。つまりお上品な、貴族的な、ブルジョア的な意味合いを含んだカルチャーのことだ。これは日本人やアメリカ人にとってはフレンチやメルセデス、グッチ、ローレックスみたいなジャンルを意味する。とりあえず豪華だが高い。

もう一つはポピュラーカルチャー。こちらは大衆的で、やや下品なカルチャーだ。焼き鳥、焼酎、丼ものみたいな庶民的で価格も安い文化だ。

この二つ、どちらかが優れているという比較は、ハッキリ言って無意味だ。実はそれぞれ別カテゴリー。比較すること自体がサメとライオンはどちらが強いかみたいな馬鹿馬鹿しさを伴っている。もし比較している人間がいるとすれば、それは価格の高さが絶対視されている場合で、こういうのは世に言う「俗物」にほかならない。

ボルドーワインとデイリーワイン

で、言うまでもなくボルドーはハイカルチャー(まあ安いものもあるんだけれど)、ヴィーニャ・カロッサはポピュラーカルチャーに属する。当然ジャンルが違うのだから、これに合う料理も違ってくるのは言うまでもない。まあ、ボルドーならやっぱりたまには豪華にと言うことで大枚をはたく。一方、今日も家庭料理屋大衆料理で楽しもうというのならその名の通りのデイリーワインが向いている。
そしてそれぞれのカテゴリーでは、その内部で当然のことながら優劣が存在する。ボルドーもピンからキリまである。ちなみに国産のデイリーワインなんてのはほとんど壊滅的な味がするわけで(特に大手のもの。国内産のデイリーワインでもSADOYAとかTSUNOなんて結構面白いものある)、あんまりオススメできない。やたら甘かったり、ただただ薄かったりする。また日本人のワイン・リテラシーの低さをなめきっているというか、あるいはこいつらのおかげでリテラシーが低いままなのかはわからないが、とにかく白ならひたすら甘いというのが、まだまだ多い。赤はひたすら薄っぺらい、いやいや甘みを添加しているものも多い。

そんな中、今回紹介したヴィーニャ・カロッサは抜きん出ているのだ。

これはどこで楽しめるワイン?なんのことはない、本当のスペインの安レストラン、いや安食堂で楽しめるワイン。言いかえると、この手のワインをスペイン人たちは日常的に、そうデイリーに楽しんでいるというわけだ。

ポピュラーカルチャーを伝えて欲しい!

しかし、なぜかこういった「良質」の安物スカスカワインは日本に入ってこない。ワインというとなんかお高くとまっているという感じがまだまだ強く、必ず講釈をタレながら飲むというのが基本になっているからだろう。いいかえれば、だからワインはなかなか定着しないとも言えるわけで。

こういったことを憂いているのか、ソムリエ世界チャンピオンの田崎真也は漬け物に合うワインとかヘンな特集をよくメディアでやっている(最近缶コーヒーのCMに出演しているのは、ちょっとあきれてしまうのだが)。安物の漬け物に合うワインみたいなものを積極的に推進しようとするその姿勢はよくわかる。これは、要するにワイン・リテラシーを上げようとするプロパガンダだ。

そろそろワインに講釈は入らないのではないか。日本の食生活にも似合い、値段も手頃で、デイリーに楽しめるワインが出現しもよい頃なのでは。そんな一端をヴィーニャ・カロッサは感じさせてくれた逸品だった。

スペインの大衆食堂でイワシでも食べながら、この安ワインで酔っぱらいたいなあ!

イメージ 1

イメージ 2

        (これが600円のグレイト安物スカスカワインだ!)

ヴィーニャ・カロッサの底力

その名はヴィーニャ・カロッサ。スペインのワインで価格はなんと600円。もちろんスクリューキャップだ。カミさんが仲良しの友達を呼んでパーティを開いたとき「この人たちはワインの味はわからないから安物でも買っておけば十分」ということで、買ってきたもの(これって、ものすごくヒドイ言い方だよねえ。でも、結構、仲良しだからこういうふうに見切っちゃうってことはあるんで、笑える)。ところが結局、ワインはほとんど馴染んでいないと言うこともあって、結局ビールと焼酎だけでお帰りになり(彼女たちは全員九州人)、冷蔵庫に白ワインが残ってしまった。そこで「処理」すべく飲んだのだが……驚いた。

もちろん高級というのとはほど遠い。味もブルゴーニュの白のような洗練されたところはないし、カリフォルニアのナパあたりのシャルドネが持っているコクもない。ましていわんやボルドー・グラーブののどっしりとした重みなど微塵もない。要するにスカスカ。そう、高級感などみじんも感じられるものではないんだが、実にスムースに、サクサクのはいるのだ。軽口の辛口なので、ちょっと冷やし方が強めの方が楽しめる。合う料理は焼き鳥(塩のみ)、サラダ、マリネ、クリーム系パスタ。ラベル裏のキャッチフレーズを見てみると「バルセロナ郊外で作られた評判のデイリーワイン」とある。これに僕もカミさんもこれに納得。まさに「デイリーワイン」。これでボンゴレなんか最高だろう。「こりゃオトク」ということになり、早速追加で購入。もちろんこうなったら赤も買わねばならない。


で、赤も試してみると、こちらの予想通り、こっちもスカスカ。で、こっちのほうはもう間違いなくパエリャと合わせると最高だろう。ケチャップバッチリのスパゲティ・ナポリタンやオムライスなんてのはジャパニーズ(ご存じの通り、スパゲティ・ナポリタンはクレオール料理。つまりメイドインジャパンで、ナポリに行ってもこれはない。オムライスももちろん日本料理)とスペインの見事な組み合わせになりそう。

高級料理には、もちろん、合いません(あしからず)

ただし、これは高級なフランス料理(グレービーがたっぷりかかった、ハイカロリーの肉料理みたいなヤツね)はまったく合いません。もし試したら、ワインの安っぽさがひたすら広がるだけだろう。とにかく安物の食べ物。ちょいと目先を変えると白なら漬け物、赤ならフライドチキン、ポテトチップスなんてのがイケるかな?前回挙げておいた宮崎地鶏もいいかも?

しかし、この安物ワインの楽しみ。実はワインという文化、いや食文化全体に関わる大きな問題、いやいや大きなカテゴリーの存在を知らしめるものでもある。ちょいと「けたぐり」みたいで申し訳ないが、やっぱりボルドーの豪勢な赤はウマイのだ。ではボルドーと安ワイン・ヴィーニャ・カロッサはどういう土俵で勝負ができるのだろうか?あるいは勝負できる文化的土壌とは?(続く)

↑このページのトップヘ