勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年08月

90年以降のジョンとポール

その後、ジョンとポールの評価はどうなっただろう。

先ずジョン。ヨーコによるジョンの平和の象徴としての神格化はさらに徹底度を増し、ヨーコは数々の国際的イベントにいわば「ジョンの使者」として登場する。その典型は9.11のテロの際に、世界の各新聞紙に掲載した全面広告だった。広告には中央に大きく'Imagine'と明記され、その下に'Imagine'の歌詞が小さく続けられていた。だが、この広告の掲載主が誰なのかの明記がない。そこで読者から新聞社に問い合わせが殺到。新聞社としてはそれを受けて、ヨーコによるものであること伝える。するとその事実が全世界に再び発せられる。こうすることで、'Imagine'が伝えようとする歌詞のメッセージがメディアを介して二重三重にメディアを、そして口コミを介して伝播していった。ヨーコのアートのテーマであるlove,peace, imgine,communicationの四つをジョンを利用しながら見事にまとめてしまうという天才的なマーケティングを行ったのだ。ここではヨーコの備える形而上的側面=アートと形而下的側面=ビジネスがここでは見事に融合していた。もちろんこれでジョンの神格化はどんどん進む。そしてヨーコの評価もそれに付随するというかたちで。

もはやヨーコにとってジョンは自らのアートを実現する道具=メディアとなっていった。ヨーコの芸術表現とジョンの神格化は完全に表裏一体となったのだ。世界をカンバス、ジョンを絵の具に自由な創作活動をヨーコ。これこそ前衛芸術家の本領発揮だった。そしてヨーコは「ビートルズを解散に追い込んだ怪しい東洋人女性」から、彼女のアイデンティティである「前衛芸術家。フルクサス(ヨーコが所属した前衛アート集団。J.ケージや前々夫の一柳慧が所属していた)のメンバー」という評価を勝ち取るのである。

21世紀以降、ヨーコは2006年トリノ・オリンピックの開催式に登場し、やはり'Imagin'を掲げながら平和を訴え、そしてアイスランドにはジョンを記念したモニュメントイマジン・ピースタワーを建立した。デザインを担当したのは、もちろんヨーコだった。そしてこの二つの出来事に共通する言葉はいうまでもなく'imagine'だった。

と、このように考えるとヨーコという存在は、今日のジョンの社会的認知にとっては必須であったということができるだろう。ヨーコはしばしば批判の対象となるが、なんのことはない。ジョンを輝かせたのはヨーコの力によるところが大きいのである。もちろんヨーコは自分の取り分も計算に入れているというわけなのだが。

ビートルズを飼い慣らしたポール

さて一方のポールの方だが、「ネオビートル・ポール」と自らを位置づけることで、ビートルズの軛から解放されて創造活動は旺盛化していく。クラッシック、アートにも手を出し、本業の方の音楽活動でも嘗てのような大ヒットこそ無くなったものの、依然新しいいものへの挑戦は続いており、2006年から毎年グラミー賞にもノミネートされている。またビートル・ポールとしてライブも積極的で、2002年には9年ぶりに全米アメリカツアーを行い、アルバム「バック・イン・ザ・US」はミリオンセラーとなった。ジョンがヨーコによってビートルズの軛から逃れ出たように、ポールもまた「ビートル・ポール」を手名付けることによってビートルズの軛から逃れたのである。

ヨーコによるジョンの神格化活動とポールの停滞

ヨーコは、ジョンの名声をさらに高めるため、ジョンの死を用いて、ジョンの「平和の使者」化を徹底的に推し進める。平和のための基金を設立、集められた資金を基に今度はヨーコが平和運動を始めるのだが、それはヨーコがプロデューサーとなり、死んだはずのジョンを前面に打ち出すというものだった。その際のいわばテーマソングは'Imagine'。これによってジョンの死後、ジョンの代表曲といえばビートルズの曲ではなく、この'Imagine'が取り上げられることになった(一方、ポールといえばウイングス以降、大ヒットを連ねたが、代表曲といえば依然としてビートル・ポールの'Yesterday'にとどまっている)。

ヨーコのジョンを全面に打ち立てた平和運動は、ジョンの神格化によって高い支持と資金を集めることに成功する。ここでもジョンの名声をメディアにアートとビジネスを融合してしまうしたたかさを見せた。それによってヨーコの名声も同時に高まっていく。それはジョンの名声を高めることとイコールだった。ヨーコは自らの音楽アルバムをコンスタントにリリースするようになる。ただし、アルバムのジャケットには必ずジョンの姿や面影が映し出されていた。アルバム「イッツ・オールライト」に至っては、ジョンが凶弾に倒れたときにかけていたメガネが血の付いたままアップで映し出されていたのだ。この形而下的な「商魂」は、ある意味スゴイ。舌を巻く。

一方のポールだがジョンの死後まもなく、アルバム「タッグ・オブ・ウォー」をリリース。プロデューサーにビートルズ時代のジョージ・マーティンを迎えたこのアルバムは、ソロとしては最大のヒットを飛ばす。シングルカットされたS.ワンダーとのデュエット'Evony & Ivory'も大ヒット。つづく自らが手がけた映画のサウンドトラック「ヤア!ブロードストリート」は映画こそ大コケするが、アルバム自体はいつも通りの売り上げを示した。ただし、それ以降がジリ貧。かつての輝きを失うかのように80年代、ポールはパッとしない活動状況となってしまった。

ネオ・ビートル・ポールとしてのビートル・ポールの肯定

再びポールの周辺が活気づくのは90年にリリースされた「フラワーズ・イン・ザ・ダート」。このアルバムが高い評価を獲得する。そしてその直後、ポールはワールドツアーを敢行。おおっぴらにビートルズを歌い、大喝采を浴びる。つまり、ポールは80年代の終わりから「ビートル・ポール」を肯定することで、自らの足場を再構築することになっていったのだ。もちろん、これはポールにとっての後ろ向きの姿勢ではなかった(つまり、年寄り向けのオールディーズ・ミュージシャンとしての位置づけではない)。相変わらす創作意欲は旺盛で、これ以降もコンスタントにアルバムをリリースしていったのだ。だから、ポールもまた「ビートル・ポール」から脱却したことになる。あるいは手なずけたといったほうがいいのかもしれないが。ジョンが「ヨーコ・ジョン」となったのに対し、ポールは、いわば「ネオビートル・ポール」となったのだ。もはや自分が「ビートル・ボール」と言われることなど、どうでもいいといった認識だったのではなかろうか。

さて、そんな中で僕が掲載した記事が、本特集のジョンにばかり光が当たり、ポールはむしろ影として位置づけられているというものだったのだ。ヨーコによるジョンのプロモーションは、90年の時点で、かなりのレベルで成功を収めていたということになる。(続く)

80年代、ジョンはその死によって神話化され評価を一気に上げていく

死亡時点ではまだ「ビートル・ジョン」だった

この構図が逆転するきっかけとなったのは、ジョンの死だった。
1980年12月、ジョンはニューヨークの自宅のあるダコタハウスの前でストーカー的なファン、マーク・チャップマンに射殺される。日本でのジョンの死のニュースの一報を午後七時のNHKニュースは「イギリスのロックグループ、ビートルズの元リーダーのジョンレノンさんが8日、自宅前で射殺されました」と報じた。この報道は当時のジョンに対する社会的なを明確に示している。この時点でジョンは「元ビートルズのリーダー」、つまりジョンは一般には「ビートル・ジョン」と見なされていたのだ。実際ジョンの死に至るまで、ビートルズの再結成については何度もウワサにあがり話題になってきた。それほどビートルズというのはジョンにとっての大きな足かせでもあったわけだ。世界はジョンでなくビートルズを欲しているといった文脈は、この頃にはまだしっかりと息づいていた。

アルバム「ダブル・ファンタジー」の奇っ怪なオンエアーのされかた

ところで、射殺直前、ジョンは五年ぶりにヨーコとのカップリングアルバム「ダブル・ファンタジー」をリリースしている。ファン待望の新アルバムではあったが、やはりヨーコとのカップリング(一曲ごとにジョンとヨーコの曲が流れる)には批判が集中。「怪しい日本人、ビートルズを解散させた元凶・小野洋子に相変わらず毒されている哀れなジョンがいる」とのイメージは続いていた。FM曲はリリースと同時にこのアルバムの曲を紹介していったが、このアルバムの紹介の仕方は通常とは異なっていた。当時、FM放送ではメジャーミュージシャンがアルバムをリリースするとその片面のすべてを番組で流すというのが恒例だった(これはリスナーがカセットデッキでエアチェック(つまり録音する)ということを前提としてのサービスだった。リスナーたちはエアチェックでアルバム購入のための品定めをおこなっていたのだ。言いかえるとFM曲がアルバムを流すことは購入を促す手段だった(もっともカネのない高校生レベルだとエアチェックでおしまいだったが))。だが、このアルバムに関しては両面すべての曲を紹介したのだ……ただし、ヨーコの作品をすべて外すというかたちで。つまり結果としては紹介された曲数はアルバム全体の半分だった。

ヨーコによるジョン神格化の始まり

シングルカットされた'Starting Over'はジョンの死が呼び水効果となって大ヒットする。そしてジョンの死後、しばらくはジョンに対する極めて長い追悼がおこなわれたのである。この追悼ムーブメントの実質的な指揮を執ったのはヨーコだった。ヨーコは現代芸術のアーチストという形而上的な側面と、ビジネスマン=プロデューサーという形而下的な側面を併せ持つ特異なキャラクターの持ち主。ジョンが活動を休止した後、事務所の資産運用で財産を倍に増やすという辣腕を見せている。また70年代、ジョンを平和の使者のように仕立てたのもヨーコといえるだろう(近年、ヨーコは'Imagine'の作詞を実質的に行ったのは自分だったと告白している)。この後者の才能をジョンの追悼で遺憾なく発揮するのである。80年以降、ヨーコはジョンの神格化の作業を徹底的に推し進めるようになるのだ。(続く)

70年代、ポールが圧倒的評価を勝ち取る


ジョンの気まぐれ

70年代に入り、ソロになった二人はそれぞれにアルバムを発表していく。当初、ジョンはビートルズの呪縛から逃れたこともあって飛ばしていた。「イマジン」「ジョンの魂」と、内省的な楽曲が並ぶ二つのアルバムは、ジョンを「ノリノリのリズミカルなミュージシャン」の側面より、もうひとつの「ボブディランに匹敵する内面を深く表現できるミュージシャン」という側面を強調するものとなる。ただしジョンのアルバムに対する当時の評価は全面的評価を受けていたわけでは必ずしもない。政治的色彩、実験音楽的色彩が深く(これ自体はヨーコの影響と呼ばれ、これによってヨーコはバッシングの対象になる)、それを評価するかしないかという点で、意見が分かれたのだ。とりわけヨーコとの実験「ウエディングアルバム」や「Sometime in New York City」などはその典型で、後者のアルバムのジャケットには合成で毛沢東とニクソンが裸で向かい合って踊る写真が掲載されていたほど。それゆえ「イマジン」「ジョンの魂」二つのアルバムに対する圧倒的な評価はむしろ死後になってから成立したものとみなすべきだろう(これについては後述する)。その後「ヌートピア宣言」「心の壁、愛の橋」などは、アルバム的に見ても統一感に乏しく、曲調も以前の焼き直し的なモノも多く、評価的にもイマイチ(個人的にもかなり聞きづらかったという記憶がある。この二つのアルバムは子供心にも「なんだかなあ?」という感じでもあった。で、ジョン自身もこのアルバムの頃のコンディションの悪さをインタビューで告白している。この時、ジョンはヨーコと別居し、ハリー・ニルソンとひたすら酒を飲み続けていた)。そしてこの後、息子、ショーンの誕生とともにジョンは「ハウスハズバンド=主夫」としての労働に専念、75年以降はほとんどミュージックシーンに顔を出さなくなる。とはいうもののもう活動中止近くの頃には、ヨーコとの絡みもあってジョンは「一種近づきがたいあやしい存在」として扱われていたことも事実だった。

ウイングスでやりたい放題

一方ポールの方だが、ビートルズ後期のこの勢いをそのまま持ち越し、同様に、いやジョン以上に飛ばしていた。解散のゴタゴタの中で発表されたソロアルバムこそ不評だったが(「マッカートニー」や「ラム」など。しかしこれらアルバムは再評価される)、ウイングス(結成当時はポールマッカートニー&ウイングス)結成以降はシングル、アルバムともに爆発的な売り上げと評価を獲得していく。「バンドオンザラン」「ビーナス&マース」「スピードオブサウンド」「バックトゥージエッグ」「ロンドンタウン」「マッカートニー?鵺」などコンスタントにアルバムをリリース、シングルも'Live and let die'My LoveBand On the RunJetListen to what the man saySilly Love songBack to The Egg''Coming up'などと次々とヒットを飛ばし、八十年代で最もレコードを売り上げたミュージシャンとして名声をほしいままにするのである。この時期、ジョンが、いわば冬眠する間に、明らかにポールは時代を先導していた。

1990年のジョンとポール

もう18年も前の1990年、僕は「ジョンとポール、光と影」というタイトルで毎日新聞系の雑誌にコラムを書いたことがある。その時、僕が著したのはビートルズの二人、ジョンとポール二人に対する評価の落差ついてだった。あらましはだいたい次のようになる。

「近頃、ジョン・レノンの評価が上がっている。と同時にポール・マッカートニーはその黒子のように評価を下げている。ポールは昨年と今年(89年と90年)、来日し東京ドームなどでライブを行い、大成功を遂げている(このライブではアルバム『アビーロード』のB面メドレーをライブで全曲演奏するという離れ業を見せ、聴衆の度肝を抜いた)のだが、なぜジョンの評価ばかりがあがってポールはイマイチなんだろう。

それはジョンが80年に40歳という若さで逝ったから。つまり美しいままこの世から去っていったからだ。一方で50になろうとしているポールがその老醜をさらしている。そしてリスナー・聴衆たちもまた若き頃ビートルズを聴き、そして齢を重ねている。だからリスナーはポールの老化に自らの加齢を実感するの余儀なくされる。一方、ジョンは永遠に40歳のまま。ジョンを信奉しポールの評価を下げるのは、自らの現実を直面したくないからにほかならない」

まあ、こんな下りだった。なかなか乱暴なことを書いたものだなあと思えないこともないが、僕の18年前のエッセイが間違いなく正確に語っていることは、この時期、拮抗していたジョンとポールの評価に落差がつき始めたということだろう。言いかえれば、ジョンが存命の頃(つまり70年代まで)、二人の評価は常に拮抗し、さらに二人のビートルは常にメディアによってライバルとして比較の対象にあった。そして、ビートルズ解散後、しばらくの間の評価はむしろポールの方が高かったのだ。この評価の変容を今回はちょっと追ってみたい。

ビートルズ時代~ジョンに始まりポールに終わったビートルズ

評論家の中山康樹が著した著書『これがビートルズだ』(講談社現代新書)は、ビートルズ時代のジョンとポールの音楽に対する変化を見事に捉えている。その流れを簡単にいってしまえば、ビートルズにおける音楽構想のイニシアチブがジョンからポールに変わっていくということになるのだが、これの主張は後の楽曲の評価、売り上げなどと照らし合わせてみれば極めて合点がいくものだ。ビートルズ時代の前半と後半で考えてみよう。前半を66年くらいまで、それ以降の解散までを後半とここでは区分していく。

前期のジョンの曲と言えば'Please Please MeShe loves youTwist &ShoutI wanna hold you handFrom Me to You'’A hard Days NighHelp'ととにかく珠玉の傑作ノリノリナンバーが続く。一方、ポールといえば'Yesterdayhen I am 64'などがあるがジョンの圧倒的パワーにかき消されるという感じだろう。この時、天才・ジョンの才能に世界中が狂喜していた。

ところが後期となるとこれが全く逆転する。ジョンは'I am WalrusStrawberry Fiels ForeverCome 
Together'などがあげらるのだが、ポールとなると'Magical Mistery TourHey JudeBlack BirdOb-La-Di Ob-La-DaLet It BeThe Long and Winding RoadGet Back'などなど「後期のビートルズといえばこれ」という曲が連なる。ポールもジョンに負けずノリノリではあるのだが、後期の一連の作品は、構成的にしっかりしているというのがジョンとは異なっていた。いわばこちらの天才はジョンより努力家であった。

中山の著書は、どちらかというとポールに荷担しているという印象が強く、おかげでネットのブックレビューではジョンの信奉者たちにボロクソに評論されている(「ビートルズ好きおやじのたわごと」みたいな罵詈雑言)が、少なくとも中山が自らの主張を展開するたたき台としてサウンドの主体がジョンからポールへと変化していったことを指摘していたことは、歴史的評価からも正しいと言えるだろう。そして70年代、この勢いはそのまま続いていったのだ。(続く)

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