勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年07月

実は野球をめぐる物語、夢の演出は続行されている

夢=物語+キャラクターの図式が登場するのは個人の資質ではなく、実はメディア・イベント、つまりメディア、とりわけテレビによる部分が大なのだ、という文脈で議論を展開している。しかもテレビの政治として。

で、このことは、現代の野球においても同様だ。実は、野球というスポーツをめぐってドラマは依然として展開している。現在、プロ野球はほとんどドラマらしきものを失ってはいる(新庄という、特異な物語喚起能力のあった例外的キャラクターを除く。あれはメディアの上を行ってしまった特異な存在だ)。しかし、ちょっと目先を変えてメジャーリーグを考えてみればどうだろう。なんのことはない、人々は巨人の選手は知らなくとも、野茂、イチロー、松井、松坂、岡島、城島なら知っているし、この選手の今日の成績も結構知っている。これは大リーグという、より物語を喚起しやすいステージをメディアが見いだし、大リーグにもかかわらず、日本人選手に特化するかたちで報道を積極的に展開しているからだ。

そのドラマのキャラクターの先鋒としてあげられたのは野茂英雄だった。野茂はプロ野球界のバッシングにもめげることなく95年、単身渡米。大リーグピッチャーとしてデビューし、新人王と三振奪取王を獲得する。この「蛮行」、しかしメディア的に極めてキャッチーな出来事(つまり、これは「逆黒船」だったのだ。つまり攻められっぱなしの日本がアメリカに攻め入ったことに日本人は拍手喝采した。またこれは待望されていた日本人の大リーグでの活躍の実現でもあった)にメディアは一斉に注目。そこでは野茂をめぐってドラマが展開され、人々はこれに大いに注目した(野茂はしゃべりがヘタで、記者会見でもほとんど何も話さない。つまり、トルネード投法という特異なピッチングフォームを除いて個人としては物語喚起能力が極端に低いキャラクターなのだが、そんなことはもはや問題ではなかった)。ちなみに、この時、最も野茂の報道に力を入れていたのがNHKだった。NHKはBS放送の普及コンテンツの一つとしてそれまで大リーグ中継を行っていたのだが、なかなか実を結んではいなかった。そんなとき野茂という存在はその普及のためにの格好のキラーコンテンツと映ったのだ。その年、NHKはBS放送において野茂が所属したロサンゼルス・ドジャーズのホームグラウンドでの全試合を中継する。いうならば、この大リーグブームもメディアコンテンツ普及のための手段。それがメディアイベント化したわけである。

そしてその後、イチロー、松井、松坂が大リーグ入りしたことはもはやいうまでもないが、やはりこの時もメディアは彼らを大々的に取り上げ、キャラクターと物語を配置し視聴者に夢を提供したのである。

そう、こちらも野球、ただし大リーグになっただけ。メディアがプロ野球から大リーグに鞍替えし、夢をまた演出しているのは、専らメディア=テレビ側の都合なのだ。(続く)

名選手が出なくなったわけ

なぜ、プロ野球マスターズリーグに観客が押し寄せ、一方でホンモノのプロ野球の試合では球場に閑古鳥が鳴いているのかについて考えている。そして、前回、その原因が物語り喚起能力の現象とキャラクターの不在によって観衆が野球に夢を抱くことができなくなったからだと述べておいた。

では、かつての選手に比べ現在の選手は人間味が無くなって、聴衆に物語を喚起するようなことができなくなっているのだろうか。そして強烈な個性を発揮できなくなっているのだろうか。つまり選手は小粒で平凡な存在になろうとしているのだろうか。いや、実はそうではない。新庄みたいな国民全体を巻き込むような選手もいたわけで、人間自体はさほど変わっていない。だから早急にキャラ不足と一括りにしてしまうのは的を射ていない。で、メディア論的に考えれば、物語+キャラクター=夢の図式が崩れたのはキャラクター自身の問題よりも、むしろ物語を描かせることのできない社会状況が訪れたことが原因、つまり周辺的な要因が大きいということになる。

物語とキャラ、つまり夢を生産したのはメディア

かつて日本人にとってプロスポーツといえば野球と相撲の二つだけだった。そして、このどちらもテレビの普及に際し、キラーコンテンツ=テレビ普及の目玉としてメディア側はこれらを積極的に活用した。前者は日本テレビで、その結果、我が国では日本テレビがスポンサーである巨人が圧倒的な国民的人気を獲得することになる。後者はNHKだ。だから、この時代(おおむね三十年以上前)、人々が娯楽として楽しむスポーツに関わるメディア・コンテンツといえばこの二つを除くとほぼ存在しないに等しかった。六十年代、子どもたちが好きなものを表現するものとして「巨人、大鵬、玉子焼き」があったが、まさにこの言葉は、当時のスポーツに関する人々の注目が極めて限定されていたことを象徴している。国民すべてがこの二つに注目し、だから、この二つのスポーツを中心にいろいろな思いをめぐらしたのだ。つまり、ものすごく多くの人がたった二つのスポーツを対象に思いをめぐらし、コミュニケーションした。だからそこには物語とキャラクターをコマにした夢がいくつも作られていったのだ。いわば、この二つのスポーツジャンルは時代のスケールメリットという恩恵を被っていた。だからこそ、この恩恵を背景に様々なドラマ=物語とキャラクターが作られたのである。

さらにこの時、プロ野球の場合には日本テレビの思惑がこれに拍車をかけることになる。日テレはテレビ普及のためのコンテンツとして読売巨人軍を用意し、さらにこれを徹底するために王、長島という特化したキャラクター=スターを配置。満を持してこの二人を天覧試合に出場させたのである。で、このお膳立てに長島が見事に応え、サヨナラホームランを放つ(ちなみにこの時長島は二本、王は一本ホームランを放っている)。その後、長島はミスター、つまりミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球として神話化。様々なドラマを演じていくのである。だがこれは言い返せば傾斜生産、傾斜投入的なメディアの長島への演出を行わない限り、決して生じる事態ではなかった。つまり物語というのは当人の個性であるとか物語喚起能力である前に、メディアがイベントとして取り上げるか否かによってその成立が決定するのである。要するに「夢」は相当部分メディアが演出している。夢のヘゲモニーを握っているのはメディア、さらにつきつめればテレビと言っても過言ではないのである。(続く)

モルツ球団にファンが大集合!

7月14日、東京ドームでプロ野球のOBからなるドリームチーム、サントリー・プレミアム・モルツ(大沢啓二総監督、山本浩二監督)対甲子園出場経験のあるプロ野球OBチーム、甲子園ヒーローズ(東尾修監督)の試合が行われた。両軍に懐かしのプロ野球スターたちが出演。東京ドームはなんと43000人の観客が押し寄せた。東京ドームの収容人数は45600人。つまりドームをほぼ満杯にしたというわけだ。

それにしても、この盛況は不思議だ。引退した技術などとっくに衰えている人間が選手、そしてスターとして扱われ、それを多くの観客が嬉々として見物に押し寄せる。しかも、観客たちは大いに楽しみ、満面の笑みを浮かべた後、満足して家路につくのだから。TBSが日曜日の報道バラエティ番組、サンデーモーニングのスポーツコーナーで後押ししているという広報活動もあるが(ちなみに、この時のスポーツ解説は総監督の「大沢親分」こと大沢啓二とGMの張本勲。そして、このコーナーでは名セリフの「渇!」が生まれている)、正式のプロ野球の観客動員数の少なさを踏まえれば「なんでこんなチョー・ロートル選手たちの試合が見たいんだ。実際、腹は出てるし、走れば息が上がるし、ボーンヘッドは茶飯事だし」とツッコミを入れたくもなる。

でも、この観客の気持ち。僕にはよく理解できる。観客たちが見たいのは現在のプロ野球に根本的に欠けているもの。観客たちはそれを埋め合わせに来ているのだ。それは、もっとも包括的な言葉で表現すれば「夢」と言うことになるだろうか。


スポーツに必要なのは物語とキャラクターからなる「夢」

ではこの「夢」の成分とは何か。
スポーツの本当の醍醐味、それは記録や超人的なプレーより、強烈なインパクト、そして記憶にある。もはやベタな表現の仕方だが「記録」より「記憶」なのだ。どんなに超人的な存在ですばらしい記録を残そうとも、それは名選手、名勝負にはならない。例えば名勝負と言ったら必ずあげられるのが1.長嶋茂雄の天覧試合、2.江夏の21球、3.甲子園星稜対箕島戦といったところだが、1は単に長島が天皇の前でホームラン打った、2は九回に自らのミスで満塁にしてしまった江夏がこれを切り抜け優勝した、3.偶然に偶然が重なった結果18回の死闘を演じたというもので、それぞれの記録には関係がない。また名選手といったところで長島や清原みたいな選手があげられたりするが、この選手たちよりもっとすばらしい成績を上げた選手は結構いる。しかし、われわれのスポーツ観戦体験として強く刻まれるのはこういった強烈なインパクトを持った事柄、人物なのだ。

そして印象に残る名選手というのは、こういった強烈な出来事=物語、つまりドラマの中に登場することでできあがる。その時に起きた強烈のドラマなの中のキャラクターとして強くわれわれを記憶に刻まれてしまうのだ。つまり、かつてはこういった名勝負がたくさんあり、それゆえ名選手が多数輩出したというわけだ。われわれはそこで物語とキャラクターのコントラストにイマジネーションを膨らまし「夢」を抱くことができた。だから、記録はあまり関係がない。

マスターズリーグに登場するかつての選手たちは、そういったキャラクターとして位置づけられた面々だ。阪神の春団治・川藤幸三、マサカリ投法・村田兆治、親分・大沢啓二、アジアの張本・張本勲、ケンカ投法・東尾修、史上最強の助っ人・ランディバース、ささやき戦術/インチキデッドボール・達川光男……どの選手にもキャッチフレーズが付き、往年の活躍時のドラマを思い出させる(キャッチフレーズは彼らがその渦中にあった物語を指し示している)。マスターズリーグは、こういったかつてのすばらしいドラマ=物語、をもう一度再現してくれる夢=ノスタルジーを備えている。だから、見ないではいられないというわけだ。

それが、今や選手の名前すら分からず、ドラマも感じられないプロ野球となってしまった(一昨年、新庄がかろうじてドラマを演じて見せてくれたが)。「今や選手がすっかり小粒になってしまった。だから夢を見ることも出来なくなってしまった。最近の選手はなっとらん」、と思わずいってみたくもなるのだが……いや、それが違うのである。そんな、ジジイの正当化みたいな話では、この現象は説明できない。もっと別が要因が絡んでいるのだ。(続く)

絶体絶命の中での、代打逆転満塁ホームラン

映画「ニューシネマパラダイス」の主人公トトと恋人エレナが結ばれるシーンの映像構成の分析をおおくりしている。三つのコントラストの内の、今回は二つめと三つ目にメスを入れる。

やるせなく、ニューシネマパラダイスの映写室に戻ってきたトト。腹いせに映写機に貼り付けていた去年のカレンダーを剥がし、ビリビリに破いてしまう。そして頭を映写機にぶつける。カメラは場面転換することなく、ゆっくりとトトに向かっていく。この悲しみ、苦しみは実に切なく映る。ところが、その時「サルバドーレ(トトの正式名)」という声が……。なんとエレナが自らニューシネマパラダイスの映写室にまでやってきたのだ。エレナは兵士=トトの思いを感じ取った王女としてやってきたというわけだ。そして、この時、われわれはハッとさせられる。われわれがつい今し方まで見ていた映写機の前で悲嘆に暮れるトトの映像の視点がエレナの目線からの映像であったということに気付くのだ。そして、徐々にトトに向かって近づいていることも。これはエレナがトトに話しかけた瞬間、このカメラは第三者の客観的な視点になることでわれわれにフィードバックされる仕掛けになっている。だから、ハッとするのだ。

二人は近づき抱擁し合うのだが、この時、積極的にアプローチをかけるのはトトよりもむしろエレナである。エレナはトトのガンバリに報いようとしているという演出。そして、エレナが近づいていく映像が今度はトトの視点に変更される。トトは遂に満額の回答を獲得したのだ。手をさしのべていくのも、キスを働きかけるのもエレナの側。まさにエレナはトトにメロメロになっていた。

観客であるわれわれとしては、見事な手品を見せられた気分に浸ることができる。あれだけ落としておいて、場面が変わってもさらにガッカリした状況で、突然思いが叶う、つまりエレナが登場するのだから。花火のコントラストと同様、このどん底まで突き落としてからの突然の持ち上げは、こちらをまるでジェットコースターに乗せたような心理状態に陥れるのだ。観客の多くは、ここで思わず涙してしまう。

そこまでやるか~?の演出。トルナトーレは執拗だ!

だが、このコントラストを極端にすることで、観客を感動の坩堝に巻き込むトルナトーレの手法はさらにダメを押す。

激しく抱き合い、キスをするトトとエレナ。すると、上映されている映画の前半が終わり、フィルムのリールが空回りしはじめる。後半のフィルムを装填して続きをはじめないトトに業を煮やした客席の観客たちが、トトに罵声を浴びせる。ところが、二人は愛し合うことに夢中で、そのことに全く気がつかない。一方、この時、観客たちは客席の中で傘を差している。雨が降ろうが映画を見たいという観客たちの映画に対する情熱もスゴイ。しかし、二人はそんな情熱よりもさらに上を行くというわけだ。今度は共同体の人々の映画に対する情熱とトトのエレナへの情熱のコントラストを用いることで、トトの気持ちを強さをデフォルメしているのだ。

そしてこのシーンのラスト。二人が抱き合う画面の左には空回りするフィルムが映し出されるのである。(続く)

オマケ:ロマンスシーンの演出テクニック

最後に、映画の構成の仕方として超ベタでありながら、ほぼ完璧と思われるシーンのテクニックをこの映画の1シーンから紹介しておこう。それはトトがエレナを口説き落とす一連の過程だ。ここでは三つのコントラストが用いられ、見ているわれわれの涙腺を緩ませる。

エレナが好きでたまらないトト。しかし、彼女の前に出ると緊張してしまい、雷が鳴りそうな状態で「今日はいい天気だね」と言ってしまったり(直後雷鳴がとどろく)、思い詰まって電話で告白すると、なんと相手がエレナの母親だったりと、失態を繰り返す。

そこで、トトはこの悩みをアルフレードに告白する。するとアルフレードは兵士と王女の「おとぎ話をはじめる」。あまりに強い恋心で耐えられなかった兵士が王女に告白する。それに感動した王女は「百日の間、私の部屋のバルコニーの前で待って。そうすれば私はあなたの元へ」と約束する。

この物語を聞いたトトは、自分を兵士、エレナを王女と見立てこれを実行する。ただし、バルコニーの下で待つと宣言したのはトトの方。演出の妙はここからだ。

徹底的に落胆を演出する手法~落胆と歓喜のコントラスト

エレナに荒行を宣言した夏の日以降、トトはシネマパラダイス終了後エレナの家の前で毎日のように待ち続ける。だが、秋、冬と時は過ぎていく。このガンバリにエレナは徐々に心を開いていく。エレナ、実は部屋のブラインド越しにトトを見ていたのである。

1955年の大晦日の夜が訪れた。トトはいつものようにエレナの家の前で。あたりは新年を迎えようとする人々が家の中で、その瞬間を今か今かと待ち受けている。そして、彼らはみんなで、そして大声でニューイヤーのカウントダウンをはじめるのだ。すると……エレナ部屋のブラインドが動いた。トトの期待は高まる。もちろん映画を見ているこちらも同じ期待を抱く。カウントダウン終了、新年の開始と同時にエレナはことブラインドを開け、トトに彼を迎えるあいさつをするのでは。つまり、新年の始まりこそが兵士と王女の物語の百日目にあたるのでは、と。

ところが、期待に反してブラインドは閉じてしまう。その動きは開けるのではなく、完全に閉めるためのものだった。トトは強く落胆する。そしてここで哀愁を帯びたマイナーコードのBGMが。だが、トトを除くジャンカルドの人々は別だ。新年が明け、大喜びで雄叫びを上げる。その叫びが響き渡る中、トトはコートに襟を立て、寂しそうに道を歩き始める。通りの窓からは酔っぱらった住民がワインのボトルを次々と道ばたに放り投げ賑やかさを助長する。そして、トルナトーレはこの歓喜と落胆のコントラストを一層強調するために、道の先に花火まで揚げてしまう。人々の新年の歓喜が高まれば高まるほど、トトの無念さが強く、見ているこちら側に伝わってくるのだ。寂しいのはトトだけ。そう、トトは、そしてわれわれは深い絶望に陥れられる。(続く)

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