地元で当たり前すぎると、記号化されない
ローカル・フードが記号化されない理由はもう一つある。それは、地元の人々にとって、あまりに当たり前であるため、文化として相対化されず、語られることすらないという状況があるからだ。いいかえれば透明な水のような存在で語彙としては扱われていない。これもまた「記号されない」メカニズムの一つである。前述した宮崎のうどんやラーメンがその典型で、地元の人間たちはこれを文化とも思っていない。いいかえれば、そんな仰々しく考えるものではなくて単なる日常の一部としてしか見なしていないのだ。うどんはああいうもの、ラーメンもああいうもの。どちらもただの「うどん」そして「ラーメン」。マルクス的に表現すればすべて即自的存在なのだ。
宮崎にいた頃、僕の学生に「熊本に就活に行くんですけど、おいしい熊本ラーメン屋さんに行きたいので紹介してください」とたずねられたことがある。そこで僕は熊本駅前にある「黒亭」(こくてい)を紹介した。で、後でその感想を聞いたところ「う~ん、ただしょっぱいだけで、甘みが足りないですね」。この学生がこんな感想を漏らしたのは「ラーメンというのは多少甘いもの」というとが、存在論的に前提されたているから。つまり、この学生は宮崎ラーメンが「ラーメンの味の基本」としてあり、これを基本=土台に、その差異として熊本ラーメンを語ったのだ。しかし、肝心の宮崎ラーメンのテイストについては全く相対化がなされていない。ラーメン=宮崎ラーメンとしか考えていないので、熊本ラーメンにやったような他者の視線からの評価を宮崎ラーメンにすることが出来ないのだ。
で、ここまで味覚が身体化されていると、それが当たり前ゆえ、語彙として明示化されることがない。これが結果として、文化としては記録されないという事態を起こし、だから記号化されずにローカルエリアにくすがったままという状況を生むのだ。
マーケッターよ、もっとクリエイティブになろう
さて、こういうふうに考えると、日本全国にはまだまだ「記号化」されず埋もれたままの食文化がものすごくたくさんあるということが見えてくる。で、僕は提案したい。こういったものを発掘するというのが食文化における新しいマーケットを開拓するよい方法なのではと。具体例を挙げれば前述した静岡おでんだ。これは、地元では駄菓子屋に埋もれていて「言葉=記号」になっていなかったものを「記号化」することで全国的に認知させることに成功した好例だろう。タイ料理、ベトナム料理もいいけれど、実はこういった日本に根付いた食文化の発掘のほうが日本人にはしっくり来る、そしてずーっと親しみ続けるようなものになることができるのではなかろうか。
マーケッターのみなさん、がんばってください!掘るべき穴は意外に近くにあるはずですよ。