勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年06月

おバカキャラ、ブレイク!

クイズ番組「クイズ・ヘキサゴン」がきっかけで、オバカキャラが突然ブレイクしている。なんの芸風もないと見られている、これらのキャラクター。とにかくとんちんかんな返答をし、無知をさらけ出す。そのバカさ加減がうけるという妙竹林な事態が。おバカユニット「羞恥心」は、シングル第2弾「泣かないで」もオリコン初登場第2位という勢い。川崎ラゾーナのイベントでは一万二千人を集めたとか。さて、おバカキャラが突然注目されはじめているのはなぜなのだろうか?実は、これこそ、時代のメディアリテラシーを測定する一つの指標に、僕には思えるのだ。


お笑い若手芸人は、おバカキャラに、ヘタすると負ける!

おバカキャラがなぜ受けるのか。それは、ここ数年の若手お笑いブームが関係していると僕は読んでいる。

若手お笑い芸人は「エンタの神様」などで、短い時間を与えられ一発芸、より厳密に表現すれば一発ギャグ、一発コピーで人気を取り付けるというパターンがほとんど。で、受けるのはこの一発ギャグである。「がっかりだよ~っ!」「そんなの関係な~い」「グ~ッ」「ヌーブラヤッホー」「ルネッサ~ンス」みたいなのがその典型。言いかえれば、この一発ギャグが当たれば人気を獲得するし、外れれば全くブレイクしない。さらに、このギャグが飽きられれば捨てられる。ということは、受けているのはこの「ネタそれ自体」である。で、これら芸人はほとんど「芸」は全く持って無いに等しい。出来ても、せいぜい素人芸だ。あるいは一発ギャグ以外は極めてベタなネタのフリとなる。で、このレベルに視聴者はすっかり慣れている。こちらの方はかなりおもしろくない。だから、この一発ギャグだけをおいしく消費し、あとはさっさと捨てるというメディアリテラシーが染みついているのだ。

で、こんな状況でお笑いがとれているとなると、これはおバカキャラにとっては好都合ということになる。彼らは若手お笑い芸人に比べて遥かにアドリブが豊かだからだ。いやそれは、厳密に表現すれば「豊か」ではない。天然で、ボキャ貧(語彙の絶対数が少ない)で文脈が読めないため、完全にKYな話や単語を羅列する。これが破天荒で定型にはまらない。で、それが結果としてオリジナリティとなり、あたかもアドリブが豊富なような事態を結果する。視聴者はおバカが次にどんなことを言い出すかに期待を寄せる。で、それが予想だにせぬ展開ゆえおもしろい。これは若手芸人でもマネの出来ない、ある意味、クリエイティブな「芸風」と言える。

また、おバカキャラはもう一つ利点がある。それは「おバカ」であると認定されていることだ。視聴者もこの立ち位置で彼らを見る。つまり、自分よりも頭の悪いヤツが芸人をやっているという認識である。ということは、芸人であっても見下げた存在。自分は優位な立場に立ちながら、彼らのどこから何が出てくるか分からないしゃべりを楽しみにすると言うことになるのだ。視聴者の優越感も満足させてくれるというわけだ。

賞味期限は短い

ただし、彼らもまた若手芸人同様、賞味期限は短いだろう。もとよりこれは天然、芸ではないし、第一圧倒的なボキャ貧=語彙不足の状態にある。表現力が豊かというわけでもない。ということは、テレビに露出し続ける内に、この語彙の少なさが仇になってくる。つまり、現在こそKYなので他に比べて際だって見えているが、やがてこのおバカにはおバカなりのパターンがあることが視聴者には分かってくるはずだ。そして、そのパターンに恐らく視聴者たちは早々に飽きてしまうだろう。ということは、現在人気を博しているおバカの寿命もあまり長いことはないと言うこと。ユニット・羞恥心、一年後には確実に消えているだろう。

ただし、おバカキャラというカテゴリーをメディアが発掘したことは大きい。恐らく今後次から次へとおバカが発掘されていくだろう。そして人気を獲得するだろう。そして速攻で消えていくだろう。そう、さながら一発ギャグで打っている若手お笑い芸人のように……

月日が経ち、齢を重ねると

映画・インディージョーンズも「レイダース」から「クリスタルスカルの王国」まで27年が過ぎた。「レイダース」の頃、ルーカスとスピルバーグは三十代。そして現在、この二人はもう還暦を過ぎている。で、年齢を重ねると、いちばん落ちるもの。それは”しなやかさ”と”スピード感”だろう。経験や知識が全面に現れ成熟、あるいは熟成する半面、勢いといったものがなくなっていく。映画監督の場合、この傾向はかなりの確率で見受けられる。二人が師として崇敬する黒澤も晩年はやはりなかなか観るに堪えない、観る側がつらくなるという映像が結構あったのだが、これもスピード感(たとえば「七人の侍」「用心棒」で感じられたような)の喪失と、ストーリーにおけるしなやかさの消滅(シーンとシーンのつなぎ目がハッキリと見えてしまう!)がそう感じさせたように思う(この二つは、実は同じことの二つの側面なのだが)。たとえば「乱」に出てくる戦いのシーンは、黒澤お得意の馬のシーンも含めて、実にもったりとしていて、ややもすると興を削いでいた。「ああ、ダシが出っきっちゃったなあ!」と思わないではいられなかったのだ。

で、この傾向。もう十年くらい前からルーカス、スピルバーグ二人にも現れている。ルーカスなら「スターウォーズ、エピソード1~3」(1999,2002,2005)だが、第一作=4「New Hope」(1977)で、デススターの溝をルークがフォースで操る戦闘機・Xウイングで駆け抜ける時のようなスピード感はやはりない(誤解の無いように説明を加えておくと、1~3でもシーンそれ自体はスピード感がある。問題はシーンとシーンをつなぐスピード感、躍動感がないのだ)。スピルバーグにしても、とにかく既存のパターンを繰り返すだけ。だから、シーンとシーンのつなぎ目がハッキリ見える(これは「ジュラシック・パーク」(1993)でもはっきりわかる。「宇宙戦争」(2005)ともなるともう、ゴツゴツしていて、つなぎ目がものすごく気になるのだ。)。こうなると、逆にそれぞれのシーンで用いられているパターンが、妙にちんけなものに見えてしまうのだ(ちなみに、これと全く同じ現象によって、ひたすら退屈な映画を作っている日本の代表的な映画監督が宮崎駿だろう。「千と千尋の神隠し」(2001)や「ハウルの動く城」(2004)には「未来少年コナン」(1978,NHK)「ルパン三世、カリオストロの城」(1979)のような躍動感は、やはりまったくない。”老害”とはこのことだ)。

ゴツゴツとつなぎ目だけが目立つ映画

その結果、「クリスタルスカルの王国」はシーン間のつなぎが不自然でゴツゴツしていて、だからそれぞれのシーンにおけるパターンのベタさ、つまりあまりにお約束過ぎるところが逆に目立ってしまうのだ。で、観ているこちらとしては「ここはE.T」「ここは未知との遭遇」「ここはジョーズ」みたいなかたちでパターンの新奇性のなさが気になり、かつ時代の風雪には全くといって耐えられない技法が目についてくるわけで、これが結果として映画に対してシラケの感覚をもたらす。インディーに熱き思いを抱いていた40代以上の人間なら、この思いはひとしおだったのでは無かろうか。

おまえはもう、死んでいる

そう、二人とも、もう終わっているのだ。この二十年の間に、かれらのすべてのパターンを観客は堪能しつくし、「もうそれは観た」と言うようになっている半面、ルーカスとスピルバーグは「それじゃあ」と新しいものを繰り出してくる能力はもう無い。つまり終わっているのである。だから、僕は言いたい。「さらば、インディージョーンズ」と。

でも、インディージョーンズと同時代を体験してこなかった若い世代だったら、僕らが第一作の時に新鮮に見えたように、やはりこの映画に新しさを覚えるのでは?と考えたくもなるのだが……それもないだろう。インディー程度の特撮やアクションに今の世代はすっかり慣れきっているからだ(今回は極力SFXを排したらしいが……)。まあ、元はといえばSFXに慣れさせた張本人はこの二人なんだろうが……と考えると、やはり彼らの時代は終わっていると結論すべきなのだ。繰り返そう。「出がらし」で、「新しいものは何もない」(ちなみにスターウォーズの方は、それでもまだ観るに耐えるものだった。というのもSFXが最新だったからだ。なんのことはない、スターウォーズはI.L.M(インダストリアル・ライト&マジック=ルーカスが経営する特撮の制作会社)の見本市だから、最新のSFXを見ることが出来るからだ。ウォシャウスキー兄弟の新作・スピードレーサー(タツノコ・プロの「マッハ・ゴー・ゴー・ゴー」ですね)の特撮も同社が手かげている)。

ただし……

いや、ちょっとまて。そうでもないかも?よ~く考えればインディーが悪いんじゃない。ダメなのはルーカスとスピルバーグなのだから。そう、監督を別の人間にすればよいのかもしれない。だから正しくは「さらば!ルーカス、スピルバーグ」といったころだろうか。まあ、この後編を作る気がある人間がいればの話だが……まあ、いないかな?。ちなみに主演のはハリソン・フォードはすばらしかった。65歳,容姿こそ老けたものの、その動きはインディのそれ。いや、役者魂を感じました。

19年ぶりのインディー再会

インディー・ジョーンズ、第四作「クリスタルスカルの王国」を観た。全作から19年も経っていたらしい。つい昨日のことのように思っていたのだが……それだけ自分も老けたと言うことか?

で、鑑賞後の感想だが、今回ばかりはネットのレビューの趨勢を占める意見と同じような感想を持ってしまった。つまり「もう、いい」である。なぜ、そういう結論になるのか?個人的な感情は抜きにして、作品論として、結論を出してみよう。つまり、「もう、いい」というのは、作品として「もう、出がらしで何もない」「新しいものは何もない」ということを導き出してみたいと思う。

この映画はもともと出がらしなのだが……

映画のレビューをチェックしてみると、スピルバーグが「インディー・ジョーンズ」「E.T」「未知との遭遇」を単に組み合わせただけ、という「禁じ手」を使ったことに対して批判があった。たしかに、最後に登場した宇宙人は未知との遭遇で人類にあいさつした宇宙人と全くと言っていいほど同じだった(ただし、凶暴であったところは違うが)。こういう、手練れ、既存シーンのパターンを次から次へと出すようなやり方が批判のポイントになっているようだ。だが、この批判自体は、ちょっと当たっていないと思う。

もう、だいぶ前の話になるが1981年、第一作「レイダース・失われた聖櫃」が上演されたときも、玄人筋には評判が悪かったと記憶している。その批判のポイントは「ひたすらスペクタクル・シーンが続くだけの中身が空っぽの映画」といった文脈で展開されていた。で、ある意味この指摘は当たっている。インディージョーンズ・シリーズは元々ストーリーなんかどうでもよく、とにかくワクワクどきどきのシーンがエンドレスに続く「冒険活劇」。ということは、こういった「既存パターンで構成されるシーンの連続によるスペクタクル映画」が流行った1960年代半ばくらいまでのハリウッド映画や黒澤映画の手法、さらにはテレビの技法(トワイライト・ゾーンとか)をパクっているわけで、ということは今回は自分のネタをパクっただけのこと。基本的にやることは変わっていない。

第一作・レイダースが喝采を浴びた理由

ただし、違うことが二つある。

一つは時代状況だ。第一作の時、大衆は当時のスピルバーグ、ルーカスの作品と同様の視点からこの映画に喝采を浴びせた(かく言うぼくも喝采した一人だ)。なぜか?それは60年代末から席巻したフランス・ヌーベルバーグとアメリカ・ニューシネマ(両方とも意味は同じなんだが)にうんざりしていたからだ。これらの映画は、現実の不条理や複雑さを前面に出す展開。しかも結構難解でもあった。映画にファンタジーを求め、映画に食い入っている時間くらいは現実から逃避していたいという一般的なムキには、これはなかなか食いつきづらいものだった。そんなとき、ルーカスとスピルバーグは昔懐かしい、荒唐無稽で肩の凝らない映像を次々と見せ、われわれにカタルシスを与えてくれたのだ。しかも新しい世代はこの技法に初めて見えたわけで、そんな僕らの世代には新鮮だった。二人は見事に時代のポイントを突いていたのだった。

もう一つは二人が若かったこと。繰り返すが、彼らの作る映画は専ら既存パターンからなるシーンの組み合わせ。しかもそれぞれのパターンの使い方はかなりベタだ。ただし、若かったから「自分だったらこう組み合わせる」みたいなスケベ心いっぱいだった。で、これが、シーンとシーンの間に見事な躍動感を生み出し、ストーリーはともかく、勢いと流れで観客を押し倒すパワーを持っていたのだ。つまりシーンとシーンのつなぎがシームレスで流麗なのだ(それこそが”クリエイティブ”という言葉で表現されるものなのだが)。観ているこちらとしては、この「映画は映像で見せる」という基本的なルールに則って、しかもすさまじい早さで展開してくれる映画に酔いしれたのだった。しかし……(続く)

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(この隠れミッキーは、どこ?)

モダンとポストモダンのほどよい融合

もうひとつ、そしてこれがいちばん大きな事なのだろうが、ディズニーシーはモダン的要素とポストモダン的要素がほどよく融合していること。これが、独特の彩りを形成し、人々に受け入れられる原因となったのではないか。

モダンとは、すなわち「物語」的な側面。あちこちにストーリーを配して架空の空間にリアリティを形成するというのは、ウォルト・ディズニー以来の伝統だが、まずこれがかなりのレベルで忠実に再現されている。しかも、そんなに破綻は見えない。いいかえれば施設・環境それぞれにそれなりのいわれがかなりの密度で盛り込まれており、これがきれいに融合している。

入ってすぐのメディトレニアン・ハーバーは地中海全体のイメージを象徴的に表現したもの。向かって左隣はニューヨーク・ウォーターフロントで、テーマは突然アメリカに移ってしまうが、この二つの間にディズニー・エレクトリック・レイルウェイが二つのシーを分断するようなかたちで走っており、違和感を感じさせない。また、われわれがしばしば「欧米」と呼ぶように、西洋は欧州圏とアメリカ圏が私たちの頭のイメージとして事実上融合したもの。だから仮に隣り合わせていて双方からその様子を覗くことが出来ても問題がないのだ。つまり欧米という名の物語がきれいに展開されている。

しかし、これらをよく見てみると多くの疑問にぶつかることも確か。たとえばメディトレニアン・ハーバー。入り口にあたるホテルミラコスタはイル・ポルトフィーノ、トスカーナの田舎町、ベネチア、フィレンツェの町並みから出来たごちゃ混ぜの建物で、実は統一感に欠けている。しかしゲストのほとんどはそのようには考えない。なぜか、要するにこれはそんなゴチャゴチャとした分類よりも、単なるヨーロッパ・地中海の港町だからだ。こういう風に考えるとこの街並みにもオリジナルはなく、バーチャルなものなのだ。

同様のことはアメリカン・ウォーターフロントにも該当する。ここは二十世紀初頭のニューヨークとケープコッドが舞台。ところが、ここにSAKURAという和食レストランが存在する。マンハッタンの漁港で働いていた移民の日本人がはじめたレストランという設定。これも一見するとなんの矛盾もないように思えるが、実は二十世紀初頭に和食レストランなどニューヨークには存在しない。もっとも、現在のマンハッタンにはヤマほどあるわけで、ようするにここに再現されているニューヨークは時代を超越した、われわれのアタマの中に作られた、やはりヴァーチャルなニューヨークなのである。
F.つまり、実際の時代を再現するのではなく、われわれがイメージするステレオタイプを具現すること。これがポストモダンの側面なのだ。しかし、そのパーツそれぞれはモダン。ということはモダンとポストモダンがここでは融合されているのだ。一方このあおりというか、コントラストを明確にしようとしたせいか、東京ディズニーランドは年々お子様かが進んでいるように僕には思えるのだが。

もっとジジイ向けのディズニーランドをめざせ

もっとも、年寄りといっても、もはやヴァーチャル時代を人生の半分以上を占めている世代。もう、こういったポストモダンなインチキは十分に許される時代になっているんでは無かろうか。僕は思う。もう東京ディズニーシーは徹底して大人コンシャスで行くべきだと。もはやこの環境ともなれば子どもがいない方がふさわしいというところにまで、このパークはおそらく来ている。

そう、ディズニー世代は、ついに六十台にまで達しようとしてい、るのだ。だから年寄り向けディズニー欄尾があってもいい。それがシーであっても、十分よろしいのではなかろうか。大人がずっと子どもでいるられる場所。それが東京ディズニーシーがめざすべき方向なのかもしれない。

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(これも’隠れミッキー’?~ニューヨーク・デリにて)

ディズニーシーだけが成功した

オープンしてそろそろ七年が経とうとしている東京ディズニーシー。これに評価を加えれば、まあ順調に熟成を遂げているといえるのではなかろうか。ディズニーランド=マジックキングダム以外でディズニーが作り上げたパークの中でも恐らく秀逸の部類に属するだろう。パリ、香港などは惨憺たるもので、見るに堪えない。またフロリダにあるMGMもちょっとイイカゲンという感じもする(行くたびにボロくなっていると思うのは僕だけだろうか?)。オーランドのカリフォルニア・アドベンチャーは入場者数が減少し、リニューアルのために現在、11億ドルかけててこ入れが振るわれている状態だ。

そんな中、東京ディズニーシーだけが安定した入場者数を確保。優等生の位置をキープしている。この秘密、魅力はいったいどこにあるのか。

ショー付きの、巨大な飲み屋?

まず、大本営、つまりオリエンタルランド社の当初のもくろみが功を奏したというところは大きい。そのもくろみとは、ランドとシーで客層を分けたことだ。オリエンタルランド社がディズニーシーの客層として想定したのは大人。一方、ディズニーランドは家族。日本は年々高齢社会へと向かっているが、家族や子どもを専ら客層にしていたら入場者数は頭打ちどころか尻つぼみになってしまう。ならば、大人、つまり夫婦や高齢者がやってこれるテーマパークの方が将来性がある。
そこでシーは景観それ自体を大人の鑑賞により耐えるものとし(ベースはヨーロッパ基調だが、これはエンタランスはいってするのラグーンを取り囲む景観によってこの印象を与えることに成功している。実際にはニューヨークあり、密林あり、中東風ありなのだが)、さらに随所でアルコールを提供。こうすることで、酒付きの食事をしながら景観を楽しむという「大人の遊び」が実現した。で、これなら何度訪れても飽きることはない。考え方によってはアトラクションより飽きない(まあ、飲み食いするんだから当たり前か)。

で、実際シーには年配のリピーターらしき人間が結構目につく。おもしろいのは中高年の女性が友人同士でパーク内を回っている姿をしばしば目にすることだ。そう、彼らにしてみれば、ここは「遊園地」としてアトラクションを楽しむより、「豪華な飲み屋」のテーマパークなのだ。だから、大人の楽しみ方としては飲食、そしてショーを見ることということになる。ここでは、子ども相手ではなく、大人が大人どおしで楽しみたい。そんな、気分にさせているのだ。(続く)

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