勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年05月

報道番組はクールでなければならない

さて、こうやって考えてみると報道ナマ番組の魅力がどこにあるのかわかる。プログラムの進行自体は視聴者にプログラム全体のフレイムを理解させるためワンパターン=ホットだが、その中で展開されるトピックはナマやアバウトなもの=クールにして、視聴者の参加を喚起する。つまり、報道は視聴者に「何が起きているんだろう」というクールな心性を喚起することが魅力の中心なのだ。言いかえれば、だからこそ全体的なアバウト感を失ってはいけない。そしてそのアバウトな場面をアドリブを放り込むことによって、よりクールさを強調すると同時に、視聴者をアドリブパターンに慣れさせることで親密性を喚起する。さらにこの親密性は次のネタへの期待のための苗床となっていく。コメンテーターだったら「この馴染みのおっちゃん、次には何を言うんだろう?」となるわけだ。最終的にこの親密性-クール循環の喚起に成功すればリピーターを獲得、それが視聴率に繋がることになる。クールとホットの往還がナマの報道番組の魅力なのだ。

そしてコメンテーターの役割は

そして報道ナマ番組の中で、このホットとクールの往還の橋渡しをするのが、おそらくコメンテーターの役割だろう。コメンテーターは、先ず報道された出来事=データをコメントで集約して複雑性を縮減し、それだけでは視聴者にとってクールな情報=そのままではわからず解釈を加えなければならない出来事、をホットなもの=了解可能なものに変換する。だからこそ、視聴者が容易に理解可能なよう、ワンフレーズ・キャッチコピーを先ず振り、ついでそのコピーを解説することが大切になる(ホットに徹する必要上、これはつとめてワンパターンでなければならない)。

また、その後、ギャグやダジャレを飛ばしたり、問題定義を投げかけて(「私はこのように思いますが、皆さんはどうお考えになるんでしょうか」と視聴者に問いかけた。ちなみに、これは小倉智昭、そのパクリ)、今度は視聴者の側をクールにさせる。思わずニンマリさせたり、次に何をやるんだろうと期待させたり、考えさせたりするのだ。(続く)

ホットなメディアとクールなメディア

さて、ここまで書いてきた僕なりの工夫。どういう立ち位置でやってきたのかはメディア論にくわしい方ならもうおわかりなのではないか。メディア論の巨匠、M.マクルーハンの理論を実践してみたのだ。マクルーハンはメディアをホットなメディアとクールなメディアに分けている。情報の細密度が高いために受け手の参加度が低いのがホットメディア。逆に再密度が低いために受け手の参加度が高まるのがクールメディアなのだが、もうすこしわかりやすい言い方をすると、十分に情報を流してくれるので、あえてこちらが主体的に解釈をしなくてもよいメディアがホットで、情報が少ししか流されないので、こっちがどうにかしてこれを補わなければならないのがクール。マクルーハンはラジオや活字、映画がホットで、テレビがクールと指摘している。

ホットかクールかは、相対的に決定する

ただし、この分類の仕方はメディアをハード単位でひとくくりにして語ってしまっているのでわかりづらい。僕はこの分類を考えるときにメディア=ハード単位での分類をしないことにしている。つまりどんなメディアであれ、コンテンツとの関わりでホットとクールが存在すると捉えている。またホットであるかクールであるかは相対的な問題=受け手と送り手の関係で決まると捉えている。つまり仮に情報量が少ない=再密度が低いとしても、それに対してメディアの受け手の側が意図的に解釈を加えたりしなければ、メディアコンテンツに対する参加度は低いのでホットになる。逆に情報量が多い=再密度が高いとしても、受け手の側がさらに解釈を加えるようであれば、そのコンテンツは結果としてクールになる。

たとえば、マクルーハンによればテレビはクールだが、その理由が走査線の数が少ない、透過光がクールと言うことを理由に挙げるという荒唐無稽な説明に終始している。だったら「ハイビジョンならどうなんだ?」とツッコミを入れたくもなるが、あまり意味がない。で、こちらなりのより実践的な解釈をしてコンテンツ=ソフト単位で、テレビを分類すると次のようになる。

テレビ・水戸黄門はホット

まず、水戸黄門のような「定型パターン」を魅力のポイントとするコンテンツは一般的にホット。水戸黄門は勧善懲悪、印籠が必ず出ること、さらに印籠が出る時間までが決まっている。いやいやお銀が入浴する時間もだいたい決まっている。だから、視聴者としてはこれに新たな意味付与をすることをおおむね必要とせず、とにかく制作側の意図に基づいて作品を楽しめばよい(もちろん、製作者の意図とか、コンテンツのほころびとかをオタッキーに追求していけば、これはこれで十分クールな作品になるのだが。まあ水戸黄門を見ているほとんどの視聴者(主として高齢者)がそんなことをするとは考えられない)。またニュースでもビデオを流しながら論評なしでアナウンサーがしゃべるのものは、原則ホットだ。

生番組はクール

一方、テレビでもクールに属するものはスポーツ中継やバラエティなど。いずれにしても先が読めないので、視聴者の方はこれに思い入れ=意味解釈を積極的におこなおうとする(ただし、これもワンパターンになって先が読めるようになってしまうと、意味付与が出来なくなりホットなものになる)。

そして、最もクールなテレビコンテンツは、ジャンルにかかわらず「生番組」であることだろう。やはり、これらは段取りこそ決めてあるものの、最終的に先は読めない。たとえば報道生番組において究極のクールを生み出したのは2001年9月11日のニュース・ステーションだ。ニューヨーク、ワールド・トレード・センター、ノースタワーに旅客機が突っ込んで燃えているシーンを実況中継しているときに、もう一機の飛行機がサウスタワーに突っ込んだのだが、この歴史的な大事件を生中継していたのだから。旅客機がサウスタワーに突っ込んだ瞬間、視聴者は、これまでの情報処理パターンでは処理できないものに直面し、アタマが真っ白になった。そして、その後、何が起きたんだとだれもが必死にアタマを働かせたはずだ。まさにクールの極致が報道番組の中で展開されてしまったのだ。(続く)

番組構成で必要なこと=ポイント指摘とトピック展開

番組の内容についての構成に関しても注意を払った。

ワンフレーズでキメる!

一つは「ワンフレーズ」解説によるポイント指摘だ。
つまり、事件や出来事を解説するとき、決してだらだらと説明はしない。とにかく「答え」「結論」をキャッチコピーに乗せて最初に言い切ってしまう。で、その後のしゃべくりは、このキャッチコピーの解説に終始する(加えてダジャレ)。これは「コピーそれ自体で、一気に内容を先ず理解させること」と「コピーで『じゃあ具体的にはどうなんだ』と問題を喚起する」の二つの効果をねらったものだ(これは小泉前首相が毎日首相官邸の階段の前(だったかな)でコメントしていたのをパクった)。とにかく基本的にはワンパターンのようにこれを続ける。で、そうするとパターンがいつも同じなので、視聴者側は知らないうちに聴き方を学習させられ、そのパターンに乗せて解説を理解すればいいと言うことになるので、耳を傾けることが楽になるだろうと考えたのだ。で、同じパターンで話してくれる人、最初に答えを言ってくれる人、しかも要点を言ってくれる人は「わかりやすい」、だから親しみを持ってテレビを見ようという気も起きてくるのでは?こんなことを画策したわけ。

データを物語化

もう一つは「トピック展開の一貫性の保持とストーリー化」。

番組で取り上げられるトピックはとにかく宮崎で起きた一週間の出来事を硬軟取り混ぜて報道するので、それ自体はデータの羅列でしかない。だから、これだけだとつまらない。そこで、こちらとしては取り上げるトピックを統一して意味の一貫性をこれに与えてしまうのだ。いちばんやりやすいのが「特集」という長めの扱いをするコーナーのトピックにコメントとして取り上げる項目を合わせること。たとえばトピックが食べ物についての話であったならば、「フラッシュ」から取り上げるトピックも、そして「ココに注目」で取り上げるテーマもすべて食べ物に関連するものにしてしまう。それどころか冒頭トークやエンドトークでもこれを加えていく。こうすることで、その回は実は「食べ物特集」という色彩を帯びてくる。

で、さらに時系列上に並べられていくこの「食べ物」に関するトピックに何らかのストーリーを無理矢理でもいいからつけてしまう。つまり起承転結をつけていくのだ。さらに、どこをいちばんのヤマに持っていってドラマ展開するかということも考える。さしあたり、このヤマは「ココに注目」にすることがほとんどだった。これで、番組自体に意味の一貫性どころか物語の一貫性も得られるわけで、こうやって単純化することで視聴者の関心を引き続けようとしたのだ。もっとも、無理矢理データを接合するわけで、必ずしもキレイに決まるというものでもなかったのだけれど。(続く)

報道バラエティという生番組を支えるキモは「アバウト」

ここまで僕なりの番組盛り上げの工夫をしたのだが、よくよく考えてみれば、これが出来るのは構成がアバウトだからこそなのだ。つまり、キッチリとではなく余裕をもって構成することで、僕とアナウンサーにはアドリブや自分なりの構成を考える余裕が出来る。もちろん番組をはじめた最初のウチは全然ダメ。緊張しているし、それを払拭(抑圧?)するために「仕込みネタを棒読み」みたいになっているのだが、だんだん慣れていくウチにこのアバウトな時間を使って自分のスタイルを考えることが出来るようになっていくのだ。そして女子アナと僕の掛け合いのスタイルもできあがっていく。で、これがうまくいくようになると、すでに述べておいたように一つの番組スタイルが生まれる。そして、このスタイルに視聴者が慣れ親しんでいくことで固定客がつき、これが視聴率に結果として繋がるのだ。

生番組をやることはジャズを演奏すること

また、このスタイルの中で、今度は僕とアナウンサーがどんな掛け合いをやり、僕がどんな一言を言い、さらにダジャレを飛ばすかといったライブな、つまり先の見えないナマの展開が視聴者に「次はどんなことを言うんだろう?」という好奇心をかき立てるようになる(と思う)。いわばジャズのアドリブやインタープレイを楽しんでもらうことになるわけだ。そういった意味で僕と横山アナの方もジャズミュージシャンとして番組を楽しめるようになっていく。事実、回を追うごとに僕は番組をやること自体が楽しくなっていった。それは、公共の電波という緊張感の中で、モードを決められながらもジャズ的なパフォーマンスをやれるようになっていったからだろう。僕の心は「今度はどんなアドリブを決めてやろうか」ってな具合になっていた。で前回書いておいたように、あくまで自己中なアドリブにならないように細心の注意を払った。そう、ダジャレやツッコミは、こっちが楽しむというより、あくまで視聴者を楽しませるため。自分がダジャレやツッコミを楽しんでいてダメ。むしろ僕は「自分のダジャレやツッコミでお客=視聴者が楽しんでくれる」ことを楽しもうと考えた。

その時大切なことは、こういったアドリブが出来るような余裕を作ることだった。そのためには事前にそれなりにネタを仕込むが、必要以上にこれをやらないようと考えた。完璧にやっていくと覚えた内容の伝達だけを伝えるというスタンスになる。だがそれは情報過多という状態を作り出してしまう。また、このナマのリズムや掛け合いの良さもそぎ落とされる。くわえてパターンを涵養、形成することも出来ない。後述するが視聴者が見たいのは情報それ自体というよりも、このリズムや掛け合い、アドリブのおもしろさなのだ。だから、回が進むにつれて原稿はアバウトになり、仕込みこそしっかりやるが、これを文章化することは辞めてしまった。で、スタジオに持ち込む情報量=ワープロに書き付けた文字量はドンドン減っていったのだ。(ただし「ココに注目」だけは別。これは完璧な原稿を作り、本番でもこれを読み上げた。プロンプター(カメラの前に手前の原稿を映し出す装置)を使ったのだ。但し、こちらは何度も練習して、あたかもアドリブでしゃべっているように見せかけるという工夫をしているので、おおかたの視聴者には原稿を読み上げているとは思われなかっただろう。また横山アナと、ときおり掛け合いを入れると言うことで、すべてアドリブでしゃべっているという’偽装’もやった。これは彼女と二人で打ち合わせた「やらせ=演出」だ。)(続く)

品を失わないために必要なこと

報道番組を盛り上げるためにダジャレやツッコミを入れ,軽めの要素を入れること。ただしその時に「品を失わない」ようにすること。これはどうやるか。それはダジャレなどを飛ばし場を緩ませたら、次はマジメで絞める。あるいはマジメに絞めたときは、最後は場を緩ませるというやり方だった。前者は緩くなって、このままでは崩れてしまいかねない場を引き締める。一方、後者は緊張した場を和ませる。そしてこのリズムを維持するのだ。ただし、原則的にはマジメ→緩めパターンを増やして。

マジメ八割、オバカ二割

具体的な展開は次のようになる。以前に述べておいたとおり”ういーく”という番組は冒頭トーク→フラッシュ=一週間のニュースのザッピング→特集=一本を深く掘り下げる→ココに注目=一つの話題を二分かけて解説→天気予報→宮崎あのころ=かつての報道ビデオを見ながら当時流行った音楽に合わせて流し、これにコメントする→エンド、という順で構成されている。

まず番組の「冒頭トーク」は軽めの話とダジャレでゆるませ、番組の重みを取る。ここは親しみを演出して番組の気を引く必要があるからだ。

そして次の「フラッシュ」では基本的にダジャレ無し。堅めで攻める。

さらに「特集」、そして「ココに注目」という、僕がしゃべりっぱなしというコーナーでも基本的にマジメ。もちろん、堅くなり過ぎたなと思ったら、適時ちょこっとバカ話のひとつでも加える。

で、天気予報の後、「宮崎あのころ」ではダジャレ連発。オバカに徹する。

そしてエンドでは一つだけダジャレで、でも最後はマジメに絞める。

言うならばマジメ=堅めが八割、緩め=オバカが二割という配分。こんなことを心がけると番組は意外と品を保つことが出来る。そうそう、オバカをやって話題を終えた後、次のネタにはいるときにはそんなことは忘れたかのようにキリっとまじめな顔をするということにも注意を払った。ただし、基本的には笑顔というか、さわやかな顔(僕の出来るめいっぱいのレベルでしかないが)で通した


報道バラエティは明るく軽く→マジメ→明るくマジメという構成で

要は、これは「報道バラエティ」的な番組。だから明るさを基調としなければならないのだ。ただし政治や事件などの重いネタも扱う。だから始めと終わりはとにかく明るく。そしてマジメなネタはマジメに返し、さらに「ココに注目」を最もくそまじめに展開。その後はエンドに向けて明るくしていく。つまり全体をオバカ→マジメ→オバカという構成にする。こうすると全体が、明るい基調を保ちながらも、「報道」というマジメさもまた維持できると考えたのだ。これは結構、功を奏したと思うのだが……。(続く)

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