勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年04月

スポーツこそメディアイベント。それは政治との表裏一体を構成している

なぜ、スポーツは政治から脱却できないのか(もちろん、この場合、遊びではなく、世界的レベルで競われるスポーツを指している)。それはこういった世界レベルのスポーツ自体が、もともとメディアイベントだからだ。よく考えてみていただきたい。スポーツの中で注目されるもの、それはメディアが注目したものだけだ。メディアがまなざしを向けられないものは、それははっきり言ってスポーツとしてはほとんど認知されないに等しい。最近の例ならハンドボールを考えてみればいいだろう。「中東の笛」と呼ばれる、非常に中東諸国に偏ったジャッジが問題になり、これがテレビで大々的に報道された瞬間、ハンドボールは注目を浴び、全日本のエース・宮崎大輔がスター化した。いいかえると「中東の笛」がなければ、宮崎はあまたあるスポーツの全国レベルの一人に過ぎなかったのだ。

メディアコンテンツのキラーアプリとしてのスポーツ

結局、スポーツはメディア、とりわけテレビメディアにとって最も魅力的なコンテンツなのだ。だから、これをメディアイベント的に展開することで、つまり注目し、これをことさらに取り上げることで、それは視聴率を稼げる格好のコンテンツとなる。我が国においてもテレビの普及において最も大きな功績を果たしたのは、野球、相撲、そしてプロレスだったのだ。プロレスはほじめからショーでありメディア・イベントと考えることは比較的たやすい。だが野球、相撲はそうではない。六十年代、子どもたちの大好きなものは「巨人、大鵬、卵焼き」と称された。このうち卵焼きはともかく巨人と大鵬はメディアイベントによってことさらに注目された結果のなのは言うまでもない。日本テレビは自らの局が普及する一つと手段として読売巨人軍を大々的に宣伝したのだ。そしてそこで生まれた大スターが王であり、長島だった(ちなみに日本テレビが注目したもう一つの、そして純粋なメディアイベントがプロレス=力道山だった)

こう考えると、スポーツ、とりわけわれわれ一般聴衆が注目するスポーツは、原則的商業主義と政治に徹底的に利用されていることが分かる。しかし、メディア・コンテンツの一つとしてスポーツを捉えること。このような立ち位置はスポーツを見るもう一つの側面を与えてくれるはずだ。

メディア・イベントこそイベントである

もうひとつの「実際のところ聖火リレーは順調に運んでいる。メディアが取り上げるのはその一部のトラブルでしかない。だから執拗に取り上げるのは間違っている」という中国の指摘にもツッコミを入れてみよう。

たしかに中国の指摘はその通りだ、聖火の沿道を囲む群衆のほとんどはこれを歓迎している。チベットの人権擁護のためのパフォーマンスをする人間などごくわずかでしかない。それをことさらに取り上げるのは不公平で悪意に満ちていると言えないこともない。

しかしである。言いかえればメディア・イベントこそイベント=事実であるといえないこともない。つまり、今日事件はメディアが取り上げるものだけが事件だ。メディアが取り上げないものは、それがどれだけ極悪非道なものであったとしても、取り上げられることはない。だからこそ国境なき記者団のような人権団体は聖火リレーという儀式を利用して、自らの行為をメディアイベント化したのである。つまりメディア、とりわけ影響力の大きいテレビを利用して、この事実をメディア・イベント化しようとした。

でも、よ~く考えてみれば、このチベットの人権問題について中国もまたメディアを利用しているという点では全く同じだろう。違うのはメディアを利用するベクトルが逆なことだけだ。つまり中国の場合、メディアに取り上げさせないことで、イベント=事件がなかったことにし、事件をうやむやにするという行為をしているのだ。そう、中国はチベットでの事件をひた隠しにしたのだ。ひた隠しにするというのは、メディアに露出しないようにすると。メディアが取り上げないものは事件でないということを熟知しているからこそ報道統制をかけているわけで、メディアの持っている力=とりわけテレビのそれ、を潜在的に認知しているということでもある。言いかえればこの避難もまた天に唾する行為でしかないのである。

オリンピックが脱政治化するためには

要するにオリンピックというのはその始まりからベタに政治的、政治そのものなのだ。だから、これをどのように政治として利用するかがそれぞれの党派の工夫のしどころと言うことになる。ちょいと、悲しい話ではあるのだが。

だったら、こういった政治にまみれたオリンピックを脱政治化する方法はないのだろうか。

考えられるのは「国家」という単位での対決という図式を撤廃することだろう。つまり、古代オリンピック、そして近代オリンピックの始まりがそうであったように、参加資格から国家別の枠組みを撤廃して、記録だけで決定するというやり方に変更することだ。ちなみに、このスタイルを採用しているのがカーレース・F1である。コンストラクターズ=チームは、原則、国家という単位に縛られていない。日本人ドライバー・中嶋一貴が所属するチームはイギリス・チームのウイリアムズだし、スペイン人・F.アロンソはイタリア・ルノーに所属している。ファンは基本的にはコンストラクターやドライバーを応援する(もちろんフェラーリなどは限りなくイタリアとイコールと見なされてもいるが)。オリンピックの脱政治化にはこういったF1的な手法が適切だろう。

ただし、である。そうしたからと言って「政治」がそこから脱色されると言うことには決してならない。国家の枠をはずした場合、そのチームや個人をバックアップする存在が必要となるからだ。それは言うまでもなくスポンサー。結局、国家という政治の枠を脱却した代わりに、スポーツは今度は資本=企業による政治の道具になるだけなのだ。

結局、今日アマであれプロであれ、競技としてのスポーツは政治から逃れることは決して出来なくなっているのである。だが、そうなるのにはそれなり理由があるのだ。(続く)

聖火を巡るゴタゴタ続く

北京オリンピックに向けて聖火リレーが開始されたが、至る所で聖火リレーは「妨害」にあっている。聖火に放水したり、聖火リレーの前でFREE THIBET(チベットに自由を)あしらったフラッグを掲げて併走したり。これを、セキュリティや怪しげな中国人グループが押さえつけるというシーンが国際映像で頻繁に放映されている。原因は言うまでもなくチベット地区で発生した暴動。中国政府がその事件の全容を隠蔽し、チベット人を弾圧している。そのことに「国境なき記者団」を始めとする人権団体が抗議。そのステージとして聖火リレーをターゲットにしたのである。もとより中国政府によるチベット弾圧問題はアムネスティなのでもさんざん問題にされてきた。また、このことについては漫画家の小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で大々的に取り上げてもいる。

中国政府、そしてスポーツ関係者のコメント

これらの妨害に対する中国政府、そしてスポーツ=オリンピック関係者のコメントは一貫している。

その一つは「スポーツ=オリンピックと政治は別のものとして見なすべきだ」というもの。もう一つは「実際のところ聖火リレーは順調に運んでいる。メディアが取り上げるのはその一部のトラブルでしかない。だから執拗に取り上げるのは間違っている」というものだ。

しかし、はたしてそんなに簡単に結論が出せるものだろうか。今回はこれを考えてみよう。

竹中労の「芸能の論理」

かつて、ルポライターであり、芸能評論家として名を馳せた人物に「竹中労」がいた。竹中は芸能人のスキャンダルがなぜ追っかけられるのかについて明確な回答を下している。竹中のモノの謂々はおおむね次のようだった。

「芸能人は芸能という業務の他に、プライベートを露出することで自らの職業を成り立たせている。たとえば海外に出かけ豪華なホテルに泊まってみたり、セレブと食事をしたり。このように考えれば「自らにとって都合のよいプライベート情報」のみを流し、「都合の悪い情報」を隠蔽するのは矛盾する。

つまりプライバシーを売り物にしているのなら硬軟取り合わせて報道されるのは当然であると断を下すのだ。ちなみにこの論理を実践することで、それが結果として事件を勃発させることになったのが86年に起こったビートたけしの”フライデー襲撃事件”だった。ビートたけしは講談社の写真週刊誌Friday上で、自らの愛人であったピアノ教師の写真が掲載されたことに腹を立て、たけし軍団を引き連れて講談社を襲撃したのである。この時、たけしは単にアタマに来たので襲撃した「芸能の論理」というわけではなく、この竹中の論理を踏まえていた。つまり「芸能人である自分のスキャンダルがメディア上に露出するのはプライバシーを売り物にしているのだから納得がいくが、その芸能人の愛人だからと行って一般の、つまりプライバシーを売り物にはしていない人間のプライバシーを侵害するのはルール違反。それならば、こちらもルール違反でおかえしをしよう」この脈絡でたけしは行動に出たのだった。

竹中のロジックはそのままオリンピックのロジックである

この竹中のロジックはそのままオリンピックにも当てはまる。元々オリンピックに聖火というイベントを組み入れたのはベルリンオリンピックの時。つまり、ナチス・ヒトラーがドイツの国家威信を全世界に知らしめるために、オリンピックを大々的にしようとしたことから生まれたものだ。ベルリンオリンピックは国策的宣伝映画『民族の祭典』(レニ・リーフェンシュタール)にむけて、ほとんどメディアイベント的に作成されが、聖火はこの映画を彩る格好のアイテムだった。要するに聖火という儀式それ自体が「政治的」なものとしてはじめられた。そして、今回の中国を始め、オリンピックの開催誘致国はどこも、オリンピックをダシに経済効果を導こうとする(実際成功している)。要するに世界的なイベントであるオリンピックとはもともと政治のために行われているといったほうが正しいくらいなのだ。

ということは聖火リレーを利用して人権擁護という政治的パフォーマンスを展開すると言うことは、聖火リレーを利用して国家威信を世界にとどろかせようという政治パフォーマンスと同じくらい、ある意味「まっとう」で、有意義=正当な行動と言うことになる。当然、中国はオリンピックを政治的に利用しているわけで、抗議している人権団体に「オリンピックを政治に利用することはけしからん」と避難する行為は天に唾する行為に等しいのである。(続く)

インタビューはナンパである

最後に、ここで展開した二つめのインタビュー手法=一発勝負について、エピソードを加えておきたい。

僕は、毎年、調査実習と称してタイ・バンコク・カオサンという安宿街に学生たちをつれて行き、そこでインタビュー調査をさせている。学生のほとんどは女性だ。

で、インタビューをするにあたって学生たちにするアドバイスは「インタビューっていうのはナンパだよ。ということは、君たちは女の子だから、これから調査実習の名の下にやるインタビューは、インタビューイーが男の場合には逆ナン(女が男をナンパする)ということになる。「女の武器」を使って頑張ってね(フェミニストに怒られそうなアドバイスなのだが)。

インタビューは総合的で人間くさい知的営為である

学生たちは地方の女の子たち。男の子をナンパした経験なんかない。しかしナンパでも「調査実習」という大義名分がつくと、結構、おもしろがってやってくれる。もちろん最初はドキドキものなのだが。で、その時、自分が女であることを上手に利用する。だいたい、海外の旅先で女の子に声をかけられたら悪い気はしないだろう。旅先で日本語に飢えていると言うことも加わっているし。彼女たちはインタビューという名の「逆ナン」を経験し、インタビューがきわめて人間的な営為であることを学ぶのだ。で、かなり楽しそうに。ヤクザなアプローチでは、確かにある。しかし、彼女たちにとってはかなりスリリングな体験でもあるのだ。そして、インタビューを繰り返す中でで自分なりの手法というものを見いだしていく。で、それはインタビューのスキルを身につける機会ではもちろんあるが、もう一つ、彼女たちはしたたかなコミュニケーション・スキルを身につける機会でもある。だから、彼女たちはインタビューをするに連れて「これには見返りがある」と言うことを実感するのだ(スケベ心も含めて、だんだんしたたかに、ずうずうしくなっていく)。そう、インタビューは、そういった意味でもきわめて人間くさく、そして知的な作業なのだ。

インタビューという名のフィクション。これはどう見ても科学的方法論に収まりそうもない。「スキル」を前提とした技法と考えるのが妥当な手法だ。ただし、科学であることを志向すると言うことを無駄な努力と思いながらも続けて。言い換えればインタビューもまた「誠実なフィクション」であるべきではなかろうか。

こう考えるとインタビューというのはきわめてセクシーで魅力的な仕事なのかもしれない。さあナンパ、いやインタビューをはじめよう!

インタビューは一発勝負(続き)

奥崎の手法を僕なりに解釈・運用してみると

.奥崎謙三の手法は一発勝負のインタビューではきわめて重要なやり方だ。つまり「短い時間」で「適切な情報=こちらが必要とする情報を引き出す」ためには、多少なりともインタビューイーを揺さぶること。ラポールとか長期的な関わり合いなんてことをやる方法以外に、一気にコトを引き出すやり方が、これなのだ(まあ、ややもすると「尋問」になるが)。もちろん、われわれの倫理観がこれを躊躇させるのも確か。しかし、これを洗練させれば、法律や倫理に触れない範囲で、そしてジャーナリズムという大儀の下では倫理観を破壊しない範囲で、実は一発勝負でもかなりのことを引き出せてしまう。

僕は限られた時間内で適切な情報を引き出すという命題を常に掲げられる中、インタビューのエコノミーを考え、この奥崎的な手法を採用している。つまり、相手が偉そうな人なら持ち上げ、その気にさせて余分なことまでしゃべらせる。また、調子づいてい来たところでプライドを傷つけるような質問をし、ムッとさせたところで本音を思わず語らせてしまう。一方、ちょっと、こっちよりも弱そう、つまり年齢が自分より下などで御しやすいと判断した場合には持ち上げておいて、今度はツッコミを入れる。みょうちくりんな信頼関係を作っておいて、相手の気を許した状態で、ずうずうしくコトの本音に切り込むのだ(若い連中は得てして人がいいというか社会生活にまだ十分適応していないので、このインスタント信頼関係を設定してしまうと、こっちがガンガン聞いても断れなくなる。ましていわんやこっちの方が年齢が上。要するに権威主義的なスタンスから相手にしゃべらせてしまうわけなんだが)。

東国原知事インタビューの場合

再び東国原知事へのインタビューを例にとって「一発勝負ー奥崎風インタビュー」を説明しよう。

知事の場合、放っておくと話がドンドン脱線し、自分の好きなことをしゃべり続けるという特徴がある。実際、テレビ局のアナウンサーは誰もがこの東国原モードに巻き込まれ、聞くことも出来ないと言う状況に陥っている。彼はインタビューワーを煙に巻き、聞きたいことははぐらかし、なおかつ自分の都合の良いように利用・宣伝の道具に使ってしてしまうことにかけては天才的だ。この東国原モードに巻き込まれないようにするため、僕は知事が脱線を始めた瞬間、彼が息継ぎをする瞬間を待ち、しゃべくりがちょっと止まった瞬間に会話を遮り、「知事、申し訳ありませんが、お伺いしたいことがまだたくさんありますので、次の話に進ませていただきます」と言って、インタビューを進めた。そして、なるべく早口でツッコミを入れる。そうすると知事も早口なのでリズム感が出てきて、このリズムに合わせてべらべらと話し始めた。で、なんとかイニシアチブを取られず、こっちの聞きたいことを聞き出した。これも一つのテクニックだ。

インタビュー。要は、単に丁寧、まじめに話を聞けばコトが足りるというような、生やさしいものではないのである。そして、こういったスキルは、インタビューについての経験、あるいは対人的な関わり合いの中から培われるもではなかろうか。

たとえば某社会学系の学会でフィールドワークに基づいて発表をやっている大学院生は、「自分は苦労してフィールドワークやってきたんだぜ」ってことをひけらかすためにやっている場合が多い。で、だいたいこういう連中はカルスタかぶれ。経験もスキルもないので、インタビューをやってきて、それなりに方法論を築いてきた自分の目からするときわめて稚拙にしか見えない。フィールドワークやインタビューはまず「スキル」ありきなのだ。修行しなさい。(続く)

↑このページのトップヘ