スポーツこそメディアイベント。それは政治との表裏一体を構成している
なぜ、スポーツは政治から脱却できないのか(もちろん、この場合、遊びではなく、世界的レベルで競われるスポーツを指している)。それはこういった世界レベルのスポーツ自体が、もともとメディアイベントだからだ。よく考えてみていただきたい。スポーツの中で注目されるもの、それはメディアが注目したものだけだ。メディアがまなざしを向けられないものは、それははっきり言ってスポーツとしてはほとんど認知されないに等しい。最近の例ならハンドボールを考えてみればいいだろう。「中東の笛」と呼ばれる、非常に中東諸国に偏ったジャッジが問題になり、これがテレビで大々的に報道された瞬間、ハンドボールは注目を浴び、全日本のエース・宮崎大輔がスター化した。いいかえると「中東の笛」がなければ、宮崎はあまたあるスポーツの全国レベルの一人に過ぎなかったのだ。メディアコンテンツのキラーアプリとしてのスポーツ
結局、スポーツはメディア、とりわけテレビメディアにとって最も魅力的なコンテンツなのだ。だから、これをメディアイベント的に展開することで、つまり注目し、これをことさらに取り上げることで、それは視聴率を稼げる格好のコンテンツとなる。我が国においてもテレビの普及において最も大きな功績を果たしたのは、野球、相撲、そしてプロレスだったのだ。プロレスはほじめからショーでありメディア・イベントと考えることは比較的たやすい。だが野球、相撲はそうではない。六十年代、子どもたちの大好きなものは「巨人、大鵬、卵焼き」と称された。このうち卵焼きはともかく巨人と大鵬はメディアイベントによってことさらに注目された結果のなのは言うまでもない。日本テレビは自らの局が普及する一つと手段として読売巨人軍を大々的に宣伝したのだ。そしてそこで生まれた大スターが王であり、長島だった(ちなみに日本テレビが注目したもう一つの、そして純粋なメディアイベントがプロレス=力道山だった)こう考えると、スポーツ、とりわけわれわれ一般聴衆が注目するスポーツは、原則的商業主義と政治に徹底的に利用されていることが分かる。しかし、メディア・コンテンツの一つとしてスポーツを捉えること。このような立ち位置はスポーツを見るもう一つの側面を与えてくれるはずだ。