差し戻し裁判の高裁判決は「死刑」
ご存じの通り光市の母子殺害事件で広島高裁は、当時少年だった被告に「死刑」の判決を下した。そしてこの判決をメディアは一斉に報じるとともに、テレビ各局は事件の経過、裁判の経過を大々的に特集した。そして、この判決は「妥当」というのがメディアの報道姿勢だった。しかし、ちょっと引っかかるところがある。なぜ、ことさらにこの事件がここまで大々的に報じられなければならなかったのか?家族数人が殺されたという事件は他にもいくつかある。また、少年による殺人もいくつかある。さらに加えれば少年による家族数人の殺人事件もある。しかし、今回の報道のされ方は特別だ。どうみても大々的な特集。国民が注目する事件という取り上げ方なのだ。
判決の是非はともかく、この大々的な報道のされ方は、ちょっとおかしいと思う。と、同時にメディア論的に考えれば、逆に極めて納得のいくものでもあるのだが……。
悲劇のヒーロー・本村洋の誕生
他の同様の殺人事件とこの事件が決定的に違うところはどこか。それは、事件そのものではなく、事件を取り巻く要素にある。というよりは、被害者の夫である本村洋氏の存在が大きい。いや、本村氏のパフォーマンスがなかったならば、ここまでメディアは大きく取り上げることはなかったはずだ。メディアは殺人事件の直後から本村氏を追い続け、頻繁にインタビューを行ってきた。妻と子どもを殺された夫の苦しみ、被害者へ対する思い、こういったものを本村氏はかなりドラマチックに、かつかなり理路整然と語ったのだが、この語りっぷりが、実に巧みだった。とにかく、要点を押さえながら、しかも感情をぶちまけるとことはあまりせず、しかも感情を視聴者に伝えることで、多くの視聴者の同情と支持を取り付けていた。言いかえれば、本村氏はその容貌も相まって、実にタレント性が高かったのだ(もちろん、本村氏が、そのことを意識してやっていたというわけではない。もともと本村氏のプレゼン能力が高かっただけなのだが)。
こういった「タレント」に対してメディア、とりわけテレビメディアはめざとく反応する。つまり「本村」という存在は視聴率のとれる「おいしい」存在と映った。だから、本村氏を悲劇のヒーローに仕立て、かつ妻と子どもを殺された夫の悲しみという連続ドラマを演出したのだった。
「悪」の軍団。21人の弁護師たち
しかしながらこの事件が「国民的イベント」となったのは、本村氏個人のタレント性だけで説明がつくものではない。これにさらに別の要素が加わって「ドラマ」が極めてベタで分かりやすいものになったことが、この事件をここまで大きくしたのだった。ひとつは犯人が友人に宛てた手紙の中で本村氏を中傷したり、自らの行為を正当化したり、自分は死刑にはならないとタカをくくっていたりしたことが報道されたことだった。この文面はメディア・ウケするには十分だ。ヒーローが生えるためには「悪玉」が必要。彼は、これで確信犯的な悪役となった。
そして、この事件が大々的なブレイクを遂げるのが弁護士が安田好弘に変更され、さらには21人の弁護師団が組まれるようになってた時だ。安田は死刑廃止論者でもあり、自説を展開すべくこの事件を利用しようとした。つまり死刑廃止のプロパガンダをこの事件をダシに行おうと目論んだのだ。このメディアウケするネタに、自分も一枚加わろうとしたわけだ。安田はその容貌もあるが、「残虐」な少年の徹底弁護にあたることで、いわば「悪代官」に取り入る「越後屋」の位置に置かれることになる。これで役者は揃った。
さらに、弁護のために供述を変更させるという作戦が、よりメディアにとってはおいしい、つまり国民の暇つぶしの格好のネタとなった。ご存じのように「少年は実は殺意はなかった。絞殺後姦淫したのは「復活の儀式」、押し入れに隠蔽したのは「ドラえもんになんとかしてもらうため」」という、殺意否定の荒唐無稽ともいえる陳述を展開したのである。これでは「悪いやつら」が「悪いたくらみ」をやっているとしか映らない。そして、この明瞭なコントラストをメディアが逃すことは、もちろんなかった。これでベタな勧善懲悪ドラマの設定はできあがり。後は大岡裁き、あるいは水戸黄門の印籠を待つのみという状況が作られた。そして22日、勧善懲悪ドラマのクライマックス、午後8時42分の裁き、印籠ご開帳の時刻となったのだ。だからこそ、メディアはこれをこぞって取り上げたわけだ。(続く)