勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年03月

東国原宮崎県知事にお願いしたこと

インタビューが聞き手と話し手の合作であること。このことを僕の二つの経験から解説してみよう。

ひとつは昨年十月、東国原知事にインタビューしたときのこと。与えられた時間はなんとたったの二十分だった。これではインタビューの時間が実に短いといわざるを得ない。しかし、それでも開始三分間、僕は知事にインタビューをするのではなく、このインタビューの意図、そしてこちらの知事の姿勢に対するスタンスの説明を行った。具体的には、1.当時メディアで批判されていた知事の「テレビへの過剰露出」に、こちらはむしろ肯定的な立場にあること、2.これは宮崎県だけに放送するインタビュー番組なので、県民に「うちあけ話」をするといった感じの話をしてもらいたいと、3.今回は知事のメディアへの対応、メディアの使い方についてのみインタビューを行うこと、の三点を説明した。要するにインタビューの内容についての前提、文脈を知事に踏まえておいてもらおうと思ったのだ。

そしてインタビューを開始したのだが、僕は、知事が何度も質問されていてウンザリしている内容から質問を切り出した。それは「知事はテレビに出すぎといわれていますが、その理由についてお話ください」というもの。

この質問をされた時、これまで知事は常に弁解がましい発言をしてきた。そして、ちょっとウンザリという顔をするのが常だった。ところが、こちらが「メディアへの露出に肯定的」というスタンスと「メディアの利用方法について宮崎県民だけに本当のところを話してほしい」という要請をインタビュー前に行っているゆえ、知事の対応は普段のそれとは全く異なったものになった。つまり、弁解ではなく、テレビに露出することの積極的な理由を語り始めたのだ。ちなみに、その理由は「自分の露出で、その背後にある宮崎の知名度を上げるため。そのためには報道番組だけではダメで、視聴率が高く番組数が多いバラエティへの出演が適切と考えた」というものだった。

そしてこの時、少し上を向き、言葉を探し始めるようなしぐさをし、そして楽しそうに語り続けたのだった。あきらかに東国原知事は仕込みネタ=定形ではなく、今、この時点で考えていた。「やった!ちょっとスクープを抜いた」。僕はちょっとそんな気分になった。

もうおわかりだろう。この時、明らかに僕は東国原知事とインタビューをねつ造していたのだ。(続く)
※なお、インタビューの実際については2007年10月14日のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2007/10/14?m=lc)をごらんいただきたい。)

(おことわり。個人的な事情で住居を宮崎から川崎に住居を移動し、職場も変更したため、一週間ほどブログをお休みしていました。やった再会、いや再開です)

インタビューはフィクションである

永江の指摘のキモは「インタビューはフィクションである」という逆説的テーゼにある。「えっ?なんだって?インタビューこそ究極のノンフィクションじゃあないの?」と一般には思いたくなるのだが、この指摘、僕には実にしっくりと来た。というのも、僕もインタビューワーという仕事を十年近くやったことがある(そして今は研究の一環としてインタビューを継続している。ちなみに最近のインタビューはこのブログでも紹介したが東国原宮崎県知事への単独インタビューだった。これはテレビ局の要請で行ったものだ)のだが、ある意味、僕のやっているインタビューは、事実それ自体というのとははるかに遠い「うさんくさいインチキインタビュー」だったからだ。

もちろん、僕は都合のいいようにインタビューを編集しているというわけではない。むしろ、これはインタビューワーだったら誰もがやっていることなのだ。ただ、そのことをバラしてこなかっただけ。僕はインタビューイー(=インタビューを受ける人)の表現しようとしていることを出来るだけ適切に引き出し、それをまとめ、さらにはできあがった原稿をインタビューイーに示すということまでして、インタビュー記事を作成してきた。だから傍目からは、極めて誠実なインタビュー記事となっているはずだ(いや、自分がそう思っているだけかもしれないが)。とにかくインチキをやっているというつもりはない。

しかし、こういった「誠実を極める」ということと、インタビューがノンフィクションであるということは、実は関係がない。言いかえればどんなに誠実にインタビューをやったとしても、それは結局、フィクションにしかならない。さらに一歩踏み込んでいえば、インタビューというものは、すべてフィクションであると考えた方が正鵠を射ているのだ。それはなぜか。

インタビューは聞き手と話し手の合作

永江の主張を踏まえながらもう少し正確にこのことを表現してみよう。インタビューというコンテンツはインタビューワー(=聞き手)とインタビューイー(=話し手)二人による合作だ。そして、その作品の比重は、実は透明な存在、あるいは黒子とされるインタビューワーのほうが圧倒的に強いのだ。

インタビューにあたって、インタビューワーは、どんなテーマに基づいて、何をインタビューイーから引き出すかをあらかじめ決めておく。さらにそのテーマ=ねらいに基づいて情報を適切に入手するために、事前に様々な情報やデータを入手しておく。つまり、この時点で、インタビューワーは「先有傾向」にどっぷりとつかっているということになる(もっとも、これは一般には「編集」と呼ばれる行為なのだが。編集はインタビューの後だけでなく、前でも行われているのだ)。

インタビューはこれら文脈に基づいて行われる。その際、インタビューワーは、聞きたいことを適切に聞き出すために、インタビューイーに何を質問するのかをインタビューに先立って説明し、「こんな文脈で話してください」とお願いする。インタビューイーはそういわれることで、これにふさわしい自分の経験を記憶の中から引っ張り出し、インタビューワーの意図に適切に対応すべく自らを演じてみせるのだ。(続く)

正鵠を射ている永江朗

ちょいと古い本にはなるが、インタビュー技法について展開した本の一つに永江朗の『インタビュー術』(講談社現代新書)がある。雑誌「ダヴィンチ」の巻頭インタビューなどで有名なこの著者による、インタビューのノウハウについて経験に基づかれたこの本。読んだとき、長年インタビューワーをやっていた僕は正直「やられた!」と思った。

というのは次のような理由による。ここに書いてあることについて、インタビューに関して新しいことが一つもかかれていないと先ず僕は思った。「そんなのあたりまえじゃん。インタビューワーだったら誰もがやっていることだ」これが最初の印象だ。しかし、次によく考え直してみたとき、僕にはちょっとした衝撃が走った。

「でもこれって、これまで誰も書かなかったことなんじゃないのか?」

そう、つまりそういうことだ。インタビューワーだったら誰もがやっていることなのに、僕も含めて誰もそのやり方を書いてこなかった。ということは、この永江という男は実にアタマがいい、と評価せざるを得ないということなのだ。いわばみんなが知っているのに、誰もそのことを明らかにしてこなかったことを明らかにするという、社会学の基本的なアプローチと全く同じことを永江はやってみせたのである。僕は、永江の目の付け所の良さに、ちょっと嫉妬したのだ。

実は、インタビュー本は結構、ある

さて、社会学という分野にはそのアプローチとしてフィールドワークというやり方がある。なんのことはない、現場に行ってその状況をつぶさに観察し、記述するという行為なのだが、その中にインタビューという作業も含まれる。で、大きな本屋さんの社会学コーナーに行けば、必ずフィールドワークの技法についての本が置いてあるのだが、さらに突っ込んでインタビューについての文献もいくつかある(『インタビューの社会学』なんて本すらあるのだ)。

ところが、僕はこれまでこれらの本を何冊か読んできたのだが、どうもピンと来なかった。一方、永江の本はピンと来たというよりも、こっちが普段やっている当たり前のことがちゃんと乗っていた。もちろんアカデミズムとジャーナリズムではインタビューでのスタンスは多少なりとも異なっているが、それにしても社会学のインタビュー技法についての説明は「なんだかな~?」のものがほとんどで、嫉妬心すら覚えた永江の説明のほうが実にしっくり来た。

そこで、今回はインタビューについて考えてみたいと思う。最初に立ち位置を示しておけば「インタビューはフィクション、そして一発勝負」ということになるのだが。(続く)

新しい子育て環境構築の必要性

実は、家族は”どげんかせんといかん”状況にある

四面楚歌に陥っている子育て環境。これは「どげんかせんといかん」(東国原英夫)状況である。言いかえれば、家族をきちんと成立させるためのセイフティネットを要しなければならない。だが、それは家族の中だけで解決できる問題では決してない。周辺の協力、そして家族の構成員が家族から出でて、周辺とのコミュニケーション、関わり合いを持たなければ不可能な問題だ。ではどうするか。これには、いろいろと面白い仕掛けが出現し始めているので、これを最後に紹介しておこう。

一つは、よく知られたことばだが「公園デビュー」である。小さな子どもを抱えた母親たちが公園に集まり、子どもをメディアにコミュニケーション空間を形成する。これは、もっともわかりやすいセイフティネットといえる。一人で身も知らぬ人間の中に入り込むのはちょっと精神的にキツい。しかし、子どもを連れていれば、これが記号となって、後援で集まっているママさんたちが呼び止めてくれる、というわけだ。

この母親たちは「子育て」という共通のジレンマを抱えている。そこで、お互いが子育てをテーマにして議論し合う(その間子どもたちは公園の中で遊んでいるというわけだ)。子どもネタ中心だが、もちろん子どものことだけをネタとしなくてもいい。近くのケーキ屋さんやテレビネタでもかまわない。そうやって関わっていく中で、子育て技術お互いに交換しあうとともに、仲間としてのコミュニケーション空間を形成していく。つまり、子どもをダシに、友達を作っていく。こうなると母親は寂しくないし、子どもへのストレス解消、子どもに対する対処法の学習も可能となるわけだ。というわけで「公園デビュー」は家族、そして子育てのためにきわめて重要なチャンスなのである。

公園デビューですらつらいのだが

ところが、話はこんなに簡単ではない。公園デビューですらおっくうだという親も多いからだ。公園の母親たちは凶暴そう。しかもしがらみができてうざったい。こんな風に考えている親も多い、というかかなりいるらしい。こうなると「公園」はセイフティネットとしては機能しない。別のセイフティネットが必要だ。これを用意するNPOが最近は結構存在する。

ワイヤーママというネット上の活動の有効性

インターネット上で展開されている活動ワイヤーママがそれだ。(http://www.wire.co.jp/)
これは子育てをネタ=メディアにしつつネット上でママ同士のネットワークを構築しようとするものだ。ウエッブサイトには子育て情報が満載されている。ただし、前回書いたようにこれだけではマニュアルの域を出ない。具体的なナマの情報、しかもフェイス・トゥ・フェイスのそれが、やはり子育てには重要。そこで、ワイヤーママでは、ネットを媒介に人と人、つまりママとママの直接的なコミュニケーションを紹介するのだ。言いかえると子育ての互助というわけだ。

ただし、これはあくまでも表面上の目的。実は、このサイト、ママたちの子育てネットワークというより、寂しいままの友だち捜しになっているところがミソ。で、コミュニケーションには共通の話題となるネタが必要。それが「子育て」なのだ。つまり、まずママが楽しむこと、そしてその先に子育てがくっついてくる、こんな仕掛けになっている。

で、そのマッチングをワイヤーママは斡旋してくれている。近くの気の合いそうなママを探すというわけだ。つまり子どもを介した友人作りの斡旋=見合いを提供している。こうなると、公園デビューよりは敷居が下がってくるというわけだ。これはワガママ勝手をしていたいけど寂しがりの現代人にはぴったりだ。

まだまだ規模は大きくないので、これからどうなるかはわからないが、少なくともインターネットというヴァーチャルな世界を利用しつつ、リアルな世界への着地、リアルな世界の活性化をめざす。そしてそれが新しい子育てのかたち、つまり「楽しい子育て」「楽しみながら子育てスキルを身につける」という試みとしては期待できるのではないだろうか。

結局子どもは”うざったい”?

でも、これだけじゃ、家族は維持できない

しかしである。個室を用意し、レジャーさえ続けていれば「家族」をし続けることができるか、といえば、残念ながらそうはならない。やはり生身の人間と人間が顔をつきあわせて暮らす空間。家族間で多少なりとも個人の自由は阻害されていく。そこで様々な問題が発生する。

典型的なのはDV、つまり家庭内暴力だろう。子どもはあたりまえだが社会性のない存在。原則的に欲望に忠実だ。いいかえればワガママ勝手の権化。だから、親にとっては、自分の分身であってもうざったい存在である。

ワガママ勝手は親も同じ

ただし、子どもは今も昔も変わらぬうざったい存在。だから、子ども自体が問題ではない。問題は親とても同様にワガママ勝手に育った存在であることだ。生まれたときにすでに核家族、そして多くが一人っ子。どうやって子どもが育てられるかを見ることはない。かつてだったら五人兄弟以上というのがあたり前だったので、自分以外の子どもがどうやって育てられるのかというのを観察することができた。それだけではない。例えば長男や長女であったならば、親に変わって下のこの子守や面倒すら見ていたはず。ということは、このうざったい存在を処理する方法を子どもの頃から学習してきた。それゆえ、このうざったさは対処可能で、ガマン可能なものでもあった。ところが、これがない。だから大人=親になったとき、このうざったい存在をどう対処していいのやらわからない。そして自分は勝手気ままにしていたいので子どもはなおさらうざったい。

うざったさのショックアブゾーバーがない

うざったさが募る原因はこれだけじゃあない。やはりかつてであれば、もし自分が一人っ子であったとしても、子どもを育てる方法を学習することはできた。それは核家族ではなく拡大家族、ようするにじいちゃんばあちゃんと一緒に暮らしていた、より極言して表現すれば姑と暮らしていたからだ。これが妻(かつて子どもを育ているのは女の役割だったので、結局こうなったのだが)の子育て教師、アドバイザーとなり、そのスキルを学習することができた。ところが、現在では姑は存在しない核家族。ということは、家庭にいるのは妻とうざったい子どもだけ(夫は仕事に行っている)。要するに、こうなるとスキルを学ぶ場所はなく、しかも子どもに対する対応は孤立無援と言うことになってしまうのだ。いいかえると子どもはもっぱら、耐え難い、「うだったい」存在でしかない。

マニュアルはバーチャルゆえ役に立ちにくい

仕方がないので、自分なりに子育て本とかにチェックを入れてみるのだが。やはりこれは所詮ヴァーチャル。実体験を伴わないので、育てた方がわからない。対応ができない、ということは相手はうざったいを通り越して「訳のわからん存在」、こう表現してよければ「モンスター」、いや気まま勝手を阻害するという点では「悪魔」。そして、対応できずに窮地に陥った挙げ句、親はキレる。それがDVを結果するというわけだ。これって、チョー、ヤバくない?つまり集団の最終構成単位である家族自体もまた危機に瀕している。これは要するに、身勝手さを実現するために、家族単位で外界との関係を遮断し続けた必然的結果でもあるのだが。(続く)

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