勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年02月

結局「秘島」って、何?

こう考えると「秘島」の意味がだんだん怪しくなってくる。つまり、僕たちがイメージしている「秘島」とは”人がいなくてワイルドだけど快適な小さな空間”ということになるのだが、これは二律背反的なものでしかないのだ。ワイルドだったら快適なわけはないし、快適さを求めるのなら人の手垢がついたところ。しかし、それはもはや「秘島」ではない。こう考えると「秘島」という考え方それ自体がファンタジーと考えた方が良さそうだ。

じゃあコパンガンのBoon'sは、なぜ「秘島」になり得たのか。それは要するに経営者の伊達や酔狂によって、ワイルドな地、そして当時では秘島と呼ばれることすらない島に目をつけ、知性を持って快適な環境が作りあげたからに他ならない。そして、こういった「ワイルドだけれど快適な空間」は、かつてまだ島やビーチが開発されていない頃には、確かに存在したのだ。とてつもなくきれいなビーチ、しかも比較的近くに街や港があり、食材を入手するのも豊富といったところが。

ところが、ツーリズムが全世界的に展開し、そういった「秘島」的なフロンティアは消滅してしまった(強いて言えば、今アジアで残っていて「秘島」になる可能性があるのはミャンマーのアンダマン海の島々だろう。もちろんミャンマーが民主化されればという条件付きだが)。だから、よ~く考えると秘島は「なかった」ということもできるし、たまたまあったものもツーリズムによってつぶされてしまったということなのだ。そう、もはや「秘島」はない。

秘島のイメージを堪能できる場所は、ある

90年代以降、僕は秘島を追い求めるのをやめた。でも島やビーチでリゾートすることは続行した。僕は秘島ではなく「秘島のイメージを満喫できるところ」を探すことにしたのだ。こう考えると、この条件を満たす、つまり「チープでリッチなリゾートライフ」を満喫できるところは、何も遥か彼方の小島である必要はなくなる。しかも、情報を丹念に拾っていけば、意外と大都会に近いところにある。たとえば以前に紹介したタイ・パタヤのラビット・リゾート。パタヤビーチとジョムティアンビーチの間、というかジョムティアンビーチを入ってすぐの横道を入った所にあるリゾート。大きな道ジョムティアンロードをちょっと入ったところにある。ジョムティアンロードは大型ホテルがボンボン建っていて、レストランもいっぱいあり、はっきり言って喧噪という言葉がふさわしい。ところが、ここは道をちょっと外れただけで、街の中にありながら排他的な環境が実現されている。しかもプールの真ん前にビーチがあるプールから少しだが眺めることが出来る。それどころかプールでインターネットをすることすら出来るのだ。これも、この地を知り尽くした人間が、ポイントをつかんで、自分の世界を徹底的に展開し、それをお客に楽しませるという、知性溢れるスタイル。そして都会の猥雑やシーフードに舌鼓を打ちたければ10分ほど歩けばいい。いわば、パタヤの中にある秘島だ。ちなみに他にも結構こういう場所はある。タイならラノーンの○○、ホアヒンをちょっと離れたところ、サイパンの隣の島、バリ島の○○ビーチ……
そう、秘島はもはやない。しかし、イメージとしての秘島はさがせば、実はある。それを見つけることが出来るかどうかがポイントということになるんじゃないだろうか。

秘島探しの挫折(2)

快適性のためのインフラの不在

コパンガンはカパスに比べ遥かに大きく、実際、住民が暮らしている。ということは住民の生活するためのインフラが整っており、それを利用してチープなリゾートが出来たのだ。だから、当時のコパンガンは一般には知られてはいないが、点在した数少ないゲストハウスはこの恩恵にあずかっていた。つまり、日常物資を調達できていた。港に行けばパンも焼いて売っているし、食材も豊富。ビールだって手にはいるし、それを冷やしておく氷だって売っている(バンガローのビールは冷えていた)。

一方、カパスのほうはそうではない。島は小さく、元は無人島。ダイバーのためにバンガローが建てられたと言っても過言ではない。ということは、あらゆるものの調達が難しいということになる。食料はすべて新鮮でない。また、陸地からビールを仕入れてきても、結局はぬるいビールを飲むハメになる。要するに、ここはサバイバルな島でしかないのだ。

ホスピタリティの貧困

もう一つの相違点「ホスピタリティ」についてもその落差は大きかった。
86年に宿泊したコパンガンのゲストハウス=バンガロー=リゾート・Boon'sは家族経営。経営する夫婦は夫が元銀行員、妻が元英語教師を生業としていた。つまり、知的レベルが高く、自分たち自身が「快適生活」を求めて、ここにチープなリゾートを始めたといういきさつがあった。夫は釣りが趣味、妻は英語を駆使できる仕事がしたい、そして子どもも含めて家族全員で暮らしたい。そんな希望がこのゲストハウスの経営にたどり着いた。まあ,日本で言うと、団塊の世代が志向するような「田舎暮らし」を始めたというわけだ。実際、ゲストは夫婦二人と英語で日常的に会話を交わし、毎日、夫の釣り上げる魚で舌鼓を打つというリゾートライフをすることができた。当然、こういった知的レベルの高い人たちゆえ、バンガローは掘っ建てのチープでも、常にきれいに掃除がなされ、またゲストたちに対してかゆいところまで手が届くようなサービスも整えていた(なんと、木製の作りつけの箱ではあるが、セイフティ・ボックスまでそろえていたのだ)。この、ホスピタリティの充実さが、ゲストを長逗留させ、またリピーターを生む秘訣でもあったのだ。

一方、カパスのほうは、やはりそうではない。ただ、生活のために小銭を稼ごうとしている人間が始めたリゾートに過ぎない。スタッフは気さくに言葉をかけてはくれるが、それはよく言えば「素朴」、ちょっと悪く言えば「野蛮」(一生懸命対応してくれたことを考えると、こんな表現は申し訳ないのだが)。どんなにおもてなしをしてくれても、それはちょっと勘違いという感は否めない。僕らはバックパッカーだけど、チープなリゾート指向者。フィールドワークにやってきた文化人類学者ではない。だから、こういった素朴なおもてなしは「秘島」のカテゴリーとしてはハズレということになるのだ。(続く)

秘島探しの挫折(1)

すっかり秘島でなくたったコパンガン

しかし、その後数年の間に、コパンガンはものすごいスピードで開発が進む。まあ、となりのコサムイにゴージャスなリゾートが建ち始め、その余波がやってきたということなのだろうか。あるいは若者向けのチープなバックパッキング・ツーリズムが盛り上がったということなんだろうか。三年後にコパンガンにやってきたときには港が完成していた。トンサラの港には土産物屋が建ち並び、外人向けインターナショナルレストランも出来ていた。そしてゲストハウスは……300件を越えていた(さらにその後プール付きのリゾートまでが、島内に建てられるようになる)。そして、それはもはや三年前のコパンガンではなく、賑やかでチープなリゾートアイランドだった。もう秘島でもなんでもなかったのだ。挙げ句の果てにはディカプリオ主演映画「ビーチ」の中でコパンガンは「秘島」の隣で食料を調達しに行く島とまで位置づけられていく。

新たな秘島をマレーシアに発見、しかし……

ということで僕はコパンガンをあきらめ、さらにまだ手のつけられていない「秘島」を目指しマレーシアへ向かったのだ。そしてビーチを独占できる小さな島を発見した。

クアラトレンガヌ州マランの先にあるカパス島。ここは小さなビーチが点在し、そこにリゾートがあり、ホントにexclusive=排他的ではあった。しかし、である。ここでリゾートするというのはちょっとねえ、というところでもあった。

まず船が一日一便。まあ、これはいい。だからこそ人はこないのだから「秘島」としての必要条件は整っている。だが一便ということは食料物資の運搬や各種サービスも一日に一回ということになってしまう。で、島は小さいが故に船は小舟(ちなみに島の東側には道はなく、ビーチとビーチの間にもやはり道がない)。当然、たいしたものを運んでくることはできない。料理は、こうやって運んできたもので作られる。ということは、バンガローで出してもらう食事は、料理とは言えないくらい粗末なもの。電気も通ってないので夜中は真っ暗。酒を飲もうにも、そんなものは陸地にまで買い出しに行かなければ手に入らない。いやアルコールどころか水が手に入らないという状況。仕方がないので、毎日、陸地の港町・マランまでショッピングに出かけるというハメに。結局、これじゃあリゾート、チープでリッチどころか、サバイバル生活。仕方なく三日ほどいて、そそくさとこの島を去ることにした。

カパスは確かに秘島だ。しかしかつてのコパンガンのような秘島ではない。「なんで、あっちはよくて、なんでこっちはダメなんだ?」秘島探しをしていた僕が秘島を拒絶した理由をその時考えてみたのだ。で、その回答は、実は僕の認識の仕方にあったのだが……。

コパンガンのBoon'sが特別だったのだ。カパスのリゾートとコパンガンのリゾートは港がないこと、電気がないこと、水道が通っていないこと、これらの点では共通する。しかし、完全に異なっていたのは島の大きさと、ゲストハウス=バンガローのホスピタリティだった。(続く)

秘島は、ない?

よくバックパッカー、いやフツーの海外旅行フリークの中で時々出てくる言葉に「秘島」という表現がある。まだ、人に知られておらず、よって島を独占でき、プライベートライフを堪能できるという夢のような島だ。実は、かくなる僕も二十代の頃、つまり80年代はこの「秘島」を探して、あちこちへ出かけたものだった。

で、秘島は、本当にあるのか?ある意味「ある」とも言えるし、ないとも言える。「ある」というのは、たしかにそういう島をかつては見つけることは出来たからだ。だから正確には「あった」と表現した方が正しいのだが。

かつてコパンガンは秘島だった

場所はタイ・パンガン島。ただし、これは1986年のこと。僕は秘島を探してたどり着いた一つが、ここだった。島は結構大きいのだが島内のリゾートというか、ゲストハウスは数件。船着き場トンサラのそばに一件、東端のハドリンビーチに数件という具合だった。なにもわからず紹介されたのは船着き場(当時港はなかった)に近い方の一件、名前はBoon'sだった。そして、ここがまさに秘島のリゾートだったのだ。

宿代は10バーツ。当時1バーツ6円程度だったので60円という値段。電気はない、水もない。しかも初日は空きがなく台所に寝るという始末。しかし翌日から、そこにはパラダイスが待っていた。

自然と一体になったパラダイス

一日はこんな風に過ぎていった。

朝、日の出とともに起床。夜風が涼しいとはいってもエアコンもファンもないので、朝はカラダがべっとりする。そこで井戸へ。バケツを井戸の下に落として水をかき集め、水かぶり。ついでに歯磨きと洗顔も。もちろん水道などないので井戸の水を使う。

さっぱりしたところで朝食会場へ。というかいつものんびりするレストラン件パブリックスペースへ。目の前は海で遠浅なので風が涼しい。そこで薄いインスタントコーヒーをジョッキでいただきながら朝食をとる。これが終わるとゲストたちは思い思いに好きなことを始める。僕の場合はひたすら読書。というか、ここのパブリックスペースでくすがっている連中のほとんどは読書と決め込んでいた。60過ぎの怪しげなドイツ人(戦争経験があって、今でもユダヤ人を蔑視している。下手に話しかけない方が無難だった)、陽気なイギリス人の若者は身体障害者で片足が動かない。そして午前中は毎日ジョッキコーヒーを三杯のむ。二人連れのフランス人。向かい合っているが二人はほとんど会話を交わすことなく、ともにひたすら読書を続けている。そして、僕。なんと社会心理学の原書を一生懸命読んでいるといった具合。バンガローに戻った連中は、二度寝をするか、あるいはボンで一発決めるか、まあそんな調子で極めてのどかな快適な時間が流れる。

十時半を過ぎると、暑くなってくるので海で一泳ぎ。で、運動して疲れた頃に昼食。いつもの食堂で焼きそば、チャーハンといったチープな定番を食べるか、ちょっと散歩で港トンサラに行き、たった一件しかないレストランで中華を食べるか、ベーカリーでパンを買ってくるか(ここではなんとガンジャ・クッキーなんてものが売られていた)。

で、昼食の後は昼寝。またパブリックスペースでお茶。長逗留の客たちとど~でもいい話で盛り上がりながら時間は過ぎ、気がつくと夕方。夕日の沈むのをビールを飲みながら堪能し、秘が寝静まった頃にまた同じところで夕食。ここには電気が通っていないので、レストランにはかなりパワーの強いランタンが用意されていた。ただし、料理を頼むと厨房で料理を作らなければならないので、その間はレストランは、アクセサリー程度の極小のランプで待つことになる。いや、これって何も見えなかったのだが。

食事は、ご主人が釣ってきた魚。揚げる、焼く、蒸す、あんかけにすると、これまたタイの定番の加工。これを楽しむと、もうやることはない。部屋に帰っても、さっきの極小ランプが一つあるだけ。というわけで、眠るしかなくなるのだ。で、これが毎日続く。

すると、だんだんと時計はどーでもよくなってきて、時計のかわりにおてんとさまが時計となる。要するに夜明けとともに起きて夜更けとともに就寝する。で、このリズムが実にキモチよい。ハマりにハマって、結局、気がつけば40日も居続けたのだった。

そう、かつてはちゃんと「秘島」というパラダイスは存在したのだ。しかし……(続く)

オタク=高感度なおたくという語り

もっぱら新人類のネガとして否定的に語られたおたく。宅八郎というタレントというか評論家というか、怪しげな存在も現れたが、これは明らかにこのネガティブなイメージをデフォルメして売り込んでいたものだった。

しかしながら90年代半ばになると、これらとは異なる、おたくを肯定的に捉える立場が現れる。その先鋒がガイナックス初代社長で、自ら「オタキング」を自称した岡田斗司夫だった。岡田は江戸の職人文化との連続性をおたく文化の中に見て取り、「映像に対する感受性を極端に進化させた「眼」をもつ人間」とおたくを定義した。

これはおたくに独特とされた「限られた、しかも社会的に役に立たない分野へ熱狂する」という性格を読み替えたものに他ならない。つまり限られ範囲へのコミットメントは、「わかる人間だけがわかる「粋」な世界を熟知している」とみなされ、また熱狂することは、新人類が保持していた「高感度性」を継承したものとみなされたのだ。ようするに、岡田はおたくのネガティブな因子をすべてひっくり返して解釈するということをやってみせたわけだ。

社会的に受容され始めた「おたく」

こういった岡田の徹底的なオタク肯定論は、意外にもある程度受け入れられていく。だがその理由は簡単だ。当初、当該の若者世代の一部を指し示す集合として認知されていたオタクという存在が、世代を横断して存在する、しかも結構な数で、というかたちで再認知し始められたからだ。それは言いかえれば「おたく」という世代横断的なマーケットが誕生し始めたことを意味するものでもあった。

そして岡田あたりから「おたく」はカタカナ書きで「オタク」と表記されるようになる。オタクは認めるべき、そして市場として開拓すべき層なのである。ただしこの時、もはやオタク=若者(の一部)という図式は半ば崩壊したと言えるだろう。

オタキングの退場

しかし21世紀に入り、オタキング=岡田は自らオタクであることに違和感を感じ始める。その後、オタクを特徴づけるとされる典型的なことば「萌え」を、自らは全く理解できないと告白。2006年には「オタク・イズ・デッド」を宣言し、オタキングの看板を下ろし、オタクの議論から退場していった。そして、オタクについての議論は後続に引き継がれていった。

この岡田のオタク論からの退場は議論上できわめて重要な位置を占めている。岡田の退場は、オタクについての議論の立ち位置が根本的に変更されたことを意味しているからだ。それは何か?(続く)

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