(ベランダから群衆の行動を観察、分析するアルフレード。これは’神の視線’に他ならない。映画『ニューシネマパラダイス』より)
アルフレード、神の視線
アルフレードはトトに何を見ていたのか
映画の中でわれわれがいちばん不可解に思えるのは、アルフレードがトトの成長とともに、トトをジャンカルドから追放しようと動き出すことだ。外に出ろといい、エレナとの関係を引き裂き、結果としてトトはローマに向かい、以降30年以上にわたってジャンカルドの地を踏むことはなかった。アルフレードはジャンカルドの村と映画の行く末を知っていた。またトトの才能もまた熟知していた。そして、もしトトがこのままジャンカルドに居続ければトト=万能者の才能は開花することなく、ジャンカルドの中に埋もれ、共同体の死とともに彼の存在もまた、消えていくということも、また知っていた。だからこそ、アルフレードはトトの才能を花開かせるべく、嫌がるトトを無理矢理ジャンカルドから追放した。このことはすでに述べたが、不思議なのは、なぜそんな眼力・洞察力をアルフレードが持ち得ていたかである。
しかし、そのことも映画を子細に検討すれば見えてくる。
アルフレードはジャンカルドの村の中で唯一共同体の外部を知っている存在
アルフレードは自らのことを「無知でバカ」と呼んでいる。そう、確かに意識の上でアルフレードはその通りの存在だ。実際、小学生レベルの知識すらない。だからこそ小学校卒業資格試験を受けに来たとき、問題がわからずトトにカンニングさせてくれ依頼したのだ。そして、他にやるアタマがないので映写技師をやっているのだとトトに告げてもいる。ただし、この事実は表層に過ぎない。アルフレードにはジャンカルドの人間が決して所有することのできないマクロなモノの見方、つまり状況を鳥瞰する力がそなわっていたのだ。なぜか?それは映写技師として映画越しに様々な現実を見てきたからだ。映画はジャンカルドの人間にとっては村の外=社会・現実を知るための数少ない窓。そこから送られてくる情報をつぶさに見、しかも何度も繰り返してチェックし続けているのがアルフレードに他ならない。
アルフレードはトトに映画の写し方を教えたくないといい、その理由を語る。
「同じ映画を100回も見る。一人で画面のスターに話しかけることも。寂しい仕事だ。この仕事をやったのは自分がバカだったから。愚か者のやる仕事だ。でも、お客が一杯になって楽しんでもらうとうれしくなる。お客を笑わせると、自分が笑わせたように思えて、皆の苦労を忘れさせたと思える。」
アルフレードは映写技師として何度も映画を見続ける内に二つの視点を獲得している。
一つは、共同体の外の状況を見る視点だ。映画、そして映画ニュースが伝える情報をじっくりと吟味する時間がアルフレードにはある。同じ映画を何度も観るから当たり前だ。つまり最先端の情報を常に入手している立場にある。ということは、社会学的にいえば「公衆」というカテゴリーに属する人間に該当する。社会がどう動いてきて、これからどこに行くのかがある程度読める感度が涵養されているのだ。外部に対して高感度なアンテナを張り巡らしている存在なのだ。
人々の動きを読み取ることができる
もう一つは大衆の動きを見る視点だ。シネマパラダイスに客がいっぱいで、閉め出されたとき、客たちはアルフレードに何とかしてくれと頼む。アルフレードは「こればっかりはどうにもならない」と答えるのだが、結局、広場の建物に映画を見せてしまう。そのときの客の行動についてアルフレードはトトに向かってこう評していた。「大衆は考えずに行動する」
これはスペンサー・トレーシーのことばを借用したのだと暴露するが、大衆=客の動きを熟知した視点であることに違いはない。アルフレードは映写室から常に映画館内の客の動きを観察しているのだ(だからこそ、目が見えなくなっても、トトの前で「今、映像のピントがボケている」と指摘することができたのだ。彼には客の姿は見えないが、そのざわつきからピントがボケていることが判断できるのだ。この時、アルフレードは「説明は難しい」となぜそう判断できるのかについては理由を語らなかったが)。
共同体の人々の行動が理解できるのは、映画館の中を見られるからというだけがその理由ではない。映画館=シネマパラダイスは広場の中央に位置している。そして映写室の窓は広場に面している。しかも上階に位置するため、広場の人々の動きもつぶさに観察できるのだ。(続く)
共同体の人々の行動が理解できるのは、映画館の中を見られるからというだけがその理由ではない。映画館=シネマパラダイスは広場の中央に位置している。そして映写室の窓は広場に面している。しかも上階に位置するため、広場の人々の動きもつぶさに観察できるのだ。(続く)