勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年02月

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(ベランダから群衆の行動を観察、分析するアルフレード。これは’神の視線’に他ならない。映画『ニューシネマパラダイス』より)

アルフレード、神の視線

アルフレードはトトに何を見ていたのか

映画の中でわれわれがいちばん不可解に思えるのは、アルフレードがトトの成長とともに、トトをジャンカルドから追放しようと動き出すことだ。外に出ろといい、エレナとの関係を引き裂き、結果としてトトはローマに向かい、以降30年以上にわたってジャンカルドの地を踏むことはなかった。

アルフレードはジャンカルドの村と映画の行く末を知っていた。またトトの才能もまた熟知していた。そして、もしトトがこのままジャンカルドに居続ければトト=万能者の才能は開花することなく、ジャンカルドの中に埋もれ、共同体の死とともに彼の存在もまた、消えていくということも、また知っていた。だからこそ、アルフレードはトトの才能を花開かせるべく、嫌がるトトを無理矢理ジャンカルドから追放した。このことはすでに述べたが、不思議なのは、なぜそんな眼力・洞察力をアルフレードが持ち得ていたかである。

しかし、そのことも映画を子細に検討すれば見えてくる。

アルフレードはジャンカルドの村の中で唯一共同体の外部を知っている存在

アルフレードは自らのことを「無知でバカ」と呼んでいる。そう、確かに意識の上でアルフレードはその通りの存在だ。実際、小学生レベルの知識すらない。だからこそ小学校卒業資格試験を受けに来たとき、問題がわからずトトにカンニングさせてくれ依頼したのだ。そして、他にやるアタマがないので映写技師をやっているのだとトトに告げてもいる。

ただし、この事実は表層に過ぎない。アルフレードにはジャンカルドの人間が決して所有することのできないマクロなモノの見方、つまり状況を鳥瞰する力がそなわっていたのだ。なぜか?それは映写技師として映画越しに様々な現実を見てきたからだ。映画はジャンカルドの人間にとっては村の外=社会・現実を知るための数少ない窓。そこから送られてくる情報をつぶさに見、しかも何度も繰り返してチェックし続けているのがアルフレードに他ならない。

アルフレードはトトに映画の写し方を教えたくないといい、その理由を語る。

「同じ映画を100回も見る。一人で画面のスターに話しかけることも。寂しい仕事だ。この仕事をやったのは自分がバカだったから。愚か者のやる仕事だ。でも、お客が一杯になって楽しんでもらうとうれしくなる。お客を笑わせると、自分が笑わせたように思えて、皆の苦労を忘れさせたと思える。」

アルフレードは映写技師として何度も映画を見続ける内に二つの視点を獲得している。

一つは、共同体の外の状況を見る視点だ。映画、そして映画ニュースが伝える情報をじっくりと吟味する時間がアルフレードにはある。同じ映画を何度も観るから当たり前だ。つまり最先端の情報を常に入手している立場にある。ということは、社会学的にいえば「公衆」というカテゴリーに属する人間に該当する。社会がどう動いてきて、これからどこに行くのかがある程度読める感度が涵養されているのだ。外部に対して高感度なアンテナを張り巡らしている存在なのだ。

人々の動きを読み取ることができる

もう一つは大衆の動きを見る視点だ。シネマパラダイスに客がいっぱいで、閉め出されたとき、客たちはアルフレードに何とかしてくれと頼む。アルフレードは「こればっかりはどうにもならない」と答えるのだが、結局、広場の建物に映画を見せてしまう。そのときの客の行動についてアルフレードはトトに向かってこう評していた。

「大衆は考えずに行動する」

これはスペンサー・トレーシーのことばを借用したのだと暴露するが、大衆=客の動きを熟知した視点であることに違いはない。アルフレードは映写室から常に映画館内の客の動きを観察しているのだ(だからこそ、目が見えなくなっても、トトの前で「今、映像のピントがボケている」と指摘することができたのだ。彼には客の姿は見えないが、そのざわつきからピントがボケていることが判断できるのだ。この時、アルフレードは「説明は難しい」となぜそう判断できるのかについては理由を語らなかったが)。
共同体の人々の行動が理解できるのは、映画館の中を見られるからというだけがその理由ではない。映画館=シネマパラダイスは広場の中央に位置している。そして映写室の窓は広場に面している。しかも上階に位置するため、広場の人々の動きもつぶさに観察できるのだ。(続く)

なんじゃ?このタイトルは

ほとんど”東スポ”的なタイトルをちょいとつけてみた。ウサマ・ビンラディンと三浦和義の逮捕って、全然関係ないじゃん、って思うのが当然だが……いやいや瓢箪から駒、はたまた風が吹けば桶屋が儲かるってなわけで、実は大いに関係があるっていうのを”東スポ”風じゃなく「実証的」に考えてみよう。

三浦さん、なんでサイパンで捕まるの?

すでに三浦は1988年にアメリカでは逮捕状が出ていた。ただし、逮捕されたのは20年後。気が遠くなるような年月だし、三浦本人だって「なんで今頃」ってな気分になるのもうなずける。でも、この逮捕状が出てから20年後の逮捕というところがミソだ。日本メディアは新しい証拠が出てきたなんてホザいているがr88年に逮捕状が出ているのだから、その時点での「新しい証拠」というべきで、最近新しい証拠が見つかったからサイパン入国ついでに逮捕したというのとは、訳が違う。

対テロ用のセキュリティはとんでもなく上がってしまった

今になって逮捕に出たのは、なんのことはない、アメリカの出入国管理の方法が変わったからだ。テロ以降、アメリカに行ったことのある人間ならば、誰もが経験済みだろうが、出入国のセキュリティ・チェックがものすごく厳密になったのだ。もちろんテロリストの入国を未然に防ぐのが目的。

まず日本出国時。アメリカに渡る飛行機に乗る客は、チェックインカウンターで間引き的にではあるが荷物の中身をあらためられる。いや、それだけではない。スーツケースなどに鍵をかけることを禁じている(これは乗客全員だ)。鍵かけたままだと、入国時に鍵の破壊されたスーツケースが現れるという具合(ちなみに「荷物係が荷物をパクっても責任持ちません」てな文脈の文章まで渡される始末。さすがゴーマン王国アメリカ!)

次にアメリカ入国時。指紋を採られ、そして写真を撮られる。つまり、誰が入って、誰が出て行くのかを徹底的にチェックしているのだ。

コールドケースの人が入国しても、チェック可能。その中に三浦がいた

ということは、誰が入ってきているかが逐一、完全にわかるようになってしまった。イイカゲンじゃ無くなったのね。で、このデータを警察が運用すれば、これまでコールドケースで放っておかれた指名手配されている人間も引っかかってくるというわけだ。

警察だって業績上げたい。で、体よく逮捕できればこれはおいしい。とりわけ海外に逃げたヤツなんてのは時効はないし、殺人犯だったらなおさらない。「ほんなら、ちょっと空港のデータあさってみますか」ってな「お手軽な気持ち」でコールドケースと入国者を照合する。すると、おお!あるある、この手のたぐいが(だから、最近次々コールドケースが解決しているということか)。で、その一つが三浦和義だったというわけだ。スピード違反の取り締まりで、インターチェンジの入り出口で張っているってのとノリはほとんど同じじゃないんだろうか。つまり、お手軽かつ、お気軽に業績をボンボン上げることができるわけだ。で、今回ロス市警はそれをやっただけ。だから、メディアが「ロス市警は執念を持ってこの事件を追い続け、ついに三浦の逮捕にこぎ着けた」なんてのは、完全にフィクションだろうと、僕は見ているのだが。

ロス市警こそ、びっくりしているのでは


もし、この見方が正解だったとしたら、今いちばん驚いているのはロス市警自身では無かろうか。こうやって逮捕してみたのはいいけれど、日本のメディアのこの騒ぎようはいったいなんなんだ?ってな具合で。

だいたいロス市警はやってることが不用意だ。80年代、この事件の捜査を行ったときには日米が合同で調査をやっている。だったら、そちらの方をまずは尊重すべきだろう。また2003年には三浦の無罪が確定している。これを国が違うから逮捕していいといっても、多少なりとも日本の法律を尊重すべきなのだ。国際問題になりかねないし。

これをやらずに「逃亡犯」ということで三浦を逮捕するというのは?その理由の一つは、前回書いたアメリカのゴーマニズムだ。つまり、日本よりオレの方がエラいので、日本の法律なんか関係ね~!っていう、無意識がさせるアメリカ人の優越的態度。

でも、考え直してみると案外そうではないんではないかと思うようになった。彼らは本当に「逃亡犯」と思っているのでは。つまり、日米で合同に捜査したことも、三浦の無罪が確定していることも、全く知らない状態で、純粋に「逃亡犯」として三浦を逮捕してしまった。だから、お手軽なねずみ取り感覚で三浦を逮捕した。要するにアメリカ式ゴーマニズムというより、単なる無知・ノーテンキのなせるワザなのでは。

イノセントなアメリカという伝統からすると、こっちの単なる業績主義、自分のことしか考えないで仕事をした結果という方が説得力があるかもしれない。そしてよりアメリカ的と言えるのかもしれない。

というわけで、三浦和義を逮捕したのはビンラディンという考え方。当たっていると思えませんか?

新人類からオタクへ「若者論の変容」(9)

根本的に変容した「オタク」語り

オタキングこと岡田斗司夫のオタク論議からの退場の後、この議論に登場したのは現代思想、ジャック・デリダの分析で一躍注目を浴びた東浩紀だった。東はこれまでとは全く異なった視点からオタクを論じるようになる。それは、オタクを社会的性格と捉えたことだ。

ちょっと社会的性格というと難しそうだが、これはE.フロムという社会学者が提唱した社会学用語。簡単にいってしまえば、当該社会の人々に通底する一般的な特徴を指す。たとえば70年代に語られ始めたモラトリアム人間という考え方。これはいつまでたっても大人になろうとしない若者を表現したことばだったのだが、80年代以降、成人となった人間はいずれもが「モラトリアム人間」的な特徴を備えていた。つまり30になろうが40になろうか「大人」にはならない。仕事にしても、たとえば「サラリーマンやっている」という認識で、どこかに大人でない部分を常に抱えるようになった。いいかえると、80年代以降の人間はある程度モラトリアム人間的な心性を自分の一部として保持するようになったということになる。

これと全く同じ図式をオタクに当てはめたのが東の議論だった。つまりオタクというのは一部の若者に特有の人格類型ではなく、われわれ現代人が「心性」の一部として保有している部分とみなしたのだ。

その分析は「データベース消費」ということばに集約される。現代人はアイデンティティのよりどころとする大きな物語(アイデンティティの立ち位置とするもの。かつてだったら高度経済成長神話みたいな者がこれに該当した)を失い、さらに小さな物語(新人類たちが志向した感性を共有するナウさ)も失った末、行き着いたのが、情報の海(ただし限られた範囲の)に埋没して、その情報と戯れることで、体よく萌え、体よく感動する。

これは実に冷静な分析だった。そう、オタクはどこかに存在するのではなく、われわれの中にある。もちろん、われわれはオタクそれ自体ではなく「オタク的成分」を保持している。だから時に応じて普通の社会人となり、また時に応じて「オタク」になる。

社会が認めたオタク

こういった語りは、実に現代社会に歓迎されるべきものだった。資本の側からすれば、若者ではなく世代横断的なマーケティングが可能となるからだ。つまり子どもから大人まで、ある分野においてオタクが存在し、この横断的な購買層にターゲットを当てれば一山あてることができる。要するにオタクというマーケットが誕生したのだ。そして、もはやオタクはネガティブな存在でもポジティブな存在でもなくなった。おたくはもはや立派な市場である。

しかし、そこで若者論は再びデッドロックに乗り上げることになる。オタク=若者と無理矢理接続する図式が完全に無効になってしまったからだ。

さて、若者論はどこへ行くのか。そういった意味で、これから先が楽しみでもあるのだが……。

実に用心深いメディア報道

前回はメディアと三浦和義の攻防について触れた。ちょっとおさらいすると、メディアはメディア主導でこの報道を展開し、これが当局を動かして結局、三浦を逮捕にまでこぎ着けたが、最終的には三浦は無罪が確定し、今度は三浦が逆襲。プライバシー侵害等でメディアに次々と訴訟を起こしそのほとんどに勝利。その結果、メディアは三浦に対して以降、実に用心深い対応をするようになった。つまり、一般人以上に三浦のプライバシーに対する報道に注意を払うようになった。そしてその具体的な事件が、釈放以降三浦が起こした二度の万引き事件だった。すべてのメディアが事件を事実関係のみの報道にとどめ、それ以上の言及を避けたのだ。つまり、メディアと三浦の対決は、最終的に三浦の勝利となった。と同時に、メディアは三浦以降、容疑者や疑惑の人間に対し、きわめて慎重な対応をするようになっていった。つまり三浦はメディアに「疑わしきは被疑者の利益に」というマナーをたたき込んだことになるのだ。

でも、メディアは三浦を、無意識のうちに攻撃している

で、今回のサイパンでの三浦逮捕についてもメディアはきわめて慎重だ。人格的なコメントは極力避けている。特ダネの小倉智昭などは、メタ的なレベルから報道について警鐘を鳴らすほど。

しかし、である。メディアの三浦に対するバッシングは、今回無いのか……。そんなことはない、ちゃんとやっている。というか、無意識のうちに三浦を攻撃していると僕は考える。しかもメディア自身も攻撃している自覚のないまま、これをやっている。それはどういうことか。

この事件は国際政治問題のハズなのだが……

ちょっと考えて欲しい。もし、今回逮捕された人間が三浦のような「有名人」ではなく、一般人だったら。しかも最高裁まで争って無罪を勝ち取った人間であったら。そして、その人間がアメリカの領土で逮捕されたとしたら、と。

当然、われわれは義憤を感じるのではないだろうか。冤罪を勝ち取った(厳密には冤罪と無罪は違うのだが)人間が、再び同じ事件で、しかも別の国で逮捕される。先ずわれわれが思うのは「そりゃ、ないだろう」という感覚だ。舞台はアメリカであっても、日本人の間で起こった事件。そして日本の法律では無罪になった。にもかかわらず、アメリカはこれを無視して、アメリカ領土に無罪の人間が入ってきたのを確かめて、出し抜け的に逮捕。これでは日本の法曹界がたまったもんじゃない。どう考えたってコケにされたということになる。第一、ロスの銃撃事件は日米合同捜査で行われてきたはず。そして、その結果、三浦が無罪になったはずだ。

となれば、もうアメリカは日本の最終判決を尊重すべきなのだ。ところが、日本の側には全く知らせることなく、突然逮捕。そういった意味では、日本は二重にコケにされたということになる。これは国家間の相互尊重どころか、あのアメリカの悪しき覇権主義以外の何物でもない。要するに「オレっちアメリカはエラいんだ。日本のサルたちよ、オレが決めたこと従え。おまえたちのやっていることなんかはどうでもいい」という傲慢やるかたない態度そのもの。日本政府は、今回のアメリカの対応を国際問題化し、国家の威信をかけて三浦を日本に奪還するべき、それが国家の威厳というものだろう。

メディアは、このことを指摘しない

しかし今のところ、こういった日本がアメリカにコケにされたという話はほとんど出てこない。なぜだろう?僕はそこにメディアの三浦に対するルサンチマンを見てしまうのだ。

つまり、どーやっても三浦には勝てない。でも、くやしい。一泡吹かせたい。でもできない。そこで、メディアの抱えるルサンチマンは集団無意識である行動をやってしまった。つまりこの政治的問題を取り上げないと言うことで、結果として三浦を放置する。こういった無意識の態度が、結果として「やっぱり、あいつがやったんだ」というあうんの呼吸のメタメッセージ=コノテーションとして機能する。

「冤罪」パターンの人間について、メディアは一般的に同情的なトーンで語ることがもっぱらだ。だから今回もそういうパターンでやるべきなのだが、三浦に対してだけは「コノウラミハラサデオクベキカ」という無意識が、このいつものパターンを三浦にだけは適用しないという態度をメディアに取らせている。

そう、ここにはメディアの立ち位置の不在がある。無知な感情によって、自らの感情に自らがコントロールされてしまっている哀れなメディアが、しかし巨大な力を持って暴れている。

これは手の込んだ(しかも自分すらダマしている)、新しいタイプのメディア誘導型バッシングの始まりなのかもしれない。フーコーいうところの権力がふりまわされている、と思うのは僕だけだろうか。

三浦和義、サイパンで逮捕!

80年代の犯罪史を象徴する”いわゆる「ロス疑惑」”(かならずアタマに「いわゆる」がつくのだが)の容疑者、元会社社長・三浦和義がサイパンで27年前の事件の容疑者として逮捕された。日本では最高裁で無罪を勝ち取った三浦だが、アメリカの領土に渡った瞬間、再び殺人の容疑者となったのだ。

三浦とメディアの戦い

だが、僕は三浦がこれからアメリカでどう裁かれるのかに大した関心はない。むしろ関心があるのは、この逮捕と三浦の今後をメディアがどう扱うかだ。というのも、メディアと三浦の戦いは、「疑惑」の人間の報道スタイルを構築する戦いでもあったからだ。

84年、週刊文春は「疑惑の銃弾」とのタイトルで、81年に起きた日本人夫婦の銃撃事件で、その黒幕が被害者の一人三浦和義ではないかとの報道を行った。この時、妻の一美さんは死亡しており(銃撃後、植物人間となり、その後日本で死亡した)、つまり三浦はこの事件で第三者に妻を殺害させ保険金を得ようとしたのではないかとの報道を流したのである。

この報道にメディアは一斉に反応し、ワイドショーや週刊誌は「ロス疑惑」一色といった状態となる。当時はフォーカス、フライデーなどの写真週刊誌隆盛の時代。三浦の派手な言動もメディア的においしかったこともあり、三浦はさながら「疑惑スター」とでも表現するのがふさわしい存在となっていく(実際、三浦は当初メディアにも積極的に顔を出していた。滝田洋二郎監督の映画「コミック雑誌なんかいらない!」にも特別出演している)。

その際、メディアはとにかく三浦を一日中追いかけ回していく。少年時代の犯罪歴、愛人の存在、私信の無断開封に至るまで、とにかく三浦はあることないこと報道され、プライバシーを侵害されていく。業を煮やした三浦はイギリスへと渡るが、さらにそこまでメディアは追いかけて来るという状態。

これに警視庁も煽られるかたちとなり、1985年に逮捕されたときには、警察署に入る際、わざわざ所のゲートの前で三浦を卸し、手錠をはめた状態で所内までのエントランスロードを歩かせるという、通称「ヒットパレード」まで演出する始末だった。この時、三浦はメディアによって完全に実行犯と「認定」されていた。そしてメディアは三浦を追いつめ、完全に勝利したと、その時はほくそ笑んでいたのである。

三浦の逆襲

ところがメディアと三浦の戦いはここからが始まりだった。三浦は拘置所の中で法律を勉強。そして、メディアが自分に対して行った報道について、プライバシー侵害のかどで次々と裁判を起こし、そのほとんどに勝利していったのだ。たった一人の男がメディアの「報道の自由」という暴力に、さながらドンキホーテのように立ち向かったのだが、三浦はドンキホーテでどころか「凄腕」だった。

そしてメディアは沈黙する。三浦のことについて口をつぐむようになるのだ。裁判の経過についても、ほとんどコメント抜きで事実関係を伝えることに終始するようになる。

この傾向は、2003年の三浦無罪の確定後、より徹底されていく。その後三浦はコンビニなどで二度ほど万引きを行って逮捕されているのだが、これも論評抜きで事件だけを伝えるだけ。とにかく、メディアは三浦に対し「触らぬ神にたたりなし」といった感じで、腫れ物に触るように常に対応していくのだった。

三浦が作った、報道のプライバシー侵犯のガイドライン

そしてこの三浦への対応が、その後の事件で「疑惑」の人間に対する対応の基本となる。怪しくても、プライバシーを暴き立てたり、見込みで語ると言うことを避ける、あるいは見込みで語ったとしても、かならず「~のようにも考えられる」的な遠回しな、そして責任逃れが可能な範囲での報道のスタイルができあがるのだ。

もちろん、これは三浦に対する対応と全く同じというわけではない。メディアはある意味、報道のため(=視聴率や発行部数確保のため)「強気を助け、弱気をくじく」という行為を平気で行う。だから、コイツが弱そうと思ったら、結構ギリギリのラインまで「報道の自由」の概念枠を拡大し、興味本位でプライバシーを侵害する報道を行ってしまう。つまり三浦のような凄腕でなければ、メディアの野次馬根性メーターは上がるのだ。

メディア、今度はどう出る?

さて、それでは三浦が再び逮捕され、今度はメディアはどう出るのか。プライバシー侵犯のガイドラインを作った張本人が、再びメディアの野次馬根性に晒されようとしているのだから、今度のメディアの対応が見物ではある。

今日(2月24日)夜7時のNHKニュースを見た。もちろん三浦逮捕がトップだ。そしてみなさまのNHKはどう出たか。やはり予想通り、「論評抜き」の報道だった。そう、まさに客観報道とでも言うべき淡々とした報道を繰り返したのだ。やはりメディアは三浦という権威を恐れている。弱腰なのだ。

まあ、メディアというのはやっぱり「乱暴で、凶暴な、臆病者」という存在なのかもしれない。

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