勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2008年01月

二つの能力、理系アタマ=処理と文系アタマ=統合

さて、では「頭のよい」と言うことを改めて考察してみよう。例の僕の人事部の友人が指摘した「頭のよい」を別の角度から少し整理してみる。ここでは俗説の理系アタマ、文系アタマ(あるいは脳局在機能論の「左脳と右脳」でもいいんだが)という分類を用いて、「頭がいい」を二つの視点からまとめてみる。

理系アタマ=処理能力の速さ
理系アタマとは、とにかく言われたことを、迅速かつ正確に処理する能力。これを「頭がよい」の要素=条件の一つにしよう。この場合、必要なのは余分なことを一切考えずに合理的に物事を処理する力だ。で、これはどうやったら測定可能なのか。言うまでもない。これこそ「偏差値」が証明しているものだ。国語の試験の長文問題に複数の意味を読み取るなんてことは一切行わず、受験国語に従った解釈(解読?)しかしない能力がこれだ。で、この処理能力の速さが、もっぱらこれまでは「頭の良さ」の基準だった。だが前回示したように、これは「頭の良さ」の条件の一つに過ぎない。つまり純粋に処理が早いだけで、「なぜその処理をするのか」について考えるアタマではない。言いかえれば「兵隊」としては使える連中が保持する能力となる(「役人アタマ」と言いかえてもいいかも)。よって、偏差値が高いと言うことは、こちらのみが優れていると言うことで「アタマがいい」ということになる。

文系アタマ=統合能力の速さ
文系アタマは思考を統合したり、創造力やひらめきを司る能力としよう。つまり組織をまとめたり、新しいアイデアを考えたりする能力だ。これだけのことを踏まえれば、クリエイティブと言うことで、こっちの方が頭が良さそうだが、そうでもない。もし理系アタマが弱く、こちらの方がやたらと強力だったら……夢想家とか大ホラ吹きとかになってしまう。第一、さっき前述した国語の長文試験をやったら様々な解釈を見つけてしまい、全く得点をゲットできないことになる。基本的な処理が済んでいないのにこれを勝手にエディットしてしまうからだ。これじゃあ仕事なんか無理。こういうのは一般に「バカ」と呼ばれる。あるいは「勘違い」と読んでもいい。

「頭がいい」とは要するにバランスの問題だ

ということは、「頭がよい」ためには、理系アタマ(=アタマがいい)だけでも、文系アタマ(=夢想バカ)だけでも、ダメよねっ!ってのが正解と言うことになる。要はバランスの問題というわけだ。

つまり「頭の良さ」の条件は、次のように捉えることができる。まず基本としては情報をきちんと処理できなければいけない。つまり理系アタマでなければならない。だが、タダそれだけではダメで、この基本を踏まえて、応用できなければならない。データを自分なりにカスタマイズできること。言いかえると理系アタマの上に文系アタマが必要と言うことになる。リーダーになるヤツは情報処理が早いだけでなく、とりまとめたり、アイデアを出すのも優れているからだ。

で、こう考えると、くだんの人事部の友人が偏差値の高い方を採るというのは、次のように読み換えることができる。とりあえず偏差値の高いヤツを採っておけば「理系アタマ」だけは確保できる。そして、さらにこいつらに文系アタマがあればリーダーになる可能性があるというわけだ。それが5%で、そうでないヤツ=95%は「兵隊」として使える(もちろん、こんなにすんなりとはいかないだろうが)。

ところが偏差値が低ければどうなるか。もうおわかりだろう。「大バカ」で「処理できない」可能性が極めて高くなると言うわけだ。要するに使いようがない。

ならば、一流企業にはいるためには、さしあたり高偏差値をとれればいいと言うことになるのだが……(続く)

一流企業が高偏差値大学出身者を採用するわけ

人事課に勤めている僕の友人は「偏差値と頭の良さは関係ない」と断言した。

ただし、彼は付け加えて面白い発言をした。「でも、採用するのは東大と早稲田の高偏差値大学が多くなっちゃうんだよねえ~」

えっ、これって矛盾してるんじゃないの。「オマエの指摘する5%の優秀な人間を大学に関係なく捜すべきじゃあないのか?」と突っ込んでみた。

「いや、そうじゃないんだ。どこの大学の人間を採用したって、結局は5%しかまともなヤツはいない。人事は人ごとで、やっぱりそんなに簡単じゃあない。数回面接やったくらいで、そいつのホントの能力なんてわからない。ということは、結局、この5%という数字は変わらない。だったら人事としてはどうするか。それは残り95%の人間を、できるだけ使えるヤツで占めると言うこと。ただし、この使えるというのはリーダー、つまり会社を支配、管理したりする人間じゃあなくて、兵隊ね、兵隊。兵隊っていうのは、いちいち細かいことを考えることはしなくて、上の命令通り動けばいい。つまり頭が悪くても仕事が早ければいい。この時「偏差値」というのは重要な採用基準になるんだ。「偏差値が高い」ことのメリット、それは「処理が早い」と言うこと。つまり何も考えず、言われた仕事をドンドン迅速にやってくれるわけ。となると高偏差値の人間を採用していれば、さしあたり仕事は順調に運ぶわけ。「アタリ」じゃないけど「ハズレ」でもないってことね。これが偏差値が低くてバカだったら、仕事も遅くてとんでもないことになる。で、人事としては保険という意味合いも込めて、「悩んだときには高偏差値の方を採用する」ということになるわけだ。」

彼が言っているのは「頭のいい」やつを採用するのは難しいから「アタマのいい」やつを採用しておけば安心。ひょっとしたらその中に「頭のいい」掘り出し物が見つかる可能性があるかもしれないし、見つからなかったとしても、とりあえず事務作業はやれるので企業は安泰、ということなのだ。(続く)

一流企業が高偏差値大学出身者を採用するわけ

ただし、くだんの友人は、さらに付け加えて面白い発言をした。「でも、採用するのは東大と早稲田の高偏差値大学が多くなっちゃうんだよねえ」

えっ、これって矛盾してるんじゃないの。がんばってオマエの指摘する5%の優秀な人間を大学に関係なく捜すべきじゃあないのか?と突っ込んでみた。

「いや、そうじゃないんだ。どこの大学の人間を採用したって、結局は5%しかまともなヤツはいない。人事は人ごとで、やっぱりそんなに簡単じゃあない。数回面接やったくらいで、そいつのホントの能力なんてわからない。ということは、結局この5%という数字は変わらない。だったら人事としてはどうするか。それは残り95%の人間をできるだけ使えるヤツを採用すると言うこと。ただし、この使えるというのは会社を支配、管理したりする人間じゃあなくて、兵隊ね。兵隊って言うのは、いちいち細かいことを考えることはしなくて、上の命令通り動けばいい。つまり頭が悪くても仕事が早ければいい。この時「偏差値」というのは重要な採用基準になるんだ。「偏差値が高い」ことのメリット、それは「処理が早い」と言うこと。つまり何も考えず、言われた仕事をドンドン迅速にやってくれるわけ。となると高偏差値の人間を採用していれば、さしあたり仕事は順調に運ぶわけ。「アタリ」じゃないけど「ハズレ」でもないってことね。これが偏差値が低くてバカだったら、仕事も遅くてとんでもないことになる。で、人事としては保険という意味合いも込めて、「悩んだときには高偏差値の方を採用する」ということになるわけね。」

彼が言っているのは「頭のいい」やつを採用するのは難しいから「アタマのいい」やつを採用しておけば安心。ひょっとしたらその中に「頭のいい」掘り出し物が見つかる可能性があるかもしれないし、見つからなかったとしても、とりあえず事務作業はやれるので企業は安泰、ということなのだ。

頭がよい=偏差値が高い?

「頭がいい」というとどのような人物が思い浮かぶだろうか。一般には東大、京大、早稲田、慶応なんて大学出身の人間というのがイメージされるのではなかろうか。そして、これらの大学に共通すること。それは高偏差値であるということだ。となると「頭がいい」=「偏差値が高い」という図式が出来上がる。しかしこれは本当だろうか。

某電話会社の人事の話

僕の友人に某大手電話会社で人事課に務める男がいる。彼は仕事上の経験から「偏差値が高い=アタマがいい」という図式を真っ向から否定する。「偏差値が高い、低いは頭の良さとは関係がない。東大出身を採用したからと言って使えないやつは全く使えない。とにかく採用してみたら単なるバカで、会社のお荷物になるヤツはいくらでもいる。逆に二流、三流であっても使えるヤツは使える。つまり、会社で有能な人間と偏差値は関係ない。で、どこの大学の人間を採用しても、本当に使える、アタマのいいと思えるやつは5%くらいしかいない。そしてこの5%の人間が残りの95%の社員の面倒を見ることになる」

彼の指摘は100年前に活躍したイタリアの経済学者V.パレートのいう全体の20%が残りの80%を生み出すという「パレートの法則」とそっくりだ。いやパーセンテージがパレートよりシビアなのだが。

この指摘は、僕も納得がいく。学者というカテゴリーである手前、僕はよく学会というものに出席するのだが、そこでは院生たちが発表している場面に遭遇する。あるいは、そこで僕が司会をやっていたりするわけなんだが、上記したような高偏差値大学の院生にもかかわらず、どうみても「こいつバカ、KY!」て人間が次々と登場するのだ。しかも俗物(大学就職をめざして、学会発表で営業をやっているわけね。しかも平気で権威におもねっている)だったりもする。合掌!

「高偏差値=頭がいい」この図式は、ちょっとおかしいのでは。

「頭がいい」とは

では「頭がいい」とは、どう定義すればいいのだろう。再び、先ほどの友人の発言を振り返って考えてみよう。彼が指摘した「頭がいい」とは「会社で使える」ということ、そして「会社をうまく運営したり、大きくしたりして、結果として本人出世できること」、要するにイノベーターやリーダーになれる素質を持っているというのが、その主旨だろう。これを満たすためには「高偏差値」をゲットする能力というのは、そのうちの条件の一つでしかない。加えて、「空気を読める」、つまり人間関係を調整できるとか、会社をリノベートできるイマジネーションがある、つまり「クリエイティビティを備える」とか、「システムを構築できる」、このあたりの条件を揃えていなければならない。彼に言わせればこういう人材は大学の偏差と関係がないというわけだ。そして僕が学会でお目にかかる高偏差値大学院の院生たちも、全然、場違いの発表をしたり(つまりKY)、やたらと引用ばっかりでつまんなかったり(クリエイティビティがない)、結局何を言っているのかわからなかったり(システム構築能力がない)というのが、それこそいっぱいいる。どうみてもリーダーやイノベーターとしては無理。「大学で研究者としては採用したくないなあ」と思わせる院生がいっぱいだ。

でも、偏差値の高い連中は社会的には「頭がいい」ということになっている。そしてこの偏差値の高い連中のなかには前述した「KYなヤツ」が多く、この社会の「勘違い」に騙されて、自分も「頭がいい」と勘違いするほど「頭が悪い」存在だったりするのである。で、こういったヤツこそ、友人の言うところの使えない95%、パレートの言うところのフォロワーということになる。

ということは偏差値が高いだけでは頭がいいなんていえないのだ。これからはちょっと言いかえて偏差値の高いことを、カタカナで「アタマがいい」と表現し「頭がいい」というのとは分けて考えていこう。では、この二つの違いが意味するところは?でもって、偏差値上げるってのは?(続く)

イメージ 1

イメージ 2

(上、トトのローマの自宅のベランダにある風鈴。下、風鈴のシルエットがトトの顔面に。そしてトトはジャンカルドを回想する。映画『ニューシネマパラダイス』より)

鐘/鈴、マリア像/キリスト像は何を意味しているのか(3)

鈴の持つ、もう一つの、そして極上の機能

さて、実はこれらメタファーが登場するシーンはこれだけではない。トルナトーレは極上のやりかたで映像の中にこれらメタファーの一つを忍び込ませている。しかもさらに別の意味を加えて。

メタファーの中の”鈴”に注目して欲しい。これは鐘同様、共同体の権威が及ぶ範囲を示していた。ところが、鈴の示すものはこれだけではない。

シーン7.最初に鈴が出てくるシーンは、成人のトトがローマでジャンカルドを回想し始めたときの次の映像である神父とトトとのシーンであると指摘しておいた。神父が祭壇に祈りを捧げる儀式の最中、トトが後ろにひざまずき、祈りの間合いとして鈴を鳴らすというもの。ところが、実はその前に鈴はすでに三つ登場している。しかもジャンカルドではなくローマのトトの自宅で。

トトが仕事を終え、自宅へ帰ってくる。そして上着を脱ぎベランダから外を見る。カメラはこの映像を窓の外から映し出すのだが、そのときベランダには風鈴が映し出され、そしてその音が響く。そしてトトは愛人からアルフレードが死んだという電話を受けたことを知らされると、ベッドに横たわりながらジャンカルドのことを回想し始めるのだが。この時、サウンドトラックには風鈴の音が。そして枕元のトトの顔には外の明かりの光が差し込むのだが、顔の部分がシルエットになっている。このシルエット、実はベランダの風鈴なのだ。つまり鈴は共同体を表しているとともに、トトの共同体・ジャンカルドへの回想を呼び覚ますものでもあるのである。鈴が鳴り、鈴のシルエットがトトの顔にかかったとき、トトはタイムマシンに乗ってジャンカルドに戻っていく……。

また、この映画は現代→過去→現代という構成でストーリーが進行しているが、それぞれのステージへの移行の印としても鈴は機能している。当然、シーン7は過去への入り口である。そして過去から現代へ戻る時の印はトトがジャンカルドを去るときの列車発車の鐘である。ちなみにこの時神父はトトを見送る列車に間に合わない。そう、ここでトトは完全にキリスト教の権威、つまりジャンカルドという共同体からは切りはなされてしまったのだ。ローマに共同体を持ち込むことは決して出来ない。そういった運命にトトは置かれている(その理由については後述)。

そして、次のシーンはあっという間に現代になってトトが戻ってくるのだが、列車ではなく飛行機。そしてもちろんそこに鐘は存在しない。ということは、そこに共同体もないということなのだ。(続く)

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