勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年12月

共同体と現代社会

ニューシネマパラダイスを分析する装置=概念として、ここでは共同体=communityということばに触れておきたい。社会学的な辞書のレベルで共同体は「一定地域に居住し、地縁や血縁などで結ばれ、生活や利害を共有する集団」ということになるが、ここではテンニースが展開した「ゲマインシャフト」の文脈で捉えていきたい。

きわめて限定された世界

共同体の人々は、狭い空間内に居住し、衣食住すべてに渡って互いが重層的に関わっていた集団だ(現代社会においては、もはや消滅していると言ってよい。ヴァーチャルに表現すれば三丁目の夕日的世界か)。先ず共同体の構成員は、そのほとんどが一生涯にわたって共同体という限定された狭い空間から出て行くことがない。ちょっと比喩的な表現をすれば、彼らにとって「世界」とは地平線の見えるところまでであって、その先は、いわば「滝」になっていて世界が終わっているという感覚だ。

プライバシーなど、ほとんど存在しないに等しい

で、こんな狭い世界に住んでいるので、前述したように、そこに住まう人間はいろいろと関わり合いが深くなる。日常生活のすべてが同じ人間との関わり合いになるので、いわば全員が家族のような関わりを持つことになる。これって、一見するとなんがみんな親密で良さそうな感じがするが、ところがどっこい、現代人のわれわれからすれば受け入れられるような環境ではない。なぜって、生活の全部が家族のような重層的な関わり合いをするわけであるから、それは「プライバシーなどというものが存在しない」ということになるからだ。当然ながら個人個人の行動はきわめて制限されている。つまり行動の基準は個人ではなく共同体にあり、共同体を維持するために個人のプライバシーとか自由はほとんど無視されるのだ。

情報が繰り返されることで、プライバシーはドンドン暴かれる

プライバシーが自動的に暴露される、しかもされ続けるメカニズムは次のようになる。

共同体の人々にとっての情報入手メディアは基本的にオーラル=口述だ。共同体が存在した時代、つまり今からもう50年以上も前、もっと言ってしまえば100年以上も前の、ほとんどマスメディアが無かった時代には、人々は日常的な人と人との関わり合いの中で情報を入手していた。で、その情報とは政治や社会や経済の話ではない。そんな話は「滝の向こう側」で起きている話。共同体構成員にとっては「そんなのカンケーネー」どころか「そんなの知らない」世界である。

じゃあ、彼らの情報とは。それは「うわさ話」だ。つまり、共同体構成員の人間についての情報だ。それ以外の情報源はないのだから、これしか情報は必然的になくなってくるのだ。それはつまり他人のうわさ話、もっとわかりやすく言えば共同体の他の人間のプライバシーに関わることだ。ただし、自分が他人のうわさ話をするということは、全く同様に他人によって自分のうわさ話がされているということでもある。で、みんながみんな、人のうわさ話をする(ネタなんかないので、基本的には人の悪口でも言って、自己満足しているしかない)ので、これが巡り巡って、お互いのプライバシーを相互に暴露し合うというかたちになってしまうのだ。

情報は絶対的に高いリアリティを持っていた

でもって、他に情報源がないので、そこで展開される「うわさ情報」は高いリアリティを持つ。もとより、その情報に対してカウンターを当て、情報を相対化するようなマスメディアなど存在しない。ということは、気に入らないヤツを村八分にしようと思ったら、ことさらにそいつの悪い噂をばらまき続ければ、それで十分に目的を果たすことが出来てしまう。要は、非常に了見の狭い情報感覚なのである。

こういった情報に対する「絶対的な視点」は、当然あらゆる情報に対する態度にも共通する。だからメディア・テクノロジーを持ってウソ情報を流したら、共同体の人たちはそれを「真実」として真に受けるという態度しか持ち合わせていないのだ(実際、昭和三十年代の人々はテレビというテクノロジーが提供する「プロレス」というエンターテインメントを本当のガチンコ勝負と思っていた)。

共同体の崩壊を描く映画、それがニューシネマパラダイス

さて、ニューシネマパラダイスはシチリア島にあるジャンカルドという田舎町(架空の町なので、地図で探しても無い。モデルとなったのはパラッツォ・アドリアーノという町)での映写技師と映画好きの少年の40年にわたる友情を描いた作品だが、この二人の友情の物語を軸に展開されるもう一つの物語が、この「共同体の崩壊」なのである。これが、この映画の中では実に、そして驚くほど丹念に描かれている。そして、この共同体の崩壊の中で人々がどう対応していくが描かれていくわけで、その中でもメインの話になるのが主人公トトとエレナの恋の物語なのである。この物語は悲恋に終わるのだが、なぜ悲恋に終わるのか、つまり二人が結ばれないのかは共同体の崩壊と強い関係性を持っているのだ。

ちなみにテンニース的に言えば、この映画はゲマインシャフト(地縁、血縁に基づいた社会)からゲゼルシャフト(目的や利害に基づいて形成される社会)へのジャンカルドという町の変容、つまり共同体から個人主義に基づく現代社会への変化を表現しているということになる。

というわけで、次回以降は「共同体とその崩壊」の描かれ方について、映画のシーンや使われるアイテムを取り上げながら展開していく。以降、取り上げるアイテムとポイントを列挙しておこう。ちなみに、以下のポイントを軸に、解説は展開していく。


1.広場……共同体の崩壊過程をもっとも典型的に描く空間

2.乗り物……メディア・テクノロジーがいかに共同体に侵入するのか

3.映画館……映画の近代化と映画に対する人々の指向性の変化。個人主義の台頭による映画館の衰退

4.キチガイ……映画の中でトト、アルフレードに次いで重要な役割を持つ存在。キチガイは個人主義という悪魔の象徴だ。

(続く)

5.鐘、鈴、マリア・キリスト像……共同体の存在を保証するもの。そしてトトが破壊するもの。

イメージ 1

映画史上に燦然と輝く80年代の傑作、ニューシネマパラダイス

1988年に制作されたジョゼッペ・トルナトーレ監督による映画「ニューシネマ・パラダイス」は、当初我が国では単館上映だったが、延々と単館ロードショーを展開する内にその評判に火がつき、気がつけば「傑作中の傑作」とまで評されるようになった映画。僕は、この映画を初めて見たときに衝撃を受け、それ以来、何度となくこの映画を見続けてきた。いや、見続けてきただけではなく、メディア論者、記号論者として分析をやりまくってきた。また、専門学校や大学の講義に使ってもきた。時には、半期13回の授業すべてを使って、この映画一本だけを説明したこともある。

てなことをやってきたお陰で、すでにこの映画を見た回数は数えられないという程になってしまった。ちなみに、すべてのセリフを覚えてしまった現在でも、この映画を見ていると思わず涙がこみ上げてくる。そう、この作品は分析したところで飽きることがない、すればするほど、そのすばらしさが判ってくる「スルメ」な映画なのだ。

で、そうなると、あっちこっちで書かれている映画評やネットでのレビューがひっかかってくる。「違う、違う、そこは、そう読むんじゃない。オマエは読み方が全然、浅い!」ってなツッコミを入れたくなるのだ。

”作品の評価は人それぞれ”っていうのが、レビューでやられる常套句だが、映画を啓蒙したり、批評的に見ようとする場合には、このことばは”禁句”である。それは作品を作品としてみることを全く放棄しているからだ。そして、ある視点=パースペクティブから作品を見た場合、必ず「出来がよい」「出来が悪い」というのは存在する。それは個人的な評価を超えたところにあるものだ。つまり「好みの問題」ではない。

レビューの一番、気になること、それはオリジナル版の評価が低いこと

ちなみに、一番気になる評が「オリジナル版より劇場版の方がいい」というものだ。

ニューシネマ・パラダイスは劇場で公開されたディレクターズ・カットと、カットを入れない完全版(40分ほど長い)がある。一般的な映画にディレクターズ・カットとしてはさみを入れる場合は、作品のテーマとか展開を極力落とさないようにカットが行われるのだが、この映画の場合のはさみの入れ方は独特で、おおざっぱに言ってしまえばおしまいの40分がバッサリと着られているという状態。ということは、作品の内容が異なる。もちろん見終わった後の印象も。

劇場版は映写技師アルフレードとトトの友情が中心に展開されるのだが、オリジナル版はトトの恋愛の顛末が展開される。で、劇場版はある意味、美しい二人の友情にポイントが、一方、オリジナル版は成人になったトトのドロドロとした情念がポイントになる。で、最初に劇場版を見て感動した人間がオリジナル版を見たときには、どうもこのドロドロ感に閉口するらしい。

作品としてみた場合、オリジナル版の洞察はいっそう鋭い

僕も劇場公開版を見て感動した後に、オリジナル版を観た。で、やっぱり最初はこのドロドロ感にちょっと困惑したが……ところが、何度も観ていくうちに評価は変わっていく。もちろん劇場公開版のはさみの入れ方はすばらしい。とてもきれいな作品に仕上がっている。いわば極上のファンタジーだ。だが、オリジナル版の方はファンタジーではなく骨太の人間ドラマが描かれている。そして、何度も観ている内に、やはりオリジナル版の方が、この作品の趣旨を明確に捉えているという結論に達したのだ。そして、オリジナル版をちゃんと捉えると、この作品の様々なシーンとかアイテムの存在意義が明確になってくるといったところも、この作品のすばらしいところなのだ。

極上の、映画批評をお送りします。

ということで、今回はこのブログを使って映画、ニューシネマ・パラダイスの徹底分析をやりたいと思う。というか、講義をブログで中継しようと思う。ちょいと「長尺もの」になりますが、ニューシネマパラダイスに惚れ込んでいる人ならば「目から鱗」の分析が次々と出てきますので、お楽しみに。

ちなみに、ネタバレ込みなので、この映画を観ていない人は、一度見てから続きをお読みください。映画を観ている人なら意外な事実が発見できるはず。出来れば横にビデオかDVDを用意して、ここで分析した内容をチェックしてもらうと、この映画のすばらしさはいっそう増すはずだ。(続く)

すべてを芸能スキャンダル的な茶番に演出する「テレビ報道部」

テレビはなぜ、取り上げる必要もない被害者の葬式を「ニュース」枠で報道するのか。

こんなプライベートな事柄にテレビ局が入ってきて、しかも安普請のメロドラマ仕立てに演出してしまうというのは、結局、報道自体が、報道それ自体の忙しさにかまけたお陰で創造力を失ってしまっていると言うことの証左といえるのではなかろうか。事件や人の死をすべて、クリーシェ=定型パターンにあてはめていく。被害者の死をネタに、本人の死や周辺の人の思いを斟酌することなく、そしてこれらの人たちがどのように現状を捉えているのかを洞察しようとする努力もなく、ただただ、ど~でもいいような安普請のドラマパターンにこれらの人をあてはめていくのだ。これこそ死者に対する最も失礼な行動以外の何ものでもないと、僕は思うのだが。それは体良く視聴率を獲得する方法かもしれないが、半面、テレビメディアの連中は「品がない」そして「頭が悪い」と言うことを暴露しているようなものでもある。

僕らとしては、この下手な図式にそろそろ飽きてもよい頃だろう。たとえば芸能レポーターがスキャンダルの取材をするために、当該の芸能人の自宅に押し寄せ’ピンポーン’と呼び鈴を鳴らすなんてのは、今やバラエティの芸能レポート・パロディですらやられないほど飽きられてしまったのだが、葬式の報道も、これと同様、われわれはさっさと飽きて「ヤメロ」と言うべきなのだ。ちなみに実際にぼくらが直接テレビに向かって「ヤメロ」という必要はない。葬式中継になったらチャンネルを換えてしまえば、それでいい。テレビ局は営利団体。「視聴率こそはすべて」なのだから(でも、このパターンにNHKまでが荷担しているのは、ちょっと理解しかねるんだが)。

でも、この需要はなかなかなくならないかも?

とはいうものの、まだまだ葬式中継は行われ続けるのではないかという気もする。それはやっぱり「人の不幸は蜜の味」だから。ヒマ人が鼻くそほじくりながら、不幸にして命を落とした人の哀れな人生の末路を暇つぶしで見るというのは、それなりに快適と言うことなのだろう。ということは、「事実を報道する」のが目的だったジャーナリズムは、ワイドショー的にスキャンダリズムを前面に押し出す方にそのスタイルを変えたのだと考えるのが妥当なのだ。ちなみに、僕はこの葬式中継に野次馬根性的な好奇心すら抱かない。抱く好奇心は、ここで書いているような、テレビの「マヌケさ」だ。「なんで、こんなこと続けるんだろう。視聴率とろうとするなら、もっと工夫して、これ以上に視聴者を釘付けにするようなコンテンツを考えればいいのに。誰もがやったらドングリの背比べくらいにしかならないというのが、わからないのかなあ」と思うレベルの好奇心なのだが。

すべてがスペクタクル化=見せ物化し、それを大衆が欲望する時代。それは事実でなくても、こちらの暇つぶしの枠に収まればいいという時代。そんな時代に僕らは生きている。

被害者の通夜や葬式がニュースで報道されている

最近、ニュース番組でやたらと目につくのが、事故や殺人事件などて亡くなった被害者の通夜や葬式を、テレビがコンテンツの一部として報道することだ。かつて、こういったものの報道はもっぱらワイドショーの役割だった。レポーターが斎場に赴き、悲嘆に暮れる遺族や、涙を流す友人などの参列者の映像を映しながら、その悲しい状況を報告する。

ところが、これが今やニュースという枠の中で堂々と報道されるようになっているのだ。しかもである。あの「皆様のNHK」までが、これをやるのである。あんまり頻繁にあちこちのニュースが取り上げるので、葬式報道は今やあたりまえになっていて、われわれはこういったプライベートなものが報道されることになんの違和感も感じなくなっているのだが……これはいかがなものか?

ベタなフレイムが展開される

報道のパターンはほとんど同じ。まず斎場の前が写され、そこにレポーターが暗い表情で状況を説明。そして遺族の顔がアップで映り、友人などの関係者に故人の思い出や人柄についてたずねる。で、笑ってしまうのが(失礼な話だが、僕はこれはどうしても笑いたくなってしまうのだ)、故人は誰もが一様にみんなに好かれた「善い人」であること。で、最後は霊柩車が映されて終わりなのだが、こういった展開は、もういい加減にして欲しいと思っているのは僕だけだろうか。

こっちとしては、このあまりにベタな展開にツッコミを入れたい気分にすらなってしまうのだ。「おいおい、ホントにイイやつだったのかよ?本当は、暗かったり、結構迷惑なやつだったりしたんじゃないのか?」「来ているやつみんなが悲しみに暮れているってのは、ありかよ?ホントは喜んでるやつもいるんじゃないの?」(この辺の「葬式の真実」はかつて伊丹十三が映画’お葬式’で詳細に映像化して見せてくれている)。


思わずこんなことを抱いてしまうのは、それがもちろん故人のせいだからというのではない。肉親や友人などの参列者のせいというわけでも、もちろんない。こんなふうにおもってしまうのはメディア=テレビのせいだ。

僕は「テレビはなんでこんなワンパターンの報道をするんだ!」と思ってしまうのだ。メディア的に作られた下手なフレームの中に故人や参列者を流し込むという作業を、なんの反省もなくやってしまう「常識」のなさ。そして「迷惑」さ。よ~く考えてみて欲しい。テレビが報道と称して葬式に取材や中継をしても、葬式をやっている人間たちにとっては迷惑な話でしかないだろう。だが、そっとしておいてやって、故人との心ゆくまでのお別れをさせてやるという「常識的な感覚」をどうやら持ち合わせていないのがテレビというメディアらしい。そしてこの非常識を常識化する、わけのわからんいいわけが「マスコミは真実を伝える義務がある」というもの。でも、この「真実」って何?全く定義がないよ(というか、明確にしないからこそ、勝手な解釈でやりたい放題になるんだが)。あんたたちのやっているのは「真実」どころか「創作」「ドラマ」、しかもソープオペラくらい安っぽいシナリオのそれ、ですよ!(続く)

おおらかさの必要性

かつて、まだ集団的な行動をあちらこちらでわれわれが行わなければならなかった時代、お互いは、多少なりともプライバシーを侵害されるかたちを取りながらも、結果としての集団内での黙契、慣習といったものが形成されていた。例えば学校の中で、教員が小学生を殴りつけようが、親はそのことに文句を言わない。一方、教員の方も殴られて育ってきている、つまり集団生活の中で育っているが故に、生徒を殴りつける頃合いというものを経験的に知っている。だから、こんな権利問題を出さなくても、たいていの場合、事を荒立てられることもなく、事態は自然収束していったし、そういった中で、また集団的なルールが黙契的に維持され続けていた。だが、これが、無くなってしまうことが、結果として「ハラスメント」という記号を誕生させることになる。

今必要なのは、こういった多少の事態については大目に見るような「おおらかさ」ではなかろうか。そうすることで人々が再び集団的な関わりを行うようになり、互いの黙契を再構築していく。実は、権利意識肥大によって欠落してしまった最たるものが、こういう集団的生活から培われるスキルなのだ。ちなみに、こういったスキルがまとまったものを、かつて人々は「世間」と呼び、行動の参照基準としていたはずだ。ただし、現在では「世間」ということばは「しがらみ」そして「個人の自由、人権を侵害するもの」というネガティブな記号=コノテーションが付与されてしまった。ということは、もうここまで権利意識が増大してしまうと、僕がここで提唱する「おおらかさ」などといった提案は「ムダな遠吠え」なのかもしれないが。

つい最近、宮崎県の東国原知事が「徴兵制の復活」的な発言をし、顰蹙を買ったが、このとき知事が訴えたかったのは「モラルハザード」に関することだった。つまり、「個人意識が肥大したことで、お互いの関係が世知辛くなっている、それからマナーが失われている。しかしながら、こういった「世間」を親や近所周辺が教え込むという機能が失われている。だったら徴兵制でもやって、きちんとこういった社会的ルールを教え込まないと日本はとんでもないことになる」ということを訴えたかったのだ(知事は後に、これを徴農制=一定期間農業に従事することを義務づける、と言い換えている)が、これは、ここまでの議論からすれば納得がいくのでは無かろうか。もはや徴兵制?徴農制?でも、やるしかない状況にまで、日本の凝集性の低下=集団的行動スキルの欠落は来ている。その象徴が、実は「ちゃん付け」によるハラスメント懲戒といえないだろうか。

オマケ・大学も授業崩壊?

ちなみに、大学の講義崩壊なんてのも、いくらでもある。大講義室で学生たちは勝手にベラベラ喋って授業など全く聞いていない。いやうるさいので聞くことすら出来ない。一方、教員の方も聴講する学生の方は一切見ることもなく、下を向きながら、ひたすらノートをチンタラと小さな声でボソボソと朗読する。講義内容は、学生のレベルなんて理解できないKYな教員ゆえ、なにがなんだかわからない。でもって期末試験の際には、答案用紙の中身をチェックすることなくすべてCで通過させてしまう……。

みなさん、勉強したかったら、大学はよ~くその質をチェックした方がいいですよ。ちなみに今挙げた例は東京にある大手の私立H大学の風景でした。

↑このページのトップヘ