勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年12月

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(上、ジュークボックス、セクシーなポスターなど個人主義的なもので覆われたBar。かつての人々の賑わいはない。下、アルフレードの葬式の一行が広場に到着したところ。看板、販売機、そしてたくさんのクルマが見える。映画「ニューシネマパラダイス」より)

「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (4)~広場機能の衰退1

広場の分析を続けよう。ここからは広場機能の衰退について考えていく。

人気のない広場へトトは帰還する

広場の衰退を示す最初のシーンは、トトが兵役から帰ってくるシーンに始まる。

一年の兵役を終えてバスでジャンカルドの広場に帰ってきたトト。上空に舞う鳥が広場にシルエットとして映っている。次いでトトの顔のアップ。トトは広場を見渡す。先ず目に泊まるのが噴水の右手にあるBALだ。このBALは以前、ここでイタリア民謡に合わせて年寄りたちがダンスをしていたところ。ところが、今回は様子が違う、入り口右にジュークボックスが置かれ、男がマシンをのぞき込んでいる。入り口向かって左に座る男たちもそれぞれ勝手気ままに楽しんでいる。男たちの上に貼られているポスターはセクシーな女性をアップしたそれだ。

ついでトトは広場を右から左へとゆっくり見渡す。そして左まで行くと首の動きが止まり、目をやや大きく開いた後、「おやっ」という表情をし、瞬きする。トトの目線の先に映っているのはとがすべて閉ざされた広場周辺の住居群だ。

そして、目線は再び右方向へ。その先にはニューシネマパラダイスがある。トトはニューシネマパラダイスの二階、映写室の窓を見上げると……そこにいるのは、自分の代わりに雇われた見知らぬ映写技師。技師は退屈そうにたばこを吹かしている。

個人主義的な生活、そしてそれを助長するメディアテクノロジーの台頭

そう、ここで描かれているのは、トトが兵役に就いていた一年の間に広場がずいぶんと変容してしまったことなのだ。

まず、広場に人がいないのがおかしい。昼間なのに。そして人気がないことを示すメタファーとして空を飛ぶ鳥のシルエットが広場の地面に映し出されている。そしてBALもまた個人的に音楽を楽しむジュークボックス(演奏しているのなら、自分で曲を選べない。だから集団でそれを聴いて踊ることになるのだが、ジュークボックスは音楽を聴きたい個人がコインをマシンに投入すれば、自分の好きなものを聴くことが出来る。また横に座る男二人は言葉を交わしていない。この二人の上のポスターは個人の性的な欲望を満たす女性のセクシーなポスター。さらに、自分が親しんだニューシネマパラダイスの映写室も見知らぬ人間が牛耳っていることで、空々しいものに見える。広場はだんだんと「みんな」が集まる場所ではなくなり、「個人」が気ままに過ごす空間に変容しはじめたのだ。

では、トトを迎えにきた者はいないのか。いや、一人いた。厳密に言えば一匹。それはかわいがっていた犬だった。ただし迎えに来たのが人間でなく犬というのが、上空を舞う鳥のシルエット同様、広場に人がいないと言うことをいっそう引き立てている。

ここには、かつてあった人の賑わいもなければ、人が操る馬や羊もいない。代わりに登場したのがクルマ、マシン、広告と言ったメディアテクノロジーなのである。そして、この人の代替物は、時代が進むにつれて、いっそう増えていく。

アルフレードの葬式のため広場に戻ってきたトトが目にした広場は?

ローマで成功したトトが、アルフレードの葬式に戻ってみると、そこで観た広場はすっかり様子を一変させていた。

アルフレードの棺を乗せたクルマが広場に進んでいく。広場は周辺一面に立てかけられた看板が。そして看板の脇には自動販売機がある。車も一台ではない。広場は共同体としての機能を完全に消失させていたのだ。

(続く)

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(50リラをアルフレードに渡されて、複雑な表情で紙幣を受け取るトトの母親)


「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (3)分析:建て前と本音を使い分けて、互い融通を利かせる

トトの母親の複雑な演技

このエピソードの中で注目すべきなのはトトの母の表情である。

まず、アルフレードが会場係に落とし物について問い合わせをはじめたとき。この時、母親は急に何をはじめたんだろうと、不思議な顔をする。そして、アルフレードが”牛乳代の50リラはトトが映画館で落とし、それを自分が拾った”ということを、50リラ札を母親に提示して証明したときの顔が絶妙だ。この時、母親役の女優は、かなり難しい演技をしている(数十テイク取らされたんでは?と勘ぐりたくさえなる複雑さだ。それは「”困ったような顔”をし、ありがとうといいながら”受け取ることに少々意地汚さを感じた顔”をし、しかも”少し申し訳ないという顔”をしながらながらこれを受け取る」という演技だ。監督のトルナトーレは、なんでこんなややこしい演技をさせたのか。

貧乏ゆえ、本当にアタマに来ている母親

母親の演技の前提には、まずトトの家庭が夫がいないが故に非常に貧乏であるという事情がある。だから牛乳一本たりともムダには出来ない。ところが、それをトトは映画代に使ってしまった。一方、トトはいつも映画にうつつを抜かしている。これについても母親は業を煮やしている。苦しい生活なのに牛乳代が消えたこと自体に怒りを感じているだけではなく、業を煮やしている映画にトトが使ってしまったことで、怒りは二倍になっている。だから、ここで母親がトトを打つのはある意味、しつけと言うよりも、本当に感情的にアタマに来ているのである。

一方、アルフレードの方はこのトトの家の事情を熟知している。だから、広場で母がトトを打っているのを見かけただけで、その事情を察知し、トトをかばうべく「映画はタダで見せてやった。お金は落としたんだ」と、事情を説明するのだ。

田舎芝居で、その場を乗り切ろうとするアルフレード

ただし、これはミエミエのウソである。ところがアルフレードは確信犯的にこのミエミエのウソにリアリティを持たせようとベタな芝居に出る。会場係の相棒に「今日の落とし物は?」と尋ねるのだ。ただし相棒は空気が読めないので、本当の落とし物をポケットから順番に出していく。つまり「クシ、靴底」。アルフレードとしては、この田舎芝居を完結するために、相棒には50リラをポケットから出して欲しいのだが。そのとき、母親の方は「いったいこの人たちは何をやっているんだ?」という怪訝な表情になる。

そこで、しびれを切らしたアルフレードが「それと50リラ」と言いながら、ポケットから50リラを出し、なんとか芝居を完結させた。そして「ほらね」といいながら母親の前に紙幣を差し出す。そのとき母親が「困った+意地汚い+申し訳ない」の表情をするのだ。

母親の三つの表情が意味するもの

この演技は、母親がアルフレードの行為を「田舎芝居と知っている」ことが前提される故に、こうなるのだ。つまり、ここでやられているのはウソ。でも貧乏だからお金は欲しい。でも、ウソをウソとして退ければ、お金は手に入らない。どちらを選択すればいいのか……、で「困った」顔。次に、50リラを結局受け取ることになるのだが、それはウソをウソと知りつつ、お金ほしさに騙されたフリをしたわけで、こうなると自分は「意地汚い」。そして、苦しい家庭事情を踏まえてくれた心からの配慮に、アルフレードに対する「申し訳ない」気持ちを表す顔。

アルフレードの巧妙な配慮

一方、アルフレードの方も、母親のこういう複雑な感情を熟知している。だからこそ、こういった田舎芝居に打って出たのだ。つまり、本当は映画代に使ってしまった牛乳代。「じゃあ、オレが代わりに払ってやる」とアルフレードが言ってしまえば、母親のプライドは傷つけられるし、二人の対等な関係が破綻する。それゆえ、お金を拾って、それを事務的に落とし主の下へ返したことにしようとした。つまり、形式上は、あくまで映画館を運営する人間と顧客=観客の関係を保つことで、母親がお金を受け取りやすくなるよう配慮を行ったというわけである。言い換えれば、これはお金の授受を成立させるために行われた、黙契上での「出来レース」だったのだ。この時、田舎芝居は、この授受を可能にするメディア、つまりメタメッセージを成立させるための手段=媒介として機能していたのだ。

「出来レース」の、さらにもう一つ下のコミュニケーション

さらに、このシーンではもう一つの暗黙のコミュニケーションがかいま見える。それはアルフレードのトトに対する、そしてトト一家に対する愛情表現であり、それがきちんと伝わっていると言うこと。つまり「こういう田舎芝居をやっているんだけど、オレはあんたたちが心配なんだ。そしてトトを愛している。だから、この場はオレの顔に免じてトトを許してやってくれ、そしてこの金を受け取ってくれ」というメッセージが、授受を可能にさせるメタメッセージの背後に含まれている。いわば「メタメタメッセージ」が存在するのだ。ただし、メタのメタであるため母親がそのことを認識していると言うことは、ちょっと考えられないのだが。それでも、じわじわと互いの関係を深めてゆくには効果があるというレベルではある。

共同体におけるコミュニケーションの重層性

さて、かなり理論的になってややこしくもあるので、最後に改めて整理しておく。先ずコミュニケーションの第一層として「田舎芝居」が存在する。そしてコミュニケーションの第二層として、この田舎芝居を手段=メディアとして成立する、スムースで権力関係を伴わない「金銭授受」というメタメッセージが存在する。そして最後にコミュニケーションの第三層として、この金銭授受というメタメッセージを手段=メディアとして成立する「愛情伝達」というメタメタメッセージが存在する。

たったこれだけのエピソードの中に、監督トルナトーレは、見事に共同体における身体を媒介とした重層的なコミュニケーションの状況を提示して見せているのである。お見事!

ちなみに、このエピソードの最後にキチガイが登場する。彼のセリフは「オレの広場だ。広場は終了。帰って、帰って」だが、実は、このキチガイの存在とこのセリフ。映画全体を一言で言い表す記号になっている。だが、ここでは詳細は以降の分析にゆずりたい。
(続く)

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(牛乳代で映画を観たトトを広場であきれた表情で待つ母親。トトはバツの悪そうな表情をしている)


「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (3)分析:建て前と本音を使い分けて、互いに融通を利かせる

トトの母親の複雑な演技

このエピソードの中で注目すべきなのはトトの母の表情である。

まず、アルフレードが会場係に落とし物について問い合わせをはじめたとき。この時、母親は急に何をはじめたんだろうと、不思議な顔をする。そして、アルフレードが”牛乳代の50リラはトトが映画館で落とし、それを自分が拾った”ということを、50リラ札を母親に提示して証明したときの彼女の表情が絶妙だ。この時、母親役の女優は、かなり難しい演技をしている(数十テイク取らされたんでは?と勘ぐりたくさえなる複雑さだ。それは「”困ったような顔”をし、ありがとうといいながら”受け取ることに少々意地汚さを感じた顔”をし、しかも”少し申し訳ないという顔”をしながらながらこれを受け取る」という演技だ。監督のトルナトーレは、なんでこんなややこしい演技をさせたのか。

貧乏ゆえ、本当にアタマに来ている母親

母親の演技の前提には、まずトトの家庭が夫がいないが故に非常に貧乏であるという事情がある。だから牛乳一本たりともムダには出来ない。ところが、それをトトは映画代に使ってしまった。一方、トトはいつも映画にうつつを抜かしている。これについても母親は業を煮やしている。苦しい生活なのに牛乳代が消えたこと自体に怒りを感じているだけではなく、業を煮やしている映画にトトが使ってしまったことで、怒りは二倍になっている。だから、ここで母親がトトを打つのはある意味、しつけと言うよりも、本当に感情的にアタマに来ているのである。

一方、アルフレードの方はこのトトの家の事情を熟知している。だから、広場で母がトトを叩いているのを見かけただけで、その理由を察知し、トトをかばうべく「映画はタダで見せてやった。お金は落としたんだ」と、事情を説明するのだ。

田舎芝居で、その場を乗り切ろうとするアルフレード

ただし、これはミエミエのウソである。ところがアルフレードは確信犯的にこのミエミエのウソにリアリティを持たせようとベタな芝居に出る。会場係の相棒に「今日の落とし物は?」と尋ねるのだ。ただし相棒は空気が読めないので、本当の落とし物をポケットから順番に出していく。つまり「クシ、靴底」。アルフレードとしては、この田舎芝居を完結するために、相棒には50リラをポケットから出して欲しいのだが。そのとき、母親の方は「いったいこの人たちは何をやっているんだ?」という怪訝な表情になる。

そこで、しびれを切らしたアルフレードが「それと50リラ」と言いながら、ポケットから50リラを出し、なんとか芝居を完結させた。そして「ほらね」といいながら母親の前に紙幣を差し出す。そのとき母親が「困った+意地汚い+申し訳ない」の表情をするのだ。

母親の三つの表情が意味するもの

この演技は、母親がアルフレードの行為を「田舎芝居と知っている」ことが前提される故に、こうなるのだ。つまり、ここでやられているのはウソ。でも貧乏だからお金は欲しい。でも、ウソをウソとして退ければ、お金は手に入らない。どちらを選択すればいいのか……、で「困った」顔。次に、50リラを結局受け取ることになるのだが、それはウソをウソと知りつつ、お金ほしさに騙されたフリをしたわけで、こうなると自分は「意地汚い」。そして、苦しい家庭事情を踏まえてくれた心からの配慮に、アルフレードに対する「申し訳ない」気持ちを表す顔。

アルフレードの巧妙な配慮

一方、アルフレードの方も、母親のこういう複雑な感情を熟知している。だからこそ、こういった田舎芝居に打って出たのだ。つまり、本当は映画代に使ってしまった牛乳代。「じゃあ、オレが代わりに払ってやる」とアルフレードが言ってしまえば、母親のプライドは傷つけられるし、二人の対等な関係が破綻する。それゆえ、お金を拾って、それを事務的に落とし主の下へ返したことにしようとした。つまり、形式上は、あくまで映画館を運営する人間と顧客=観客の関係を保つことで、母親がお金を受け取りやすくなるよう配慮を行ったというわけである。言い換えれば、これはお金の授受を成立させるために行われた、黙契上での「出来レース」だったのだ。この時、田舎芝居は、この授受を可能にするメディア、つまりメタメッセージを成立させるための手段=媒介として機能していたのだ。

「出来レース」の、さらにもう一つ下のコミュニケーション

さらに、このシーンではもう一つの暗黙のコミュニケーションがかいま見える。それはアルフレードのトトに対する、そしてトト一家に対する愛情表現であり、それがきちんと伝わっていると言うこと。つまり「こういう田舎芝居をやっているんだけど、オレはあんたたちが心配なんだ。そしてトトを愛している。だから、この場はオレの顔に免じてトトを許してやってくれ、そしてこの金を受け取ってくれ」というメッセージが、授受を可能にさせるメタメッセージの背後に含まれている。いわば「メタメタメッセージ」が存在するのだ。ただし、メタのメタであるため母親がそのことを認識していると言うことは、ちょっと考えられないのだが。それでも、じわじわと互いの関係を深めてゆくには効果があるというレベルではある。

共同体におけるコミュニケーションの重層性

さて、かなり理論的になってややこしくもあるので、最後に改めて整理しておく。先ずコミュニケーションの第一層として「田舎芝居」が存在する。そしてコミュニケーションの第二層として、この田舎芝居を手段=メディアとして成立する、スムースで権力関係を伴わない「金銭授受」というメタメッセージが存在する。そして最後にコミュニケーションの第三層として、この金銭授受というメタメッセージを手段=メディアとして成立する「愛情伝達」というメタメタメッセージが存在する。

たったこれだけのエピソードの中に、監督トルナトーレは、見事に共同体における身体を媒介とした重層的なコミュニケーションの状況を提示して見せているのである。お見事!(続く)

「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (2)


トトと母親を媒介として広場のエピソード

夜の広場のシーン二つめは、トトと母親にまつわるシーンだ。ここのエピソードは実に手が込んでいる。それは、共同体の中では、「ことば」による情報伝達と、「黙契」=身体による情報伝達の二つを同時に作動させて相互にコミュニケーションが行われていることを丹念に描いているからだ。

この、二つの文脈を同時に使ったコミュニケーションはトトの母親とアルフレードの間で交わされる。

エピソードの展開

まずは、ともかくエピソードを確認しておこう。

夜、映画の最終回が終了する。シネマパラダイスから人々が出てくる。その中にトトも。すると広場の銅像の前でトトの母親が待っている。それを見つけたトトは「ヤバイ」という表情をしながら母親の元へ。母親はトトを叱責する。

母「買ってこいと言っておいた牛乳の代金はどうしたの」

トト「取られた」

母「映画でしょ(つまり「映画代に使ったんでしょ」という意味)

トト「うん」

ここで母親は怒りにかまけてトトを打ちはじめる。そのとき、シネマパラダイスから引き上げる途中のアルフレードと映画館の会場整理係が、二人の尋常ならぬ状況に気づき近づいていく。

母「この子は、映画、映画、映画ばっかり」とヒステリックにトトを打ち続ける。

アルフレードはこれをいったん静止し、なぜトトが打たれているのかすら聞くこともなくトトの母親に「映画はタダで見せてやった。お金は落としたんだ」と話す。そして突然、トトにアルフレードは「いくらだったんだ」と問いただす。

トト「50リラ」

するとアルフレードは相棒の会場係に問い合わせる。

アルフレード「今日の落とし物は?」

会場係「クシ……、靴底……」

じれながら、アルフレードは加える。

アルフレード「それと50リラ」

アルフレードは右ポケットから50リラをとりだすとトトの母親の前に差し出した。

アルフレード「ほらね」

母は「ありがとう」と言うと50リラを受け取り、機嫌を直し、トトの手を引いて広場から去っていく。


この一連の、田舎芝居は何を意味しているのか。なんでこんなミエミエのアルフレードの田舎芝居に、トトの母親はまんまと引っかかってしまうのか?

実は、母親はひっかっかてなんかいない。彼女もこの田舎芝居に乗ったのだ、というかならざるを得ない状況があったのである。ではこのエピソード。どう理解すればよいのか。(続く)

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(教会の鐘の上からの広場の俯瞰。中央に噴水、左手にシネマパラダイスが見える)


「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (1)


この映画の中でもっとも頻繁に登場してくるシーン。それは広場である。そして、広場は時代とともに次第に様子を変えていく。この変化をチェックするだけで、共同体の崩壊過程をわれわれは見て取ることが出来るのだ。

広場1、共同体における広場の基本形を提示

最初に広場が登場するシーンを確認しよう。

最初の広場のシーンは打ち鳴らされる教会の鐘越しに広場を見下ろす映像で始まる。広場で作業する人々(話しながら歩く,遊ぶ子供達,公共水道で髪を洗う女性,ナイロン靴下売り,水をバケツに汲に来る女達とその瓶,)、そして広場の中央に位置するシネマ・パラダイスとその前を往来する人と馬。

これは終戦直後のシチリア島の貧困な生活を綴るエピソードで溢れた映像だ。そして、これを基本形に広場がしだいに共同体的機能を失っていく過程が、順次描かれていく。

広場2,夜の広場

次に出てくるのが夕暮れの広場のシーン。ここは三つのエピソードから構成されている。一つめは共産主義者の男に手配師が仕事を渡さないというエピソード。二つめはトトが牛乳代を映画代にしてしまい、母親に叱責されるエピソード。そして三つ目がキチガイが初めて登場するエピソードだ。

エピソード1、手配師はなぜ、共産主義者に仕事を振らないのか
夕暮れの広場。夕食のための煙が屋根から上がる広場から引き上げる馬。山羊も。犬が駆け抜ける。男達が広場の噴水の前に集まって、日雇いの仕事にありつこうとしている。ところが共産主義を信奉している男(トトの学校のクラスメート・ペッピーノの父親)にだけは仕事が与えられない。男は「差別された」と文句を言う。すると手配師は「スターリンから仕事をもらいな」と言い返す。

なぜ共産主義者が排斥されてしまうのか。まず、これが疑問として現れてくる。というのも、この時期には貧乏人を擁護するのは共産主義だった。ということはこの貧乏な共同体と共産主義は親和性が高いはずである。つまり、資本家からカネを取り戻し、貧困を解消してくれる、共同体にとっては福音となるイデオロギーだ。ところが、共同体の人々は、この「すばらしいイデオロギー」に対し、もっぱら排除しようとする行動に出ている。

こうなってしまうのは、共同体の構成員たちの情報に対する相対性の低さに求められるだろう。どんなにそれが自らの環境の好転に寄与するものであろうと、これまでの生活を脅かす可能性のあるものに対しては、これを徹底的に排除する。つまり自らの価値観に対する絶対性(というか、これがあまりに当たり前であって、比較するという立ち位置すら取ることができない即自性)ゆえ、とにかく、こういった共同体の異分子というラベルが貼られたものはなんにでも排除するという態度に出ていくのだ。そして、この「非合理的な感覚」によって共同体の紐帯は維持されていく。言い換えれば、この閉鎖性を維持し、共同体を守るためには、こういったマルクス主義のような「異分子」は、中身などチェックするよりも、先ず排除してしまうのが「合理的」であるのだ。

ペッピーノ一家は結局、共同体の閉鎖性に耐えることが出来ず、ジャンカルドの町を後にする。その際もこの閉鎖性は徹底的に描かれる。先ず、学校でペッピーノがお別れのハグをクラスメートたちとするシーン。トトもその一人であったが、その中で、一人だけペッピーノがハグしようとすると後ずさりして拒絶する生徒が。

教師は「なぜ、お別れの挨拶をしないの」と問いただすと、それに対するその生徒の返事は

「この人たちは共産主義者だから」

というものだった。

そしてペッピーノ一家は広場のまん中にクルマを置き、周囲の人間との別れを告げながら、広場から去っていく。行く先はドイツだ。最後にペッピーノの父親が捨て台詞を一言。

「最低の街だ!」

共同体の連帯は共産主義という異分子を許さない。イデオロギーは生活に勝利することは、この時点ではまだ不可能だったのだ。そしてペッピーノ一家が来るまで去っていく中、共同体の中心である広場は何事もなかったかのように日常を繰り返すのだった。(続く)

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