勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年11月

自販機の数が決めるドリンクの販売量。だからこそゲリラ戦術だーっ!

で、このサイダーのデザインデザインも豊島園の「史上最低の遊園地」戦術と全く同じ立ち位置といえる。だいたい、ドリンクの売り上げというのは、ある要因によって決まってしまうもの。それは自販機の数。だから、たとえ、どんなにまずかろうが日本でいちばん売れる缶コーヒーはコカコーラボトリングのジョージアになる。自販機の数が圧倒的だから、当たり前なのだ。

そんな中で、KAGOMEもまた自販機をあちこちに置くことにした。しかし、当時はいろんなメーカーのドリンクが入っているという自販機はほとんど無く、全部一つのメーカーによって商品は占められていた。で、KAGOMEも同じ戦略を採らなければならないことになるわけで、とりあえずトマトジュース、野菜ジュースの他にもラインナップを並べなければならない。ジャンク系の清涼飲料水も必要だ。もっともコカコーラボトリングなんかに比べたら「多勢に無勢」。自販機の数のなさは逆の意味で圧倒的。ならば、どうせ売れるわけがないのだから、ネーミングだけでも気を引こうと考えた。その思案の挙げ句の結果が、このダサさ戦術だったのではないだろうか。とにかく一回でも買ってもらうためには、あるいは「笑かせネタ」として使ってもらうだけでもいい、そんな魂胆があったように思えて僕にはならない(実際、ここで、僕は「笑かせネタ」で書いているわけだし)。

で、結果はどうだったろうか。いうまでもない、この商品はほどなく消え去っていった。まあ、想定内のことではあったのだが……。だから、この商品戦略は何ら功を奏すことはなかったのだ。でも僕は思う、このばかばかしさのおもしろさを。そして、企画スタッフたちが考えに考えていたと言うことを。で、失敗しているから、いっそう哀れで面白いのだが。とにかく、このスタッフはすご~く当時の販売戦略を勉強してた。そのことだけは、ほんと~に、よくわかる。

最後に。まだ一つ、オチは、ある

これで分析が終わりかと、思うと、まだまだこのドリンクにはオチがある。しかも、ギョーカイ向けのマニアックなオチが。前述したように80年代は記号論的な装置を使った商品戦略が花開いた時代だった。そんな状況を作り上げてしまった張本人はいうまでもなく糸井重里だったが。で、このドリンクは、アカデミズムの香りも十分漂わせている。そして、それが最後のオチと言うことになるのだが。

記号論的なマーケティングで、常にポイントとなったのは消費者にとって「ダサい奴らに差をつける」ということだった。これを「差異化」と呼ぶのだが……。この辺まで来ると、さすがにもうピンときた御仁もおられるだろうが。そう、このドリンクにつけられていた絵は「サイ」だった。つまり、サイダーのカンに動物の「サイ」をつけることで、この缶ジュースは「記号的な差異」を図ろうとしていたわけだ。つまり、この動物のサイは「記号的サイ」だ~っ!。あるいは「記号的CIDER」というダジャレなのである。

このドリンクのデザインを企画したチームは、ほとほとアホとしか思えない。このアホさ加減を僕は、サイコーに評価したいと思う。笑っちゃうけど。

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「ダサい」を彷彿させるロゴ

サイダーをベタに「サイダー」と呼んでしまうこと。これは無印良品の究極の記号的差異化と同じ戦略上にあるように見えるが、ちょっと違う。無印良品の場合は、究極の差異化を行うことで記号が透明化するというイメージを付与することができる。つまり「無印」、なーんにもありませんよという表記が、翻って「自然」「エコロジー」といったナチュラルなイメージに転化する。それがよりカジュアルでワンランク、レベルの高いライフスタイルを提示しているかのように思わせる。消費者は、このカジュアルでいて上品なイメージを購入することで「ダサいヤツらに差をつける」(当時の流行りことば、です)わけだ。

ところが「サイダー」はそうではない。もともとサイダー自体があんまりカッコイイ名前ではない。だからこそ、後発の商品はリボンシトロンだとかスプライトだとかキリンレモンとかになったわけで。ということは原点回帰したとしても、それはそのままイケてないということにしかならない。

これで、いいのか?いいのである。なぜかといえば、これはイケてないことをウリにしようという戦略に他ならないからだ。カンの白地に緑の文字の中に、一つだけ赤でしかも枠で囲った文字が見える。それがカタカナ書きの「サイダー」であり、遠くから見ても非常に目立つ。

わざわざカタカナで、しかも赤抜きでマヌケに「サイダー」と書き込むところには、この文字の持つもう一つのイメージを思い起こさせようとする意図がありあり。たとえば「カバ」といえば、子どもならかならず「バカ」という言葉を同時にイメージするように、「サイダー」は、当時流行った言葉「ダサい」を彷彿とさせる。「サイダー」の文字を何度も繋げて連呼してみると「サイダーサイダーサイダーサイダー」。つまり「ダサイ」という言葉が浮かび上がってくる。そう、このサイダーは「ダサさ」を売り込もうとしているのである。そして、その決定的な証拠が緑色のロゴ”CIDER”と赤字の「サイダー」の間に、動物のサイが描かれていること。サイなんてのは”ぼーっ”としている感じで全然、カッコよくない。というか、こんなもんドリンクのイメージ・デザインとして使うこと自体、大間違いであることはいうまでもない。つまり、このドリンクは、どーしようもなくカッコ悪いというのを売り込もうとしていることが見て取れるのだ。

としまえんの「史上最低の遊園地」全面広告

これは、当時はやったヘタウマ、90年代後半ならダサカッコイイのウリなのだ。これもまた西武グループがやったことだが、90年4月1日、としまえんは「史上最低の遊園地」というコピーで新聞各紙に一面広告を掲載する。紙面内容も「だまされたと思って、いちど来てみてください。 きっとだまされた自分に気づくはず。 楽しくない遊園地の鏡として有名な豊島園は、ことしも絶好調。 つまらない乗物をたくさん用意して、二度と来ない貴方を、心からお待ちしてます。」と、全く持って否定的でネガティブな広告を打ったのだ。

これは、その反対の、まさにカッコイイ遊園地・ディズニーランドの人気がドンドンと定着していた時代での、としまえんなりの「差異化戦略」だった。カッコイイVSダサいのコントラストで客を呼び込もうというわけ。

もちろん、こういうネガティブなやり方は、戦略を打つ方が劣勢であることを自覚した上で行うゲリラ的戦術でもある。どうがんばったってとしまえんがディズニーランドにかなうわけないので、意図的に対立構造を作り上げ、ディズニーランドに「負け組」として、ぶら下がることで自らの存在をアピールしようとしたわけだ。(続く)

「サイダー」がサイダーの登録商標名

KAGOMEのCIDERの怪しさを分析している。前回はカンの色が白でロゴが緑色がティモテのパクリであることを指摘しておいた。今回はネーミングの「サイダー」にメスを入れる。

まず「サイダー」という言葉の語源を考えてみる。実はサイダーは、日本ではそれが指し示すものが誤ったかたちで表記がなされている。サイダーとは、元はといえばフランスの「シードル」つまりリンゴ酒のこと。一方、われわれがサイダーと呼んでいるものは英語で表記するとsoda popとなる。ところがこれを明治時代に帝国鉱泉株式会社という企業が三ツ矢サイダーという名前でsoda popを販売し、これが結果として日本ではsoda popの普通名詞として、「サイダー」という言葉が一般的に用いられるようになったのだ(wikipedia調べ)。

しかしである。サイダーとおおっぴらに商標を打っているのは三ツ矢サイダーの他あまりない。リボンシトロンとかスプライトとかキリンレモンとか。でも、これはさしあたりサイダーというジャンルを形成していることになる。そして「サイダー」という商標自体は登録されていなかったのだろう。そこでKAGOMEは、おおっぴらに「サイダー=CIDER」という名前を使ったのではなかろうか。

しかし、しかし、である。サイダーに「CIDER」と名付けるやり方は、犬に「犬」、ラーメンに「ラーメン」という名前をつけるに等しい。言い換えれば商品としての情報がゼロの名前である。こんなバカなことをなぜやるのか。これもまたカンが白地に緑色の文字であるのと同様、時代、とりわけ広告業界の八十年代のトレンドを継承、いやパクったからだと、僕は考える。

記号価値の一巡、無印良品のパクリ

八十年代、商品の流通はいったん飽和状態を迎えた。つまり日常生活に必要なものはほぼ出そろっていた。で、もう必要性に訴えて売るものがなくなっていた。そこで、分衆とか新人類とか現代人を定義して電通や博報堂が「記号消費的戦略」を組んだのだ。とりわけ電通の藤岡和賀夫が『さよなら大衆』の中で展開した議論はギョーカイのトレンドに大きな影響を与えていく。

藤岡の議論は次のようなものだった。「かつて人々は貧乏で人並みを求める大衆だった。ところが高度経済成長を経て人々は人並みを達成してしまった。そして、必要なものはすべて出そろってしまった。こういった現在においては、もはや人並みを求めることはしない。むしろ人々は人とは違ったものに消費の動機を持つのである。」

この考えに基づいて展開されたのが記号化消費戦略だった。つまり、同じ機能を備えた商品の場合、その機能では差異化が働かず勝負ができないので、記号的価値、ようするにデザインやネーミングの良さといったイメージで売るという戦略が一般化するのだ。それがコピーライターを流行らしたり、全く必要のないものを売り込むことに成功したりという現象を生む。

だが、これが一巡したとき、つまり商品世界が記号で溢れてしまい、飽和状態になったとき、究極の記号的価値を前面に打ち出す商品が現れる。それは西武流通グループのコンセプトである無印良品だった。無印良品は記号的な価値、コピーや見た目で覆われた商品が氾濫する中、それら一切を切り落とし、シンプル、コピーなしとすることで頭角を現している。しかし、これはかつてのような商品の機能に回帰したのではなく、いうならばデザイン、コピーに飽きた人向けへの、デザイン無し、コピーなしという記号=デザイン、つまりメタ的な記号価値を前面に打ち出したものだった。

こう、考えればなぜサイダーに「サイダー」というネーミングを振ったのかがおわかりいただけるだろう。あえて、普通名詞的なものにして、なんの工夫もないように見せかける究極の記号価値として、商品の特性をいっさい示すことのないこの「サイダー」というネーミングを使用したというわけなのだ。つまりこれもまた無印良品のパクリというわけだ。しかし、この「サイダー」という名前、実はこれだけではない。まだまだ奥が深い、と僕は考えるのだが。(続く)

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KAGOMEのドリンクといえば

ちょっと上の画像を見て欲しい。こんなの見たことあるだろうか。これは十数年前にKAGOMEが販売していた’CIDER’という名前の清涼飲料。「へ~っ、こんなもん出してたのか」と思う人も多いのではなかろうか。KOGOMEというメーカーからまずイメージするのは健康系の飲料、年配の方ならまずケチャップやトマトジュースが思い浮かぶはずだ。そして野菜ジュースが登場し、現在では健康系の飲料を中心に商品展開を行っているメーカーだが、昔はこんなジャンクものも販売していたのだ。で、この商品、とってもヘン。ということは、メディア論的にはちょっとこの商品、分析してみる価値アリということになる。このカンには、実に多くの歴史的文脈が存在する。ということで、今回はこれをじっくり掘り下げてみたい。

どう見てもヘン

ヘンなところを、挙げてみる。まず缶の色、これが白である。そして文字は緑色で描かれている。次に、真’ん中に目立つように赤で、しかもカタカナ書きで「サイダー」とある。でもって、真ん中に描かれているのは動物のサイなのだ。挙げ句の果て、その名前は「サイダー」と商品のほとんど普通名詞とも言うべき名前を冠している。売られているとあるメーカーのカップラーメンの名称に「カップラーメン」と名付けられていると考えればわかるだろうが、とにかくおかしな情報でこのドリンクは埋め尽くされている。

なぜ容器がホワイトなのか、そしてロゴが緑なのか

この「ヘンさ加減」をひとつづつ、もう少しツッコンで分析してみよう。

まず缶の色が白であること。実は、この時代、つまり80年代前半、ドリンクを白色で塗りたくるというのは、結構禁句、タブーだった(最近はそうでもないが)。というのも当時、白い瓶というの」が薬の瓶をイメージさせると言うことで一般的には避けられていたのだ。そしてこれが缶にも適用されていた。だから、この仕様は反則と言うことになる。薬臭いドリンクなんて飲む気がしないというわけだ

ただし液体による製品に白を使ってはならないというタブーを最初に破ったのはこのCIDERではない。最初にやったのは80年代前半に発売され大ヒットしたシャンプー・Timoteiだった。当時、シャンプー会社はどうやってシャンプーの使用量を増やそうかと四苦八苦していたとき、この製品が考案されたのだ。ティモテはそれまでのシャンプーと異なり容器が不透明の白という「薬瓶そのもの」みたいなデザインを、まず採用している。これでもって他のシャンプーとの圧倒的な差異化を図った。とはいっても、シャンプーが薬っぽくっちゃ、差異化が出来ていても売れるわけはない。そこで不透明の白の容器に緑色でロゴを書き込んだ。こうすると、不透明な白は緑色とのコントラストをなして、薬瓶的イメージを消去し、逆に自然、ナチュラルといった言葉をイメージさせることが可能になる。つまり緑は草の色であり、それは自然。この緑が映えるようにするために、最も主張しない色である白が選ばれたのだ。こうすることで、薬瓶の色から主張しない色へのイメージの転換が図られた。また、シャンプーの色は透明で臭いも弱い。ということは、ティモテはナチュラルで髪の毛に優しいというイメージへ繋がる。そして、実際、これによって日本人のシャンプー回数は飛躍的に増大していくのだ。


KAGOMEのCIDERのデザインを考案した人間は明らかに、このティモテの性向を意識していたはずだ。だからこそ、白地に緑でロゴを飾っているのだ。しかし、このアイデアの盗用が10年後というのが、なんともちんけなのだが。(続く)

統計は、しばし質問内容の定義の仕方にウソがある

皆さんは、よくアンケート結果をテレビや新聞でごらんになることがあると思います。こういった統計は数字で示されるんで、科学的根拠があって正確なものと、私たちは考えがちですが……実際にはそうではないんですね。

統計というものはしばしば嘘をつきます。もちろん、それは計算方法にウソがあったというわけではありません。ウソは、質問項目の言葉の定義の仕方にあります。

典型的な例を一つあげてみましょう。犯罪白書を見てみると平成八年から九年にかけて、少年による強盗の検挙数が全国で1.7倍に増加しているんですが、これは必ずしも少年による強盗が急増したことを意味してはいないんですね。強盗っていうのは、被害者にケガを負わせつつ金品を盗み取る犯罪です。しかし、この時には、たとえば、オートバイでバッグをひったくったら被害者がころんでケガをした、というのも強盗とカウントするようにした。つまり単なる窃盗でも、被害者がケガをすれば強盗と定義した結果、急増したというわけです。

文科省のイジメ調査はデタラメだ!

そして、今回、文部科学省が行ったイジメ調査結果は、こういった統計的数字の持つ怪しさが、もっとも露呈した例と言えるのではないでしょうか。

イジメの認知数の飛躍的増加。これはつまり、強盗の例と同様、言葉の定義を変えたからに過ぎないんですね。それだけじゃあありません。たとえばイジメの認知数が、宮崎と熊本では、昨年までは二倍弱の開きだったものが、今年はなんと16倍にまで広がりました。もっとも、これは各県でイジメ認知調査の定義や、やり方が違うからこうなったんですね。

ということは今回の文科省のイジメ調査。統計的にはほとんど価値のないものだと認識すべきなのです。

そして、こういった統計数値のトリックは、今回だけに限りません。たとえば100人に聞いた程度の調査ではなんの意味も持たないのは、実は統計学では常識です。

数字が示すが故に正確に思えるアンケート調査ですが、この調査の仕方は本当にあっているんだろうかと、疑ってみる。そんな態度がわれわれには必要なんではないでしょうか。

(統計のウソに関する文献としてオススメは『「社会調査」ウソ~リサーチ・リテラシーのすすめ』谷岡一郎、文春新書、2000がある)

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