勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年11月

引退させることの重要性

じゃあ、こういった「宙づり状態」にある人間はどうしたら救済可能か。これについて処方箋として小谷先生は「ちゃんと「引退」させること」をあげる。
つまり、もうあんたはこの世界では一流になれない、だからダメなんだということをしっかり教えてあげること。そしてそのためには、彼らに引退式というお祭り=通過儀礼をやって、この世界から出て行くと言うことを社会的に促し、本人にそのことの自覚させるけじめとすべきだというのである。こうしないと、こういう連中は、いつまでもこの宙づり状態の中でグズグズし続けてリズムがおかしくなり、人間崩壊を起こす。

たとえばプロ野球界の桑田や清原というのはその典型で、ヘタするとこの二人は犯罪に手を染める可能性すらあるという。大リーグ挑戦だとか言っているが、もう桑田はとっくに終わっているのだ。これをメディア的にはおいしいネタなので、メディアが引っ張り続けることで、結局、桑田もその気になった挙げ句、人間崩壊する可能性が高い。事実、かつてこの道を歩んできた人間に江夏豊という前例があるではないか。江夏は晩年、西武で広岡監督と仲違いした後、大リーグに挑戦し、木っ端みじんに打ち砕かれ、その後ドラッグに身を染めていった。そして引退式らしきものはほとんど行われなかった。あの大投手・江夏が、だ。つまり、江夏には引退式がなかったが故に自らを再定義することができず、こうなったというのだ。桑田、清原はともに巨人が呼びつけて派手な引退式をやるべきだ。小谷先生は、こう指摘する。

これは慧眼だ。そして、こういった社会構造ひずみの中で、やむ終えず悲惨な状況に追い込まれる人間がきわめて多いにもかかわらず、全くと言っていいほど指摘されてこなかったことをズバっと言い当てるところもスゴい。この議論をちゃんと展開すれば、非常に多くのスポーツマンに救済の手がさしのべられるはずだからだ。

カラダもココロも急にリズムを崩すことはできない

これは、われわれの精神が肉体と同じ性質を持っていることを示しているとは言えないだろうか。たとえば一流のスポーツ選手は引退後もトレーニングを続けるという。ソウルオリンピック100メートル背泳ぎのゴールドメダリスト・鈴木大地は引退後も、毎日トレーニングを欠かさなかったという。これは、今後とも水泳選手を続けていくためではない。練習量を急激に落とすと身体に変調を来すので、まずは現役時代の練習量と同じだけの練習を積み、次第に練習量を落としていくのだ。そうしないと身体がリズムを崩して、体調を崩したりするのだという。

ココロのほうもこれと全く同じだ。つまり、ダメとなったら引退を告げ、儀式をやり、次第にこの環境から外れていく。そういったけじめやモラトリアムを用意することによって、第二の人生、新しい人生へ踏み出すことができるようにしてあげる。そうすれば、それまでスポーツ選手としてやってきた経験も必ずや新しい人生に反映されるだろうし、たとえば当該のスポーツ世界に残って、コーチや指導者になったときにも、環境を相対化してみることができ、よい指導者になることができるだろう(事実、鈴木大地は解説者として活躍中だ)。突然、選手をやめて指導者になったら、やっぱりリズムを崩したことになるので、ロクなものにはならないだろう。多分、自分の現役時代のやり方を、タダそのまま押しつけて、まわりの選手たちにとっては迷惑この上ない話となるに違いない。

人生において必要なのは、社会的なけじめとリズム。たとえば引退というのはそういうものの一つとして存在するのだ。

またぞろ大学名門スポーツ部における不祥事

11月8日関東学院大学ラグビー部の三年生二名が大麻取り締まり容疑で逮捕された。栽培していたのが見つかったのだ。かつて帝京大学のラグビー部が集団婦女暴行事件を起こしたりなんてこともあったが、こういった名門スポーツ部員が、しばしこういった不祥事を起こすのはなぜなんだろう。実は、これは個人的問題と言うよりも、名門スポーツ部に共通する構造的問題があるからではないか。

今回は僕の知り合いである福山平成大学の小谷寛二先生から伺ったお話を参考にしながら考えてみたい。

大量のバーンアウト症候群を輩出(排出?)する名門スポーツ部

名門スポーツ部の罪作りの部分、しかもかなり重罪のそれは、大量のバーンアウト症候群を生み出してしまう点だ。名門スポーツ部に入部する人間は、それ以前にそのスポーツでは”一流”という勲章を与えられて入ってきた人間。多くはセレクションなどで選ばれ、勉強なんかは関係ない。そして、自分がそれまで所属していた高校では「スター」として扱われてきた人間でもある。

そして、憬れの大学名門スポーツ部へと入部。これで、順風満帆と思いきや。実はその大半には大変な壁が待ち受けている。なんのことはない、他の連中だって「スター」扱いされていた奴らばかり。だからレベルはベラボーに高い。で、このメンバーの中に入ってみたら、自分は並、あるいはそれ以下でレギュラーなんてはるか彼方の話っていうことを痛いほど知らされる人間が全体の大半を占めてしまうのだ。

ところが、この高校までは「スター」だった連中。おいそれとは、この事実を認めることはできない。自分のこの名門チームでの位置を認めることができないのだ。なぜって?彼らは、ずーっと一番できたし、野球やラグビーをやること、それだけが人生だった。言い換えると、これ以外の人生は限りなくゼロ。だから、この事実を認めると言うことは、自らの存在を全否定することと等しいことになってしまうからだ。仮に部をやめたとしても、今度はセレクションで入っているが故に、大学の勉強はよくわからない。学業は困難を極める。つまり行き場が、ない。

で、彼らはどうなるのか。レギュラーメンバーになって輝くことはできず、それでいて、この世界から脚抜けすることもできないという「宙づり」状態にされてしまう。そういった、連中に待っているのは、このアイデンティティのやるせなさを埋める、ちょっとしたくだらないことだ。部室で麻雀やったり、他のメンバーをイジメてみたり、そしてドラッグに手を伸ばしたり。

スポーツだけで人生をやってきたのだからこういったときには非常に弱い。とはいうものの、他の道はないので、こうならざるを得ない。しかも、それまで彼らたちはおだてられてやってきたのだから、急に足場を外されてもどうにもならないのだ。それが、ちょっとした闇に手を伸ばすきっかけになってしまう。

つまり、こういった名門スポーツ部に発生する問題は、個人の資質によるのではなく、むしろ構造の問題なのだ。(続く)

でも、やっぱり、神の啓示?

キース・ジャレットの場合、いくつかの演奏パターンを持っていて、それを順次組み合わせ曲にしているということになる。ということは、そのパターンに入ったときは、われわれのクルマの運転と同様、もう自動的にそのパターンに応じたメロディが奏でられていくわけだ。で、ジャズというのは基本的にそうなっている。つまり、アドリブといっても、こうやって学習=訓練して条件反射化したパターンを次々と繰り出していくに過ぎない。つまり、神の啓示なんかではない。

ただし、である。では、そのパターンとパターンの組み合わせ、つまり言語学で言えば統辞、もっと簡単に言えばパターンの組み合わせによるストーリー展開はどうなっているんだ。単にパターンが次々とできるだけじゃデータの羅列でしかない(最近、こういうデータ羅列の本って、すごく多い)。キースの場合は、ちゃんと物語が存在する。これはどう理解すればいいのか。

もちろん、これももう一つのパターン。つまりパターンとパターンを組み合わせる、その方法についてのパターン、言い換えればメタ・パターンであって、これもまた人間的な営為。学習のたまものといえる。そしてキースの場合は、このメタ・パターンの能力が非常に優れているというわけだ。

じゃ、このパターンはどうやったら身につくのか。多分、ジャズのパターンを学んだだけじゃ、絶対に身につくことはないだろう。パターンとパターンの組み合わせは、単なるパターンほどには、きちんとしたルールがないからだ。だから、このパターンの学習は、かならずしもピアノを練習することで身につくものではない。

実はこのメタ・パターン。演奏だけではなく、日々の生活の中で、様々な環境、対象、事象に触れ、それを物語ることを繰り返す中で出来上がるものではないのだろうか。凡庸なジャズマンはこれができないがために、単なるパターンの羅列となり、それゆえ、いくらテクニックが優れていても「カクテル・ピアニスト」の域からは決して出られないということになる(ちなみに、ジャズマンは熟練すればするほど、パターンの組み合わせが上手になる、つまり物語れるようになる)。

一方、キースは違っている。環境を、世界を、パターンを組み合わせながら見事に物語るのだ。そして、それがこの上なく洗練されていると同時に、見事な統一感を維持している。つまり、キースのようなミュージシャンは、音楽というスタイル=メディアを借りて、いわば「人生」を奏でている、ということになる。いいかえると、アドリブや音楽の本質は、音楽自体にではなく、音楽を奏でる主体の経験に基づいているわけだ。

でも、キースの場合は、凄すぎる。ということは、やっぱりキースは天才ということになってしまうのだが。いや、やっぱり、あの演奏、とりわけケルンのそれは、キースの能力を超えていて、やっぱり「神の啓示」と言わざるを得ないのかもしれない。

さて、またケルン・コンサートに耳を傾けるとしよう。

学習のメカニズム

キース・ジャレットのソロは神の啓示なのか?いや、そんなことはない。これはきわめて人間的な営為である。

われわれはどうやって表現するのか、あるいは表現の技法を身につけるのか。これは、原則的にすべて同じ。学習のメカニズムに基づいている。単刀直入に言えば条件反射を増やすことだ。

たとえば、身振り手振りで二拍子と三拍子を同時に表現することを考えてみて欲しい。つまり左手は上下に上げ下げして二拍子、右手は三角形を描いて三拍子を一人の人間が同時にやるというシチュエーションをイメージしていただきたい。「こりゃ、かなり難しそう」と思えるのじゃないだろうか。事実、僕の学生たちにやらせてみると、ほとんど誰もできない。

で、僕は、そうやってできなかった学生の前で、これをやってみせる。しかも、学生たちにおしゃべりすらしながら、素早いスピードで。すると、学生たちは「ホーッ!」とちょっとした喚声を上げてくれる。これはつまり「芸を見た」っていう表現としての「ホーッ!」なのだが。

ところが、これ、実は簡単にできる。学生たちは頭の中で二拍子と三拍子がゴチャゴチャになるからできないのであって、これは、そう考えるのではなく、六つの身振り操作によってできた1セットと考えればだれでもできる。つまり1=左手下・右手下、2=左手上・右手横、3=左手下・右手上、4=左手上・右手下、5=左手下・右手横、6=左手上・右手上という手順。これをいちいち確認しながら三十秒ほど練習すると、学生たちも皆この”曲芸”をできるようになるのだ(多分、この後、学生たちは宴会芸で使っている可能性アリ)。

これは、まず一連の操作を六つの手順と説明し、一つ一つの動作を確認しながら学習(この時、二拍子と三拍子のことは一切忘れるように指示する)、これを繰り返し条件反射化することで、結局、簡単にできるようになるというわけだ。

僕らも、キースと同じ能力を持っている(ただし、チョビっとだが……)

で、こういった条件反射は、繰り返せば無意識化する。そして、さらにこれを無意識に任せながら、さらに別の行為を同時にすることも可能になる。たとえば、クルマの運転。車の運転はステアリング、ギヤ、クラッチ、ブレーキ、ウインカー、バックミラー、サイドミラー、前方方向、これらすべてに注意を払いながら行うわけで、さっきの二拍子と三拍子を同時にやる行為より遙佳に複雑。にもかかわらず、クルマを運転している人間は、全員これをやっているおかげで、当たり前の何ともないことのように思える。それだけじゃあない、窓の外にある景色を眺めたり、前のクルマを追い抜こうとしたり、同乗者の彼女に話しかけておべっかをとったり、カーステレオをかける順番を考えたり、さらにこのドライブをどうやって進めていき、彼女とホテルにしけ込もうかなんて考えたりと、とにかく、複雑な作業の上にさらに複雑な作業を積み重ねている。しかも状況に応じて好き勝手にこれをカスタマイズする。

これって、キースのソロと同じじゃないの?しかも、車を運転している誰もがやっていること。キースがスゴイ、神の啓示と思えるのは、これがピアノであって、この技術が一部の人間によってしか所有されていないからにすぎない。もし、車を運転する人間が世界であなた一人であったら、このクルマを自由に扱うあなたは、まるで神の啓示を受けたかのようにクルマを操っていると、周囲からは見えるはずだ。そう、キースのやっていることも、われわれの人間が行う学習による行為の複雑化の一つでしかないのである。(続く)

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30年間聞き続ける、ケルンコンサート

キースジャレットを知ったのは中学校の時だった。カネがないにもかかわらず、ジャズにハマり、しかも仲間連中はキャンディーズとかクイーンとか聞いているので、全然情報源が無し。当時は、まあ今と同じようなもんだが、誰かがレコードを買ってくると、次々とカセットテープにコピーして聞くということをやっていた。つまりクイーンやキャンディーズは誰かが買ってくれているので、それをコピーでもらえたというわけ。しかるに、ジャズなんて買うヤツがいないので、友だちからジャズに関する情報を得たりレコード借りるるなんてのは不可能。しかたなくNHK-FMの「軽音楽をあなたに」なんて番組で紹介してくれる新譜をエアチェック(もはや「死語の世界」だが)するとか、レコード屋に入り浸りになり、店の兄ちゃんと友だちになって、こそっと聞かせてもらったり(兄ちゃんもジャズ好きで、これがジャズ談義にもなるので向こうも楽しそうだった)、はたまた電気屋のオーディオコーナーの兄ちゃんと友だちになり豪華なオーディオ(JBLとかALTECとか)でコーヒー飲みながら(当時はオーディオブームで、こんなサービスがあったりした。こっちも兄ちゃんが勝手につくってガキの自分に煎れてくれたのだが。ブームはホントーにありがたかった)ひたすら一生懸命ジャズに耳を傾けるなんて努力をしていた。そんなときにはまったのがキースだった。

最初に聞いたアルバムは”フェイシングユー”、続いて”ソロコンサート”だった。で、下地があったところで、このケルンコンサートが出た。A面一曲目を聞いた途端、僕は衝撃が走り……後はこれをひたすら聞き続けた。そしてもう三十年も聞いている。すっかり演奏をそらんじることができるようになってもう二十年が過ぎた、てな感じでバカみたいに聞き続けているのだが(ちなみに、あんまり聴きすぎると飽きるのを通り越して水みたいになり、無いと生きていけないような中毒症状を起こす)、今回はちょっと冷静に、このサウンドを分析してみたいと思う。ただし、もちろんメディア論的に。

神からの啓示?

キースのソロの圧巻は、なんと言っても完全即興というところ。つまり、コンサート会場とかスタジオに向かうと、ピアノの前で「エイヤーッ!」てな感じで、なんの前触れもなく、その場で演奏して全く新しい曲を作るというもの。だから曲名は、しばし日付や会場の場所だったりする。で、こういった完全即興。ジャズは即興=アドリブがウリの音楽ジャンルだが、始めから終わりまで全部アドリブって言うのは、それまでほとんど無かった。まあ、60年代後半、セシル・テイラーなんかが中心でやってたフリージャズなんかはこれに該当するんだが、フリージャズの場合、もう何が何だかわからないアバンギャルド性が売りで、一般人には全くもってよくわからないものだった(山下洋輔くらいになると大衆化して、とってもわかりやすくなるんだけど。ちなみに山下洋輔の”ラプソディー・イン・ブルー”は感動的な大傑作。ガーシュインのスピリットが聴けます)。

ところがキースの演奏は全く違う。キースのそれは、言うならば「ピアノが歌う」というもの。つまり完全即興といってもメロディが登場し、メロディからメロディへとうなりをともないながら壮大なストーリーとして展開していくのだ。もちろんフリーに突入するときもあるが、その多くは耳に心地よいサウンド。だから、はじめからすでに作ってあって、それを演奏しているようにしか見えない。またキースのピアノタッチはジャズのそれとはちょっと違い、どう考えてもクラッシックのコクのあるタッチ。また、これにECMの主催であるマンフレット・アイヒャーが独特のエコーを加えることで、いっそうメロディアスに。まあニューエイジとかヒーリングとかの先駆けみたいなサウンドになっていたのだ。

こんなヘンテコなスタイルだから、僕はもちろん、一般のジャズ評論家なんかもこのやり方にはびっくりしてしまう。即興という点ではジャズだが、これははたしてジャズといえるのだろうか。当時のジャズ評論家の悠雅彦なんかを中心としてキースの評価は分かれていた。でもとにかく気持ちがいい。そしてケルンの一曲目、ケルン1975年2月24日パート?鵯はその圧巻とでもいうべきもの。26分にも及ぶ対策なのだが、あっという間に26分が過ぎ去っていく。一時たりとも、聴いている側が集中力を切らすことはない。部屋を真っ暗にしてオーディオを大音量にし、ひたすらキースのピアノに集中する。それはそれはステキな「大感動」時間だった。

キースはなぜ、こんなスゴイ曲=大作を、全くのアドリブでやれてしまうのだろう。本人がそう宣言していたかどうかはわからないが、評論家やこれを聞き惚れ込んだ人間たちが一様に口にしたこと。それは、彼は神の啓示のメッセンジャー、天使のサウンドを運ぶメディアだからという表現。つまり、あれはキースが作っているのではなく、神が作り、それをキースを使って演奏させているのだっ、てなナイーブな表現の仕方だった。

僕も当時は、そうに違いないと確信していたのだが……。でも、年齢を重ね、ものを作る人間の一人-端くれとなった現在、なぜキースがこんなことができるのかが少しだがわかる気がする。神が彼にメロディを奏でさせているのではない。これは正真正銘キースが、その場で作っているのだ!(続く)

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