勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年10月

「する」旅と「しない」旅


旅のスタイルには二つある。一つは「する」旅である。これは旅行期間すべてをイベントで埋め尽くす、というもの。日本人の海外旅行で一般的な”ヨーロッパ周遊10日間の旅”的なパックツアーこの典型にあたる。

もう一つは「しない」旅である。リゾートや一都市滞在型がこれで、あまり移動することなく、本を読んだり、気が向いたときにちょっと観光やショッピングに出かけ、リラックスした時を過ごすというもの。こちらの典型はフランス人のバカンスあたりだろう。歳をとったせいか、ぼくの最近の旅スタイルは「しない」型で、リゾートで読書とビール三昧で過ごすのが年中行事になっている。
さて、今回はウォルト・ディズニー・ワールド(以下WDW)を訪れた。ここはテーマパークで有名だが、敷地は山手線の中よりも広く、一大リゾート地としても知られている。そこでぼくはディズニーのノウハウを持ってすれば最高の「しない」モードに浸れるはずと目論んだのだが……予想は完膚なきままに裏切られてしまった。WDWは徹底的に「する」場所だったのだ。

徹底的に観光「する」アメリカ人

ここを訪れるアメリカ人のほとんどは家族。そして彼らの一日は忙しい。朝から晩までいくつもテーマパークを見て回る。ホテルに滞在する場合も、プールで一日中はしゃぎ回る。おかげでそこはさながら市営プール状態。プールサイドでのんびり読書など到底不可能である。とにかく食べ、観て、話して、遊ぶ。これを一日中やり続けるのだ。そして呼応するように施設も客に何かすることをせき立てるように空間、イベントがびっしりと敷き詰められている。これを消化するエネルギーは半端ではない。夜ともなればおそらくぐったりだろう。また膨大な情報と消費の連続にめまいを感じないではいられないのではないか。

ところが、彼らはこれを毎日、平気でやり続けるのだ。当然、ぼくの「しない」プランは破綻した。そしてこのタフさには関心を通り越して呆れるばかりだった。やれやれ。

「する」と「しない」の同質性

アメリカ人の、この時空間を埋め尽くすというのは日本人の旅行スタイルと一見、よく似ているように思える。ところがよく観察してみると、同じ「する」でも日本人のそれとはだいぶ違っていることがわかってくる。

日本人はWDWでもガイドブックを虱潰しに調べ、最も効率的な周り方を考える。少しでも待たず、短時間で押さえておくべきアトラクションを廻るよう、綿密な計画を立てるのだ。そして、パーク内では目を血走らせながら足早に移動する。

一方、アメリカ人たちはパーク内をあまり計画無く動く。会場の入り口で入手したマップも参考程度にチェックするだけで、観たいもの、やりたいものから手を付ける。それで長時間待たされようが、全部を見て回ることができなかろうが、あまり気にすることもないようだ。だから効率性はすこぶる悪い。要は”行き当たりばったり”なのだ。

だが、かれらは実に楽しそうだ。長々と待たされても、そこで常におしゃべりを続け、「いま」、「ここで」の充実を図る。関心を抱いたものがあれば、そこでしばしそれに興じ時間が経つのを忘れる。歩きも実にゆったりとしている。そう、いつでもマイペースなのだ。いうならば徹底的にリラックスしながら観光モードに入っている。おそらく疲労も眩暈も感じることはないのではなかろうか。
彼らは「する」というスタイルをとりながら、「しない」旅と同じものを獲得している。方法論が違うだけで、おかれた時間・空間を自分のリラックスの手段として活用し尽くす、つまり旅というものを自らに従属させるという点で、実は何ら変わるところはないのだ。

キチッとした服装、綿密な計画に基づく観光、忙しい行動。日本人の観光はリラックスと言うより、労働の延長ということになるんだろうか。その結果、旅の終わりに残るのは必然的に眩暈と疲労……それは旅に振り回されているということに他ならない。ぼくらの観光という文化=消費・娯楽の習熟度は、欧米の習熟した文化に比べれば、まだまだ浅いということなのかもしれない。そしてこういったこと、実はバックパッカーたちにもあてはまると、ぼくは思えてならない。

問題は都会人-不親切、田舎の人-親切という図式

前回は田舎=不親切・不人情、都会=親切・人情という、本来の図式とは異なったたすきがけをしてみた。

だが、だからといって、僕は田舎が不親切で都会が親切と言っているわけではない。今回問題にしたいのは、田舎と都会の分節を親切-不親切、人がいい-人が悪い、人情がある-人情がないとすることなのだ。この二分法、きわめてのギモンなのである。だからこの単純な図式=分節を解体したい。そして別の視点から田舎と都会について考えてみたいと考えているのだ。そしてそのことを理解するためには、まず田舎における不親切と都会における親切をあえてここに示してみるという戦略を採ったのである。

そして、今回逆説的に提示した田舎-不親切、都会-親切という図式。実は社会の情報化が大きく関係していると僕は考える。

情報化がもたらした黙契の解体

かつて、共同体が存在した頃、人々は衣食住すべてに渡って互いに重層的に関わり合っていた。お陰で、お互いの間に黙契=無意識のルールが非常に多く存在した。それは、「世間」という感覚に集約されていたと言っていいだろう。世間に合わせる、つまり人様に迷惑がかからないようにする、という感覚が一般に浸透し、この世間的な黙契にそぐわない行為を「みっともない」「世間様に顔向けが出来ない」と表現し、不道徳なこととして受け入れていたのである。

ところが、情報化、消費化が進展することによって共同体が解体する。半面、人々は消費生活の快適さに耽溺するようになり、何ものにも左右されない自由な生活を望むようになった。ただし、自由を望むと言うことは、他者からのお仕着せや干渉を嫌悪すると言うこと。だから、人々は互いの関わり方を共同体の頃のような全人格的、重層的に行うことをやめ、プライベートな生活を志向するようになる。

こういった社会的生活は、当然のことながらそれまで重層的な関わり合いによって形成・維持されていた黙契を解体することになる。こうして個人の欲望だけが最優先事項として肥大化していった。当然、マナーや倫理観もまた崩壊していく。

情報圧が生むネオ・マナー

だが、黙契の解体は都会であれ、田舎であれ同じである。タイムラグこそあっても、地方においても消費生活、情報生活は着実に進行し、黙契は解体していく。しかし、都会では前回指摘しておいたような交通マナーがきちんと生きている。それは次のような事情によるのではなかろうか。

大都市=都会を特徴づける最たるものは情報圧=情報密度、そして絶対的な人口の多さである。この特徴は人々を常に、互いが何らかのかたちでぶつかるという状況を生み出していく。たとえば新宿を歩いているときに、守らなければならないのは自分以外の他の人間の動きを観察し続けることだ。とにかく人が多い。だから我が物顔で通りを闊歩すれば、必然的に他者にぶつかってしまうのである。クルマに例えれば、常にミラーチェックを怠らないようにするのが街を歩く際のルールになるのだ。これは、重層的に関わり合うことから生じる黙契ではなく、密度の濃さから生じるもう一つの黙契なのだ。これが、結果として首都高速のマナー的なものを生むのである。同様のことは銀行やトイレのキャッシュ・サービスの入り口に並ぶときにも同様だ。たくさんの便器、キャッシュディスペンサーがあっても、人々は一列に並び、その最前列の人間が、空いた場所を使いという黙契が出来上がっている。ここには密度が生んだネオ・マナーが存在するのである。

マナーが形成されないローカル

一方、田舎はどうなっているか。情報化、消費化によってかつての共同体的な黙契が失われている。しかしながら情報圧、情報密度、人口密度はきわめて低い。とならば、通りでぶつかる可能性も低い。当然、この状態では都会的なネオ・マナーが出来るはずもない。だから、自由を望む欲望は一方的に稼働し、これを規制するものがない。必然的に、マナーはどんどん低下していく。それが、いわば田舎=不親切、不人情という図式を作り上げるのである。

人がいい、悪いは、関係ない

さて、そろそろ親切、人情、人がいいという分節を取っ払ってかんがえよう。田舎人も都会人も、どっちも人がいいし、人が悪いのだ。ただしマナーを守ると言うことについては、もはや田舎人の方が圧倒的にダメということだけは、ここまでの話の展開で読めるのではなかろうか。逆に言えば、田舎にも、もはやネオ・マナー的なものが要求されるほど都市化は進みつつあると言うこと。そういった教育が、今、田舎に求められている。それが出来なければ、田舎は野蛮化するばかりであることは明言しておいてもいいだろう。

田舎の人間は「いい人」か

俗に、都会の人間は人情が無く冷たく、その一方で田舎の人間は人情に溢れているなんて言い方がされる。都会=冷たい、田舎=親切という図式だ。しかしこのステレオタイプ、結構アヤシイ。僕みたいに中央から地方に流れてきた人間からすると、結構田舎は人情が無く、冷たく、不親切と思えるところに気がつくことが多い。

不親切な田舎の人

宮崎を例に取ってみよう。まず、交通マナー。これが最低だ。車線変更にウインカーは出さない、二車線を平行に走行する(つまり走行と追い越しの区別がない)、ミラーを見ないので後ろにクルマが一杯詰まっているのにチンタラ運転し続ける、大きな路に進入の際、優先道路にクルマがやってきているのに強行突入する、信号が赤になってもまだ交差点を通過する。こんなのは当たり前だ。極めつけは、スーパーの駐車場の身障者スペースにほとんど常にと言っていいほど車が駐車されていること。でもって、これを注意すると逆ギレされる(たぶん、こういった御仁は「人格」が不自由なんだろうが)。

自動車以外の交通マナーもひどい。自転車の右側通行、しかも何台も路に広がってなんて光景は日常茶飯事。信号機のない横断歩道でクルマが横断を待っているときでも、実にマイペースでチンタラ横断する。場合によっては途中で泊まる輩もいる。

道路交通のマナー以外のひどさもある。列も、きちんと並ぶどころか抜け駆けする連中はちょくちょくだ。でもって、そのことを指摘すると、やっぱり逆ギレされる。

東国原知事は県民総力戦の基本が「知らない人にあったら挨拶すること」「ゴミを落とさないこと」「ゴミが落ちたら拾うこと」とインタビューで語っていたが、知事は宮崎県が、宮崎というローカルのこういった「不人情」「不親切」を実はよく理解しているのではないか。

親切な都会人

一方、都会の人がきわめて親切と言うところもある。これも自動車を例にとって考えてみよう。それは首都高速でのマナーである。

首都高速はゆっくり走りたい人、急いでいる人、とっても急いでいる人の三パターンのニーズに対応するようなマナーが出来上がっている。首都高が原則的に片側二車線であることを先ず想起されたい。

まず、ゆっくり走りたい人。この人は左側の走行車線をひたすら走る。おおむね時速80キロ以下だ(ただし高速なので60キロ以下ということにはならないというマナーもある)。次に急いでいる人は右側の追い越し車線を走行する。ゆっくり走りたい人は左側車線なので快適である。ただし、このときミラーチェックがマナーとして義務づけられている。それはとっても急いでいる人のことを配慮してだ。

つまり、とっても急いでいる人は、もっぱら追い越し車線を走行する。すると、急いでいる人が前に立ちはだかる。このとき急いでいる人はミラーをチェックしているのでいったん走行車線に車線を変更し、とっても急いでいる人を先行させ、追い越されたのを確認した後、再び追い越し車線に戻るのである。これで走行の三つのニーズが同時に満たされる。そして高速を走行するに当たっても安全というわけだ。もっとも、それでも事故は起きる。そして事故を起こす輩の多くがこのマナーを守らない人間だ。そして、その多くが地方からやってきた人間なのである。

と、考えれば、都会人は他者への配慮が効いていて、実に親切と言うことになるのだが(続く)。

編集された報道は、なんと「家族愛」

「さらし者」になった興毅。ところが、この記者会見を編集して報道したテレビや新聞のメディアは、僕が読み取ったモノとは全く違った報道で埋め尽くされていた。いちばん興味深かったのは、これら報道では興毅が父親の反則指示を「指示しました」と報道してしまっている点だ。実際の記者会見では、レポーターに反則指示の有無を問いただされた際には、前述したように父親が「いいわけはしない」と答えているに過ぎない。そして、さらにレポーターが「した、しないをはっきり言うことが責任だ」的な文脈で詰め寄っても、興毅は同じ返答をしたのだ。で、このままでは記者会見は紛糾してしまうと「空気を読んだ」金平会長が「いいわけしないってことは、認めたということですよね」と記者・レポーターに代弁したのだ。また、直後に、金平会長が興毅に、「そういうことでいいんだな?」的な確認を促して、はじめて興毅が、ゆっくりと肯定する仕草をみせたのだ。だから、実際には興毅は「父が反則を指示しました」と明言はしていない。

だが、報道では、これを適当に編集し、あたかも興毅が「父が反則を指示した」と言ったかのような文脈で採られるような報道編集を行っている(興毅の反則指示とごっちゃになっていた)。ナマの記者会見を見ていない人間からすれば、この報道は絶対に興毅が父の反則を明言したとしかとれないような報道の編成なのだ。こりゃ、ひどい。言ってもいないことが、事実上言ったことになってしまっている。

なんで、こんなことになっているのか。もちろん反則指示は今回の記者会見の焦点ではある。しかし、これをこういうかたちでメディアが編集・報道したのは、あの報道記者会見から「視聴率のとれるネタ」を共通してかぎ取ったからではないか?それは「親子愛」「家族愛」という文脈だ。

つまり、興毅がこの事実を認めざるを得ない状況を作り出され、前述のように何となく首を縦に振った後のセリフ、目を潤ませながら語った「小さい頃から育ててくれたのはおやじ。世間では悪く見られているけど、世界一のおやじと思っている」。これが、メディアにはメチャクチャ、おいしいセリフだったのだ。

つまり、この不良で社会不適応の親子という「最低の家族」にも、昨今失われている人間と人間の絆、家族間の強いつながりが見られる。そして、興毅は、その親子愛に基づいて父史郎をかばう。そう、これはすばらしい「美談」なのだ!そして、家族における教育のあり方が問題になっている昨今だから、これは視聴率がとれる。だから、この「美談」をめいっぱい盛り上げるためには、まず、父親の反則指示を認めておいて、「でも俺の世界一の父親だから、許してやってくれ」という筋書きがオーディエンスが感動するにはいちばん都合がいい。当然、なかなか言わないなんて言うのはおいしくないので、テキトーに編集した。ぼくはそう考える(僕が、こういった文脈で演出するなら、興毅が史郎の反則指示の有無を何度問いただされても、曖昧な返事に終始し、父親をかばうってなところを使うが。こっちも、ものすごくインパクトの強い「親子愛」演出になるはずだ)。

やっぱり亀田一家は、いない

亀田一家は、今回の興毅の記者会見で失地回復をある程度行うことができた。史郎の引退、興毅が中心となって亀田一家をこれから展開すること、そして興毅が非常にしっかりしているという印象。つまり家族愛が結ぶ新しい「亀田ファミリー」物語の始まりである。メディアは新しく亀田一家の使い方を発見したのだ。まだまだこの連中はおいしい。そう簡単に手放すわけにはいかないのである。

で、じゃあ亀田一家っていったい?よ~く考えてみて欲しい。っていうか、考えなくてもわかることじゃないかと思うんだが、こうやって美談の家族に変貌することを。これってやっぱりメディア・イベントでしょ。つまり、メディアが亀田一家を、また、勝手に持ち上げている。そう、メディアは亀田一家を持ち上げ、今度は思いっきり落として、また持ち上げた。つまり、これは亀田一家が、メディア的にでっち上げられた「亀田ファミリー」によって利用されているだけなのだ。だから、今回の興毅の記者会見で、亀田一家は正体を明らかにしたのではなく、またメディアによって利用され「亀田ファミリー」をバージョンアップさせられただけのだ。やはり亀田家族が「かわいそう」な存在と映ったのは、僕だけだろうか。そう亀田一家とは映画”トゥルーマン”の主人公と全く同じポジションに置かれているのだ。言い換えれば、暇人のテレビによる暇つぶし道具というポジション。

亀田一家、どこまで行ってもメディア上には、存在しない。そこにいるのは「亀田ファミリー」というファンタジーにすぎないのである。

記者会見という名の「興毅、公開処刑」

九月二十六日、午前九時六分、共栄事務のリングの前で亀田興毅による、世界タイトルマッチに対する謝罪会見が行われた。インタビューをTBSは一時間にわたって放映し、さらに、記者会見は番組終了後も続いた。前回の父史郎と大毅による記者会見への非難囂々、つまり大毅が一言も言葉を発さなかったこと、父史郎が内面では反省していないことがかいま見えたことなどが、「あれは謝罪ではない」と言うことになり、今度は兄の世界チャンピオンによる謝罪というスタイルを採ることに。そして前回は、記者会見を受ける側の一方的会見打ち切り夜って非難囂々だったこともあって、今回、興毅はメディアの心ゆくまでのインタビューとなった。要するに、世論を引っかき回して、徹底的に亀田家族を悪者に仕立て、そうやって自分たちで作った世論を背景に、チャンピオン亀田興毅を「公開さらし者」にしたのだった。

記者会見から僕が読み取ったもの

とにかく、途中CMが入ったものの、記者会見はほとんどリアルタイムでおしまい部分を除き、完全生中継された。こういうのは、ある意味わかりやすくていい。もう三十年近く前、時の佐藤栄作首相が辞任記者会見の際に、記者会見でジャーナリストをすべて閉め出し、生中継されたカメラに向かって一人で辞任の意について語ったという”事件”が起きたことがあったが、この時は、逆に、TVカメラを回しっぱなしである分、本人の言いたいことや、言いたくないが身体から醸し出るものまでのすべてが、映像を通じてオーディエンスにつたわってきたという印象を持っている。
B.そして、今回も興毅の編集されないナマの声が、ただしレポーターのツッコミ入りではあるが、放映されたことによって興毅の心情や人格といったものが大きく伝わってきた。

僕の興毅への印象は、以前のブログに書いておいた亀田家族のイメージを裏付けするものだったとおもう。つまり、この人たちは、ある意味「かわいそう」。マス・メディアによって勝手に持ち上げられ、本人たちはその気になった。ただし場を掴む、最近の言葉を使えば「空気を読む」ことの能力はないフツーのアタマの持ち主。だからメディアがイベント的にスタートして彼らを持ち上げれば、すっかりその気になってしまうし、メディアに合わせてサービス精神旺盛にパフォーマンスするが故に、そのやり方はどんどん過剰になり、それが今度は悪印象に繋がり、さらに今回のタイトルマッチでの反則で、逆にこの悪役イメージが前面に登場。今度は、一転してマス・コミュニケーションに徹底して叩かれるという側になって、自分たちがどうすればいいのかわからなくなってしまった。だからこそ、一回目の記者会見で父・史郎は「なんで、あんたらに謝罪せにゃ、いかんのや?」ってな気分になっていた。そう、全くメディアと対峙する力がなかったのだ。だから、勝手に振り回され続けた。

そして、家族のなかで、もっともメディアの対処ができると思われる興毅の記者会見もまた、同じ脈絡にあった。つまり、メディアに興毅はやっぱりふりまわされている。もう、目はうつろ。しかも、「おまえは反則指示をした」、父親に対しても「反則指示をした」と白状しろとレポーターが追求すると、もうボロボロであった。とにかく「しました」という一言は結局無く、「いいわけはせえへん」が精一杯だった。これって、食品偽装で追求を受けた社長に「あんた偽装しただろう?イエスといえ」というやり方と全く同じだった。で、「親父が反則指示したと言え」ってのも相当残酷で、身内の罪をなんで本人が認めてないのに代わりに身内が言わなきゃなんないんだ。まあ、もっとも、これは単なるイジメの文脈で理解すればよくわかる展開。ようするにここでも、やっぱり興毅はメディア管理能力が無く、メディアに振り回され続けたのだった。やっぱり「かわいそう」である。(続く)

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