勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年09月

”メモリ効果”で空き容量の少ない現代人


日本は何事につけても、全力疾走のアッパー文化、そして日本人はまったくのワーカホリック体質です。この習性は労働とは正反対の余暇、とりわけリゾートの過ごし方に関しても残念ながら変わりません。

海外リゾートに到着するやいなや、部屋でくつろぐことなど考えもせず、さっそく各種アトラクションに精を出す。スキューバダイビング、ジェットスキー、バナナボート、etc……。はたまたオプショナルツアーで観光。夕方からは飲めや歌えの大騒ぎ。さらに今度はマッサージ、エステ、サウナ。それでも暇なら伝統文化のカルチャー教室、そしてショー鑑賞。気がついてみたら、豪華なホテルで過ごした時間などなく、重い足を引きずりながら帰りの飛行機に……。これがあの、うっとうしい、そして追い立てられるような日本での生活の癒し、活力源になっているのかどうかはどうみても疑わしいと思わざるを得ません。

話は変わりますが、ニッカド式の充電池にはメモリ効果という特性があります。電力の残量がまだある内に充電を繰り返してゆくと、使用可能な時間が徐々に短くなるというものです。これを解消するためには、いったんすべてを放電させる必要があります。
これって日本人のアタマの構造と同じではないでしょうか?現代人のほとんどは放電する間もなく次々と充電を繰り返したあげく、メモリ効果で使えるアタマの中が少なくなっている、とぼくには思えてなりません。スケールの大きい発想とか、創造力のある思いつきとかの”ゆとり”がなくなっていると感じるのです。

で、これを解消、つまり放電するための手段としてのリゾートということになるのですが、先に述べたようなリゾートライフでは、少ないメモリエリアに電力をブチこんでいることに何のかわりもない、そのへんでパチンコ、麻雀、あるいは酒を飲むのとほとんど同じ効果しか得られないでしょう。
そこで今回は、アタマの中を完全放電するリゾートの方法を提案します。もっとも、これはぼくの勝手な思いつきなので、誰にでも効果的かどうかは保証しかねることをお断りしておきますが……。(続く)

「放置プレイ」が崩壊を招いたATARI

東国原ブランド=東国原シールを、許可制でなく「放置プレイ」的に、業者に勝手に貼らせて売ったら最終的にはどうなるか。ちょっと商品は変わるが、その顛末を暗示させてくれる典型的な例を挙げてみたい。

みなさんはATARIという企業をご存じだろうか。今日のDSやWiilにつながるビデオゲームを制作し、これをビジネスに結びつけた最初のメーカーだ。70年代後半から80年代前半にかけてアタリは家庭用ビデオゲームの販売に成功し、Atari2600というゲームハードは最終的に出荷台数1400万台を超える大ヒットとなる。

ところがATARIは82年のクリスマス商戦で大失敗をする。原因はソフトウエアの粗製濫造にあった。ATARIはさらに市場を拡大しようとソフトウエアラインナップの充実を図ろうとした。ソフトをたくさん買ってくれると言うことは、そのソフトで遊ぶためのハードが必要。だからソフトの種類は多い方がよい、というわけである。そしてソフトはサードパーティ、つまりATARI社以外の企業が制作していた。ところが一攫千金をねらうソフトウエアハウスは「とにかく適当にゲームを作れば儲かる」とばかり、次々とソフトの制作し市場に送り込む。そしてこういったソフトの市場参入をATARIは一切管理することがなかった。つまり「放置プレイ」である。ところがこの金儲け第一主義が仇となっていく。大量に出回ったソフトはまさに「粗製濫造」、そのほとんどが現在言うところの「クソゲー」、つまりどうしようもなく出来の悪い(あるいは良すぎて誰もついて来られない)ゲームだったのだ。しかも現在のように新作ゲームのレビューをするような雑誌がそんなにあるわけでもなく、ユーザーはゲームを買ってやり始めないことにはその出来がわからない。で、買っても買ってもクソゲーに当たるということになり、うんざりしたユーザーは結局、ATARIから遠ざかっていった。(そして、その市場をその後、そっくりかっさらっていったのが翌年登場した任天堂のファミリーコンピュータだった。ファミコンは遊べるゲームソフトウェアを徹底管理し、ブレイクする)。ATARIブランドは崩壊したのである。

東国原ブランドの崩壊?

さて、今回の「ウナギ偽装、東国原シールつき」問題だが、このATARIのたどったのと同じ路を踏むことになる可能性がある。つまり東国原知事の「放置プレイ」はクソゲーならぬ、「クソ宮崎商品」を大量に全国中にまきちらし、その結果「みやざき産品にロクなものナシ」と言うことになり、その結果として、現在全国的に注目の的でである「東国原ブランド」が崩壊するということが考えられるのだ。しかも今回は少々タチが悪い。というのも、今回偽装疑惑で指摘されている商品は、これら「東国原ブランド」を管理しようとして立ち上がった大森うたえもんが経営する”びっきょ”が作成したシールが貼られていたものだったからだ。偽装疑惑の商品の認定については「シール添付を希望した企業と面接の上、決定した」とのこと。つまり、管理しようとしていた。いいかえれば他の東国原キャラクターより信用のおけるシールであったはずなのだが、それが問題を起こしてしまった。問題は深刻だ。

東国原ブランドは転換期に来ている

とはいうものの東国原ブランドはもはや全国中で知れ渡っている記号でもある。僕も県外に出かけるときには、おみやげに東国原シールの付いた商品を購入することが多いのだが、間違いなく喜ばれる。宮崎空港でも、いわば”東国原ブランドコーナー”が設けられていて、商品は飛ぶように売れているが、お客がこれをまとめ買いしておみやげにするのは、この話題性にある。

しかし、である。もう、そろそろよいのではないか?ここまでブランド認知がなされたのだから。僕が心配するのは、もうそろそろブランドも飽和状態に来ているということ、さらに広げた場合、こんどは弊害の方が広がる可能性が大きくなることとが懸念されることだ。そして、今回の事件が、その端緒ではないか。

かといって東国原ブランドはもうやめろ!というわけではない。これは宮崎の重要な資源として活用しなければならない。言い換えればこれまでは「放置プレイ」でブランドの市場拡大、つまり量的な拡大を成し遂げてきた。だが、今回のような問題が生じ始めている。ならば東国原ブランドは戦略の転換を行わなければならない時期に来ているといいたいのだ。

そこで提案したい。これからはATARI式「放置プレイ」でなく任天堂式「徹底管理プレイ」で質的向上を図るべきであると。つまり、現在山ほどあるミッキーマウス=東国原キャラクターは一つに統一して管理しなさいということだ。そして県産品として県外に販売すべき価値のあるもののみに、このシール添付を許可する認定方式を採る。そしてフランスのレストランガイド・ミシュランのように、一定期間で逐次、商品を評価し場合によってはシールの認定が受けられなくなるようなものにする(まあミシュランほど厳しくする必要は全くないが)。そうすることで東国原ブランドという、品質保証を受けた宮崎ブランドが全国的に認知されることになるだろう。そして、これを民間ではなく、県が主体となって行う。そうすれば管理もしっかりとできるだろう。そう、こういったことはもはや県がやるべきことなのだ。そのほうがハクもつく。

とりあえず、これが僕が考える宮崎産品を普及させるために東国原ブランドを活用する方法だ。ただし、もしこれを知事がやるとするならば、大森うたえもんからシールを取り上げなければならないのだけれど。ど~する、知事?

宮崎でも出た!食品偽装

九州四県のウナギ輸入業者や卸売り・加工業者が台湾産などの外国産うなぎを国産と偽装表示して販売していたとして農水省などが表示義務違反の疑いで調査していることがわかった。そして、この四件の中に宮崎の業者があり、これにいわゆる「東国原ブランド」のシールが貼ってあったため、このシールの存在が問題になっている。
そこで、今回は宮崎産品に貼られている「東国原シール=東国原ブランド」について考えてみよう。

知事が東国原シールを管理しないわけ

なんで、こんなにキャラクターが氾濫することになったのか。それは、知事自身の巧妙なメディア戦略があったから。実は、もしこれを商標登録して利益を上げるようなことをすると問題点が二つ生まれてしまう。その回避策が結果としてこういった事態を生んだのだと、僕は考える。

一つは知事本人に関わる問題だ。知事が自分のキャラクターを登録するなんてことは前代未聞だが、もしやろうとすると、選挙管理委員会からストップがかかるのだ。なぜか?それは、これがなんと「売名行為」に該当するのだからだそうだ。だから、おいそれとキャラクターを登録することはできないらしい。

もう一つは、もし仮にキャラクターが商標登録されて、許可制ということになったならば、現在シールを添付しているほとんどの企業が尻込みしてしまうということがある。知事の戦略としては「できるだけ宮崎を売り込みたい。そして今、宮崎といえば自分=東国原宮崎県知事だろう。ということは商品に東国原キャラクターを添付することで、このキャラクター越しに日本国民が宮崎をイメージすることができる。ならば東国原シールで消費者の注目を集め、商品を購入させることで、宮崎の商品を認知させよう」。つまり記号論で言うと東国原というデノテーションの背後に宮崎というコノテーションを配置しているという構造になる。もうちょっと簡単にいってしまえば、キャラメル=宮崎産品を交わせるために、オマケ=東国原シールで釣るというやり方だ。言い換えれば東国原キャラクターはディズニーにおけるミッキーマウスの位置にあることになる。ミッキーはディズニーを象徴するキャラ、そして東国原は宮崎を象徴するキャラ。キャラの背後にディズニー世界が、そしてみやざきが見えるというしくみになるのだ。

ところが商標登録して許可制にしたら、シールを貼れる商品は激減してしまい、こういた東国原キャラクターに宮崎を忍ばせるという戦略がうまくいかない。そこで、東国原キャラクター=東国原シールは業者に勝手に作らせ、貼らせた。その結果、宮崎の業者の売り上げを飛躍的に伸ばすことに成功したのである。ことばはちょっとお下劣だが、いわば「放置プレイ」とでも言うべき戦略だ。しかし、この戦略がそろそろ限界を迎えつつある。それを象徴するのが今回のウナギ偽装問題といえるのではないだろうか。(続く)

振り子をまん中に戻すためには

ジェンダーと男女共同参画などについてすごくブレのある議論だなあと、つねづね思っている。まあ、もっともこれらをひとくるめにして議論するなんて乱暴だといわれそうだが、そうする理由は、これらが同じ基盤に立った議論に思えるからだ。ちなみに、これからお話しすることはバックラッシュではありません。あしからず。

以前、中ピ連や女性党という党を結成して選挙に出馬した榎美沙子という人物(70年代前半です)の発言を僕は子供心にとても感動した覚えがある。当時は、こういった運動は「ウーマン・リブ」と呼ばれていた。

それは

「右に触れたままの振り子をまん中に戻すためには、一端、振り子を左まで持って行かなければならない」

というものだった。

僕は、この意味を「現在は男性社会。男女平等社会にするためには、まず最初に女性社会にしなければ」と理解した(で、この発言は、今でも僕のこれらの問題に対する立ち位置になっているのだが)。なんで、こう思ったのかというと、当時、所属していた中学校で生徒会長選挙があり、この時、立候補者が女性一人ということで信任投票になったのだが、投票してみたらその候補者が不信任を受けてしまったのだ。それまでもいろんな役職を務め信頼も厚かった女性だったのに。あまりに不可思議だったのでクラスの連中に、その理由を聞いてみたのだが、そのときの答えが「だって、女だろ」だった。しかも、この発言が男女関係なく同じだったのだ。すっごくアタマに来ていたとき、ちょうどこの榎木美沙子女史のセリフが入ってきた。で、感動したというわけなのだが(当時の性差に関する認識なんか、この程度だった)。

榎の発言は現代的に考えれば次のように解釈できるのでは無かろうか。現在のジェンダー的な議論というのは、男と女を全く平等にしてしまおうという考え方。では、平等とはなんなのか?と考えた場合、この平等性は経済原理に基づいた「男社会」に人間全部を持っていってしまおうということになる。つまり、この議論は実は無意識のうちに「男が優性」という認識が前提されていて、その優性性に女性を引きずり込もうとしているわけだ。で、これが実際に実行されれば「全員が男性ジェンダーに染まった男社会」という究極の男性優位社会が生まれるわけで、そして再び経済原理が稼働すると、女性は「男性」という集合の中に位置づけられた弱者となる。つまり、現在の男性論理=経済中心主義に基づいた平等化が為された場合には、女性はより差別化される可能性があるのだ。

男らしさ、女らしさは、やはり必要

だからこそ、ここで必要とされるのが「男らしさ」「女らしさ」と言うことになる。ところが、この言葉はジェンダー論や男女共同参画の議論の中では結構、槍玉になる。そうやって「らしさ」の中に性別を押し込めることで結局は差別を肯定、助長することになるのだ、という論調だ。

僕は「男らしさ」「女らしさ」(あるいは「女らしさ」「男らしさ」)は必要という立場を取る。ただし、保守勢力が言うような固定化されたものではない。むしろ流動的な、どんどんイメージが変わるものとしての「らしさ」だ。そして、この「らしさ」がそれぞれ振り子の右と左になる。で、この振り子が揺れ続けることで「まん中」という落としどころが登場していく。ということは常に揺れ動く「女らしさ」「男らしさ」のなかで「まん中」ができるわけで、それゆえ「まん中」もまた揺れ動き続ける。そういう過程で男女共同参画社会についての議論が進められていく。これがベストと考える。

つまり僕の立場は、あくまで「男性」「女性」というのをはっきり分けておくという立場、そしてその二つの勢力が対等に渡り合える環境を作る(ラディカルフェミニズムの人たちは「そもそも男と女を分けることがおかしい」なんで議論をしているわけで、こういう人たちからすれば、僕の考えはとんでもないものになるんでしょうが)、それがあっての男女共同参画社会が成立するというものです。つまり人間という共通項の上に男と女がいて、でも男と女はどんどん変わって、それが人間と言うところに反映されて人間が変容し、そしてそれが再び女、男を再定義する。そして、これが繰り返し続けられる。

こういった立ち位置からすれば、現在、政府が進めようとしているのは、実は「男性社会への女性の取り込み」としか考えられない。のだ。


ちなみに、個人的な好みとしては「女性優位社会」の方がいいかな?なんて思っている不埒な輩です。だって、男はランボーだ!女の人も別の意味でランボーですが、女のランボーの方が「平和」さの次元でレベルが高い、と「勝手に」思っています。もっとも、少しずつ進む男女格差の変化の中で、多少なりとも男性が女性的なランボーさを身につけつつあることは、よいことかなとも考えますが。ただし、これはあくまでも個人的な好みですので。

教員の業績作りのために学生が利用される

メディア・リテラシー教育問題点の二つめは、上の「技術専門バカ」教育はクリアしているがゆえに、見かけ上はメディア・リテラシーが養成されたように思えるが、実際には、全く本人のスキルとしては実をなしていない、それゆえにメディア・リテラシーが養成されない教育が施されていることである。形式的には、上記のような技術指導が中心的な目的ではなく、コンテンツ作りやグループワーク学習などに焦点が当てられ、実際、それなりに質の高いコンテンツが作成されはするが、実質的には学生のメディア・リテラシー養成にほとんど繋がらない場合である。そして、このような指導法が、現在の大学教育で実施されているメディア・リテラシー教育の最も大きな問題点であるといえる。

これはコンテンツ作成にあたって、指導する側が介入しすぎることで生じる弊害だ。教員の側は、学生に質のよいものを作らせようと熱意をもって指導するのはよいのだが、作品のレベルが学生のポテンシャルを引き延ばすというより、教員側が要求するレベルに基づいて作らせようとするため、コンテンツが結果として教員の手垢に染まったものとなる。それは確かに質のよいものとなるが、作品は学生が自らのメディア・リテラシーを伸ばした結果ではなく、教員が完成させた「教員の、教員による作品」になってしまうのだ。しかも、これを教育成果として研究発表したりすることも多く、出来上がったコンテンツは、さらにひとつ項目を加えて「教員の、教員による、教員のための作品」となる。その一方で肝心の学生のメディア・リテラシー教育は放置されるのだ。このような教育方法は、いわば「森を見て、木を見ていない」、つまり作品の完成度と研究業績に目がいって、学生の教育に目がいっていないものといえるだろう。

メディア・リテラシー教育をするものはまず自分の教育リテラシーを養成しておくこと

つまり、こういった教育者はキカイを使わせるのが好きなメディアオタク的、あるいはメディア・リテラシーという研究分野で業績を積みエラくなろうという野望を抱く野心家的な傾向が強く、教育者としてはそのレベルが非常に低い(彼らこそ手段と目的をはき違えていて、それで周りに迷惑をかけている)。それがこんなマヌケな教育をはびこらせているのではなかろうか。メディア・リテラシー教育を本気でやろうとする教育者なら、まずメディア・リテラシー教育の前に、教育のノウハウについての経験を持つ必要があるだろう。よって学者、研究者のメディア・リテラシー教育の研究は、まず「眉に唾」して読んだ方がいい。で、そうやってこれらの研究のあやしさを見抜ければ、あなたのメディア・リテラシーは確実に向上するはずだ。

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