勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年08月

街は発展ではなく、変容した

毎年夏、僕らはタイ・バンコク・カオサン地区の調査を行っている。カオサンというのはバンコク市内の中心部にある1エリア(厳密には通りの名前)。バックパッカーの聖地としてつとに有名なポイントだ。バックパッカーとは航空チケットだけを購入し、世界各国を自由に旅するツーリストを意味するが、こういう旅行者たちは闇雲にそこいら辺に宿泊地を見つけて宿泊しているのではなく、カオサンのような「バックパッカー御用達安宿街」が世界各地にあり、そこをベースキャンプとして移動するというスタイルを基本的には採っている。

その中でもカオサン通りとその一帯(以降、「カオサン」と表記した場合、こちらを指す)は規模としては世界最大と言っていい。カオサン地区にゲストハウスが初めて出現したのは70年代末。90年代に入り急成長を遂げ、バンコクの他の安宿街を駆逐した結果、膨大な数のツーリストがここを訪れるようになった。だが、外人、とりわけ白人の若者が多数押し寄せる空間ということで、タイの若者にとってカオサンは次第にファッショナブルな空間と映るようになり、今度はタイ人若者向けのバーやクラブが林立。さらに通りは人でごった返し、毎日が歌舞伎町といった様相を呈するようになっている。

で、僕は95年から毎年ここを訪れ、三週間近くかけて調査を行っている。年に一度か二度のカオサン滞在だが、ずっと滞在するのではなく、毎年同じ時期に訪れるということで、むしろ街の変化をビビッドに感じることが出来ているように思う。

カオサンは、とにかくこれまで「発展、また発展」といった具合だった。僕は毎年訪れる度、その街の変容に驚かされ続けてきた。……ところが、この動きは昨年停止する。これはなにも勢いが無くなったというわけではない。要するに、エリア内で開発可能な空間が一昨年で埋まってしまい発展のしようがなくなっていたのだ。

だから今年はどうなっているんだろう、ひょっとしたら衰退しているんじゃないんだろうか、なんて考えていたのだが……そんなことはなかった。カオサンの元気はそのまま、ただし街は開発による発展ではなく、変容という方向に転じるという形で。

起業家たちか促す施設の巨大化

商業施設で埋め尽くされた環境。では、次にそれはどう変化していくのか。答えは意外と簡単だった。既存の施設をスクラップ&ビルドしはじめたのだ。ここはもはやバンコクでも「一流」のファッションスポット。ビジネスチャンスはあっちこっちに転がっている。そこで起業家たちが一儲けしようとカオサンにやってくる。センスの良いカフェ、レストラン、クラブ、そしてゲストハウスならぬホテル。こんなものを運営しようとたくらむのだ。

やり方はこんな感じになる。起業家はまず、既存の店舗(これも、個人営業や小規模の起業家による経営)がどこに家賃を払って間借りしているかを調べる。次に、その大家に交渉。既存の家賃の数倍の賃料をオファーする。大家は喜び、現在商売をやっている店子を追い出そうと突然家賃をべらぼうに上げる。耐えきれない店子は泣く泣く店を手放す。

以前だと、このパターンまでで、手放した店で新しい起業家が店をオープンするというかたちだったが、最近は様子が違う。起業家の規模が大きくなったからだ。新しい起業家たちは、一件だけでなく周辺全体を丸ごと、それこそ「地上げ」式に借り上げ、周辺の店全部を追い出してしまう。次に、これらの施設を全部解体し、一旦更地にした後、そこに巨大な施設を作り上げるのだ。出来上がったものはレストランであれ、ホテルであれ、クラブであれ、いずれも巨大。建物のデザインは統一され、従業員はやはり統一されたコスチュームを身に纏い、洗練された、それでいて事務的なサービスを提供する。そう、起業家たちはここにやってくる前に様々な事業に手を出し、成功してきた輩がはじめただけあって、事業自体がシステム化されていて「卒がない」。

こうやってカオサン(とりわけカオサン通り)の設備は巨大化し、店舗の数は大型化に伴って減少していく。こんな状態がこれ以降も続けば、それは「歌舞伎町といった様相」ではなくて「歌舞伎町そのもの」になっていくということになるだろう。しかも歌舞伎町より遙かにシステム化したものに。そう、むしろ「歌舞伎町」というよりも、テーマパークのアトラクションが林立しているといった方がより適切な環境が出来上がっているかもしれないのだ。では、これまでの安宿街のムードはどうなっていくのか。(続く)

ディズニー的世界は、もはやいろいろとある

こういったディズニー的なオタク世界とお祭りを併せ持つことで受け手にアイデンティティを供給するシステムは、どうみても現代人にとって高い需要があるはずだ。そして、この「システム化されたお祭り」を提供しているのはディズニーだけではないことをおことわりしておこう。例えば、宝塚、ジャニーズなども(ディズニーほどではないが)システム化されたお祭り=ライブを通じて人々の不安定さを連続的に回避させるという戦略をとっている。ただし、ディズニーは圧倒的である。なぜか、それは情報量が膨大だからだ。つまりデータベース蓄積量が多いゆえ、データベースから情報を引き出すやりかたはいろいろで、カスタマイズが効き、そして情報をコンプリートすることが出来ない。それゆえ存在論的安定のためには二つメリットがここに生じる。

一つははじめからコンプリートしようとする志向を断念しざるを得ない状況におかれることで、これがむしろ開き直りとなり、データベースから任意に、つまり自分が好きなようにディズニー世界をカスタマイズすることが可能となる点だ。言いかえればディズニー信者には、信者の数だけディズニー世界が出来上がるということになる。それはナルシスの神話そのものに他ならない。つまりディズニー信者たちがデータベースからカスタマイズされたディズニー世界に最終的に見て取るものは、自分自身である。好きなものだけをデータベースに取り出すというのは、外部を遮断し、内部の世界にのみ籠もることだからだ。だが、そこに見いだした自分自身、つまり世界像は、それを部分集合とする(コンプリート出来ないのだから部分集合にならざるを得ないのだが)ディズニー世界の承認を得ていることになるため、アイデンティティの確保の方法としては「自己中でも、みんなといっしょ」ということになり、実に安定した自己を獲得可能となるのだ。

また、これが二つめだが、こうやって部分集合である「自己中ディズニー世界」が母体となる「ディズニー世界」の中に身を投じて一体化することで、ホーリスティックな癒しの中に包まれることが出来る。つまりディズニーという母体に融合して、その中で自己が融解、その瞬間、自己中ディズニー=ディズニー世界となり、大きな安心感・存在論的安定を獲得することが可能となるのだ。しかもシステムによって一生続く癒しとして。

こういったシステムで誰が損をしたというのだろうか?オリエンタルランド社、ディズニーカンパニーだけが儲けた?そうではないだろう。もちろん資本家側が金儲けしていることはマチガイナイ。だが、このディズニー教に帰依することで、信者たちはカネ以外の大きな見返りを十分に獲得している。そして、ディズニーは宗教と同じほどのの巨大な規模であり、どうみても宗教と同じシステムなのだが、だれもディズニーを「宗教」とよばない。つまり「怪しいモノ」というレッテルを貼らない。だから、いくらおおっぴらに信じ込んでも、誰も悪いとは言えない社会的に評価された安全なモノだ。

情報化時代、この情報の錯綜、混乱、相対化の中で、人々が求めているのは、こういったディズニー的システムなのでは無かろうか。(終わり)

情報の横溢の中で得られるホーリスティックな癒やし

情報化時代の現代人は価値観が相対化されていて、存在論的不安定が続いていることは前回述べたが、これをもう少し細かく説明しておこう。現代人は自分が深くコミットメントするものは細分化されたオタクな世界。これによって個人は自らの世界を体系化するが、ところがこれはその世界の規模があまりに小さく(細分化されたオタクワールドなので)、他者からの承認をほとんど得られず、アイデンティティを安定化させるモノとしては機能しない。つまり立ち位置としては心持たない。だがそれでは困る。ならば、大規模な人が結集する「お祭り」に頻繁に荷担して、瞬間的に他者との共有を熱狂を通して図ることによって、自らのアイデンティティをかろうじて保持するという戦略をとる(もちろん、この時、理性というより感情ベースでこれらは図られるのだが)。だが、このお祭りと個別化されたオタクの世界は直接繋がってはいない。つまり立ち位置を体系化するレベルと、それを集団による保証によって実感するレベルが異なっている。だから、いくら世界を体系化しても、立ち位置は安定しない。そこで勢い、人々は「お祭り」により荷担しようとすることで、この安定化状態を無理矢理獲得、さらにこれをスプリント的に持続させようとする。その結果が、「お祭り」への嗜癖化であり、その中毒症状によって耐性が発生すると、「お祭り」のスパンはどんどん短縮化される。それが、最近の「お祭り」の頻繁化を減少させているのだ。考えてみて欲しい。この数ヶ月に起きた数々のお祭りを。ビリーズ・ブートキャンプ祭り、松岡大臣水祭り、ハニカミ王子祭り、コムスン折口祭り、赤城ばんそうこう祭り、安倍ちゃんたたき参議院選祭り、そして現在発生している小池ゴーマン防衛大臣たたき祭り……これらがたった三ヶ月程度の期間に発生しているのだ。

「オタク世界」と「お祭り」をつなぎ合わせるシステムとしてのディズニー

ところがディズニーの世界の場合はこの「オタク世界」と「お祭り」二つが見事に統合されているのだ。ディズニー的なオタク世界は、相対的に規模がデカイ。だからディズニーが好きだといっても、そんなに奇妙がられることもないし、ディズニー好きを吐露することで仲間を増やすということも十分に可能だ(これがブロッコリーのキャラ・デジキャラットだったら完全にアウトだ)。だから存在論的不安定レベルは比較的低い。言いかえれば立ち位置としての安定度が相対的に高い。そして、ディズニーランドや新しく上映されるディズニー映画にでかければ、バーチャルでなく「リアル」という担保が存在する。しかも、そこには「お祭り」が待っている。

とりわけディズニーランドで行われている、毎日のお祭りは信者たちには最高だ。ディズニーランドのパレードでは、ディズニーランドというディズニー情報が充満した環境の中、おびただしい数のキャラクターとフロートが連なり、その充満度を増す。しかも、そのフロートを取り囲むゲストたちはやはりディズニー教の信者たち。姿形をディズニーのキャラクターでまとっているし(つまり衣服やアクセサリー、鞄がディズニーのキャラクターで彩られている)、もうこのパレードで、パレードとどう戯れるかのリテラシーも十分に涵養されている。そして、当のディズニー信者の頭の中はディズニー情報ですでに一杯。これらがパレードに従って一気にスパークする。ディズニーランドという環境、ディズニーオタクたちのゲスト、パレード、そして頭の中のディズニー知識が錯綜し、爆発するのだ。

こういった細部にわたるオタク的で体系的なアイデンティティの構築と、お祭り党的な感情に訴える形の揮発的なアイデンティティの実感が同時に得られる世界(しかもこの世界は毎日がお祭り続きなので「継続性」がある)、それがディズニー世界なのであり、このことに気付いた情報の海で泳ぐことに疲れた人間たちには、これこそ安住の地であると映るのである。

そして、こういった二つのアイデンティティ保障システムを永続させるメタシステムとして、ディズニーランドは営業的に事業を拡大し(テーマパークの新設、全国キャンペーン、ディズニーオンアイス、ディズニーチャンネル、そして映画)、多方面にわたって小さな物語=ファンタジーを提示し続けるのである。これは、新しいストーリーを持たない大きな物語(中くらいの物語か?)の誕生であり、データベース消費によってアイデンティティを構築する方法の誕生なのだ。

だが、前回述べたようにこの物語にストーリーは、ない。(続く)

システム化されたお祭りとしてのディズニー

テレビメディアを中心に頻繁に発生する、劇場やバッシングを中心とした「お祭り」。こうなるのは価値観が相対化されてしまい、個人の立ち位置が揺らいだために、こういった感情的な爆発に荷担することで一過性の立ち位置を獲得しようとするためであることを前回説明しておいた。しかし、これが頻繁に続くようになれば、これを操る人間=メディアの魔術師によって社会は操作されてしまうのではないか。たとえば小泉劇場に典型的に観られるように……このままでは、はっきりいってヤバい。

では「お祭り」をストップさせればいいのではないか、と考えたくなるが、それは無理だろう。いまや、こういった「お祭り」による熱狂以外に、自らの安定性を確保する手段がなくなりつつあるというのが現状だからだ。つまり、自己を安定させるための立ち位置となる「世間」の代替は、もはや、この揮発性しかなく持続性の続かない「お祭り」しかないのである。

では、どうするべきか。提案したいのは「お祭りを飼い慣らすこと」、これである。そして、そのためには「お祭り」をシステム化して健全化、悪用されないようなメタシステムを構築する必要がある。そしてそのモデルが、ディズニーという世界に存在していると言えないだろうか。

「お祭り」というシステムを持続化させる「メタシステム」

ディズニー世界は毎日が「非日常」、言いかえれば「日常」が「非日常」という矛盾した構造を備えている。前述の言葉をもちいれば「毎日がお祭り」である(WDWにある住宅街の名前が「Celebration=祝祭」というのはまさにそれを裏付ける。日常=祝祭なのだから)。ということは、ディズニーがやっていることは、お祭り状態を持続し、揮発的なアイデンティティを持続化させるというやり方なのだ。いうならばスプリントを延々何回も続けるような。こういった「システムを管理するシステム」=つまり「お祭りというシステム」を「持続化させるシステム」として存在するのが、これらをマクロ的に管理するメタシステムであり、それが大きな物語としてのディズニー世界なのだ。つまりウオルト=ミッキーマウスというマクロなディズニー世界が上部にあり、その下部構造として、こういった毎日小さな祝祭・イベント=小さな物語が存在する。これらが二重三重四重五重と無限に積み重ねられることで、それは到達=コンプリート不可能なディズニーというデータベースを形成する。その際これをまとめ上げるもの、つまりこのシステムを保証する担保は、前述した上部構造としてのミッキーマウスだ。そしてミッキー印のついたモノはすべてその世界観=物語の存在を証明するモノとなり、これらが添付されたアイテムを消費し続けることで、個人はディズニー世界という準拠集団としての「世間」を獲得、これとの関わりで自己を形成していくのだ。

こう考えるとディズニー教信者は見事に二つのレベルでアイデンティティが保証されていることになる。一つは上部構造のマクロレベル=ミッキー印という揺るぎない帰依対象に依拠することで。もうひとつは、その旗印の下、下部構造として繰り広げられる様々なイベントへ、常に自らの参加を促し、熱狂することで。

もちろんこの上部構造は「物語」であって、実のところ「物語」ではない。つまりそれぞれの小さな物語を直線=ストーリーとして紡ぎ合わせる機能を備えていない。にもかかわらず、ミッキー印が付いていることでそれは依拠すべき対象というフェティシズムを構成している。つまり上部構造に対して、ディズニー信者は「萌え」て感情的に同一化することで、結果として下部の小さな物語=イベントの正当性が保証されているに過ぎない。

いうならば東浩紀の指摘したデータベース消費の真の姿がここにあるといってよい。東はデータベース消費には設定だけがあって物語がないと説明していた。そう、確かに物語は存在しない。ところが「物語」の代替として「構造それ自体」へのフェティシズムが存在する。それは’ストーリー’に対するアイデンティファイでなく、全く根拠のないミッキーマウスという頂点とする’パラダイム’へのアイデンティファイだ(これは因果関係ではなく、繰り返しによる馴化によって形成される。言いかえれば同じ図柄を見続けるウチに、それに親和性を感じるようなり、それがあることで、それを観ている側が安定するという作用が発生する)。いうならば物語性のない物語、ストーリーライン=統辞的構造を持たず、偶然の恣意的集合=範型的構造による集合への依拠ということになる。そしてこれこそが、アイデンティファイの対象として新たに選択された非物語なのである。これをディズニー世界は持ち合わせているのだ。 (続く)

ディズニー教=相対化されたやるせない現代を生きるためのシステム

これまで33回にわたり、僕のディズニーランドでのバイト経験を踏まえながら、ディズニーランドで働くことの意義を分析してきた。で、ちょっと考えて欲しいのは、僕らの時代(82年)はディズニーリテラシーが現在と比べれば遙かに低かったということ。ということは、僕がここで書いてきたことは、今のキャストたちはあたりまえすぎて考えることさえしないことなとかもしれない。なんせ、現在のディズニーのキャストたちはこの仕事にやりたくてしょうがなくてやっている連中なのだ。僕らの時代の「単なる遊園地のバイト」と思った輩がはじめたのとはわけが違う。最初からディズニー・リテラシーバッチリのこてこてディズニー教の信者=若者だ。だから、ここで僕が綴ってきたのよりも、もっとスゴイ状況がパーク内のキャストたちの間で起こっていることは容易に想像がつく。

で、こんなにハマるディズニーのバイト。そして仕事(東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド社に正社員として入社することはいまや大変難しい状況。文系の学生が入社したい企業のベストテンに入っているほどなのだ)。こうなるのはディズニーのハメさせるシステムによるものであることはもちろんだが、現代の社会的状況的文脈でもそれなりの理由があると考えるべきだろう。つまり現代社会は必然的にディズニー信者を生むというような構造になっていると考えるべきなのだ。

そこで、最後に総括として、ディズニーランドというシステムの可能性について、現代の情報化社会の現状という文脈を踏まえながら考えてみたいと思う。

相対化が徹底して、確固たるものが失われた現代社会

情報化社会。今や情報は膨大で、しかも多様。これは消費社会が人間の欲望を喚起することで利潤を拡大するという方向で進んできた必然的結果。つまり、それぞれの欲望に合わせて商品を展開したため、膨大な情報と商品が市場にばらまかれたのだ。ただし、そういった展開のお陰で、それぞれが情報や商品をバラバラに選択、消費するようになった。それは言いかえれば「これを抑えておけば大丈夫」といったスタンダードの消滅を意味していた。だから価値観も多様化して、どれが正しいのか全くわからない。しかし人間は自分を支える基準を必要とする。つまり、基本的な志向とか生活、行動様式をささえる立ち位置が必要だ。かつてならこれがかなり明確な形で存在していた。いうならば「世間」があった、これを参照しながら、つまりこれを立ち位置にしながら、自分がどういう風にたち振る舞えばいいか、自分はどんな存在であるかを判断することが出来た。

ところが現代、こういった「世間」は存在しない。だから、われわれは常に立ち位置が揺らいでいる。つまり存在論的な不安ならぬ「存在論的不安定」状況に置かれている。しかしこれはなかなかつらい。だから、これをなんとか切り抜けようとする。

その時、有効となるのがマスメディアの言説、しかもセンセーショナルに行われるそれだ。マスメディアがメディアイベント的にある種の情報を一元化して徹底的に流すと、「これが趨勢の意見だ」とばかり、多くの人間がこれにすがりつくようになった。それにすがりついている瞬間だけは、人と同じであること、いうならば「世間」を感じることが出来るからだ。多くの人間がこういったマスメディア情報に一気にすがりつくと、それは「お祭り党」を形成し「お祭り」が発生する。

しかしそれは一過性、揮発性が高いもの。ある程度の時間が経過してしまえば、消費し尽くされ、忘れ去られてしまう。残ったのは、相変わらずの存在論的不安定だ。そして現在、この不安定状況は年々と拍車がかかるようになり、頻繁にお祭り状況が発生するようになった。今年に入ってからも東国原劇場、コムスン騒ぎ、安倍イジメ祭りなどなど、二ヶ月に一変は「お祭り」が発生する。つまり嗜癖=addictionが更新して、アクセスの頻度がどんどん短く、そして刺激の強いものになっている。と同時に、決して自分のアイデンティティは形成されないという副作用も生まれる。刹那的に熱狂し、その都度、熱狂の時だけにアイデンティティを確保できたと幻想するだけだ。

そして、この「お祭り」は、こうやって刹那的に大衆が利用すればするほど、小泉純一郎のような、それを操るメディアの魔術師の思うつぼとなる。この状況、ヤバいんじゃないか?で、その処方箋の一つとして考えられるのがディズニー的な存在なのかもしれない。それは何か?(続く)

↑このページのトップヘ