勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2007年06月

介護福祉士さんたちの複雑な表情が示していたのは

介護福祉士さんたちが複雑な顔をしているのはこれまで挙げてきた、介護事業の構造的な問題、つまり夢=思いと現実=制度的な不備のギャップによるのではないだろうか。つまり、何とかしてあげたい。でも、自分の生活を完全に犠牲にするわけにも行かない。介護福祉士の訓練を受け、希望と夢を持って入ったこの業界。ところが、現実は厳しく、生活すらままならない。そう、夢だけでは生きていけないことを実感する。だから、自らにとって少しでもよい環境を求めて、他の施設に移っていく。しかしながら、そこでも同じような労働環境が待っている。そして、彼らが最終的に決断することは……この業界から足を洗い、一般の職業に就くことである。でも、自分が辞めていくと、今面倒を見ている人たちはどうなるのかといった心配もある。だから、優しい顔をしながら、暗そうでもあり、仕事に刃こぼれも生まれてくる(モチベーションが思いっきり下がっているのだから、これは無理もないことだ)。環境を巡る様々なしがらみの中で、気持ちが複雑にならざるを得ないとするならば、それは同情すべきことなのだ。

介護医療のあり方を考え、熟成していくための布石としてのコムスン問題

コムスンは折口という典型的な起業家がはじめた会社。起業家がしばしば陥りがちなのは、その成長ばかりに目がいってしまい、経営方針に無理が生じること。起業家が成功を遂げた会社の多くは、その成長途上においてかなり無茶なことをやっている。たとえばソフトバンクやエイチ・アイ・エスなどはその拡大の裏で、かなり乱暴なことをやっていたのも事実だ。また、現在ベンチャーとして隆盛している企業も、その影で泣かされている多くの従業員や顧客たちがいるはずだ。だからジュリアナやベルファーレで成功した折口という起業家が、福祉事業をやるとすれば、当然こういった乱暴さが露呈することは想定し得たことだろう。そして、今回それが如術に現れたと僕は考える。その点で折口氏の責任は、やはり、思い。

しかし、ここでコムスン=折口を叩いて終わりにしてしまったら、これは最悪だろう。それはトカゲのしっぽ切り、暇人のための暇つぶし報道にしかならない。だから、コムスン=折口の責任の背後にある、介護医療という職種の構造面にこそ、われわれは注目すべきなのだ。現在の、低賃金、重労働という状況がこのまま進めば、やがてこの業界は壊滅的打撃を受けることになるのは見えている。つまり、誰もこの仕事に就こうとはしなくなる。そして介護施設がどんどん倒産し、介護を受ける人たちが路頭に迷うということになる。そして高齢化はますます進んでいく……この業界を消滅させるわけには絶対にいかないのである。ならば、介護という事業のあり方を根底から見直すのは今しかない。まだまだ介護事業は人気職種(もっとも、最近社会福祉学部の人気は頭打ち。大学で介護福祉士の資格を獲得した学生の過半数は一般の職に就職する)。だったら、人気のあるうちに、その人気を裏付けるような魅力的な業種として、介護事業のシステムを改善すべきであろう。

折口社長の涙の背後に流れる本質的な問題

折口社長は、自ら起業家として成功し、そして夢を持って介護事業に取り組んだ。だが、こういった制度面の脆弱さによって夢を絶たれてしまった。冒頭のとくダネの中でコメンテーターの一人は「介護事業って、国がもう面倒見切れないから、民間に投げちゃっただけの話でしょ」と指摘していたが、こと言葉が的を射ているとすれば、まさに折口氏は、不良債権つきとは知らずに仕事を引き受けてしまったことになる。

コムスン折口社長の涙は、自分の事業がうまくいかなかった、自分の能力が発揮できなかったことに対する悔しさではなかったのだろうか。本人が予想だにしなかった、この分野の構造的問題に直面。これまで順風満帆、時代の寵児を標榜していた自分が、自らの能力では立ち行かないという状況に初めて置かれたことへの驚愕し、プライドはズタズタに引き裂かれる。これらが渾然一体になって感極まったのではないか?

加えて言えば、こんな状況に自らを陥れたのが、自らの経営手腕と言うよりは、他者によってであるということも悔しさの一因だろう。つまりハメられた。しかもその「他者」とは絶対の信頼を置けるはずの国=政府であったのだ。

介護事業、始まってたった数年で、問題が山積してしまっている。でも、もう引くことも出来ない。どうするか、これがコムスン問題、折口社長の涙の背後に横たわるわれわれの大問題なのである。

看護士すら、もはや人気がない

やさしくて、つらそうな顔をして、やがて辞めていく介護福祉士さんたち。いったい彼らに何が起きているのか?実は、背後でとんでもない状況があるということらしい。

それはなんのことはない。この仕事が、全く割に合わないということだ。とにかく、仕事が大変。こういっては何だが、介護という作業は肉体労働だ。しかも訳のわからなくなってしまった人間を相手にしなければならないし、下の世話もしなければならない。ちょっと昔の言葉を使えば3K(キツイ、暗い、キタナイ)な仕事である。

いやちょっと待て、これと同じ仕事なら看護士があるじゃないか。ところが違うのである。何が違うのか。それは二つ。一つは労働量。身動きもままならない人たちの世話が介護福祉士の人の仕事。必要とされる体力はハンパではない。もう一つは、そしてこちらの方が大きな問題なのだが、賃金があまりに低いと言うことだ。彼らは介護福祉士としての訓練を受けてきたはず。そう、介護福祉士の専門学校とか大学を出てきたエキスパート。ところが、あまりに経済的な見返りが低いのである。

実は、看護士ですら人気がないことをご存じだろうか。賃金が比較的高く、仕事も簡単に辞めたり戻ったり出来るにもかかわらずだ。海外の長期旅行をするバックパッカーの中に看護士が非常に多い(これは僕が毎年、タイ・バンコク・カオサンというバックパッカー向け安宿街で300人ほどの旅行者から得た統計データに基づいている)。彼らは看護士を勤め、小銭が貯まると仕事を辞め、半年から一年くらい旅行に出る。そして、お金が無くなると再び日本に戻り看護士の職に就く。そして、その時、海外旅行を楽しんだにもかかわらず、給料が下がると言うことなどあまりないのだ。つまり、彼らは「旅の貴族」。手っ取り早く高収入を得られること、旅をしたいこと、この双方を両立させる方法として看護士という職をチョイスしているのだ。

ところが、看護士は常に人手不足。なぜか?それは、やっぱり3Kという認識があるからだ。現代の若者は、やはり3Kはいやなのだ(となると需給関係で看護士は買い手市場になる。だから辞めても、すぐに職に戻れる。でもって、こういった状況をしたたかに利用する若者の一部がバックパッカーだったというわけだ)。

看護士より、はるかに劣悪な労働環境

そして介護福祉士である。彼らは看護士以上に仕事が3K。にもかかわらず、給料がとんでもなくヒドいのだ。こうなってしまっているのは介護という業種の構造的問題に由来している。

介護福祉士の労働に関しては、その仕事の種類に応じて請求額が決まっている。規定額以外に、たとえば散歩や病院に連れて行ったりすると、その分の請求がオプションで可能になる。問題は規定額。これが低い。だから、結局、介護を受けている人間に様々なオプションを取らせることによって副収入を得るというようなことが必要となってくる。そこで、コムスンのような民間の介護事業はこのオプションから粗利を稼ごうと考えたのだ。ちなみに、こういった行為は民間企業・営利企業なのだから全く持って正当な行為である。ただし、この事業が「介護」という福祉の意味合いを含んでいるが故に、金儲けしてはいけないというイメージがまとわりつく。だがこれは間違いだ。金儲けをしてはいけないという理屈は、これが公的な業務である場合以外は適用されないのだから。介護事業も飲み屋や旅行代理店、一般メーカーと同じように利益を追求することに何ら問題はない。

しかしながら、そんなに阿漕にオプションを取らせるわけにも行かないというのが、この業界に勤める人たちの一般的な心性でもあるだろう。というのも、この業界に入った人たちは「まじめ」な人。高齢化社会の問題について真剣に考えるような善良な人たちが大半を占めるからだ。そこで、結局、概ねケアマネージャーの設定の範囲で仕事をすることに。しかし、実際はその設定内で仕事などこなせるものではない。だから、結局、時間外の労働はサービス残業となる。それではいくらなんでもひどい。そこで、何とか帳尻を合わせるべく、それが結局補助に対する保険の不正請求と言うことになる。で、これがバレてバッシングを受けているのがコムスンにおける現状のなのではなかろうか。僕には、父親の介護施設の現状を見ているとそのように思えて仕方がないのだが。

もちろん不正は不正である。それ自体は法律違反であり許されるものではない。しかしながら、この場合は不正請求でもしないと生活がままならない、施設の維持がままならないという現実がある。と、考えれば、こういう不正請求が生じるのはいわば「構造的問題」、ようするに起こるべくして起きただけのことと考えた方が納得がいく。(続く)

折口社長は善人?悪人?

六月九日、フジテレビワイドショー「とくダネ!」に渦中の人、コムスンの折口社長が生出演した。その番組の途中、匿名のコムスンの従業員から電話で社長に訴えがあったとき、それに応答しながら思わず折口社長は絶句。嗚咽する。語るにつれ涙はとどめもなく流れ、話し言葉も途切れがちに……社長はこの時何を考えていたのだろうか。

憶測1.社長は自らが構築したコムスンという企業が、自分とは思っても見ないところに展開していることを、社員から生の声で伝えられ、自分の企業への思いが伝わらないことに絶句した。この立ち位置だと、彼は結構マジメな人間だったということになる。

憶測2.メディアを利用して大芝居を打った。つまり、涙を流すことで、自らは事業に真剣に取り組み、福祉に真剣に取り組んでいるという印象を与えようと計算していた。この立ち位置だと「やっぱり折口社長は金儲けだけの悪いヤツ。やっぱジュリアナだよね」というような悪人と言うことになる。

さて、彼はどっちだったのだろう?

=== いちばんの問題は別のところにあるのでは? ===
と、ちょっとやぶにらみ的な書き始めになってしまったが、僕は、このどちらでもあるし、どちらでもないという立場に立つ。起業家として辣腕を発揮してきた折口氏のこと。おそらく上に挙げたような二つの要素がぐちゃぐちゃになっていると言うこともあろうし、それ以外の様々な要素もあるだろう。

さて、こういう書き方をしているが、実は今回の問題。僕は、こういった見方がいちばん問題の核心を隠してしまうと考える。今回の問題は、むしろもっとその先の、いわば折口社長の背後にある。しかも、それはもっともっと大きな問題として。そして、折口社長の涙はその大きな問題と絡んでいると僕は考える。

曖昧な態度の介護士たち

私事で恐縮だが、僕の父は認知症で現在介護施設に入っている。父は歩くのが結構大変。ただし保険のサラリーマンだったこともあってよくしゃべる。もちろん認知症なので話は全く脈絡無く、いわば「宇宙人」の語りである。ちなみに、施設は「会社」この施設に入所している人間は「社員」、介護士さんは「部下」と思っている。

で、この施設であるが、実はしばしば介護士さんが代わる。長続きしないのである。仕事がうまく引き継がれないこともあって、その面倒見の悪さに母はしばしば僕に愚痴をこぼす。やれ、掃除をしていない。自分が訪問すると丸投げする。全く気が利かない。よく放っておかれる。服を着替えさせていないなどなど……母のグチだけを聞くと、結構環境は劣悪と言うことになるのだが。

とはいうものの、介護士さんたちの目線は優しい。しかも怠けているという感じは見えない。でもちょっと、「少し楽させてくれませんか」て言いたいような顔を見せているという風に思えないこともない。まあ、勝手な思いこみなのだが、結構つらそうなのである。で、そのうち辞めていく。この人たちが、最初、ちょっとつかみ所が無くて、僕はよくわからなかった。しかし、この曖昧な態度、次第にちゃんとした理由があることがわかってくる。(続く)

「冗談じゃない」と思っている人間は織田自身?

モダンとポストモダンの対決。織田は、このパターンでの対決などこれまで経験したことがない。だから、勝手が違う。つまりこれまでは「演技をしよう」と自意識的に自らに働きかけるモダニズム役者に対して、それを徹底したウルトラモダニズムでねじ伏せ、それが結果としてドラマ全体を「織田色」に染めるというやり方をやっていたのだが、これが大竹には通用しないのだ。というのも大竹は、そんな自意識的な「演技力」で勝負などしていないからだ。

しかし、これでは織田にとって困ったことになる。ドラマの中でヘゲモニーを握ることが出来ない。このままでは、いつもの織田ワンマンショーにはならず、文字通り大竹との「競演」、いや場合によっては食われるという、本人のプライドからすれば許せない状況が生じてしまう。

そこで「冗談じゃない」の中で、織田が企てたのは、さらにこのモダニズムを徹底して、大竹の「天然」を駆逐しようとする戦略ではないのだろうか。このように考える理由は、織田がいつもにもまして力んだ演技を展開しているところにある。つまり「肩に力が入っている」。その状況が出現する一例を挙げれば上野樹里との絡みの場面だ。上野など、織田の演技力にしてみれば相手ではない。だからいつものように、そこそこ肩を抜いた落ち着いた演技で、ゆっくりと料理すればそれで十分の相手である。ところが、なぜか、こんな開発途上の女優にめいっぱいの演技をしてしまっているのだ。いつもの織田だったら、こういうふうに「キャンキャン」と騒ぎ立てる感じの若手女優(つまり演技力より、若さ、元気さで売る)であればあるほど、いっそうペースを落とし、ゆっくりとした調子で二人の絡みの場面をうるさくない、落ち着いた感じに持っていくというはずなのだが……どうも僕には慌てているようにしか思えない。おかげで上野のうるささがいっそう助長させるという効果を生んでいる風にみえる。

しかも、それは演技のわざとらしさを助長するという結果をも生んでいる。そう、この絡みを見ていると、クドくてだんだんと食調気味になってくるのだ。つまりそれは結果として、二人の演技がヘタに見える。そして、次の大竹との絡みにうつると、やはりこの肩に力の入りまくった演技を展開する。しかし、大竹はそんなことは一切気にすることはなく、いつものマイペースで天然大竹しのぶを演じ続けるのだ。このとき、織田は、自分がこれまで他の役者にやってきたことを、結果として大竹にやられていることになる。つまり織田は何ら策を弄しない大竹が作り上げる作品の世界に巻き込まれ、踊らされているのである。

織田が役者として、さらにステップアップするチャンスが到来した

織田は認識を誤っているのではないだろうか。ポストモダン=天然=身体芸でアプローチしている大竹に、演技力で対抗したとしても勝てるわけはないのである。それはカテゴリーの違った演技の領域なのだ(もちろん、どちらが優れているというわけではない)。ただし、プライドが許さない。そこで焦ってしまい、織田本来の演技力を失ってしまっている。だから「冗談じゃない」と思っているのは織田自身なのだ。だが、じたばたすればするほど、織田の戦略は空回りしていく。やぶにらみの僕としては、こうやって織田のあたふたする状況を見るのは、メタ的な意味で楽しむことが出来る。つまり、芝居ではなく、芝居をめぐる政治というドキュメンタリーをそこに見ることが出来るからだ。そ織田は勝手に負けている。織田は大竹と勝負しているが、大竹は相手にしていないのである。

では、織田はどうすべきか。僕は提案したい。ここで、初めて一旦「負け」を認めるべきだと。そして、大竹と「競演」できる、新しい演技パターンを磨くべきだと。ウルトラモダニスト織田はポストモダン演技の大竹のような役者とどう渡り合えるか。これが彼の新しい課題なのだ。もっとも、織田がこういった演技力的な考察をしないで、いつものように政治力を発揮して大竹、あるいは大竹的な役者を自らが演じる芝居から排除していくような戦略をとるかもしれない。もしそうするならば、それは対処療法にしかならないだろう。こうやって自分と合わない役者たちを排除し、独善性を貫徹させていくようなことがあれば、それは結果として演技のマンネリ化につながるからだ。人間も含めて有機体はすべて周辺による中心の活性化を続ける、簡単に言えば外部を取り込むことを継続させることをしなくなれば、それは構造化するわけで、演技はワンパターン化、作品もワンパターン化し、それは最終的に人気離れにつながっていくだろう。考えてみれば、控えめな演技だけで単なるトレンディ男優だった織田を、出来損ないで社会性がないが、そして最終的にそこからキレて、男になっていくという役割(「卒業旅行……」のイッパツ太郎役)を与えたのは、金子修介だった。そんな役割を与えられた織田は金子と、そして加賀丈史とケンカした挙げ句、控えめなだけでなく、つっこみもする演技を開眼したのだ。つまり、やりたくもないモノをやることで一皮むけたわけだ。

つまり、織田は「冗談じゃない」と思っているのではなく、大竹の出現を自分のマンネリ化しつつある芸風をリニューアルさせる絶好のチャンスと位置づけるべきなのだ。もし、こういった進取の気性が織田にあるのならば、今後とも大竹や、これに類するポストモダン=天然系の役者と競演することを続けてもらいたい。さしあたり市原悦子、玉置浩二あたりはいかがだろうか?

TBSテレビ「冗談じゃない!」が面白い。といってもストーリーが面白いというわけではない。面白いのはキャスティングの妙だ。織田裕二と大竹しのぶという組み合わせ。これはこれまで織田が出演していたドラマや映画のパターンと全くちがっているのだ。

織田が見せて(魅せて?)きた政治性

織田といえば、独善的というか、孤高の役者というか、主人公としての自分への徹底した注目を促す演技が特徴。この注目のさせ方は演技力、政治力二つの側面がある。

まず演技面。徹底的に作り込んだ、ある意味で「役者オタク」的な演技を展開。そしてその凝りに凝った演技力に合わせて、周辺の役者、演出者をねじ伏せるという状況を常に作ってきた。そして、視聴率が稼げる、興行収入が稼げるということが実質化すると、今度はその政治力を発揮。競演役者、監督・プロデューサーに注文を付け、挙げ句の果ては、自らのやりたいように作品を変更させるという「荒技」も発揮した。実際、織田の権力誇示は番組のあちらこちらにかいま見える。たとえば、織田の出演する番組のテーマソングは、すべからく織田が歌うということになっている(フラットしてしまうその声は、歌手としてはなかなかキビシイのだが。事実、売れたのはM. プリーストと競演した"Somebody Tonight"くらいしかない)。

こういった作品上での権力構造によって、共演者は常に「食い物」にされるという状況に追い込まれてきた。タメをはればたたきつぶされる。だからほとんどは彼中心の作品展開に従順にならざるを得ない状況が作られていたのだ。お金がないの東幹久、財前直見、「踊る大捜査線」のいかりや長介、「恋はあせらず」の香取慎吾、「ロケットボーイ」の市川染五郎、「真夜中の雨」の松雪泰子……いずれも織田のペースに合わせられることで、すべて子ども扱い、そして過小評価という方向になった。もちろん、これによって織田の格がいっそう上昇すると言うことにもなったのだが。面白いのはいかりや長介だった。彼の場合は、完全に織田のケツにつくというパターンでかえって「バイプレーヤー」としての格を上げた数少ない例だった。ちなみにまだ織田がそれほどメジャーでなかった93年に主演した映画「卒業旅行、ニッポンから来ました」に出演した際には、監督の金子修介、競演の鹿賀丈史と衝突という事態を生んでいる。

織田はモダン、大竹はポストモダン

こうやって自らの地位を着々と築いていった織田だが、ここのところの番組の視聴率はあまりよろしくない。昨年公開された映画「県庁の星」もこれまでの映画からすると低調だった。そして、今夏のドラマ「冗談じゃない!」である。ここで、織田は思いもしなかった新しい経験をさせられることになっているように、僕には思える。そのきっかけが大竹しのぶなのだ。

前述のように、織田は役柄を作り込んで、その役柄にまわりを巻き込んでいくというやりかた。自己意識を徹底させ、演技をビルディングブロックのように組み立てていく、いわばアカデミックな演技だ。そういった演技の「詰め」の部分で、織田にまさる役者はほとんどいない。つまり、モダニズムに徹した、ウルトラモダンな演技が織田の持ち味なのである。

一方、大竹はその対極の役者。いうならば「天然」。つまり、演技を「作り込む」というより、演技に対して「思いこむ」といったらよいだろう。まったくの自然体。だから演技は作り込むと言うより、無意識のうちにその役柄になりきってしまう、いわば「イタコ」的な演技なのだ。ただし、そのイタコ状況はどんな役をやったとしても、大竹忍にしかならないという強烈なキャラクター。だから演技は、あたかも演技などしていないかのように見える。二人を対比すれば織田のモダニズムVS大竹のポストモダニズムということになろうか。この組み合わせ、実は織田にとっては分が悪い。(続く)

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